伊東教会礼拝説教
「今という時を指し示す教会」
2026年3月15日 ローマの信徒への手紙 13章11-14節
須田 拓
I
最近、私自身も段々年齢を重ねてきて、神学校で若い神学生と話していると時代のギャップを感じるようになりました。
これまでの人生の中で、最も印象に残り、また大きな衝撃を受けた事件や出来事は何かと聞くと、阪神淡路大震災やオウム事件、またアメリカの 9.11 のニューヨークでの同時多発テロなどというのが出てこなくなりました。東日本大震災すらあまりきちんと記憶に残っていない世代も出始めてきました。もうああいった事件を既にリアルタイムで見て深く記憶しているのでない世代であることに驚かされます。
もちろんそれを言い出せば、当然どの世代にも、それ以下の世代への驚きがあると思います。私自身も、あの 1960 年代、70 年代の学生紛争は知識としてしか知りません。まして、1945 年の太平洋戦争の終結も、私は体験していません。
しかしそれを知ると知らないとに関わらず、確かに歴史の中では、あの日世界は変わったという出来事があるのではないでしょうか。もうそれ以前と同じではあれない、私たちのあり方を変える出来事というのがあるのではないかと思うのです。
先週はあの東日本大震災から 15 年目の日でした。15 年前の 3 月 11 日に起きたあの大震災がまさにそのような出来事の一つであるという方もおられるかもしれません。確かにあの日以来、日本においては、最早いつ地震や災害があってもおかしくないということを無視することはできなくなりました。人間がいかにはかない存在であるかもあの日私たちは目の当たりにしました。6 年前には新型コロナウィスルを経験し、疫病によって生活スタイルが一変してしまうことも経験しました。
しかし、それ以上に、もっと決定的に世界を変えてしまった日がある。もっと決定的に世界が変わった出来事がある。それをあなたは知っているだろう。今日読まれたローマの信徒への手紙で、その著者パウロはそのように語るのです。
11 節でパウロは言います。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」今はどんな時か、今はどんな時代か。
今はどんな時、どんな時代でしょうか。もちろん、私たちは、先行きが見えない時代であるとか、震災 15 年後の時代、コロナ後の時代だとか、いろいろな言い方ができると思います。しかし、あなた方キリスト者は、どんな世の事件や出来事よりも、もっと決定的なことが起こったことを知っているだろう。あなた方は、この世界が、何が起きた世界であるのかを知っているだろう、とパウロは言いたいのです。
もちろんそれは、キリストというお方を意識してのことです。パウロはここまで、ひたすらに、キリストというお方がこの世に来られ、何をしてくださったのか書き記してきました。その上で、「今という時」と言う。それはつまり、キリストが来られたという出来事、あのクリスマスの出来事、それこそ、あの日世界は変わったと言い得る日ではないか。今は、既にキリストが来られた時代だということが決定的ではないか、とパウロは言いたいのです。
確かに、キリストが来られたことで、世界は大きく変わったのではないでしょうか。
まず、神が私たちをどこまでも愛してくださるお方であることがはっきりとしました。神はこの私たちのために、ご自分の御子をこのキリストとして遣わす。それも、私たちの罪を負わせて十字架にかけるほどに、私たちを愛してくださる。その神のお姿がはっきりと示されました。だから最早、どんな状況に置かれても、神は私を愛してなどおられないと言うことはできなくなりました。神はこの世界に、私になぞ関心を持っておられないなどと言うことはできなくなりました。神は私に関心を持ち、愛してくださっている。それがはっきりと示された時代だ。
そして、このキリストは私たちの罪を負って十字架で死んでくださった。罪は、誰もが免れることのできない問題です。誰も、本当にあるべきように生きることはできません。こう生きるべきとわかっていても、それができないのが私たち人間です。それによって自分を傷つけ他者をも傷つけて生きているのが私たちです。しかし、そのどうしようもない現実を一人で抱えていなくてよい。一人で悩んでいなくてよい。神はあの日介入してくださった。
その問題を、ご自分のこととして負ってくださり、そういう罪ある者、正しくない者を、主は引き寄せてくださり、ご自分のものとしてくださり、それでよしと言ってくださる。そのあなたがなお大切だと言ってくださり、あなたをキリストに結んで神の子とまでしてくださる。その知らせのある時代、もうどんな者であったとしても、自分はダメだなどと言うわけにいかない時代に私たちは生きているのではないでしょうか。
そして最早死も絶対であるとは言えなくなりました。あのお方は死を打ち破って復活された。死も絶対であるとは言えません。
あの日確かに世界は変わりました。大きく変わりました。それは歴史の中にしっかりと刻まれ、最早なかったことにすることはできません。日本でも最近は西暦を使うことが多くなってきましたが、西暦は、ご承知の通り、キリストのご降誕を規準にしています。
今年 2026 年というのは、キリスト降誕後 2026 年目ということであるわけで、AD, Anno Domini 主の到来以後 2026 年と言います。逆にキリスト降誕以前は、キリスト降誕よりも何年前かということを、紀元前 before Christ 何年と言うわけです。これは 6 世紀に、伝承などを許に、当時の知識で、キリストが生まれた年と思われた年を規準にしていて、実際には 4 年ほどずれているらしいことが知られていますが、けれども、私たちは最早、紀元前の年号に戻ることはあり得ません。それは、私たちはキリスト到来以後、AD の時代に生きているのであって、最早世界は BC, before Christ に戻ることはないということを象徴しているわけです。
この私のためにキリストが来てくださった、その知らせがない時代に戻ることは最早あり得ない。私たちはそのような時代に、まさに AD の時代に生きているのです。
II
しかし、「あなたがたは今がどんな時であるか知っている」、このパウロの言葉には、もう一つの時が意識されています。それは「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」という言葉に示唆されているように、終末がまだ来ていない時代だということです。
私たちは確かに聖書から知らされています。この世界は永遠に続くのではなく、終わりがある。しかし、それは、ただ全てが滅び去り滅亡して終わるのではなく、むしろ世界の完成の時であり、神の国が到来する時であると教えられているわけです。ですから、神がお定めになった終わりの時があるとするなら、年一年、日一日、その終わりの日、完成の日、救いの日に近づいていることになります。
けれども、その終わりの日はまだ来ていない。それをあなたは知っているだろう、ともパウロは言いたいのです。終わりの日が来ていない。それは、この世は完成していないということです。だからなお問題があり、私たちも問題を抱えているということです。
20 世紀アメリカの神学者にラインホールド・ニーバーという人がおりますが、彼は、第一次世界大戦後、国際連盟が作られ、世界中の人々がその国際連盟の働きに期待を寄せる中、これはうまくいかないだろうと言いました。このような、世界が協調して平和を保とうとする努力をしなくてよいと言うのではありません。むしろそれは積極的にすべきだと言います。けれども、これでうまくいくと思ってはいけない。これで大丈夫だと努力を怠ってはいけない。それは、世界はまだ完成していないからだというのです。私たちはなお問題を抱えた者だからだというのです。どんなに素晴らしい立派な人がいても、完璧な人はあり得ません。どんなに素晴らしいように思えるものがあっても、問題がないものは一つもありません。それが今という時でもあるのです。
しかし同時に、それらがそのままでないことも知っています。やがて終わりの日、完成の時があることを知っている。そして、神がその完全であり得ない、問題抱えたこの私たちを見捨てておられるのでないことをも知っています。既にその私たちのためにキリストを送り、その罪を負わせ、この欠けある者を受け入れ、神のものとし、慈しんでくださっていることを知っている。
それをパウロは、「夜は更け、日は近づいた」と言い表しました。夜は更け、というのは、なお暗闇がこの地を覆い、私たちを覆い、私たちは事実問題山積みの中にあるということです。悲惨も、悩みも、嘆きもある世界に私たちは生きています。けれども、そうでありながら、日が近づいていること、夜明けが近づいていることも知っています。既にキリストという光が到来し、希望の光が差し込んでいることを知っている。神がそのために働いてくださっていることを知っている。
それが時を知っているということです。教会はしばしばこのことを、私たちは時の間に生きている、あるいは二つの時の中間に生きていると表現してきました。20 世紀前半に活躍したスイスの神学者カール・バルトは、1922 年にゴーガルテンら他の神学者と共に神学雑誌を立ち上げましたが、そのタイトルは Zwischen den Zeiten, 時の間というものでした。
私たちは確かに時の間に生きている。キリストが既に来られ、しかし終わりの日はまだ来ていない。それが、私たちが生きている今という時である。まさにそのことをパウロはこの朝語り、そして教会は伝え続けてきたのです。
III
ところで、あの 3.11 やコロナが自分の生き方に大きく影響を及ぼしたという方はあると思います。また、あの第二次世界大戦の終結も、間違いなく人の生活や生き方、考え方を大きく変えたと思います。しかしそれなら、まして、キリストが来られたということは、私たちの生き方を大きく変えるはずではないでしょうか。
私たちは、一方で、キリスト者は、そうでない方と大して違わない、決して特別な者ではないと口にします。事実、罪人であり、どうしようもない者であることは変わりません。キリスト者であろうが、そうでなかろうが、罪を抱え、弱さを抱え、愚かさを抱えていることは何の変わりもないわけです。それが、終わりの日がまだ来ていないということでもあります。なお夜更けであって、まだ夜明けになったのでないことです。
しかしパウロは、「闇の行いを脱ぎ捨て」よ、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」よ、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と言う。酒宴や酩酊というのは、ディオニューソスという、ギリシャ神話に出てきて、当時のローマでまつられていた異教の神の祭儀で、人々が酒に酔って陶酔し、熱狂的になることが意識されている言葉だとも言われます。淫乱と好色、争いと妬みというのも、当時のローマの人々の生活をよく表す言葉だと解説する人もあります。つまりあのローマ人のようになるな、とパウロは言っている。
しかし、それから私たちも逃れていないのではないでしょうか。このように、肉の欲のままに生きるというのは、私たちも抱える問題でないでしょうか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ。もちろん、それがいけないことはよくわかります。けれども、本当にこの全てから逃れている人がどこにいるでしょうか。
しかしそれを捨てよとパウロは言うのです。いや、もしキリストが既に来られた時であることを知っているなら、今の時を知っているなら、あなたは捨てられるはずだというのです。もちろん、一方では、終わりの日が日一日と近づいている、そうであれば、終わりの日は完成の時であると同時に裁きの日ですから、裁かれないように生き方を改めなさいということでもあるのでしょう。
しかし本当に捨てられるでしょうか。いや、そんな簡単に捨てられるなら、ここまでパウロが語ってきたことはどこに行ってしまうのでしょうか。神にふさわしく生きようとしても、それがわかっていても、どうしてもできない。かえってすべきでないとわかっていることをしてしまう。7 章でそうパウロ自ら告白しています。
しかし重要なのは、そういう私たちの生き方の抱えている問題を指摘して終わっていないことです。そして、ただそれを止めよと言っているのではないことです。ここは、「脱ぎ捨てる」「捨てる」とだけ言っていないことが重要です。そうではなく、同時に「身につける」「まとう」とも語られる。光の武具を身につけなさい。主イエス・キリストを身にまといなさい。つまり、あなたには着るべきものがあるということです。あなたには着ることができるものが、受け取ることができるものがある。
今日のこの箇所は、4-5 世紀に活躍したアウグスティヌスの回心のきっかけになった箇所として知られ、多くの説教者がここでそのことに触れています。彼は熱心なキリスト者であった母モニカの願いにも拘わらず、若い頃はなかなかキリストを信じず、マニ教という異教やさまざまな思想に次々にのめり込むのです。しかし彼は、32 歳の時、この聖書の言葉を読むことで立ち帰り、息子と共に洗礼を受け、その後の生涯を伝道者として捧げることになりました。
彼は『告白』という彼の著書の中でそのときのことを書いています。彼はその頃、一つの悩みを抱えていたというのです。それは主に女性の問題でした。彼ははじめ、母モニカが認めなかった女性と結婚します。しかしその結婚生活は十数年続くものの、ある時、その女性は一人の子供をアウグスティヌスの許に残して別れていってしまう。そして彼女はその後、修道院に入り、生涯他の男性と関わりを持たずに過ごしたというのです。
一方のアウグスティヌスは、今度は母が許した別の婚約者と結婚しようとしますが、相手の女性がまだ若かったので、二年間待つことにしました。しかし彼はその二年を待つことができず、別の女性を引き入れてしまうのです。それが彼を悩ませた問題だったといいます。
「私はあの女性の誠実さ、別れた後一切男と交わらず、修道院で暮らしたあの女性の誠実さを真似ることができなかった」。そう、欲望に対する自分の弱さに彼は苦しんだというのです。彼はこう心の中で叫んだといいます。「なぜこのような恥ずかしい人生を続けてゆかねばならないのですか」。「わたしはこのように訴えて、わたしの心はひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた」。
そのような時、彼は取って読めという声のようなものを聞き、このローマの信徒への手紙の 13 章 13-14 節を読みます。そのときのことを彼はこう書いています。「わたしはそれから先は読もうとせず、また読むには及ばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ちあふれて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである。」
「主イエス・キリストを身にまといなさい」。これが彼の悩みを吹き飛ばす言葉でした。私はそこでまとうことのできるものがある。キリストをまとうなら、キリストはまさにその私共の罪を、この肉の弱さを覆ってくださる。もう自分はダメなのではないか。そう悩むあなたをそのままに覆い、包み込み、癒してくださるものがある。
私たちは既にこのキリストという上着をまとっているのではないでしょうか。それを着ているのではないでしょうか。この着る、まとうという言葉は、それと完全に一体になってしまうほどに溶け込むという意味があるようです。しかしそれは洗礼で起きていることではないでしょうか。洗礼において、私たちはキリストに結ばれ、キリストと一つとされたと言われました。とてもキリストをまとい続けることのできず、脱ぎ捨てかねないこの私のために、キリストはこの私を洗礼においてご自身の体に取り込み、一つとなっていてくださいます。
その衣の内側は、何も変わっていないかもしれません。罪が深く入り込み、悪しき思いや行いにむしばまれ、深く汚れているかもしれません。けれども、そのあなたを、キリストという清い衣が包み込んでくださり、敢えて言えば、父なる神に、あなたは清いと言わせるのです。全く正しいお方が私を包んでくださり、あなたはそれでよい、あなたは赦されたと言ってくださる。そして、この私たちの傷を、悩みの傷を、主に包まれている平安によって癒してくださる。
あなたはそのキリストを着ることができる。いや、既に着ているではないか。
しかしそれにしても、なお、「闇の行いを脱ぎ捨て」とあること、そして、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」とあることに引っかかりを覚える方があるかもしれません。しかし、キリストを着る時、私たちの内側に、今までになかった新しいものが生じても来ないでしょうか。
私たちはキリストを着る前、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」という言葉で表されるような、肉の欲のままに振る舞うところにしか楽しみというものを見出せずにいたかもしれません。理性で抑えていた肉の欲を、一時、少し解き放ち、肉の欲が満たされるようにする。そこに楽しみや喜びを見出していたのではないかとも思うのです。
しかし、キリストを着せられた今は、知っているのではないでしょうか。それ以外の喜びがあることを、楽しみがあることを知っているのではないでしょうか。神が私を愛してくださっている。その喜びがあります。その喜びの内に、その私を愛してくださっている神を礼拝する喜びがあります。それを告げる御言葉に聞く喜びがある。
そして、この罪深く汚れに満ちた私を、包み込んで、そのあなたが必要だと言って抱えていてくださる、キリストが私をとらえ、一つになって、この私を終わりの日まで、死を超えて神の国まで導いていってくださる、その安心の喜びがある。まさにアウグスティヌスが味わったような、そういうお方がいることによる平安と、その平安の喜びがある。
もちろん、まだ終末は来ていません。だから私たちは完全ではありません。なお肉の欲に目が向きます。そしてそこに溺れることもあるでしょう。けれども、今や、キリストが既におられる時でもあります。そうであれば、それ以上の喜びがあるではないか。それ以上の霊的な喜びが、平安が、楽しみがあるではないか。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」(13 節)。既にキリストが来られている、それにふさわしく、その事実に誠実に、その事実があるからこその歩みに生きようではないか。あなたはもっと喜んでよい。パウロはそう呼びかけていたのです。
IV
「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。」教会は、その時を、今がどのような時であるかを伝え続けてきました。教会はまさに時を告げる。欧米の多くの教会では、塔があり、鐘を鳴らして時を告げます。しかし、私がイギリスにおりました時、意外だったのは、その塔の上にあるのが、多くの場合、十字架ではなく、風見鶏であったことです。
もっとも、調べてみますと、9 世紀頃に、当時のローマ・カトリックの教皇の方針で、ペトロが、鶏が鳴く前に、私のことを知らないと三度言うだろうと主に言われ、その通りになった、あの出来事から、そうなる前に気づくようにと、まさに目覚めるようにと鶏を掲げさせたことに由来するようです。それはそれで意味あるかもしれませんし、今日のところでもパウロは「目覚めるべき時」と言っています。
しかし、あるところで、それを批判する文章を読みました。風見鶏は現在では、特に日本では、風の向きに合わせて顔の方向が変わることにちなんで、自分の主張を持たずに、時代や周りの空気に合わせて迎合する人を指す言葉として使われます。それなら、やはり教会は風見鶏ではなく十字架をこそ掲げるべきだというのです。
時を告げる鐘の塔のてっぺんに、風見鶏ではなく、十字架を掲げる。この世の時流に流されるのではなく、その時代に合わせて時代におもねる言葉を語るのではなく、あの何よりも決定的な、今の時を告げる出来事をこそ語り伝えるべきだというのです。あの出来事を見よ、と言うべきだ。目覚めるのは、その知らせによって目覚めるのでなければというのです。
今、受難節を歩んでいますが、ケンブリッジの町では受難日に、午前中はいわゆるプロテスタント教会の合同礼拝が普通の形で、そして 12 時から午後 3 時までは聖公会の教会で The Three Hours という 3 時間にも及ぶ礼拝が守られていました。そして、その間の時間に、その両者合同であることをしていました。それは、大きな十字架を一緒に担いでいって、町の中心にあるマーケットにそれを建てるということです。その十字架にはこのような言葉が書かれていました。
「私たちの世界が、既にキリストの十字架が歴史に刻まれた世界であることを伝えるために、私たちはここに十字架を建てる。」
今とはどのような時か。既に主の十字架が起こった時代だ。私たちも告げ続けたいと思います。既にキリストが来られ、十字架に架かられた時代であると。あなたが着ることのできるもの、本当に依り頼んでよいお方が既にここにおられる時代であると。
まだこの十字架のお方は再び来られていません。世界は完成していない。だから問題だらけです。私たちも問題だらけであり、だからこそなお悩みがあり争いがあり、苦しみがあり、恐れのある世界です。教会はそのことも告げます。しかし何の助けもないのではない。あなたには着ることのできるものがある。その私たちのためにと神が既にお送りくださったお方がある。だからこそあなたには頼ることのできるものがある。このお方を着てごらんなさい。
そうすればあなたの状況は一変します。そうではないでしょうか。どんなにどうしようもないあなたでも、そのあなたを決して見捨てず愛してくださるお方があることを知って生きることができます。どんな悩み苦しみの中でも、病や様々なものに襲われている中でも、なお自分を子として慈しんでくださるお方があることを知って生きるようになります。そのお方の御手の内では死をも力を持たず、終わりの日にはよみがえらされることを知っています。いや、この知らせなしに、私たちはどうやってこの世で困難を乗り越えることができるのでしょうか。病の中どう生きるのでしょうか。どう死に向かうのでしょうか。
この世の悩みと苦しみの中で、ただ諦めるべきではない。自分のことで悩み、そして様々なことで思い悩むなら、このお方を着てごらんなさい。十字架を掲げて、そのあなたのために神がお送りくださったお方がここにあると指し示したいと思います。
世界はただ苦しみと悩みの内に破滅で終わるのではありません。破滅が最後の言葉ではありません。終わりのその先に神の国、喜びで全てが満たされる時があって、そこへと神は確かに世界と私たちとを導かれる、既に神はそのためにこの世に介入され始めていると知らされています。このキリスト者が味わい始めているあの喜びが、世界の全て、私たちの全てとなる日がやがて来たると知らされています。その希望をこの世に指し示し続けたいと思います。十字架を掲げ、その希望に生きる道があることを、世に呼びかけたいと思います。
その希望の内に、私たち自身、共に礼拝の喜びを味わいつつ、その日その時を待ち続けたいと思います。
アーメン
