継承から切り開かれる命―山の向こうに天を仰ぐ

2026/02/15(日) 受難節前主日礼拝 

ガラテヤ書説教第15回 

「継承から切り開かれる命――山の向こうに天を仰ぐ」

4:21~31

牧師 上田彰

 

*山を仰ぐ、その視線の先に

 

 「われ山に向かいて目を上ぐ」。私どもは礼拝のたびに、詩編の記者がエルサレム神殿を見上げ、旅路を歩むあの巡礼者の視線を思い起こします。

 かつて、エルサレムへの巡礼は一生に一度の、人生の集大成とも言える旅でした。長い年月をかけて蓄えをし、ようやく神殿のそびえる山が地平線に見えてきたとき、人々はどれほどの感無量な思いでその山を見上げたことでしょう。「ああ、ついにここまで来た。私の人生は、この頂で報われる」。

 

 しかし、同時にそこには、ある種の虚脱感や問いも生まれます。「この山を登りきってしまった後、私は何を目標にして生きていけばいいのだろうか」。

 

 人間は誰しも、人生の重要な曲がり角で「山」を見上げます。山とは、自分を支える「拠り所」であり、ここに来れば大丈夫だという「保証」の象徴です。

 今日の聖書は、私どもにこう問いかけます。

 「あなたは、今、何を『山』として仰いでいるのか?」

 

*「律法」――登らねばならない山

 

 パウロは今日の箇所を、「律法の元にいたいと思っている人たちよ」という呼びかけで始めます。ガラテヤの教会には、今なお律法を「山」として仰ぎ、そこを登ることで神の保証を得ようとする人々がいたのです。

 パウロは彼らを説得するために、彼らが愛してやまない「律法(聖書)」そのものを引用します。それが、アブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクの物語です。

 

 パウロによれば、モーセが律法を授かった「シナイ山」とは、私どもが自分の努力で一歩一歩踏みしめて登らねばならない山、すなわち「実績と義務」の象徴です。

 もちろん、山に登ること自体が悪なのではありません。しかし、登ることに必死になるあまり、私どもは「足元」ばかりを見るようになります。霧の中で足元を固め、自分の正しさを一歩ずつ証明しようとする。そのとき、私どもの視界から「空の広がり」が消えてしまいます。

 

 山は地上から積み上げるものですが、私どもが本当に目指すべき「天のエルサレム」は、上から一方的に与えられるものです。

 山を登る信仰から、空を仰ぎ、天を望み見る信仰へ。

 頂に立ったときに気づくのは、山の高さではありません。山を突き抜けて、自分を包み込む「天の広大さ」であり、上から降り注ぐ「光」なのです。

 

*肉鍋精神:待てない不安が作る「奴隷の山」

 

 なぜ、私どもは天を仰ぐことをやめ、再び足元の山を登ろうとしてしまうのでしょうか。それは私どもが、神の約束を「待てない」からです。

 

 アブラハムとサラの歩みを見てください。彼らは「あなたの子孫は星の数になる」という約束を受けます。

 その後すぐに彼らの住んでいるところが飢饉になり、エジプトに移り住みました。そのとき、サラが余りに美しいためにエジプトの王が見初めて、自分の所に来てほしいとアブラハムに申し出ます。アブラハムは、妻の美しさゆえに自分の命が狙われることを恐れて予め、サラは自分の妹だと説明していたのです。そしてエジプト王は、アブラハムに多くの財産を与え、彼の「妹」を自分の部屋に呼び寄せます。

 ところが王と宮廷は、その直後にひどい流行病に苦しめられます。そこで気がつくのです。自分は何か不法なことをしているのではないか。そこでアブラハムに尋ねたところ、実はサラは自分の妻だと正直に打ち明けるのです。すると王は、最初からそう言ってほしかった、すぐにここを出てくれと言うのです。町の外れでサラを待つアブラハム。サラは多くの財産を携えて夫の元に戻ります。このときのアブラハムの心境を想像すると一冊の本が書けそうです。

 神様の約束の一つである、祝福のしるしは確かに多くの財産という形で与えられました。しかしアブラハムとサラは、その祝福のしるしをただ喜んで受け取るわけにはいかない立場にあります。

 アブラハムは、自分の人間的知恵によってサラを傷つけてしまった。その代償として受け取った財産。今度はその財産の分配を巡って、同行していた甥のロトとの間の関係もギクシャクし、ロトとは別の場所に住まざるを得なくなります。

 

 神様の約束の一つである、祝福のしるしは確かに多くの財産という形で与えられました。しかしアブラハムとサラは、その祝福のしるしをただ喜んで受け取るわけにはいかない立場にあります。

 アブラハムは、自分の人間的知恵によってサラを傷つけてしまった。その代償として受け取った財産。今度はその財産の分配を巡って、同行していた甥のロトとの間の関係もギクシャクし、ロトとは別の場所に住まざるを得なくなります。じれったくなって、神様がご計画を明らかにしてくださる時を待ちきれない思いになってしまい、結果的に自分や周りの人々を不幸の分断へと追いやってしまう。

 

 そのようにして二人だけになってしまったアブラハムとサラ。今度はサラが、神の時を待ちきれなくなってしまいます。そして、こう夫に提案するのです。女奴隷ハガルを使って跡継ぎを作ろう、と。「こうすれば、法律上は私の子になるはずだ」というのです。

 

 彼らは不信仰だったわけではありません。むしろ神の約束を「自分の知恵で、なんとか実現させよう」と熱心だったのです。しかし、その「待てない熱心さ」によって彼らは不幸に陥ります。ハガルにはイシュマエルが与えられたことをきっかけにして家庭に深い亀裂が生まれます。結果としてハガルとイシュマエルを追放するという悲劇に至ります。

 

 この「待てない心」を表現する聖書の言い回しを探してみました。奴隷根性、あるいは「肉鍋精神」。

 出エジプトの道のりでのことです。空腹に耐えかねたイスラエルの民は言うのです。「エジプトにいたときには、肉の煮えた鍋のそばに座っていられたのに」。自由の荒野で神を待つより、奴隷であっても腹が満たされるエジプトの方がマシだ。

 

 私どもも、自由という「空」を仰ぐ不安に耐えられなくなると、目に見える「ルール」や「実績」という肉鍋、すなわち律法という名のシナイ山へと逆戻りしたくなるのです。

 

*逆転の福音:嫡子への執着を追い出す

 

 ここで、パウロは衝撃的な「逆転」を提示します。

 ガラテヤの人々は、もともと律法を持たない異邦人でした。言わば「外側の人」、肉の血筋から言えば「ハガルの子(イシュマエル)」のような存在でした。しかしパウロのガラテヤ訪問をきっかけに福音に目覚め、割礼によらない、ただキリストを信じることだけによって得られる洗礼を受け、自由の人イサク、いわば内側の人になるのです。

 ところが、彼らは福音を聞いて自由になったのに、キリスト教に対する弾圧をきっかけに、イサクは律法に定められた正しい跡継ぎなのだ、やはり律法は正しい、といって、ユダヤ人の慣習をまた守り始めるのです。

 

 そんな彼らに対してパウロは言います。「イサク(嫡子)という身分に執着し、自力でその資格を証明しようとすること自体が、あなた方を再び奴隷にしているのだ」。

 

 これは、「後のものは先に、先のものは後に」というイエス様の言葉を思い起こす、福音による逆転です。

 自分が「正しい嫡子」であろうとして山を登り始めた瞬間、サラの子であるはずの者が、ハガルの子(奴隷)へと転落します。

 逆に、自分は「奴隷の子(イシュマエル)」に過ぎないと認め、ただ上からの一方的な約束にすがるとき、私どもは「自由な子」として空へ羽ばたくことができるのです。

 

 

 そこでパウロはアブラハムとサラの言葉を借りて、こう言うのです。「追い出せ。正当な財産の継承者だけが残るべきである」、と。その言葉の意味は、古い考えに舞い戻ってしまった者たちを教会から追い出せという意味ではありません。ハガルとイシュマエルを排斥するという単純な話ではなく、ガラテヤ教会の信仰者が有していた、内なる奴隷精神との決別です。追い出すべきは「不安に駆られる心」「自力救済を求める心」あるいは「実績信仰」、そして「肉鍋の記憶」なのです。

 

 このアブラハム達の、いえパウロによる「追い出せ」という命令は、私どもにもまた向けられているのではないでしょうか。私どもの内側にある、「嫡子としてのプライド」や「正当性の主張」、「実績による安心」という名の奴隷根性にもまた、パウロの「追い出せ」という言葉は向けられています。

 裸の王様というよく知られた寓話を思い起こします。皆が裸の王様を見て、立派な服をお召しになっていると褒める。その中でただ一人、王様は裸だと指摘するのは幼い子どもでした。しかし現実の社会において、皆がこぞって裸の王様に立派な服をお召しになってと褒める側に回ってしまう。それどころか、自分も透明の服に着替えて、私も立派な服を着てみましたと言ってしまうことさえ起こる。これが律法主義の安心です。私どもが「自由」であるために本当に必要なのは、自分を「正当な者」に見せようとする不思議な服を脱ぎ捨てる勇気なのです。

 

*兄弟たちよ:共に天を仰ぐ

 

 ここで、エジプトでの肉鍋時代を懐かしんでお腹を空かせてシナイ砂漠をさまよい、モーセに対して文句を言う者たちに対し、何も言えないでいるモーセに代わって、主なる神はこうおっしゃいます。「あなたたちのために天からパンを降らせる」。ここで神様は、「彼らのために」とは言いません。モーセを含む「あなたたちには私からのパンが必要だ」といって、肉鍋精神を自ら追い出すことが出来ないでいるモーセをも含む形で祝福のパンを授けてくださいます。そこで気づかされます。恵みは、成熟してから与えられるのではない、ということに。人々が不満を口にし、不安に駆り立てられる只中で与えられるのが恵みです。

 恵みとは、山を登りきった報酬ではなく、山を登れずに座り込んでいる私どもの上に、空から降ってくるマナなのです。

 

 「律法の下にいたい人たちよ」。ある意味で突き放した呼びかけで始まった今日の箇所ですが、結びの言葉では次のように呼びかけ直しています。「兄弟たちよ」。

 

 これは、福音の論理が示す、美しい「呼びかけ直し」ではないでしょうか。

 地上の山を登り、誰がより高いかを競っているうちは、私どもは互いに「敵」であり「比較対象」でしかありません。

 しかし、山を仰ぐのをやめ、共に天のエルサレムを仰ぐとき、私どもは初めて「兄弟」となります。

 自分の正しさを証明する必要がなくなった者たちが、同じ空の下で、同じマナを食べて歩む。そこには、もはや奴隷も自由人もありません。

 

 「われ山に向かいて目を上ぐ」。

 私どもの視線は、今、山の向こうの天へと向けられています。

 肉鍋への執着を、主は追い出してくださいます。

 そして、自由な子として、今日、私どもに「命のパン」を分け与えてくださるのです。

 

 兄弟たちよ、共にこの自由を歩みましょう。この呼びかけを私どももまた受け入れたいと思います。