「御言葉はわが足のともし火」
(詩一一九・一〇五~一一二) 2026/02/23
伊東教会礼拝説教 説教者:上田光正
(ヌン)
105 あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。
106 わたしは誓ったことを果たします。 あなたの正しい裁きを守ります。
107 わたしは甚だしく卑しめられています。 主よ、御言葉のとおり 命を得させてください。
108 わたしの口が進んでささげる祈りを 主よ、どうか受け入れ あなたの裁きを教えてください。
109 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。 それでも、あなたの律法を決して忘れません。
110 主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。 それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
111 あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。 それはわたしの心の喜びです。
112 あなたの掟を行うことに心を傾け わたしはとこしえに従って行きます。
わたしが生まれて初めて、聖書の御言葉に心奪われる体験をしたのは、洗礼を受けて約半年後でした。風邪を引いて寝込んだ時でした。一週間ほどして、用心して、あと一日だけ寝て、明日は起きよう、と思った頃、することがないので布団の中で聖書を読みました。詩編がやさしそうなので詩編を読みました。読んでぐいぐい心引かれるまま、とうとう本日の詩編一一九篇のところまで来ました。
その五〇節で、現在の訳はだいぶ変わりましたが、わたしが読んだ時は文語訳で、こうでした。 「汝の御言葉は我を生かししがゆえに/今もなお、わが悩みの時の慰めなり」 です。とても深い感銘を受けたのです。神様の御言葉が、昔、わたしが苦しかった時にわたしを生かしてくださった。そのことがある。それだから、今もなお、わたしが悩みの中にある時に、わたしの心の一番深い慰めなのです、という意味ですね。
「汝の御言葉は我を生かししがゆえに/今もなお、わが悩みの時の慰めなり」。ああ、これだったんだな、今のわたしの気持ちとピッタリだ。自分は本当に、クリスチャンになって良かったなァ、とその時、本当に心の底から深く、しみじみと思ったことでした。それ以来、わたしはどなたにも、聖書を好きになりたいと思うなら、詩編がいいよと(もちろん、福音書の、イエス様のお話もとてもよいのですが)お勧めしています。
本日はその詩編一一九篇全体を皆様とご一緒にお読みし、ただ今申し上げたわたしのあの時神様からいただいて、八四歳の今日までとても大切にして来た思いを、この詩全体を読み解きながら、ご一緒にお聞きしたいと思います。一言で申しますと、「神の御言葉に導かれる人生」、と申しますか。あるいはもっと言うと、「神の御言葉に深く慰められて生きる人生」、というテーマです。
この詩は全部で一七六節もあります。詩編の中で一番長い詩です。そして、ご存じの方もおられるかもしれませんが、一種の数え歌、いろは歌なのです。最初の一節から八節までが、全部ヘブル語のアルファベットの「A」、「アーレフ」という文字で始まっています。次の九節から一六節の同じく八節が、全部「B」、「べート」という文字で始まっています。そういう風にして、ヘブル語のアルファベットは二二文字ですから、全部で二二×八節=一七六節になるわけです。
しかも、テーマはたった一つ、神さまの御言葉、戒めに導かれて生きる人の幸いを歌っています。それが、最上の、最も幸せな生き方なのだ、と謳っています。例えば第一節と第二節をお読みします。 「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主의 律法に歩む人は。/いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は」 とあります。
イエス様の「山上の垂訓」の最初も、祝福の言葉でしたね。「幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん」。あの、九回繰り返された「幸いなるかな」という御言葉と同じ言葉が使われています。その時は、イエス様は丘の上から説教なさいましたが、遠くにいた人は九回繰り返された、「幸いなるかな」という言葉しか聞こえなかったと言われますが、それでも、心に深い平安を与えられた、と言われます。
その「幸いな人生」。この詩編一一九篇は、主の戒めに従うことを何よりも大切にして、それを自分の歩む足もとを照らす灯(カンテラ)のように、暗い夜道を照らす神様からの光のようにして歩む人こそ、幸いなのだ、と謳っています。作者は貧しい境遇に属する人であったと推測されます。
その作者にとって、神の御言葉、神の戒めとは、どのようなものだったのでしょうか。それは、「蜜のように甘い」と作者はそれを慕っているのです。「戒め」とは、神の「律法」のことです。作者はそれを色々に言い換えています。「掟」とか、「証し」、あるいは神の「仰せ」、時には「命令」と言い換えたり、「裁き」、「定め」などと、八通りほど言い換えていますが、すべて作者にとって、金銀宝石よりも大切だと言って、どうか主よ、自分がそれを忘れてしまったり、それをないがしろにした人生を歩んだりしないように、この弱いわたしを導いてください、と詩人は祈っているのです。
皆さんは、彰牧師の『ガラテヤの信徒への手紙』の講解を通して、神の律法に対しては正反対のイメージを抱いておられる方もあるいはおられるかもしれません。しかしそれは、人間が神の律法を悪用して、それを守っている自分に自己満足し、自分はこんなに立派な行いをしているから、イエス様の十字架など信じなくても絶対に天国へ行ける、と考えているファリサイ主義者の場合です。そして、隣人を見て、「あいつは律法を守っていないダメな奴なんだ」と他人を裁くファリサイ人にとっては、神の律法は祝福ではなくてかえって呪いとなります。
しかし、イエス様の十字架によって救われたことを固く信じているキリスト者にとっては、全部逆になります。律法は神の要求とか、それを守れないと地獄に突き落とされる、という言葉ではもはやありません。それを守れないわたしどものために、主が十字架にお掛かりになってくださいました。これが聖書の根本です。
そのことを信じて救われたわたしどもにとりましては、それは主イエスがわたしどもを命の道へと導いてくださる、「わが足のともし火、わが道の光」なのです。ですから、「諭し」とか「仰せ」とか「証し」と言い換えられています。《あなたの御言葉はわたしを救ってくださったので、それだから、今もなお、わたしの苦しい時、悩みの時の慰めであり、心の支えなのです》と謳っているのです。
さて、そういう気持ちで全体を読みますと、この詩の素晴らしさがよく分かって参ります。まず詩人は、人生を旅に譬えています。一九節をお読みします。 「この地では宿り人にすぎないわたしに/あなたの戒めを隠さないでください」 とあります。詩人は、人生は旅であり、わたしは宿り人だ、と言っています。徳川家康という人も、人生を旅に譬えました。「人生は、荷を負うて道を行くがごとし。焦るべからず、急ぐべからず」と言っています。さすがに苦労人だけあって、味わい深い言葉です。
「宿り人」というのは、聖書に何度も出て来る「寄留者」という意味です。その地に定住しておりながら、しかも永住権を持たない人、いつ「出て行け」と言われるかもわからない人、という意味です。聖書では、アブラハムもイサクもヤコブも、皆宿り人でした。人間は本質的に言って、この世にあっては寄留者なのだ、と聖書は言っています。
しかし、人生は単なるさすらいの旅ではありません。目的地も分からずふらふらと生きているのでもありません。ちゃんと立派な目的地があるのです。それは天の故郷、「神の国」です。「わたしたちの国籍は天にある」とあります。わたしどもが目指しているのは、この地上にあるふるさとではありません。地上のふるさとも、とても良いものです。石川啄木が、「ふるさとの山に向かいて言うことなし。ふるさとの山はあり難きかな」という歌を歌っています。ふるさとは懐かしいところです。ですが、それよりも「もっと良い、天にある故郷」なのです。人生とは、そこへ帰る旅路なのだ、と言っているのです。
そうすると、人生の辛さとかいうものも、随分違ってきます。目指しているゴールが、天にあるふるさとであるなら、毎日を生きる気持ちもずいぶん違ってきます。隣人との出会いも大切になります。明るい希望も湧いてきます。
それでは、その宿り人にすぎないわたしどもと、神の戒めとは、どのような関係にあるのでしょうか。わたしどもは、この詩の作者と一緒になって、彼がどういう気持ちで、御言葉に従う人生は、いかに幸いなことでしょう、と謳っているのかを、探ってみましょう。この詩人は何歳ぐらいの人かはわかりません。しかし、その一生の旅路の間、さまざまな苦しみに遭って来たようです。ですから、自分の体験から歌っているのです。
彼はまず、自分が迷いやすい人間であることを告白しています。例えば九節では、「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」と謳っています。
彼自身も、相当に苦しい人生を歩んで来たようです。二五節の「わたしの魂は塵に着いています。/御言葉によって、命を得させてください」の「塵に着く」というのは、まさに死にそうな体験をしたこともある、ということでしょうし、その少し後の二八節では、「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください」とありますのは、彼が人生の涙を知っている人であり、その中で神の御言葉を待ち望んでいることがよく分かります。
ある牧師が、御自分がいいろな人のお葬式の司式をしたことのご感想として、一人の人が信仰生活を全うすることの難しさをしみじみと語っておられ、わたしも同感だと思いました。人生に浮き沈みのあるのは世の常です。病や貧しさ、希望する学校に入れなかった。仕事がうまく行かなかった。愛する人から振られてしまった。あるいは、結婚したが家庭内が望んだようには行かなかった。子供の教育に失敗した。
そういう中で、この詩人ももしかしたら、自ら命を断とうとした日もあったのかもしれません。そういう中で、わたしどもが信仰の喜びを保ち続けるには、どうしたらよいのでしょうか。若い頃は非常に燃えていた、熱心であった、今はダメだ、という人も決して少なくありません。人生は戦いなしにはなかなか勝てないでしょうが、本当は何と戦うべきなのでしょうか。そして、どのように戦うのが正しいのでしょうか。喜びの日も悲しみの日も、雨の日も風の日も、春も夏も冬も、というのが大変難しいのです。それは人間の努力だけでは全く不可能な大事業だ、とその牧師は言っておりました。
ですが、この詩人は、それだからこそ、自分にとっては御言葉が慕わしい。御言葉によりすがることが、わたしの慰めであり、生きる心の支えだ、と謳っているのです。大変心惹かれますのは、七一節の御言葉です。 「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」 またすぐあとの七五節には、 「主よ、あなたの裁きが正しいことをわたしは知っています。わたしを苦しめたのはあなたのまことの故です」 と謳っています。
一番心を打たれますのは、この詩の最後の、一七六節の御言葉です。詩人はこう謳って、この詩全体を結んでいます。 「わたしが小羊のように失われ、迷うとき/どうかあなたの僕を探してください。/あなたの戒めをわたしは決して忘れません」 とても素直に、彼は自分が迷いやすい小羊のような存在だ、と告白しています。だから、迷える羊とならないように、わたしをいつも探し出し、迷路から救い出してください、と祈っています。
そして詩人は、そのような時にこそ、自分が出会った様々な苦しみの中に、主の慈しみの御手を見る、と謳っているのです。「卑しめられたのはわたしに良いことでした」。主はむしろ、彼にそのことを学ばせるために苦しみに遭わせたのであり、神は真実なお方だ。苦しみは、神の深い慈しみのゆえであった、と告白しているのです。ここにこの詩人の深い信仰が息づいているのではないでしょうか。旅路の苦しみは、彼がよりよく、より深く、より正しく神のことを知り、まことの命と幸いを得るためであった、という信仰です。
正しい人が受ける苦しみについて、ヨブ記にもこういう御言葉があります。ヨブ自身の言葉です。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」。苦しみにあったからこそ、耳が開かれ、悟りが与えられるのです。
さて、この詩の中で、わたしはもう一つ、五四節の御言葉に心惹かれました。お読みします。 「この仮の宿にあって、あなたの掟をわたしの歌とします」 とあります。天の故郷を目指すのがこの地上の旅です。そして、主の掟はわたしをそこへ導いてくださる、と謳っています。掟は神の諭し、神の御指示と言い換えてもよいでしょう。
自分が道に迷って困ったとき、明日のお米も買えないほど困ったとき、「こうしたらよいですよ」と教えてくれるのが主の御言葉で、詩人は何度も助けられた、と言うのです。具体的にどういう助言があったかはわかりません。わたしどもが悩んでいるのは、いつも次元が低いことが多いのです。今日は何を食べ、明日は何を飲んで生きようか、といった次元です。ですが、どんなにつまらない、小さな悩みでも、わたしどもが困ったときに祈って神様から与えられる意外な御言葉が、本当の解決となり、助けられる、ということは、よくあることではないでしょうか。
神様からの御助言は、決して次元が高すぎる、ということはないのです。例えばそれは、「意地を張らずに、あなたの兄弟と仲直りをしなさい」という助言であるのかもしれません。祈らない場合には、自分からは絶対に出て来ない答えです。今日は何を食べて命をつなごうか、と悩んでいるのに、まるで関係のないお答です。
ですがそのような時にこそ、わたしどもはあのペトロが主の御言葉に従って、舟の右の方に――魚などいるはずがないと思っていた場所に!彼が夜通し漁をしたのに、一匹も捕れなかった筈なのに!網を下ろしたら舟が沈むほどの大漁であった時のように――、「しかし、お言葉ですから、そうして見ましょう」と言って、半信半疑ででも実行したら、いっぺんにすべてのことが全部解決してしまった、というのが、神様からの諭しであり、助言なのです。
そういうことがありますので、詩人は、自分は人生という「旅の家」で、神様の言葉がわたしの心の「歌」となった、と告白しています。これは、大変味わい深い言い方ではないでしょうか。旅人にとって、歌は慰めであり、孤独を癒す力であり、労苦を和らげ、魂の疲れと渇きをいやすものです。わたしどもは、本当にうれしいことがある時には、思わず歌い出します。また、悲しい時にも、楽器を弾いたら深く慰められます。
わたしどもならせいぜいのところ、「あなたの御言葉はわたしの助けとなりました」とか、「励みとなりました」、と言うところでしょうが、この詩人は、「歌となりました」と言うのです。彼にとりましては、神の御言葉は彼を愛し、彼のことを心配する彼の父親の言葉、また母親の言葉であり、彼を愛してやまない彼の尊敬する友の言葉のようなものです。わたしどもの父親は、時に厳しい言葉をかける場合でも、本当にわが子の人生を思うからこそですね。母親の言葉は、自分の悲しさを誰よりもよく分かってくれる人だからですね。
そして何よりも、聖書の御言葉は、わたしどもを愛し、わたしどものために十字架にお掛かりになって、わたしどもをお救い下さった方のお言葉です。最愛の友、そして、最も尊敬するわたしどもの主なる神様の御言葉です。だからこの詩人は、あなたの御言葉は、わたしの人生という、仮の宿で、わたしの心の「歌」となりました、と言っているのです。
この詩の何よりの大きな特長は、神の戒めの言葉、それは、わたしをお救いになった主御自身のお言葉である、ということです。そして、その主がどこか遠くにおられるのではなく、わたしどものすぐ近く、いや、わたしどもと共におられ、わたしどもの喜びも悲しみもある人生を、共に歩んで下さる、という信仰にあります。だからその御言葉はわたしにとって、何よりも貴重な諭しであり、仰せであり、慰めなのです。
本日は一〇五節を中心にお話しするつもりでしたが、とうとうそれが最後になってしまいました。でも、一言だけコメントをして、わたしの説教を終えたいと思います。もう一度一〇五節の御言葉をお読みします。 「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」 これは、主がこの詩人と一緒に道を歩いている、というイメージで謳っておりますね。「ともし火」というのは、今でいうカンテラです。夜道を歩く時の、足元を照らす灯です。また、暗い夜道の、すぐ前を照らす光でもあります。
でも、有難いのは、その主が共にいてくださることです。だから、その一言一言は、この詩人の心の「歌」なのです。詩人はこの主イエス・キリストにいつも祈り、聖書を通してその御助言を絶えず聴くことによって、一歩一歩、確かな足取りと、生きる喜びと希望をもって歩んでいるのです。もう一度第一節、第二節の御言葉をお読みします。
「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。/いかに幸いなことでしょう/主の定めを守り/心を尽くしてそれを尋ね求める人は」
祈ります。
