026/03/01 受難節第二主日聖餐礼拝
ガラテヤ書説教第16回 5:1~12
福音の地平を旅する信仰者――ただキリストと共に
説教 牧師 上田彰
*十字架に「顔を据える」――キリストの持つ自由
受難節の第二主日、私どもはルカ福音書のこの言葉に促されて集まりました。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(ルカ9:51)
ここで「決意を固めた」と訳されている言葉は、直訳いたしますと「顔を据えた」となります。主イエスは、これから起こる苦難と十字架から目を逸らさず、じっとエルサレムを見据え、その向きを変えませんでした。エルサレムに入られてからもその向きは一点を見つめていました。それは十字架です。ゴルゴタの丘はエルサレムの町外れにありました。その道を上っていくことこそが十字架への歩みです。
この「向きを変えない」というお姿から教えられることがあります。それは、十字架への歩みとは、主イエスにとって、恐れから無縁な、あるいは運命めいたものに拘束されるのとも異なる、真の「自由」の歩みであった、ということです。主をエルサレムへ向かわせ、十字架への道をひた歩かれたのは、誰かの、あるいは何らかの強制でも、また義務でもありません。父なる神への信頼と、私どもへの愛ゆえに、主は「自ら」進んで顔を据えられた。「自由」という言葉は、「自分に由来する」と書きます。主イエスの自由は、わがままな自由ではなく、『父なる神様への愛から湧き出た自由』だった自由でした。
パウロは今日、ガラテヤの信徒たちのみならず私どもに、こう宣言します。
「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださった。」(1節)
*現代の「割礼」――ブランドロゴと認証マーク
私どもがこの受難節に、主イエスに倣って十字架に「顔を据える」とき、気づかされるのです。私どもは自らを縛るあらゆる奴隷の鎖から、いまや解き放たれている、と。十字架を見つめることでわかるのは、「私に本当に伴ってくださるのは、世間の評価とか律法ではなく、このお方だけだ」ということです。
ガラテヤ教会の信仰者の歩みは、放っておくとすぐに「奴隷の軛(くびき)」へと逆戻りしてしまう恐れがある、とパウロは申します。ガラテヤ教会の中で、積極的にユダヤ人の慣習に立ち戻ろうと唱える者がいたようです。キリスト教への弾圧が始まっていたこの時代、自分たちをユダヤ人の一派であると認めてもらうことは、弾圧を逃れる手段としては有効に見えたのでしょう。なにしろ、自分たちは孤独ではない、ユダヤ教というバックボーンがあって、ユダヤの神殿が伴ってくれる、というのは一時的にせよ、心強く感じることが出来たのでしょう。そしてついにあの主張に至るのです。「割礼を受けていない者は、割礼を受けよう」。身体にユダヤ教の印を刻むことで、究極の安心を受け取りたい。「これさえあれば、私は神の民として認められる」、という目に見える保証を求めたのです。
伴う相手が少しずつ食い違ってきています。最初は、同じ神様を信じていながら少し信仰生活を営む際に別のやり方を取り入れるだけで、神様が伴っていることに違いはない、という風な主張だったのかもしれません。しかし、最終的には、自分たちは孤独ではない、ユダヤ人が伴ってくれる、という風に、誰々が言っている、誰々と一緒だから安心だ、という風に、人間的なものが伴ってしまっているのです。これをパウロは、「奴隷の軛に再びつながれる」といっているのです。
あとから申しますが、パウロはキリストの僕となることを喜んで引き受けます。いってみればキリストに伴ってもらうことを願うのです。それに対して奴隷の軛という場合は、神様以外の人間的なものに伴ってもらって喜んでいる、という様子を指し示している言葉です。
これは、形を変えて現代の私どもの中にも生きているのではないでしょうか。
例えば、私どもがブランドのロゴが大きく入ったバッグや服を身につけるとき、そこには単なる機能性以上の心理が働いていないでしょうか。そのロゴを見せることで、「自分はこれだけのものを所有できる人間だ」「このクラスに属しているのだ」という安心感や保証を得ようとしているのかもしれません。
あるいはSNSの世界には、著名人や公式アカウントであることを示す「認証マーク(ブルーのチェックマーク)」があります。あの小さなマーク一つあるだけで、その発言に権威があるかのように見え、持っていない人はどこか「本物ではない」かのような不安に駆られる。
これらは現代の「割礼」です。
「これを身につけていれば、私は確かだ」
「これがあれば、自分は価値がある人間だと証明できる」
「みんなと同じ印を持っていれば、仲間外れにされない」
私どもは、目に見える「保証」を身にまとうことで、自分自身の不安を埋めようとします。しかし、そうやって「印」に依存し始めた瞬間、私どもは伴ってもらうべきものを見誤るのです。ブランドや、世間の「いいね」や、共同体のルールの奴隷になってしまう。「キリストに伴ってもらうことで自由を得る」というのと、「不安感からみんなについていくことによって奴隷となる」ということとの間の違いが大きいことは、いうまでもありません。いつの間にか自分を縛る「重い軛」を自ら首にかける。これが、パウロが警告する、奴隷への逆戻りです。
*案内人の顔を見つめる旅
パウロは、「しっかりしなさい」と呼びかけます。私どもにともなってくださるのは、身体に刻む印でも、肩書きでも、SNSのマークでもなく、ただ「十字架にかかっているお方」なのです。
これをドライブに例えるなら、「ナビを見つめる安心」なのか、「助手席に座ってもらうことで得られる安心」か、という違いといえるかもしれません。
車を運転する際に、何に伴ってもらうか。
考えてみると、律法主義というものを車の運転にたとえるとするならば、ナビの画面ばかりを凝視して、肝心の「前(主イエス)」や「隣(伴走者)」を見なくなるという危うい運転に近いのではないかと思います。そしていつの間にか、律法そのものがフロントガラス越しに見える前方の現実のように思ってしまう。一度その状態になると、ずっと律法だけを見つめ続けることになります。そういう状態を律法主義と呼ぶのでしょう。ドライブを楽しむことが出来ないのは、ナビだけを見てドライブを楽しめないことと似ています。現代技術は時折、そのような形で奴隷を生み出しているように思います。
それに比べて、ナビを見ることを隣の助手席の人に任せられるということは心強いことです。伴っているのが律法だというのは不十分です。恐らくこの議論は、ただ律法を拝むのではなく、律法を持って導いてくれる、律法の教師であるラビが必要だという話になっていくでしょう。パウロが3節で次のように言っているのは、まさにこのことなのです。
「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」
ただ便宜的にユダヤ教のまねごとをしようといっていても、やがて割礼にたどり着き、ラビにたどり着いてしまう。それがキリストに伴ってもらう歩みからそれてしまった場合の結末なのではないか、というのです。
しかし、福音の旅は違います。目の前には、エルサレムへと「顔を据えて」歩む主イエスという案内人がおられます。ナビを覗き込むのではなく、前を行く案内人の背中を、そのお顔を見失わないこと。それが私どもの歩みです。
主は「わたしの軛は軽い」とおっしゃいました。恐らく当時、ユダヤ教の熱心な信仰者達は、自分たちには律法の軛が課せられている、と言って、彼らにとって良い意味で「律法の軛」という言葉を使っていたようです。主イエスの時代、主はそれをご存じの上で、「私の軛」に言及なさったのです。キリストの軛。それは、キリストが私どもと確実に一緒にいてくださるということを示す軛です。私どもが迷わないように、そして一人で重荷を背負わなくて済むように、主が共に軛を担ってくださいます。
このお方に身を委ねることが、実は私どもを最も自由にするのです。
*福音の地平を歩む
主イエスは、エルサレムで小高い丘に立つ十字架に向かって歩みを進められました。その歩みの先に、主が十字架にかかられた後に蘇られて天に昇られたことも思います。私どもも主に従うならば、主が弟子たちや私どもと共に地上の歩みをなさったことと、私どもを地上において天に昇られたときのことを、想像の中で比較することも出来るかもしれません。
マルティン・ルターは、キリスト者に与えられた自由とはどのようなものか、ということを論じる書物の中で、この地上の歩みと天の御国におけるキリスト者の姿を想像する中で、次のような印象的な表現を残しています。
「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であり、だれにも従属しない」
「キリスト者はすべての者に奉仕する下僕であり、だれにも従属する」
一見矛盾するこの二つが矛盾しないところに信仰者の本質がある、というのです。私どもは地上においては誰にも縛られない自由人であり、天の国においては愛ゆえにすべての人に仕える僕(しもべ)となる。
「福音の地平」とは、地上の出来事に気を向ける自由人でありつつ、同時に天の国におけるようなすべてのものに仕える僕となる、そんな生き方をする者に旅をすることが許される地平です。
福音の地平というものがあるのですから、律法の地平というものもあるのかもしれません。福音によって生かされる者が、あらゆるものから自由でありながらあらゆるものに仕えることを進んで行うのに対して、律法によって生かされようと願う者たちが、結局自由というものにたどり着かないのではないか、そんなことを考えているようです。
*「愛のエネルギー」に巻き込まれる
最後に、パウロはこのキリスト者に与えられた福音の自由がどこへ向かうのかを示します。
「愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(6節)
たとえていうならば、自分で走る自動車や自転車ではなく、後ろからイエス様に押してもらう大八車のようなものでしょうか。荷台に乗っている私どもを、愛という名のエネルギーでイエス様が後ろから押してくださることによって、自らが乗り込んでいる車両が走り出すのです。私どもが梶棒(ハンドル)を握ってようでありながら、実は後ろから主が押してくださっているから進めている。ルターの「自由な君主であり、仕える下僕である」ということが成り立つ福音の地平とは、自分で動いているようで、実は動かされているということと関係するかもしれません。
6節にあります「愛の実践を伴う」とは、直訳すれば「愛によってエネルギーとして働く」という言葉です。
信仰とは、私たちが「よし、信じよう」と意志の力で頑張ることではありません。それは、自分を保証するために必死に「印」を求めていた私どもが、十字架の圧倒的な愛に触れ、その熱量に「巻き込まれてしまう」事態です。
不安という名のパン種に注意せよ、ともパウロは語ります(9節)。パン種が共同体を飲み込むように、キリストの愛というエネルギーが私どもを突き動かすのです。
不安から走るのではなく、「召し」によって走る。自分の身を守るためにうつむくのではなく、「愛」によって隣人に顔を向ける。
ルター風に言うならば、十字架を見つめ、誰の評価からも自由になった「君主」だからこそ、私どもは誰に強制されることもなく、自らの自由をもって、隣人に仕える「下僕」となることができるのです。
*顔を上げて祈り、福音の地平を大胆に歩む
私どもは今日、聖餐の食卓に招かれます。ここには何の「認証マーク」もいりません。ただ、主イエスが私どものために、命をかけて伴い続けてくださった、その事実があるだけです。
私どもはもううつむくことなく受難節の歩みを進めたいと願います。ブランドや評価という「重い軛」を脱ぎ捨て、私どもの名を呼んでくださる主の顔を仰ぐからです。
主がエルサレムに顔を据えられたように、私どももまた、この福音の地平へと顔を据えて歩み出します。私どもを動かすのは、もはや不安ではなく、十字架から溢れ出す愛の力なのです。 †
