神、我らと共に

2026年1月18日伊東教会説教


「神、我らと共に」(詩46・1~12)

上田光正



 ただ今ご一緒にお読みしました詩編46編は、宗教改革者のマルティン・ルターが大変愛した詩編です。彼は宗教改革という大変困難な大事業を進めるに当たって、何度も人々の非難や攻撃に遭い、命までも狙われました。難関に遭うたびに打ちのめされ、立ち上がれなくなることもたびたびでした。そのようなときに、友人のメランヒトンと一緒にこの詩編を歌ってはとても慰められ、力づけられた、と述懐しています。そしてこの詩をすっかり暗唱してしまったそうです。ですからこれは、「ルターの詩編」、とさえ呼ばれます。先ほどご一緒に歌った讃美歌286番は、ルターがこの詩を基に作った讃美歌ではなくて(彼が作ったのは267番の方です)、アイザック・ウォッツという有名な讃美歌作家のものですが、やはりこの詩から作られています。

わたしは今年は、時々皆さまとご一緒に詩編を味わいながら、信仰とは何かをご一緒に学びたいと思っています。本日はその第一回目です。

さて、この詩ですが、詩編は優れた詩が皆そうでありますように、最初の言葉が、その詩のいわゆる「うたごころ」をあらわすことが多いのです。作者が一番謳いたいこと、読者に一番訴えたいことを表わしています。もう一度お読みします。

  「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。

  苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる」

と謳っています。「主の助けはすぐ近くにある」、と謳っているのです。この詩の背景には、何か大地震のような、あるいは、敵の大群が攻めて来て自分たちを滅ぼす、といった、大変な出来事があったようです。その時に主によって救われた体験が元になっています。イスラエルという国は、エジプトやアッシリヤという幾つもの大国に囲まれた小国です。4千年の歴史の間、しょっちゅう周りの国からの攻撃を受けて、滅ぼされる寸前まで来ています。それでも4千年も生き延びてきたのは、この神の「いと近き助け」があったからです。その信仰が歌われています。どのような時でも、「わたしたちは決して恐れない」。おろおろしたり、頭が真っ白になり、腰が抜けて立てなくなったりはしない。たとい山々が揺らいで海の真中に移るとも、我らは恐れない。神こそが、われらの避け所、われらの砦だ、と謳っています。

揺れ動く世界の中で、あるいは、日本のような自然の脅威と隣り合わせの中で、人間はまことに小さな存在、か弱く、はかない存在です。先週月曜日のNHKの番組でやっていましたが、日本は「地震大国」と呼ばれます。世界中でマグニチュード7以上の大地震の20%は、日本列島で起こっているそうです。地震があれば津波もあります。「国難」と言えるような大災害が百年に一度は訪れる国です。ですから、日本人には「不安」を感ずる特別の遺伝子を持った人が80%もいると、科学者は説明してくれます。皆さま方の中にも、何とはなしに不安を感じやすく、胸騒ぎが起こりやすい方もおられるかもしれません。

そのようなわたしどもにとって、わたしは、わたしどもの信仰の大先輩であるルターがこの詩を読んでは深く慰められ、力づけられた、と証ししていることは、大変参考になるのではないでしょうか。わたしどもがもし、神はどんな時でもわたしのすぐ近くにいます。わたしを愛し、救ってくださる、という確信を持つことが出来たならば、どれほど慰められ、人生を強く生きることが出来ることでしょうか。この詩を読んで、詩人が感じたそのような神の近さを自分も感じることが出来たなら、これ以上に嬉しいことはないと思うのです。

* * *

さて、この詩を味わう上で、最初に注目すべきは第2節であると申しました。

それはその通りなのですが、実は、二番目に重要な箇所があります。それはリフレイン(繰り返し)がされている箇所です。この詩では、8節と12節で、同じ言葉が二度繰り返されておりますね。お読みしますと、

  「万軍の主はわたしたちと共にいます。

  ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」

 同じ言葉が12節にもあります。このように繰り返されている言葉は、この詩を作った作者の心にあった、確信や信念のようなものです。いちばん作者の心の奥底に、静かに流れていた思いが、このリフレインの言葉で言い表されています。そしてそれは、同時に、同じ信仰を持つ者ならだれでもが共有できる信仰でもあるのです。なぜなら、それは、旧約聖書で言えば、2000年の間、すべての国民が共有し、貴重な体験が積み重ねられた、言わばあらゆる患難や試練にも耐え抜いてきた信仰です。それが、ここにあります、「万軍の主はわたしたちと共にいます」「神、我らと共にいます」の信仰です。つまり、作者はこう言いたいのです。わたしたちは苦難に遭った時、神がすぐ近くにおられて助けて下さることを幾度も知ってきた。出エジプトの時もそうだったし、バビロニヤ捕囚の時もそうであった。だからあなたも今、怖くて目をつむってしまっているが、目を開けて見なさい、あなたを助けようとしておられる神は《必ずそこに》いるではないか」、と言っています。「たとい今は暗闇しか見えないとしても、神は夜明けとともに、わたしたちを助けて下さる」(6節)、と謳っているのです。これが先程のリフレインの言葉に繋がります。「なぜなら、万軍の主は我らと共にいますからだ」。「ヤコブの神は本当にわたしたちの砦の塔となってくださるからだ」、となります。このリフレインの言葉は、このような体験の積み重ねから、イスラエル民族の共有となった固い確信、信念のような言葉となり、歌となったのです。

 昔は、詩編は神殿の礼拝で、聖歌隊などによって歌われました。皆さんの聖書にも、時々「セラ」という言葉が書いてありますね。この詩編で申しますと、4節の下、8節の下、そして12節の下にあります。これは、「お休みの記号」です。ここで会衆はいったん歌うことをお休みして、竪琴か笛のような楽器の演奏が入ったのではないか、と考えられています。ですからリフレインされた繰り返しの言葉は、みんなが知っている、重要な言葉なのです。どうやらこの詩編は、元々は4節のあとにも、このリフレインの言葉が入っていたようなのです。ですからこの詩は、2,3,4節と、5,6,7節、そして9,10,11節と、三つに分かれています。

* * *

わたしはこのリフレインの言葉の中で、神のことを「ヤコブの神」と呼んでいる呼び方に、是非とも皆さんに御注目いただきたいと思います。一般的な「神様」とか「仏さま」ではありません。神さまならだれでもいい、というのではないのです。

聖書はなぜ、繰り返し、「万軍の主」とか、「イスラエルの神」とか、「ヤコブの神」というような呼び方をするのでしょうか。単純に、「神」とか「主」で良いのではないでしょうか。しかし、神は御存じです。なぜわたしどもが、ただ「神様」というだけでは全く不十分であるのか、ということを。なぜなら、わたしども人間は、すぐに唯一のまことの神を捨てて、自分の都合の良い神さまを沢山作り出し、「この自分を救え」と言います。それらの神々というのは、皆人間が作った「偶像」です。木や石でできていて、何の役にも立ちません。幾ら、「神様、助けてください!」と叫んでみても、偶像は何もできません。たといそれが金・銀・銅で作った何百万円もする神様であっても、それらは人に持ち運んでもらわなければ、自分では一センチも歩くことができないのです。本当の神様ではありません。

聖書はわざわざ、「ヤコブの神」とか「アブラハムの神」「イサクの神」という言い方をします。それは、神様がわたしどもを選んで、わたしどもとは特別な、「契約関係」――固い御約束の関係――を結んで下さった神だからです。ですから聖書には、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民が、どこにあるだろうか」(申4・7)と書かれています。また、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、……主は力ある御手をもってあなたたちを導き出され、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」(申7・7~8)と書いてあります。あなたたちは卑しい奴隷であった。貧弱な民であった。ただ神の純粋なあなたへの愛――ここだけ、愛情を込めて単数になっていますね――あなたへの愛のゆえに、あなたたちを選んだ、と書いてあります。この、特別に選び、契約を結んでくださったという関係が、ここでは無限に大切であると思うのです。この神はもちろん、生けるまことの神で、全世界の森羅万象をお造りになり、今も全世界を支配しておられる創造者なる神です。そのことも大切ですが、何よりも大切なことは、何の幸いか、この弱いわたしを選んでくださった契約の神であり、アブラハム、イサク、ヤコブの神にして、イエス・キリストの父なる神でられある、ということです。

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例えば、聖書には何度も、「わたしの名前を呼びなさい」という御言葉がありますね。一番有名な御言葉は、詩編50編15節の「悩みの日に我を呼べ、我なんぢを助けん/しかしてなんぢ、我をあがむべし」とあります。わたしの名前を呼びなさい、あなたを助ける、と。その神の名前とは、イエス・キリストが「父よ」とお呼びした、イエス・キリストの父にして、わたしどもの父にもなってくださった聖書の神です。神の名を呼ぶとは、神に祈ることです。その神の御名を呼ばなければ、別の神の名を呼んでも、何の助けも来ないのです。

神はヤコブを、「ヤコブよ」と、ちゃんとわたしどもを名前で呼んでくださいます。この神は、わたしどもと特別の関係にあります。先程、「契約関係」と申しましたが、その関係は、十字架の血によって結ばれた関係です。この神は、イスラエルを子羊の血で贖われました。また、わたしどもの救いのために、御独り子、イエス・キリストによって、十字架の血を流して救ってくださいました。それほどにわたしどもを愛し、わたしどもを「わが子よ」と呼んでくださいます。わたしどもも、神を「父よ」とお呼びしてよいのです。そのような神は、他にはいません。この神はちゃんとわたしども一人ひとりの名前をご存じであり、その名前を、「命の書」(黙13・8)に書いておられます。この「命の書」を神はいつも手許に持って、わたしども一人ひとりのことを、心にかけておられるのです。わたしどもを愛し、わたしどもの毎日の心配事まで、すべてをご存じなのです。

ですから主イエスは、死んで甦り、天にお帰りになる時に、わたしども一人ひとりの肩の上に御手を置かれて、「あなたは悩みの日に、必ずわたしの名を呼びなさい。わたしはすぐに来て、あなたを助ける」と固く約束して、父なる神の御許にお帰りになられたのです。

人間には、だれでも「悩みの日」と呼ばれる日があります。人生の生・老・病・死、すべては悩みです。わたしどもの家庭が思うようにはうまく行かないという日。わたしどもの子供が間違った道を歩んでいることを知った日。わたしどもの体が次第に弱くなって心細くなる日。すべてをご存じです。主イエスは、「わたしの名前を呼びなさい」、と言ってくださるのです。神はただ黙って助けて下さるのではありません。わたしどもが御自分の名前を呼ぶことをとても喜んでくださるのです。その時わたしどもは、一々自分の困った事情を説明する必要などありません。何か上品なお祈りをしなければならないのでもありません。ただ、「主よ、助けて下さい」と真心から叫べば良いのです。主はすべてをご存じだからです。ただ、神の名を呼ぶことだけが、無限に重要です。なぜなら、この神を呼べば、呼ばないでは絶対に起こらない神の助けが、起こるからです。

* * *

さて、以上でわたしは、この詩人が訴えようとしている、詩人の心の最も心の底に流れている、静かな川のような流れが何であったかを御説明しました。それはわたしども一人ひとりと神との間にある、主の純粋な愛と憐れみに拠って結ばれた、十字架の血による「契約関係」にほかなりません。そしてわたしどもも、この御愛を信じて受け入れる、ということの中で、契約の中に入れられました。このことが、この詩編46編の基本を流れているものです。

次に、そのことに基づいてこの美しい詩について、とても全部をご説明することはできませんが、皆さまがこの詩を御自分で味わい、本当に好きになっていただくためのポイントを御説明します。それはきっと、皆さまの信仰のお役に立つと思うからです。

それは、5節です。初めにお読みします。

  「大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に」

信仰において何よりも大切なことは、やはり何と申しましても、先ほどご説明しました通り、神を「父よ」と本当にお呼びすることでありましょう。そうすれば、日に日に主の助けや導きを御経験なさり、それと共に父なる神とその御子、イエス・イエスがより身近なものとなり、感謝や信仰が深まって来るでありましょう。詩編は、そういう人々の体験がありのままにつづられたものですから、是非お勧めいたします。

ところで5節の御言葉についてですが、一言申しますと、エルサレムの都は山の上にありますから、「大河」というものはありません。「シロアの水」と呼ばれる細い、人の手で作った水道網があっただけです。これでエルサレムの都が敵に包囲された時でも、何か月も籠城できるように非常に高い技術で作られていたそうです。ですから口語訳では単純に、「一つの川がある。/その流れは神の都を喜ばせる」と訳されています。

また、この聖句はそういう理由で、昔から霊的な解釈が許されてきました。それは、エゼキエル書47章に書いてあるのですが、「命の水」、すなわち、「神の御言葉」という水が都のあちこちを流れていて、その流れは神の都に喜びを与える、という解釈が許されてきました。しかもそれは、都の中だけではありません。エゼキエル書によりますと、終わりの日になると、エルサレムの神殿の東の門から神の命の水が敷居を越えて流れ出て、全世界を潤す、と書かれています(エゼキエル47・1以下、黙示録22・1以下)。その水は、だんだん水かさを増してゆくのです。初めはくるぶし程度の深さですが、やがて膝、そして腰にまできて、やがて大きな川となって、最後に海に流れ入ります。しかもその水は、とても清くて、汚れた池や沼も、そして海までも清くし、この水の中では魚をはじめ、すべての生き物が活き活きと生き返る。また、川の両岸では、あらゆる果樹がまるでエデンの園のように枝もたわわに実っている、と書かれています。これは終わりの日に、神の御言葉によってすべてのものが生き返る、という預言です。

それで、人々はこの聖句から次のような解釈をすることが出来ました。それは、神の御言葉という「命の水」が、聖書を通し、説教を通してわたしどもの中で、まるで命の水のように心の中にしみとおり、やがて体全体にも流れて、わたしどもに必ずや忍耐と希望と平安を与えてくださる、という解釈です。「一本の川がある。その流れは神の都を喜ばせる。/神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる」(最後の言葉は希望を表してくれますね。神は夜明けとともに、助けを与えてくださる)。

このような解釈は、イスラエルの2000年の歴史の間に積み重ねられた信仰の積み重ねのゆえに、許されるのではないでしょうか。更にその上に、わたしども教会の2000年の歴史も積み重ねられます。この4000年の歴史は、神の「誠」、神がイスラエルと教会に対して、常に真実を尽くされれた、という歴史です。それだから、「神はわたしどもと共にいます」のです。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。/苦難の時、必ずそこにいて助けに来てくださる」のです。

わたしどもの心の中に、主を信ずる一本の御言葉の水があるなら、どのような時でも、驚き慌てたり、躓いて倒れたりすることはありません。なぜなら、神が共におられるからです。

聖書の神は、「御言葉を語る神」です。御言葉によって、まことを尽くされる神です。それゆえイスラエルと教会は、この神に対して「アーメン」と答えて来ました。「アーメン」という御言葉の意味は、ご存知の方もおられるかもしれませんが、三つあります。最初の意味は「真理」とか「真実」、あるいは「まこと、誠実」です。「アーメン」は、「本当です」という意味です。そして第二の意味が、「信仰」とか「信頼」です。わたしどもは、神の言葉が真理であり、神はいつも御言葉を固く約束して下さる「真実なお方」だ。だから、「信頼」することができる、という意味です。そして、「信仰」があると、「立つ」ことが出来ます。「堅く立つ」が第三の意味です。自分が心から信ずる者がある。その方が命にかけてもわたしを守ってくださるから、いつもきちんと立つことが出来る。正しく生きることが出来る、という信仰が与えられているのです。

祈ります。