愛の浪費

聖書箇所:マルコによる福音書 14章3〜9節

「愛の浪費」

2026年3月22日 於伊東教会礼拝説教 

説教者:上田光正



3イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、その壺を壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。4そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。5この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして彼女を厳しくとがめた。6イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。7貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。8この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。9はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



 本日のわたしどもの礼拝に与えられました御言葉は、主イエスが十字架にお掛かりになる、いわゆる受難週の水曜日に起こった出来事です。主を十字架につけようとしていた祭司長たちは、「祭の間はいけない、民衆が騒ぎ出すといけないから」、と話し合っていました。そういう、大変緊迫した状況です。わたしどもは毎日、平安な生活を送っております。しかしその平安な生活の背後で、神がどのような大事なことをしておられたかということが書いてあるのが、受難週の記事です。本日は、その受難週に起こった、一つの出来事のことを学びながら、わたしどもの信仰生活について、考えてみたいと思います。



それはある一人の、名もない婦人が、主イエスの十字架の意味を全身全霊をもって受け止め、高価な香油を主の頭に注ぎかけた、というお話です。それは非常に高価な香油でした。恐らく家中いっぱいに、馥郁とした香りが満ちたことでありましょう。周りの人々が驚いたことが書いてあります。しかしわたしどもは、それよりも、主が最後に語られたお言葉に、是非注目したいと思います。九節の御言葉です。

「はっきり言っておく。世界中どこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」

「世界中どこででも」とありますから、この日本の地、伊東の地でも、です。あれから二〇〇〇年経った今日でも、主の十字架について語られる時には、必ず一緒に語られる、と言うのです。主がこれほどに人をおほめになったことは後にも先にもありません。人間がしたことを、主がこれほど、これこそが本当に大事なことだ、とおっしゃったこともほかにはありません。そのことを、わたしどもも、よく考えてみる必要がある、と思うのです。いったい、何が大事なのでしょうか。

この記事は四つの福音書全部で報告されています。それだけ大事だからです。その中で、ヨハネ伝一二章とルカ伝七章はマルコ、マタイとは書き方が微妙に違っていますが、全部合わせて読むとよく分かります。

主はこの日、ベタニア村におられました。そこはエルサレムから三キロほど離れた小さな村で、主が弟子たちと一緒に、しばしばお休みを取られた所のようです。何軒か、主が行きつけの家があったようですし、マルタとマリアの家もありました。明日はいよいよエルサレムに上り、弟子たちと最後の晩餐をおとりになり、次の金曜日は、夜通しの裁判が行われたあと、朝の九時に処刑される、という日です。

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そういう日に、主が重い皮膚病の人、シモンの家にお入りになった、ということが、大変貴重なことだと思うのです。「重い皮膚病」とは、こんにちのライ病のことです。当時は、この病気は今よりもずっと恐れられていました。その家はもちろん誰も入りたがりません。そういう家に、主がお入りになったということが、とても尊いことなのです。

ですがそれは、主にとっては、全く普通のことだったのです。福音書を読むと、主はライ病人を訪ね、徴税人や罪びとや、足の不自由な人、目の見えない人など、だれからも相手にされない人たちの家をよく訪ねられました。貧しい者や病める者を訪ねられました。一緒に食事をとり、ある時はお泊りになりました。わたしどもは、そういうことは、聖書のあちこちに書いてあるので、当然だと思い、あまり深く考えようとはしないのです。でも、考えてみれば、実に意義深いことではないでしょうか。彼らは皆、だれからも相手にされない人たちです。人々から忘れられ、捨てられた人たちです。ライ病患者などは、町なかに出るときは、自分のことを「汚れた者、汚れた者」と大声で知らせながら歩かなければなりません。そういう、だれからも相手にされない人たちを、主はよく訪ねてその家の客となった。主はそういうことを、喜んでなさったのです。

こういうことは、あまりわたしどもは考えたことがありませんが、わたしどもにとって、本当はとても心に喜びと平安を覚えることなのではないでしょうか。わたしどもがあまり考えたことがないのは、自分はそういう者ではない、と思っているからでしょうか。ですが、本当はわたしどもも、表向きはどうであれ、実は、神様の前で裸になれば、同じ罪や醜さのある、あまり変わりばえはしないのです。もし、主がわたしどもに近づいてくださらなかったなら、主がわたしどもの家に、喜んでお入りになり、客となってくださらなかったら、わたしどもの家は、どうなっていたでしょうか。本当の喜びと平安があるでしょうか。しかし主は、わたしどもが願えば、いつでも来て、わたしどもの家の客となってくださいます。主は傲慢な者には近づきません。「罪びとの仲間」(マタ一一・一九)となってくださいました。主は喜んで、いつでもわたしどもに近づき、わたしどもの家で食事を為さってくださいます。わたしどもの家に泊まることを、喜んでくださいます。わたしどもは、自分の家に、そういう主を、安心して お招きできるのです。本当にそのことが分かったら、わたしどもはもっともっと、主に近づいてもらいたい、と思うのではないでしょうか。

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さて、その日の夕食の時でした。突然、一人の女性が主イエスの後ろから近づいてきて、非常に高価な香油の壺を割って主のこうべに注いだ、と言うのです。それは、「ナルドの香油」と呼ばれ、ヒマラヤに生えているある植物から取られ、インドから輸入しなければ手に入らないものです。三百デナリオンもするとありますから、一人の人の一年分の給料ぐらいの、非常に高価なものです。もしかしたら、それは彼女が父親から、結婚の時の支度金としてもらった、彼女の唯一の財産であったのかもしれません。

ユダヤでは、非常に大切な客には、香油を足に少しだけ塗って差し上げるのが、礼儀だったようです。ところが彼女は、香油の入れてあった壺を割って、中身を(恐らく)全部主の頭に注いだ、と言うのです。ルカ伝では主の足に注いだ、と書いてあります。寝そべって食べる夕食の席だとすると、頭よりは足の方が注ぎやすかったでしょうが、どちらだったかは分かりません。

いずれにしろ、それは余りにも常軌を逸した行動です。思いつめた末の行動だったようです。その中に、彼女の主イエスに対する愛の深さがうかがわれます。一瞬、誰もその理由を理解できず、弟子たちをはじめ、ただあっ気に取られていました。彼女自身も、やはり我を失いそうだったようです。

ですが、ルカ伝七章三八節(新約聖書一一七頁)には、こう報告されています。「(彼女は)香油の入った石膏の壺をもってきて、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながら主の足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」、と。どうやら彼女は、そのまま主の足もとに泣き崩れてしまったようです。そして、溢れる涙で主の御足を濡らし、それを自分の髪の毛でぬぐい、御足に接吻をして止まなかった、とあります。

彼女の主に対する愛はとても深かったに違いありません。わたしどもは普通はこういうことはしません。しかしわたしどもは、ここから非常に大切なことを学ぶことが出来ます。あるいは、これを読んで、非常に大事な問いかけを受けるのです。彼女の行為で、何よりもわたしどもの心を深く感動させて止まないのは、その愛の深さ、一途さです。愛が真実であるだけ、そこになりふり構わない「ひたむきさ」があります。そしてわたしどもは、われわれの主に対する愛は、本当にこのようなひたむきな、あるいは、「なりふり構わない」、自分の全部を注ぎ出す愛なのか、という問いです。もちろん、わたしどもの近くに主はいませんから、直接はできませんが、しかし主を愛することは出来ます。こういういちずな愛し方が出来るか。わたし自身、この記事を読んで、自分がそう問われているように思います。皆さんはいかがでしょうか。

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ところが、周囲の人たちの反応はまるで違っていたようです。しばらくすると、その場にいた幾人かの人々が憤慨して、互いにつぶやき始めた、と言うのです。「なぜ、こんなに高価な香油を無駄遣いしたのか。これを売って、貧しい人々に施すことができたのに」。そして、彼女を厳しく咎め始めたのです。

この考え方は、いわゆる「正論」と言われるものです。大変合理的で、常識的でもあります。それは全くの浪費である。そんなに余分のお金があったのなら、貧しい人々に施せばよかったのに、と言うのです。われわれも恐らくそう言うだろうと思います。われわれは、信仰生活は、愛を伴う生活だ、ということは教えられて知っています。主のみ教えの中にも、貧しい人々を顧みなさいということは、絶えず言われてきました。だから、それだけのお金があるのなら、貧しい者へ施せ、と言うのです。ですが、それならば果たして、彼女を非難した人たち自身は、本当に隣人を愛する生活をしていたのでしょうか。

わたしどもが注意しなければならないのは、こういう風に言う場合、果たして本当に貧しい人々のことを考えていたのか、ということです。それは口先きだけで、本当は自分の愛の乏しさをカムフラージュしているだけなのではないか。そこに、われわれ人間が非常に陥りやすい弱点があるのです。もし、本当に貧しい人々のことを考えていた人なら、恐らく彼女を咎めるようなことはしなかったでしょう。なぜなら、そういう人は、彼女の主イエスに対するひたむきな愛をすなおに理解できたはずだからです。凡そ隣人を愛したことがある人なら、それはすぐに理解できたはずなのです。しかし、本当は隣人などちっとも愛していない。それが真相である。それはどこかで、わたしどもの、主イエスに対する大変中途半端な愛し方に似ています。

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では、彼女はどういうつもりで、このような行動に出たのでしょうか。そのことを示す言葉が、主イエスのお言葉の中にあります。九節の最後ですが、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」というお言葉です。「埋葬の準備をしてくれた」。これは、ユダヤ人は、御遺体に油を塗ってから、埋葬します。だから、彼女の行為は、十字架でお亡くなりになる主イエスの御遺体に、あらかじめナルドの香油という最高級の香油を塗って、埋葬の用意をしたのだ、という意味です。

主は、彼女の本当の気持ちが何であったかは、理解しておられたのです。主が十字架にお掛かりになる。自分は何ひとつできないが、せめて、そのための葬りの準備をしたい、ということです。だから彼女は、主の身に危険が迫っていたことを、既に知っていたことになります。

彼女は、主の死が間近であることを、非常に敏感に感づいていたようなのです。でなければ、このような行動をするはずがありません。もちろん、主が二日後には十字架に掛けられるということは、だれにも分かるはずはないのです。祭司長たちのたくらみも、ユダの裏切りも、誰も何も知りません。ただ、主イエスだけは、お分かりでした。ですから、この日主は、ベタニアで過ごされたのです。翌日は最後の晩餐があり、続いてゲッセマネの祈り、逮捕、および大祭司の邸宅での夜を徹しての裁判と、目まぐるしい出来事で一杯です。この日だけは、主は、愛する弟子たちと一緒にベタニアで静かに過ごされました。しかし恐らく、弟子たちも誰も気づいていません。ですから主は、非常に深い孤独の中で、まさに、「死の陰の谷」をたった一人で歩むようなご心境であられたに違いありません。自分の死が二日後に迫ったとき、人はどんな気持ちになるでしょうか。

しかし、ほかにたった一人、主の身に起こることを敏感に感じ取っていた人がいました。それが、この香油の女性です。彼女ももちろん、大祭司たちの陰謀も、ユダの裏切りのことも、何一つ知る由もないはずです。しかし、人間というものは、特に、自分が愛する人の運命については、非常に鋭い勘が働きます。どんなに隠そうとしても隠すことが出来ません。その人が自分にとってかけがえのない人であればあるほど、すべてを感じ取ってしまうのです。

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わたしどもにとりまして、この記事を読んで本当に大事なことは、彼女の心、その真ん中にあった想いは、何だったのか、それをきちんと知ることです。

そのことについて、マルコには何も書いていませんが、ルカには書いてあります。新約聖書の一一七頁をお開きください。ルカ七・四七の御言葉です。「だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。これはその時の主のお言葉です。つまり、この女性はキリストを誰よりも多く愛した。しかしそれは、彼女が誰よりも沢山の罪を赦されたから、多く愛したのだ、と主は言われるのです。それが彼女の心の中心にあった思いで、それ以外には何もないのです。彼女にとりまして、主の死はまさに自分の罪の赦しのための死です。わたしども、全人類の罪の赦しの為ですが、何よりもそれは、彼女自身の罪のためでもあると、彼女は感じていたのです。そのことを知れば知るほど、彼女は居ても立ってもいられなかったのです。それが、こういう行動に出た理由である、と主は代弁されました。それは文字通り、この女性の心の底から溢れ出た想いです。主の十字架の愛は、何百デナリオンの香油よりも、はるかに尊い。自分がそういう愛で愛されているから、その感謝は、ましてやこのような時でしたから、なりふり構わない、ひたむきな、まさに「大変な浪費」と言われてもよいものであった、ということです。

これは、今日のわたしどもにはすぐに当てはまる話です。キリストを本当に愛することが出来るのは、自分の罪が赦されたことを知っているからであり、また、その時、そしてその人だけが、赦された分だけ愛する。多く赦されたことを知らない人は、多く愛することが出来ない、と主は言われるのです。

われわれの信仰生活において、われわれはなかなか神や人を愛することが出来ない、と申しますが、その理由がまさにここに書いてあるのです。自分の罪が赦されたことを知らないから、われわれは自分のことしか愛することが出来ないのです。

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さて、主は、彼女のしたことをおほめになりました。そこにもう一度参りましょう。九節の御言葉です。「はっきり言っておく。世界中どこでも、福明日が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」、と。更に主は、彼女の行いについて、「わたしに良いことをしてくれた」、と六節で仰っています。「良い」という言葉には、特別の字が使われています。単に良い悪いの「良い」という字ではなく、「美しい」という意味も含んだ最上級の字が使われています。善いだけでなく、その場に最もふさわしく、そして美しい、という意味です。

それではいったい、彼女の行いはどうして、「その場にふさわしく、美しい」のでしょうか。

皆さんは、この女性が、一〇〇パーセント、自分の愛をささげたことが、美しい、とお考えでしょうか。わたしはそういう言い方は、少し違う、と思います。この女性が行ったことは、主の百パーセントの愛を、真正面から、百パーセント、全部、受け止めた、受け取った、ということが美しいのです。彼女が捧げたのではありません、彼女は受け取った人なのです。

主イエスの十字架の愛こそは、一〇〇パーセント、完全無欠のものです。そしてそれを主は、わたしどもに全部下さいました。このことは、わたしがこの説教の初めに申しました、主がわたしどもの家に客となってくださった、わたしども一人ひとりの生涯の友となってくださったこととも、通じます。もちろん、十字架はそれ以上です。主はそれによって、御自分の尊いお命を下さいました。それによって、わたしどもを再び父なる神の御許に帰れる者として下さいました。自分が神の子とされていることを知り、限りない平安と生きる望みを与えて下さいました。

中世の神学者で、ボナベントゥーラという人がいます。その人の祈りの中に、こういう一節があります。

「主イエスよ、  全人類の救いのためには、あなたの尊い御血潮のたった一滴だけで十分です。  それだのに、  あなたはその御体から、  最後の一滴まで、わたしたちのために流し尽くされました」

という一節です。われわれ罪びとは、大変鈍感ですから、それでもまだ足りない、まだ足りない、と思っています。本当は、たった一滴で十分なのです。しかし主は、この愚かで悟りの鈍い罪びとのために、惜しまず、全部を注ぎ尽くされました。まさに「聖なる浪費」としか申せません。それがキリストの十字架です。

われわれ人間の愛は、この神の愛に対応できるはずはありません。しかし、それにお応えすることはできます。彼女は「できる限りのことをした」と書いてあります。出来る限りのこと。それは、主の愛を、百パーセント、受けいれるか、ということです。われわれは、そうしていないのではないでしょうか。三〇パーセントか、一〇パーセントか、いや、ひょっとして、二〜三パーセントしか受けいれていないのかもしれません。それでいて、足りない、足りない、と文句を言っているのではないでしょうか。主がこの弱くて罪を犯しやすい自分のために死んでくださった、それを、文字通り額面通り、そのまま受け取るのが信仰です。われわれに、他に何が出来ると言うのでしょうか。われわれは、神を愛し、隣人を愛せよ、と教えられています。しかしその最も中心にあるべきことは、キリストを愛することなのです。信仰生活は、どんなに長くても、あるいは、どんなに深くても、要点はたった一つしかありません。自分の罪が主の十字架の愛によって赦されたことを知り、主を喜び、一生それに感謝する。そうすれば、自ずと、主を愛し、隣人を愛する人となれるのです。