柔和な心に向けて

2026/05/24 聖霊降臨祭主日聖餐礼拝

「柔和な心に向けて」

ガラテヤ書説教第17回(5:25~6:5)

牧師 上田彰

 

*「弱い者」を配慮する!?

先日、分区の教師会でこんな報告が共有されました。「教団総会の会場を、やむを得ない事情から他の宗教団体の施設で行う案が出た。一度は可決されたが、反対意見を受けて富士見町教会に変更された。そしてその文脈の中で『信仰の弱い人への配慮』という議論がされた」、というのです。

 

 この意見交換は、聖書の中の議論を念頭に置いてなされています。少し紹介します。

 時は2000年前、ローマ教会やコリント教会など、ユダヤ人出身ではない異邦人を中心とした教会において起こっていた議論です。その背景には二つの事情がありました。一つは当時、他の神々を崇める神殿に捧げられた動物の焼いた肉が、下取りされることで市場(いちば)に安く出回っていた、ということです。もう一つは、その肉に関する認識が、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者とで全く食い違っていたということです。

 ユダヤ人たちは異教の礼拝に捧げられた肉を忌み嫌っていた関係で、ユダヤ人キリスト者もそれらの肉を食べることはありませんでした。そこから菜食主義、つまり肉食を全て避けるという人も現れていたようです。しかし他方、異邦人キリスト者、つまり割礼を受けずに洗礼を受けて教会に加入した人たちは、以前の習慣通りどんな肉でも食べていたのです。

 この食い違いによって、当時の異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者は互いを非難し合っていました。当時の教会を二分しかねない状況だったのです。そこでパウロは、ローマやコリントに宛てた手紙の中でこの問題を論じています。

 これらの手紙は、異邦人が読むことを念頭に置いています。肉を食べないとしている繊細なユダヤ人キリスト者たちを「弱い者」と呼び、肉を臆することなく食べる異邦人キリスト者たちを「強い者」と呼び、その上で「強い者は弱い者への配慮をしなければならない」と語っています(ローマの信徒への手紙14章、コリントの信徒への手紙一11章)。

 

 この話が先程の会場問題と絡み合っていることにお気づきだと思います。つまり、他の宗教団体の会場はいやだという人たちと、やむを得ないという人たちの間での論争を想像することができます。そしてその論争の落としどころはこうでした。他の宗教団体の施設での教団総会はいやだというのは、信仰的にナイーブな考え方である。しかし、ナイーブな人というのは実際に存在するので、そういった人への配慮をしようではないか。だから他の宗教団体の会場を使わない方がいいのではないか。実際に、そのような意見が出たようです。

 

 それに対して、この報告を受けた帰りに伊豆方面へ向かう車に乗っていた牧師の間で議論が起きました。それは、この「強い者」「弱い者」という線引きは恣意的ではないか、というものです。強い者、弱い者という設定そのものがおかしいのではないか、というわけです。

 

 そこで聖書をひもときますと、こうなっています。

 確かにパウロは異邦人キリスト者に対する手紙の中で、異邦人キリスト者が強い者、ユダヤ人キリスト者が弱い者、という位置づけで書いています。しかしパウロが本当に言いたいメッセージはそこにはありません。パウロが描く「強い者・弱い者」というのは、実は立場によって逆転する、そのことを言いたいのです。

 異邦人側から見れば自分たちが「強い」。

 ユダヤ人側から見ればまた自分たちが「強い」。

 ですから、「強い者は弱い者を配慮せよ」とは一方向の勧めではありません。

 「互いが相手の弱さを認め合いなさい」、もっと言えば「自分の中の弱さに気づきなさい」というメッセージなのです。

 

 私自身、「自分の中の弱さに気づきなさい」というパウロのメッセージを、今回の議論に当てはめることが大事だと気づかされました。それは、常議員会で出てきたとされる、「強い」「弱い」とは全く違う基準があると考えているからです。

 一方にあったのはこういう議論でした。他の宗教の施設を使って総会を開催しても信仰が崩れることはない、だから賛成できるのは信仰が強いからだ。しかし、もし信仰が崩れてしまうナイーブな人がいるのだったら、その人たちのことも配慮してあげなければならない、というわけです。

しかし他方、この議論とは全く逆の、「強い」「弱い」の基準があるはずなのです。

 それは、こういうものです。現代の世界教会の流れの中で、他の宗教の施設を借りて教団総会を開くことで、私たちの教団がどのような教会と見なされるか。それを大事にするべきだ、というものです。日本を代表する教会である以上、それにふさわしい責任を自覚するなら、ある程度結論は共有できるはずなのです。

 しかしその思いを誰かと十分共有し深める機会は、結局ありませんでした。ただ祈ってこの議論の推移を見守るだけでした。

 

 私自身、今日の聖書箇所を読んだとき、この議論を思い出しました。そして何より重く響いてきたのは、「互いの重荷、弱さを担い合いなさい」というパウロの言葉だったのです。

 

*聖霊降臨とは「罪の赦し」のわざである

 

 聖霊降臨祭。それは教会の誕生を祝う日です。

 教会が誕生しました。

 何かが始まりました。

 重荷を担い合うことが始まりました。

 いえ、重荷を担うことの大事さと、そしてその難しさに気づき始めた人たちが現れたのです。

 それは、「罪の赦し」というわざの大事さと、その難しさに気づき始めたということです。

 罪を赦し合うことが始まる。これが教会の始まりなのです。

 私どもは、罪の赦しが地上で産声を上げた、あの日のことを覚えて祝っていいます。

 

 思い出します。

 かつて屋根を突き破って中風の患者が釣り降ろされたのを見た主イエスは、「あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。それを聞いたユダヤ人達は、「人間が口にしてはならない言葉を神を汚す言葉として口にした、その男を裁かねばならない」と感じ、およそ3年の年月を重ねて実際に十字架に追い込みました。

 主イエスを十字架につけたのは、熱心な宗教的思いでした。

 それからおよそ50日後、再び「あなたの罪は赦された」と宣言する集団が現れたのです。

 これもまた、熱心な宗教的思いであったと言えるでしょう。

 しかし、救い主を十字架につける熱心さと、罪を赦し合い、隣人と弱さを分かち合う熱心さには、大きな違いがあります。

 主イエスを十字架に追い込んだのも、ペンテコステで聖霊を受けた弟子たちも、どちらも「熱心な人々」でした。しかし、その熱心さの向きが全く違っているのです。一方は「今すぐ白黒つけたい」という熱心さ、もう一方は「何度でも考え直し、赦し合い続ける」という熱心さでした。

 この二つの熱心さの違いは、「今すぐ白黒を決めねばならない」という『せっかちな熱心さ』と、「一度決めたことでも、ゆっくり考えて決め直す」という『じっくりと取り組み続ける熱心さ』の違いではないかと思います。

 

 早く決めてしまうことが求められる現代社会において、本当に大事な判断は、繰り返し検討し直されて良いのではないでしょうか。冒頭にお話しした教団総会の会場問題にしても、考え直すことによって次につながる結果になったと思います。

私どもが普段の生活の中で、早く判断を下し、他者にレッテル貼りをしてしまう自分を省みるとき、このペンテコステの出来事を思い起こすのです。

 

 二つの熱心さのうち、教会は「たゆまず赦し合い続けること」に熱心さを集中して参ります。あの日、エルサレムの二階の祈祷室において、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が共に祈りを捧げていたとき、不思議とわかり合えるようになりました。隔ての中垣を取り払ってくださる主イエス・キリストが、二つの群れを一つとしてくださる幻を、この日教会は体験したのです。

 実際に異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の確執がなくなるには、まだ時間がかかりました。いえ、現代に至るまで、まだなくなっていないのかもしれません。いずれにせよ、ペンテコステの日とは、この隔てがキリストによって取り払われるという「確かな幻」を共有した日、ということになります。

 

 私どもは、隔ての中垣を完全な形で取り払ってくださる主イエス・キリストが再びおいでになるまで、祈り続けます。そして自らが下した判断を、吟味し直し続けます。それはとりもなおさず、誰が弱く、誰が強いのかを考え直し、「断定的な裁きを互いに行わない」ということになります。

 考えてみると、罪の赦しとは、「あの人は罪人である」という決定的な裁きを下して終わるのではなく、自分たちが引いた「弱い者・強い者」という区別そのものを吟味し直す、そしてし直し続けるということではないか、と思わされます。

「あなたの罪は赦された」という言葉は、主イエスが用いられるときには「完全に赦され切った」という意味を持ちます。

しかし、教会が発する「あなたの罪は赦された」という言葉は、少し違います。それは、犯した罪と、犯した人との結びつきを緩めて、「もう一度考え直す」という意味合いを持っているのです。

 

 教会は、「あなたの罪は赦された」という主イエスの言葉を取り次ぐ時、世界中の人々にその言葉を届けることが出来ます。これこそが、今日において教会が各地に建てられ、またこの伊東に建てられている唯一の根拠です。

 

*「あなた方」から「私たち」へ

 

 では、そのような「赦し合う教会」は、地上においてどのように形作られていくのでしょうか。

 そのための手がかりを求めて、ガラテヤの教会に宛てられたパウロの手紙を読み進めて参りました。最後の章までこぎ着けました。今日の箇所の最初は、パウロが筆を進める中で、ついにガラテヤの人たちと完全に同じ立場に立っていることを示す始まり方をしています。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。パウロはここまで「私たち」という言い方を避けてきました。ガラテヤ教会が信仰的な危機に陥っている。そこでどのくらい意識していたかはわかりませんが、「あなた方」という言い方を続けてきたのです。5章でも同じ内容を語っていますが、そこではガラテヤの人々を「あなた方」と呼び、どこか向こう側に立っていた感があります。しかし今日の箇所に入って、パウロはついに「私たち」という言葉を使います。自分自身がガラテヤ教会の中に踏み込み、同じ立場に立ったのです。霊の導きにあなた方は与るべきだというのと、私たちは霊の導きに与っている、というのはかなり違います。最後に踏み込んだ議論をするに当たって、パウロはここで「私たち皆が与る霊の導き」について語ります。

 ペンテコステの出来事とは、「あっち側」と「こっち側」の区別がなくなってしまう信仰的な幻の出来事です。しかし同時に、「私たちが聖霊によって一つとなる」ためには、まだ時間がかかる、ということもまた事実です。

 

*強さに自負を覚える人への隠されたメッセージ

 

 今日のところでも、6章に入るとすぐにまた「あなた方」という言葉を使っています。それは、ガラテヤ教会の特別な事情を鑑み、「あなた方兄弟姉妹は」ともう一度呼びかけ直す必要があったからです。そしてここから、ガラテヤ教会の問題を解決するための提案を始めます。

 ガラテヤ教会の特別な事情とは何だったのでしょうか。ガラテヤ教会には、有力な信徒がいました。社会的な地位があって有力というよりも、熱心で信仰的な賜物がある人だったようです。

 しかしその熱心さが「強さ」としてだけ現れて暴走してしまうことが、あのペンテコステでの幻の出来事を経験したにもかかわらず、信仰者の間で起こっていたのです。

なぜ教会で暴走というものがそもそも起こってしまうのでしょうか。私どもは聖書を読みながら、あるいは教会の内外の現実を見聞しながら、そう思ってしまうのです。パウロが、また私どもにも向けてアドバイスをしているのに、そのことを忘れそうになってしまうことがあります。聖書が語るアドバイスに、「我がこと」として耳を傾けたいと思います。

 

 この暴走のきっかけは、ある別の信仰者が失敗をしたことにありました。「罪に陥った」という言葉をパウロが使っておりますので、それ自身は言い訳が出来ない失敗だったのでしょう。何らかの罪を犯したのは事実です。しかし、本人としては幾分かの反省をしていた、そんな状況が発端になっていました。

 

 そこに熱心で強い信仰者が立ちはだかり、罪を犯した信徒を公の場所で批難をしたのです。

 他者の過ちを執拗に責め立て、大げさに言い立てる。そういう批難が始まりました。

 そのことによって、教会は動揺に陥りました。パウロは、ガラテヤ教会から報告を受け聞き及ぶに至りました。

 

*律法主義の問題

 

 ガラテヤから離れているパウロと共に、私どももまたガラテヤ教会の様子を想像してみます。教会のある熱心な信徒が、何かの失敗をした別の信徒を、皆の前で厳しく非難しています。教会は揺れています。パウロはその報告を聞きながら、こう思うのです。――この批難した人は、律法主義という公の問題と、もう一つ、誰にも見えにくい個人的な問題を抱えているのではないか――。その熱心な批判者が抱える二つの課題がある。それぞれに対応しなければならない、と。

 一つは、その熱心な信徒が持っている、教会にもう一度律法主義を復活させたいという意図に対して、きちんとした応答をすることでした。教会に公の手紙を書き、伝える必要があると考えました。

 

 そこで、今日の主題ではありませんが、第一の公の課題、律法主義の問題について、少し確認しておきます。

 4章まででパウロはこの課題について丁寧に語りました。簡単にいうとこうなります。パウロは「律法」を重んじてはいますが、「律法主義者」にはなっていません。どういうことかと申しますと、律法は神様が与えてくださった約束であり、命を与えてくれるものです。律法を前にして、人々は神様との救いの約束を思い出し、そして神様を賛美するしかありません。パウロは律法を思い出すことを通じて神様を賛美することを重んじています。これは律法への正しい向き合い方です。

 ところがその律法を、神様を賛美するためではなく自分自身を賛美するために使い始めた人たちが現れました。これが「律法主義」者です。いってみれば、命が与えられた神様との約束としての律法を、神様と切り離して自分のための約束だと思ってしまうのが律法主義というわけです。

 これは、信仰をファッションと思うのに似ているかもしれません。信仰とは生き方です。神様を賛美する生き方は、神様が中心です。しかし神様を賛美する自分を賛美し始めると、それは律法主義という名のファッションになってしまいます。ファッションとしてしか律法を見ないようになると、心が神様の方を向いていませんから、神様と向かい合って生きるということから心が離れてしまうのです。それが大がかりに起こるのが律法主義、という訳です。

 律法主義が持つ隠れた第二の問題

 

 では、第二の、より個人的な問題とは何でしょうか。これは人間の内面に関わる問題であるだけに、律法主義の問題よりも複雑でした。パウロは、一人の熱心な信徒が持っている課題をすぐに見抜いたのです。しかし処方箋は一筋縄ではいきません。どう対応したら良いか迷ったようです。

一番良いのは直接その人と話すことでしょう。しかし離れていてはそれが出来ません。そこで、先程の律法主義の問題について書く公の手紙の中に、プライベートなメッセージを埋め込みました。誰が読んでも自然に読める。しかし当事者には、つまり本人と、本人にアドバイスが出来る立場の人に対しては、届く。そういう言葉を、パウロは公の手紙の中にそっと挟み込んだのです。

 ある一人が水面下で抱えている課題を読み解くために、3節の言葉に注目したいと思います。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています」。たとえ他人を批判する言葉が上品で控えめなものであったとしても、自分が一角の人物であるという思いが外に漏れてきている…。パウロはガラテヤ教会からの報告を受けた時、その信仰者一人一人を思い出しながら、内面に関わるずいぶん踏み込んだ指摘を、しかしさりげなくしていることに驚きます。

 

 さらに踏み込んだアドバイスをすでに1節でしています。「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」。ガラテヤ教会には、目に見える過ちを犯した人がいる。その人は罪の誘惑に陥った人だから、その人をただす必要がある。しかし柔和に行わなければならない。そうでないと、あなたもまた何かの誘惑に陥ってしまう、そのことに気をつけなさい。

 

 現代風に言うならば、これは「承認欲求」という名の誘惑です。要するに人に認められたい、褒められたいという欲求です。現代のネット社会において、自分がひとかどのものであると他人に認めてほしくて、他人を攻撃するという現象があると言われています。

 つまり、ここで他人の過ちを執拗に責めて大騒ぎしている一人の人の心の中にある問題は、5章と6章にかけてパウロが論じる必要のある、実は多くの人にも当てはまる問題でもありました。

 そこでパウロは、己の正しさを誇示し合う誘惑が教会で広がるのを終わらせるために、「霊の導きに与る」ということを語るのです。まず5章では、「聖霊の結ぶ実は愛である」で始まる、聖霊の働きについて語りました。聖霊の働きは、私どもが己を賛美することではなく、神様を賛美することへと促します。現代人が他者から認められることを求める争いをいろいろなところで繰り広げるのに対して、それは神様を賛美しないで自分を賛美していることになる、と警告しているパウロの促しに思いを向けたいと思います。

 

 そうしますと、この自己賛美という問題は、実は特定の一人に対してだけでなく、教会とは自分の思いが実現する場所だと思ってしまう私ども一人一人に向けられたメッセージでもあることに気づかされます。

 

 思い出すのはマタイによる福音書の言葉です。主イエスは次のような意味のことをおっしゃいました。罪を犯した人を、いきなり皆の前で裁くのではなく、まず二人、三人で静かに語り合いなさい。そこにも私はいる、と(18:20)。

 今日の箇所との関係でなぜ思い出したかと言えば、まずその声高に非難を続ける人に対して、隠れたところで罪を指摘してあげなさいという、柔和な心の勧めであり、そして同時にパウロ自身がそのような柔和な心を持って熱心な信仰者を説得しようとしています。パウロはこのとき、主イエスのこの言葉を胸に覚えていたのではないでしょうか。

 

 密かな場所での悔い改めへの説得。これは教会を教会たらしめる、大きな特徴であるように思います。いきなり公の場所で批難が始まったらどうなるでしょうか。それは、承認ゲーム、非難合戦が始まる、ということになるのではないでしょうか。1節の言葉によれば、「あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」と言わねばならない事態が起こってしまうのです。

 ここでパウロは単数形を使っています。批難をしていたのは一人だったのかもしれません。しかしそれは、2000年前のガラテヤ教会における極めて特殊な一人にだけ当てはまる事態とは言えないと思います。

 

 あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

 

 この言葉を注意して読んでおく必要があります。兄弟姉妹が何かの罪に陥っている。だからあなた自身も罪に誘惑されないように気をつけなさい、ということではありません。

 あの人があの罪に誘惑されたのは弱さのせいだったかもしれない。だけどあなたもまた今、弱さに陥りかけている。肉を食べる人が、食べない人を弱い人だと見なして批難を始めることで、食べる人もまた「弱さ」という名の罪に陥りかけた、それと同じ穴にあなたも陥りかけている。そのことに気づいてほしい。

 

*重荷を担う

 

 今日の箇所には、「互いに重荷を担いなさい」、「自分の重荷を担うべき」、という、一見すると矛盾する言葉遣いが並んでいます。しかし、その「重荷」という言葉を「弱さ」と読み替えることで、二つの言葉は矛盾しているわけではないことに気づかされます。

ある人の罪を責める人がいます。

 そして責められる人がいます。

 あるいはその現場を目の当たりにする人がいます。

 教会にいるこの三種類のどの立場に立つ者も、実は重荷を負っていて、弱さを負っています。

 キリストによる罪の赦しを必要としています。

 ですから、互いに重荷を担いあいなさいという言葉と、自分の重荷を担うべきという言葉は、不思議な重なり合いを見せるのです。

 

 今日は、この聖書箇所をもう一度読むことで、説教を締めくくりたいと思います。

 

わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。

各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

めいめいが、自分の重荷を担うべきです。


※    ※    ※    ※

 

 私どもは創立120周年を迎える今年のペンテコステの礼拝において、伊東教会の歴史を新たにする聖句に出会いました。120年の歩みの中で、教会は時に自分の正しさを主張し、互いを裁き合ってしまう弱さを経験してきたかもしれません。しかし今日、私どもは「互いの弱さを担い合い、たゆまず赦し合う」という新しい歴史へと、御手によって導かれることを聖書は示しています。

その重く、美しい響きを、聞き、味わうために、聖餐の食卓が備えられています。この幸いに感謝したいと思います。                                                    †