2026/04/05 復活祭主日聖餐礼拝 ガラテヤ書第15回
「新しい生き方の指針」 5:13~26 牧師 上田彰
*継承
イースターに思う聖書箇所があります。かつてシカルの井戸べで、一人の女性が主イエスに向かって、「生きた水を下さい」と言いました。そのニュアンスは、井戸まで汲みに来なくてもいい便利な水、という意味合いともとれます。主はしかし、コップ一杯の水や蛇口を渡すのではなく、ご自身をお与えになりました。主ご自身が生きた泉となり、永遠の命に至る水がそこから湧き出るからです。活ける水。この女性は、人目を避けて暮らしていた女性でありましたが、話を聞いて町に出て伝道を始めます。主イエスに出会う者は命を新たにされ、動き始めます。
今日の聖書箇所を読みながら、命の躍動という言葉がぴったりくる、そう思いながら、先程のヨハネによる福音書4章を連想しておりました。
運動会を思い浮かべてみることにします。皆さんは、大玉送りという競技をご存じでしょうか。実は私は経験したことがなくて、ただなんとなく大玉を次の人に回していく競技だ、という印象しかない状態で、実際にいくつかの動画を見てみました。意外と順調に送っていくのが難しい競技なのだと知りました。すぐに脇に逸れてしまうのです。そして逸れた大玉はまた群れの中に戻されて、次の人に送られていく。
学校の運動会であれば、小学校向けの競技にぴったりだと思いました。背の大きさや男女、力の強さと関係なくみんなで参加できます。もしかすると、地域の、例えば町内会対抗の運動会などにも向いているのかもしれません。
なぜこの競技のことを思い出したかと申しますと、今日の箇所の21節に「受け継ぐ」という言葉が出てくるからです。この言葉はガラテヤ書の中の隠れた鍵言葉であるからです。継承する。あるいは次の人に手渡す。
そのことの重みを私どもは知っています。同時に、信仰を手渡すということが、信仰の基本をおろそかにしていたら、恐ろしく難しいものであるということも。
パウロはこの点について、ガラテヤ書二章において、鮮烈な仕方で問題提起をしています。思い出してみたいと思います。
パウロはバルナバなどと共にアンティオキア教会のメンバーで、そこにペトロが訪れました。ペトロはエルサレム教会を代表する指導者の一人で、アンティオキア教会が異邦人伝道でめざましい成果を上げていたことから、問安をすることになったのでしょう。ペトロは伝道の成果を聞きながらここに滞在を続けていました。
ところがそこに、もう一人別のエルサレムからの問安使がやってきました。この問安使は、エルサレムを代表するもう一人の指導者である、ヤコブの影響を受けていました。ヤコブはイエス様と血筋が近く、自ずからエルサレム教会で指導者とされていました。彼自身が割礼を重んじていたかどうかはわかりませんが、ヤコブの影響を受けた者の中には、「異邦人も洗礼を受けるだけではキリスト者にはなれず、割礼が必要だ」と言っていたようです。そしてヤコブ側の問安使がアンティオキア教会に到着したら、ペトロの立ち振る舞いが変わったのです。それまでは異邦人キリスト者とも、寝食を共にするような関係であったのが、距離が生じました。
とはいえ、ペトロが露骨に異邦人を避けるようになったというわけではありません。アンティオキア教会は半分が異邦人です。彼らと突然口を利かなくなったら不自然です。しかしパウロは、ペトロの振る舞いが一箇所変わったことに気づきました。それは食事の時のことです。
当時の教会の慣習で、食事を大皿から取る際に、異邦人とユダヤ人の区別はありませんでした。これはアンティオキアとエルサレムのどちらでも共通であったと思われます。しかし、飲み物に関しては別でした。エルサレム教会では恐らく、ワインを入れるデカンタが二つ用意されていて、異邦人同士とユダヤ人同士で分けられていたのです。アンティオキア教会ではそうではありませんでした。そしてペトロも一つのデカンタをぐるっと回すのに参加していました。ところがヤコブ派の問安使がエルサレムからやってきたら、ペトロは一つのデカンタが異邦人の手前でくるっと廻る向きが替わるのに関わりはじめたのです。
それがその日ばかりでなく、別の愛餐会の時にも起こり、二度、三度と続きます。やがて、アンティオキア教会の側にも影響が出てきて、エルサレムから移ってきたバルナバも、その動きに取り込まれていきました。
内心やきもきしていたパウロは、同じ出来事がまた起こった食事中、立ち上がって、ペトロをたしなめます。これがアンティオキア事件と呼ばれるものです。
本気で怒ったとかそういう事ではありません。しかしパウロが立ち上がって抗議をした内容は重要なことでもあるので、エルサレムに場所を移して会議が持たれることになりました。使徒言行録15章にある会議がそれです。
その会議の結果、本格的に異邦人伝道が進められることが、エルサレム教会も承認する形で進められるようになります。
異邦人伝道のきっかけになったのは、遡ればガラテヤ書2章にある、アンティオキア事件です。出来事としては、デカンタのまわされる向きが替わった。そしてそのことをパウロが見とがめた、これが出発点だったことになります。
デカンタの向きの話と、大玉送りの話は、似ているところがあると思うのです。どちらも、心を合わせて次の人へと大事なものを手渡さねばならない。しかしそれは意外と難しい。丁度、信仰の継承が難しいのと似ています。
*宗教と生活
パウロはこう言うのです。「霊の導きによって歩みなさい」。この表現で大事なのは、「歩む」という言葉であると思います。ここでパウロは「戦いなさい」とは言いませんでした。「走りなさい」とも言いませんでした。実際には信仰には戦いという側面が、あるいは駆け抜けるという側面が、ないわけではない。しかしあえて「歩む」という言葉をここで使います。聖霊の導きを信じるならば、焦って戦う必要も、追われるようにして走る必要もない。大事なのは、聖霊が自分たちが手渡さねばならない信仰の行方を導いて下さると信じることです。その時に、闇雲に戦い、走るのではなく、目をしっかり開けて大玉の行方を見据えることが出来ます。
大玉が進むべき道から逸れてしまう理由は何であるか、パウロは19節以下で説明しています。そこに、いわゆる悪徳リストが出て参ります。
非常に重要なことがあります。このリストの大半は、いわゆる宗教的な罪ではありません。むしろその中心にあるのは、人間関係の崩壊です。争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ――これらはまさに、アンティオキア事件において食卓で見えない分裂がおこったあの問題と、正確に一致しています。
そしてそのリストの要所に、宗教の名を借りた罪が記されています。いわゆる宗教的逸脱といわれるものです。例えばギリシャ宗教では、神殿娼婦といって、信仰心が娼婦との交わりに結びつけられるということが起こっていました。それは、信仰というものがギリシャ宗教ではよくわからない神秘的なものだったので、同じように神秘的でよくわからない男女の交わりと一緒に扱われていたということのようです。
言い換えれば、生活と宗教は別であったということです。生活と宗教が切り離されているからこそ、宗教の名の下におぞましいことが起こる。そのリストが19節以下で挙げられています。ここにあるうちで、偶像礼拝と魔術、そして泥酔と酒宴。これらはいずれも当時の他の宗教神殿において実践されていたことがらです。例えば神殿において酔っ払いが宴を繰り広げるというようなことがなされていた、いわば日常から離れたハレの世界が宗教的領域だと見なされていたのです。
しかも、その悪徳はすでに複雑な展開を示していました。四つのグループに分けられます。最初に挙がっているのが姦淫、わいせつ、好色です。これらは先程触れた、神殿宗教の極端な事例のうちで体に属することです。次のグループは二つで、偶像礼拝と魔術。これらは、そもそも違う方向を向いて礼拝がされている、という礼拝の問題。そしてそれらから三つ目のグループに入ります。人間同士の不和です。そのリストが長いのですが、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。この長さは、人間関係の不和が様々な形を既に取っているということへの告発でもあります。そして最後のグループが泥酔、酒宴。先程申しましたように、おそらく神殿で繰り広げられている宴会のことです。つまり、これら四つのグループは、まず自分の内側にある弱さから始まって、礼拝が乱れ、そして人間関係の不和を引き起こし、そして礼拝自身の乱れへと至る、そのことを再確認するリストが悪徳のリストです。
パウロは、宗教というものを、よくわからない神秘的なものだという風にまとめてしまうことは、「雑すぎて残念だ」ということ以上に、宗教というものによって生活を整えることができなくなることの危険性を唱えています。
キリストを信じるということは、神秘的なことによって目を曇らせることではなく、むしろ目を開くことだ。宗教と生活を切り離すのではなく、宗教的に生活を見てみなさい、そういって、19節以下の悪徳リストではなく、22節以下の徳目のリストこそが聖霊の導きを信じる者にふさわしいものだ、と掲げるのです。
*一つの霊の実
これから9つの徳目を紹介しますが、ここで注意したいことがあります。パウロはこれらを「霊の実」と呼びますが、「実」は単数形です。複数の「実」ではなく、ひとつの「実」。九つのバラバラの徳が挙げられているのではなく、一つのことを目指せといっているのです。そして皆がバラバラにそれぞれのことをすればいいのではなく、ここに書かれているのは信仰者皆が会得しなければならないことだ、とも言っていることになります。
パウロは他の箇所(第一コリント12章)で「手が足に向かって、『おまえは要らない』とは言えない」、というように、一つの共同体の中で互いに異なる役割を担うということについて語っています。共同体内にも役割分担があるということです。
しかし今日の箇所では、皆がバラバラに目指せばいいよ、ということを意味する言葉である「賜物」は、使われていません。教会員がそれぞれ別々に分担して担えばいいものというものもあるでしょう。例えばいくつかの教会奉仕もまた「賜物」を用いてなされます。
他方、今日のところで、聖霊が私どもに結ばせるただ一つの実がある、誰かだけが実らせていればいいのではなく、皆が実らせる実がある、そう言っているのです。愛・喜び・平和をはじめとするこれらの徳目を、会衆の全員がひとつのこととして受け止めるよう、パウロは求めているのです。
これらは三つに分かれていて、いずれも生活と信仰とを結びつけるものです。最初は愛と喜びです。これはキリストを信じることによって与えられるものです。それらを与えられた者が、次の四つによって、他人との関係を調えるようになります。平和、寛容、慈愛、善意。そして最後に自分の人格を整えるようになります。忠実、柔和、自制。
つまり、神様と私との関係が整えられてから、ついで他者との関係が整えられ、そして最後に自分自身が整えられる。全部で九つの徳目があるのですが、三つのグループに分けられます。そして神様、隣人、最後に自分という順番で挙げられています。この順番にも、パウロの配慮があるように思います。
昨晩、食事を終えてから娘のお友達に、今日のイースターの案内をするために手紙を持って行くのに付き合わされました。その際、曲がり角を間違えて、カトリック教会の前を通りました。夜だというのに車が多く止まっていました。イースター前夜の徹夜祈祷会がされていたのでしょう。youtubeを見ると、カトリックの大聖堂のそれの中継がありました。イースターの日の朝を洗礼を受けた者として迎えることが出来るようにと、この祈祷会の時に洗礼が執行される様子を配信していました。半年、あるいは一年と洗礼志願の準備を進めてきた方々が、新しい生き方を始めることが出来る。喜びの思いを心の中に潜めながら迎えるイースターの朝は、きっと大きな喜びに包まれていることでしょう。
信仰という名の大玉は、このようにして手渡されていきます。
*十字架
信仰の大玉送りの極意を示すパウロは、信仰と生活とを切り離して考える、目の曇りを取り除くのは、人間の努力ではないといって、24節の言葉を述べます。
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
パウロは今日の箇所で、徳目をまず掲げて、それから十字架という順番で語っています。しかしことがらとしてはまず十字架、そしてその結果として霊の実、という順番なのでしょう。なぜなら、私どもが努力して徳目を身につけたり、気を利かせて他人に配慮をしてお互いを立てることから始めましょう、というのではなく、十字架において私どもの肉のわざが死んだからこそ、霊の実が結ばれる、ということだからです。
パウロは言うのです。キリストが十字架につけられたときに、私どもの日常生活の秩序、例えば食卓でデカンタがまわされる様子、の中に神の国の秩序がある、そのことを見えなくしていたもの、目についていたうろこのようなものが、十字架に共につけられ、葬られたのだ、と。
キリストが十字架におかかりになったときに、本当に死んだものは何でしょうか。それは人類の罪だったのではないでしょうか。罪とは、あるいは今日の言葉でいえば肉のわざとは、信仰の名の下に行われているまがまがしいもののことであり、それらが十字架にかけられて力を失うというのは、人間の思いが力を持っているかのような錯覚から解放される、ということです。
*神の国につながる交わり
大きな国が、あるいは大きな企業が、あるいは大きな論理が、小さなものを踏みにじるということが平気で起こっている現代において、改めて考えさせられます。主イエス・キリストは何のために十字架にかかったのか、と。
それは、16節の言葉を借りるなら、肉の欲望によって私どもの世界がよくなるという錯覚から解放されるということです。
「満たす」という言葉は、「神の国を完成させる」という意味です。肉の欲望によって神の国が完成されるということを現代の技術文明は本気で考えています。沢山のお金があれば人は幸せになれる。人類が英知を集めればやがて病気はなくなり、誰もが、障碍を持っている人も老いの課題を抱えている人も、過疎地域にあえて住み続けたいという人も、恐れなく、あるいは気兼ねなく、差別なく、暮らせるようになるのではないか。目指している一つ一つのことそのものは、決して悪いことではありません。しかし、肉の力に依って神の国は完成する、という考えに行き着いていることは、ないがしろにすることは出来ません。人類は自分たちの力で人類を幸せに出来る――そのような思いが結局行き着く先はどこにあるのか、とパウロは問います。幸せになるために努力するということの、更に先まで見据えた上で、パウロは、神の国へと信仰という名の大玉を送り続けることをイメージしているのです。
今日の箇所を読みながら考えさせられました。私どもは、いえ私は、継承という言葉を小さく考えていたのではないか、と。
しかし聖書の言う継承とは、家や財産の話ではありません。神の国そのものを受け継ぐことだからです。永遠の命を受け継ぐということだからです。
聖書に出てくる「継承」という言葉を調べていって、気がつきました。パウロはこの言葉を、「復活した者たち」を主語にして用いているのです。つまり、キリストを信じてよみがえりの命に与る者たちが、神の国を継ぐ世継ぎとされる。神の国を相続するとは、単に死後に天国へ行くことではないことに気づかされます(例えば第一コリント15章50節、「肉と血は神の国を相続することができない」)。
相続する。それはよみがえりの命を知る者にのみ許された振る舞いです。朽ちるべきであったはずの私どもが、朽ちないものに変えられるというのは、復活の命に与ることを通じてです。ですから、神の国を継承するというのは、何か遠い未来の話であるわけではないのです。
食卓で誰と杯を分かち合うか。誰を兄弟姉妹として受け入れるか。誰を愛するか。
その日常の小さな行為の中に神の国の相続はすでに始まっているのです。
私どもは復活祭主日を迎えた今日、聖餐の食卓を囲みます。小さな進化を続けてきた礼拝堂が、聖餐の食卓に一つの変化を加えました。どの変化もささやかな変化です。しかしいずれもが、神の国を指し示しています。ここで持たれる交わりを神の国の交わりと信じてパンと杯を受け入れたいと思います。 †
(最後のイラストは、9つの徳目をAIにイメージしてもらって作画したもの)
2026/03/29
受難節第6主日(棕櫚の主日)礼拝
(計画総会)
僕(しもべ)としての証し
――キリストの筆跡を求めて――
コリントの信徒への手紙2 4章5節 説教 牧師 上田彰
*筆跡
イースターと共に始まる新しい年度に向けて、私どもは祈りの道を歩んでいます。
受難節の最後の主の日は、棕櫚の主日でもあります。この日、一人のお方を乗せたロバが、エルサレムに入城します。エルサレムの町外れにおいて、一頭の小さな赤いロバが弟子たちによって引かれました。
「主がお入り用なのです」。
一つの使命が与えられました。私どもが、ロバになって、主をお乗せするのです。私どもが注目されるのではなく、背中にお乗せしている、「あのお方」が注目される。そのような思いで、来年度の聖句にあります「僕(しもべ)」という言葉に改めて思いを向けたいと思います。
お手元には教会総会資料があることでしょう。開いて読み進めて参りますと、発言者、筆者が誰であるかがはっきりわかる文章もありますが、その多くは誰の言葉かがわからないものになっています。役員会において作成した形成の柱や年度聖句に至るまで、これらは一旦総会資料としてまとめられ、皆さんに示されたとき、これは誰が書いた言葉かといった推測は、もともと不要なのだと気がつかされます。新しく作られた讃美歌と同様、歌詞の中のこの部分は誰が提案した、などと取り沙汰するのは余り意味がありません。歌の歌詞と同じように、総会資料もまた信仰告白の文章と受け止めることが出来るでしょう。
私どもに迫ってくるのは、誰かの筆跡ではなく、キリストの愛の筆跡です。そのようなものとして、総会において交わされる言葉、いえ教会生活全てにおいて交わされる言葉全てが、受け止められるようにしたい、と願います。
教会内の誰かの筆跡を探す仕方ではなく、キリストの愛の筆跡を探す仕方で教会の営み全てを思い起こすとき、いろいろなことが見えてくるのではないでしょうか。私どもはこれから持たれる総会において、単なる行事予定や活動方針を定めるのではありません。「私どもが誰の僕として、誰に仕えるのか」ということを確認する話し合いとなることが重要です。
*手紙
今日の聖書箇所の前後の文脈を読んで参りますと、これを「コリントの信徒への手紙」として読むだけでなく、「伊東の信徒への手紙」として読むことが出来ることに気づかされます。
パウロは多くの手紙を書きました。その中には、聖書に収められている手紙もありますが、含まれていない手紙もあります。例えば彼は、自分とともに歩んできた同労者を各地の教会に派遣するために、手紙を書きました。誰々をよろしく、という手紙、いわゆる推薦状を書いていたはずです。
羊皮紙に記す推薦状の意味を良く知っている彼が、紙に書くのではない手紙についても記すのが、今日の箇所の伏線にもなっている、前の章における議論です。
それは、パウロが偽物の使徒なのではないか、というコリント教会の一部から出た疑惑の声に応えるやりとりです。パウロが同労者を派遣する際に推薦状を書いたように、パウロ自身が異邦人伝道に赴く際に、推薦状がエルサレム教会から出されるべきではないか、なぜ彼にはそれがないのか、そんな声が出てきて、そしてコリント教会を動揺させていたのです。
今日の直前の2節を見ますと、パウロに向けられた「偽使徒」というレッテルが悪口としてどのようなものになっていったか、思わず考え込んでしまうような言葉が並んでいます。「卑劣な隠れた行い」、「悪賢い歩み」、「神の言葉をねじ曲げている」。
「推薦状はある、それはコリントの信徒そのものなのだ」、と語るパウロの心の中を思わずにはいられません。
*ヒビ
パウロの心の中の思いをよく言い表しているのが、今日の箇所の直後ですが、「宝を土の器に入れている」という言葉です。土の器、つまり素焼きの器は、水が漏れやすいのです。ヒビが入りやすいのです。まさに今、コリント教会は、そしてパウロ自身が、器に入ったヒビを感じているのではないでしょうか。
しかしパウロは言うのです。ヒビが入っていたっていいではないか。そこに主の栄光を盛り付けたとき、ヒビの間から光が浸み出るのだから。ヒビだらけの器から神の栄光が漏れ出るのなら、「闇から光が輝き出でよ」という神様の命令が実現したことになる。元々この言葉は、世界の始まり、創造の際に発せられた命令です。しかしパウロは、日々の営みの中で、土の器である私ども、ヒビを抱えたままである私どもに対して主が命じ続けておられる言葉だと受け止めています。私どもはこの器に盛られている主の復活の光に目を向けたいと思います。
パウロはさらに、少し先の13節において、「私は信じた。それで、私は語った」と述べることで、詩編116編、今日お読みしたもう一箇所に思いを向けています。詩編116編において、信仰の詩人はこう歌います。
わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言う
つまりパウロは、私は信じた、それ故に語る言葉がある、といって、自分が今抱えているヒビ割れの感覚は、詩編の詩人によっても共有されている、ヒビを抱える苦しみについて率直に語る言葉が、パウロと詩編の歌い手、そしてコリント教会、さらに日本にある伊東教会にも共有されるのではないか、と問うているのではないでしょうか。
信仰があるがゆえに、そうでなければ飲み込んで我慢してしまうような苦しみを、主の前に訴える。私は苦しいのです、そのように主なる神に直接訴えて良い。
この受難節に、私どもはもう一度考えさせられます。私どもは、信仰ゆえに喜びを言葉に表すということだけでなく、信仰ゆえに苦しみを訴える言葉を口にするということもあり得るのだ、と。
*苦しみ
主イエスは、弟子たちと共にガリラヤで過ごしておりました。それがある段階から、都エルサレムに心を向けるようになります。心を神殿の都エルサレムへ向けながら、次のようなことをお語りになり始める。それは人の子が苦しみを受け、十字架にかかり、そして蘇る、と。弟子たちはその意味がわからず、あるときはそのようなことを言うべきではないといってたしなめようとし、そしてあるときには言った言葉が右から左へと抜けてしまうというか、無反応にとどまってしまう。言葉が染み渡らないというような経験を二度、三度と繰り返しました。そうしている内に主は、エルサレムに向かうのは心だけではなく体もなのだ、と言わんばかりに実際にエルサレムへと向かいます。弟子たちはエルサレムに近づくにつれ段々主のお言葉に激しさが増してくることに気がつきながら、しかしその意味を共有してはおりませんでした。主のまなざしが、エルサレムの郊外にあるゴルゴダの丘に向けられていることに気づいた彼らは、やがて怖じ気づいて蜘蛛の子を散らすように一旦は逃げ出してしまう。
本当の信仰を持っている人は苦しまないのではないか。いつも全てのことをニコニコして受け止めるのが立派な信仰者なのではないか。弟子たちはそう考えていたのかもしれません。同じように考えるとするなら、詩編116編において、あるいは時々パウロは「私のために祈ってください」などと言っていますが、パウロや詩編記者は信仰的に実はちょっと足りなくて、それはそれで親しみが持てるけれども、本来は信仰があるなら苦しみを口にするべきではない、と考えてしまうことになるのではないでしょうか。
信仰を持つがゆえに苦しみを訴えるということが実感として納得できるか、ヒビ割れを抱えていることから来る苦しみの感覚を、隠すべきことではなく神様に堂々と問い、訴えることを弟子達はしていたのか、そしてその後の信仰者達はしているのか、という問いがあるのだと思います。
「完璧な器を見せるのではなく、ヒビだらけの自分から漏れ出すキリストを見せるのだ」、そのように考えることで、パウロはただ単に謙遜で「土の器」と言っているのではないことに気づかされます。
ヒビだらけの土の器であるパウロは、ヒビだらけの土の器であるコリント教会に対して、どのようにして推薦状を示したのでしょうか。推薦状という言葉が出てくるのは前の三章です。ではパウロは、誰の筆跡の手紙を今度持参するよとコリント教会に説明をしたのでしょうか。前の三章を開きますと、次のようにあります。
わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。(3:2)
パウロが示すのは、キリストの筆跡が残る手紙が、コリント教会にはすでにある、それはキリストの言葉が刻み込まれているコリントの信徒そのものだ、というのです。
*自立
この推薦状にかんする発言は、コリント教会から発せられた問いへの答えであると同時に、ここには聖書の宗教の歴史そのものがあるとパウロが考え、大がかりな議論をしています。かいつまんで、聖書の歴史からひもといて考えてみたいと思います。
この二年半、聖書祈祷会においては出エジプト記・申命記と、モーセの律法についてご一緒に読み進めています。私自身、深い気づきを得ることの多い、楽しんで参加している会です。
その中で、モーセがホレブの山頂でいわゆる十戒を受け取るとき、石の板に字を刻んだのは主なる神ご自身である、ということが出て参ります(出エジプト記32:16)。それはエルサレムの宗教の一つの特徴を言い表す出来事です。神ご自身が律法を直接与えるというのは、ユダヤ人以外の当時あった多くの宗教にはない特徴だったのです。ほとんどどの宗教にも、律法や法典があります。しかしそれらを執筆し、人々に示すのは王様です。王様が神様の代理人として法律を定めるのです。
モーセが律法の授与者ではない。この事実は、イスラエル宗教の新しい点でしたが、皆が素直にそれを受け止めたわけではありません。やはり律法は、神様が直接与えたのではなくモーセが与えてくれたものだと考えたい人々が出てくるのです。そしてモーセを奉って、「モーセ様」と呼びたくなってしまう心の性が、人々に生まれました。
他方で、モーセ様と呼ぶ人々は、モーセに対する不満を募らせるようになります。そこで、あるときに新しい指導者を生み出そうという話を彼らは始めます。モーセが不在の時に人々は、モーセの兄弟で弁が立つアロンに願うのです。私たちのために神々を作って下さい、と。これが有名な金の子牛事件ですが、この事件の本質は、人間はいつも刻んだ像を拝みたがるというような話ではなくて、誰もが心の中に権力者を求める心があって、担げる神輿は軽い方がいい、モーセよりはアロンがいい、もしアロンが気にくわなければヨシュアを担ぎ上げればいいのではないか、だって決めるのは私たちなのだから。
人間は誰もがヒビ割れを抱えています。
この一年、伊東は市政のレベルで大きな揺れを経験して参りました。一年足らずの間に何度も選挙をする羽目に陥りました。多くのお金を費やしました。しかしそれ以上に課題が残ったのは、誰に任せたらいいのかという、他人任せの態度です。大元をたどると、ゴッドファーザーのような人に任せておけば政治のことは大丈夫だ、という風に観客気分でいたこの数年、いえ数十年の報いでもあったように思います。
エルサレムに入城するイエスを歓迎した群衆は、まさに「力強い王」を求めていました。しかし、イエスは「僕」としてロバに乗って来られました。地上の権力者としてあがめ奉られることを目指しておられないイエス様に弟子の一人が失望し、また律法学者達が反発し、そして民衆は別の人間を次の神輿にしようと言い出します。エルサレム入城から一週間後、人類が記憶しなければならない十字架に至る一連の出来事は、ヒビ割れが隠せないところまで進み、粉々になってしまう、人間の罪があらわになってしまう事件でした。
思い起こせば、信仰者が出エジプトの旅を続けているときから、ヒビ割れは私どもの内側にありました。自分たちはエジプトに奴隷としてとどまっていた方がいい、あそこでは肉鍋にありつけたではないか、とつぶやいたのは私どもです。
また古代のローマの歴史を分析するのに用いやすい言葉に、「パンとサーカス」という有名な言葉があります。人々を支配者が満足させるには、一人一人が目覚める政治などは必要がない、パンとサーカスを与えておけば人々は満足するのだ、というのです。そして「ゴッドファーザーに任せておけばいい」と思う。その心は、棕櫚の枝を振った群衆の心と重なります。
それらに対して、モーセの宗教は、一人一人が律法に忠実であることによって、神様の前で僕となる宗教こそが、新しい、他にはない宗教なのだ、という主張を含んでいます。なぜなら、誰か人間を仰ぐことは、ヒビ割れをごまかすだけであり、そのヒビ割れをはっきり見つめ、そこに盛られる主の栄光を思うなら、一人一人が主の僕となって信仰の道を進むしかないからです。そこには指導者と群衆という違いはありません。王も、祭司も、軍人も、職人も、家庭人も、みなヒビ割れた主の僕なのです。
僕とは、単に命令に従う奴隷ではなく、主人の心を知り、自ら目覚めて仕える自由人のことです。このことは教会のみならず、伊東の市政にも通じることかもしれないと思いました。
*将来
それから数百年経って、パウロはこのモーセの宗教を受け継いだキリストの宗教が、一人一人の目覚めということをさらに深く受け継ぎ、新しい展開を示すために、この第二コリントの前の章で、次のように語ります。
文字は殺しますが、霊は生かします。
これは、律法の精神によって生かされる宗教共同体は、文字に拘束されるのではなく、聖霊によって生かされるものだ、ということを示唆する言葉です。
パウロは推薦状を持っています。それは、パウロが語る御言葉によって、私どもの心はキリストに結びつけられているからです。エルサレムから発行されるよりももっと確かな推薦状を、私どもは心の内に持っている。そして苦しみにあってそれを信仰の言葉として訴えることが出来る。私どもの心からなる叫びは、御言葉に仕える主の僕の証しです。
「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」
パウロは、自分を推薦する手紙があるとするならば、それはコリント教会の信仰者自身だ、と語ります。
伊東教会の信仰者自身がパウロを推薦する推薦状となり、また同時にキリストを証しする主の僕であるということを確認するために私どもは教会総会を持とうとしています。
計画総会とは、私どもが定める計画であってはならないのだと思います。もしそんなことは言っても誰かが書いたのでしょう、と考えるなら、それは誰が書いたか、つまり過去の書き手を探していることになります。計画というのは、そもそも前向きのものです。自分の心に愛の筆跡を残して下さるのはどなたなのだろう、と考えるのは、私どもが「過去」ではなく「将来」に向けて、主と共に歩み出す第一歩につながります。
私どもは今日、一頭のロバのように、主を背に乗せて歩み始めます。背負っている計画や資料は、ロバの背中のようにゴツゴツして重いかもしれません。そこに出てくる数字や課題そのものがヒビであるようにも思えるでしょう。しかし、そのヒビがあるからこそ、私どもは自分たちの力に頼ることをやめ、主の栄光にのみ頼ることができるのかもしれません。そしてその歩みの先に、私どもの主の十字架と、輝かしい復活があることを信じています。
ヒビ割れた器から、復活の主の光が今日も、そして新しい年度も、漏れ出しますように。主の僕としての歩みを共に進めることが出来る幸いを思います。†
