2025/12/28伊東教会礼拝説教
「この目で今あなたの救いを見た」
(ルカ2・25~32)
上田光正
ただ今ご一緒にお読みしました、29節から32節までは、詩の形になっております。これは普通、「シメオンの讃歌」と呼ばれる美しい詩です。実はこれは、主の御降誕にちなんで、ルカによる福音書で4つ謳われた讃美歌の最後のものです。最初がルカ伝1章47節以下の「マリアの讃歌」です。2番目が58節以下の「ザカリアの讃歌」で、3番目が2章14節の「天使の歌」、「いと高きところには、神に栄光あれ(グロリア・イン・エクセルシス・デオー)」という讃美歌です(『讃美歌』106番参照)。そして最後のものが、本日の「シメオンの讃歌」です。いずれもクリスマスに歌われるものです。その謳っている内容が、いずれも信仰の言葉として、とても美しくて素晴らしいからにほかなりません。それで本日は、この「シメオンの讃歌」から、ご一緒にわたしどもへの主からのお言葉を聴きしましょう。
早速ですが、その最初に、
「主よ、今こそあなたは、
この僕を安らかに去らせてくださいます」
と謳っています。
安らかに去る。「去る」とは、「死ぬ」、ということです。「安らかに死ねる」。あるいはそれ以上に、「満たされて死ぬ」、と言っています。とても不思議な言葉ですね。イザヤ書57章に、こういう御言葉があります。「神に従ったあの人は失われたが/だれひとり心にかけなかった。/神の慈しみに生きる人々が取り去られても/気づく者はない。神に従ったあの人は、さいなまれて取り去られた。/しかし、平和が訪れる。/真実に歩む人は横たわって憩う」(イザヤ57・1~2)、と。シメオンは、そういう人であったように思われます。彼は主の御降誕を待ちわびていました。そして今、自分の人生の真の目的が満たされて、心からの充足感、達成感に満たされて、死ぬことができる。例えて言えば、見張りが夜通し寝ずの番をしていたのが、東の空が白み始めて無事任務が終わった時のように、深い開放感と安ど感、いや、それ以上に、はるかに大きな充実感や達成感をもって、「あなたは今、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」、と謳っています。「なぜなら、今、あなたはお言葉通りに、救い主を生まれさせてくださいました。わたしのこの目が、幾とせも待ちわびていた、あなたの救いを見たからです」、と謳っているのです。
シメオンはいったい、どういう気持ちでいるのでしょうか。
少し前からお話ししましょう。時は今から2千年前、ちょうど主イエスがお生まれになって、母マリアがきよめのための40日の身ごもりを終えた時期です。マリアと夫のヨセフは、律法の定めの通り、まだ生まれたばかりの初子イエスを抱いて、神殿に初もうでに来ました。他方、エルサレムの神殿近くに、シメオンという、信仰の篤い老人が住んでいました。恐らく80歳はもうとうに過ぎていたでありましょう。
彼は神様の御霊に満たされた人です。そして、主からお告げを受けていました。「シメオンよ、お前は願い通り、救い主に遭うまでは、決して死ぬことはない」、と。つまり、生きている間に必ず救い主にお会いできる、というお告げです。
その頃、イスラエルの人々は皆、神様が聖書の中で御約束なさった、全世界の救い主がお生まれになるのは今か、今か、と待ちわびていましたから、シメオンにとっても、これ以上に嬉しいお告げはありません。彼はそのお約束を信じ、もう幾とせもの間、毎日のように、神殿に通い続けていたのです。
そしてとうとう、その日がやって来ました。
朝の、恐らく時刻は今頃でありましょう。シメオンがいつもの通り神殿に行くと、聖霊の導きがあり、何と、ちょうど同じ時刻に、別の入り口から、主イエスの御両親が入って来たのです。マリアの腕には、幼子イエスが抱かれています。シメオンは御霊に示されて、人ごみの中でも、その子が約束の子だと、すぐに分かりました。早速近寄り、マリアからイエスを受け取ると、しっかりと抱きしめ、そして、天を仰いで、歌ったのです。
「主よ、今こそあなたは、
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしの目が、今あなたの救いを見たからです」、と。
シメオンは、自分は満たされて死ぬことができる、と謳っています。なぜなら、今自分は、主の救を見たからだ、と謳っています。
シメオンにとって、主の救いを見たとは、いったい、どういう意味なのでしょうか。なぜ彼は、自分は今、満たされて死ぬことができる、と言っているのでしょうか。
* * *
実は、シメオンについては、大変注意すべき御言葉が書いてあるのです。25節の御言葉です。「この人は正しい人で信仰が厚く、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」、と書いてあります。「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」、という御言葉に、是非御注目下さい。それは、イスラエルの歴史が悲しみの歴史であることを、よく知っていた人の言葉です。しかし、その中から、救い主が生まれるのを待っていた。毎日毎日が、その日であった、と言うのです。
皆さんは、イスラエルという民族は、非常に深い悲しみを知っている民族だということを、ご存じでしょうか。それは、イスラエルの歴史が失敗と挫折の連続だったからです。御承知のように、イスラエルは神様から特別に選ばれた民で、特別の使命を与えられていました。それはとても光栄ある、特別の使命です。自分たちの先祖アブラハムに与えられた使命で、全世界の祝福のために生きる、という使命です。創世記の12章に書いてありますね。皆さんは、文先生の説教を通して、創世記を3年間かけて学ばれましたから、大体のことはお分かりと思います。こういうお約束です。「アブラハムよ、わたしはあなたを選び、あなたを祝福する。……あなたは祝福の源となりなさい。/……地上に生きている人々は皆、あなたによって祝福されるのです」(創世記12・3参照)。ですから、イスラエルの使命は、自分の民族の繁栄や幸福のために生きることを捨てて、全人類の平和と幸福のために生きるために、選ばれたのです。もっと正確に言えば、神の国のために選ばれた、と言った方が正確です。それは非常に素晴らしい生き方です。
人類は、歴史の初めから、神に背いて罪を犯しました。それによって死がこの世に入りました。誰もが皆自分の幸福のことしか考えなくなって、人類はお互いに憎み合い、殺し合うようになりました。イスラエルの使命とは、その全人類に、「あなたにも、積と死からの救いがあるのだよ」、と告げ知らせる使命です。神様が最初にこの世界をお造りになったとき、この世界は「はなはだ善い」(創世記1・31参照)とおっしゃった、と書いてあります。あのお言葉のように、再びこの世界が神様からの祝福を頂ける世界になるように、神の救が必ず来る。だから、神に帰りなさい、と語ることが、イスラエルの使命だったのです。それは本来は、非常に光栄ある、尊い使命だったのです。
そして、それはまた、わたしどもキリスト者の使命でもあります。わたしどもも、自分の小さな幸福や満足のためよりも、自分の周囲の人々や、もっと言えば、人類が神の祝福を受けることを願っています。自分の幸福はその中に含まれている、と考えます。ですから、ここでシメオンと自分たちとを重ね合わせて考えることが出来ます。
ところが、現実のイスラエルの歴史は、どうだったのでしょうか。彼らは、今日は詳しくはお話しできませんが、一口で言うと、神に従わず、自分たちで神の歴史を実現で来ると考え、実現しようとした歴史です。そして結果から見れば、神に従わなかったのですから、当然普通の人々と同じように、自己実現のための、罪と失敗の歴史になりました。今でもイスラエルは、周囲の国と醜い紛争を繰り返していますね。イスラエルのそれまでの2千年の歴史は、周りからはいつもいじめられ、自分たちは自分たちで、少しも使命を果たせない、失敗ばかりの、深い悲しみと失敗の連続だったのです。そしてそれはある意味では、わたしどもとは無関係なのではなく、わたしどもの人生やわたしどもの教会も、ある意味ではいつも同じ危険性がある、と考えなければならないのではないでしょうか。
しかし、その中で、ただ一つ、神様からの希望がありました。それは、自分たちはダメだったが、自分たちの民族の中から、世界の救い主、メシアが生まれる、というお約束です。それが、旧約聖書が言おうとしていることなのです。だから、シメオンのような信仰の人は、その神様の御約束が必ず実現すると信じて待っていたのです。それが彼らのただひとつの生きる希望であり、力でした。
* * *
しかし、その御約束を信じて待つということは、それはそれなりに、決して生易しいことではありません。今日明日にも実現するような簡単なことではありませんから、当然忍耐も必要ですし、時にはむなしい思いもします。「主よ、いつまで待てばよいのですか」、という祈りが詩編には沢山あります。また、人々のあざけりや軽蔑の眼差しもあったでありましょう。詩編42編には、イスラエルが戦いに敗れてバビロンに捕囚となったときに謳われたとされますが、こう謳っています。「人々がひねもすわたしに向かって、『お前の神はどこにいるのか』と言い続ける間は、/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった」(詩42・3)、と。「お前は、『救い主が生まれる。そうしたら、わたしたちもあなたたちも、全世界人々が救われる』と言うが、そんなお前の神様はどこにいるのか」と言われると、悲しくて悲しくて涙が止まらなかった、と言うのです。
そのようにして、待つこと幾とせだったでしょうか。ですから、この時のシメオンの喜びは、人生の深い悲しみを知っている人の喜びです。そしてその内容は、「神は真実であられる」ということです。神は必ず、お言葉通り、実行なさり、わたしどもの信頼を裏切るようなことはない。今、わたしのこの両の目がそのことを見たので、わたしは深い感謝と喜びをもって、安らかに死ぬことが出来る、と謳っているのです。
* * *
ところで、シメオンは今、自分は主の救いを見た、と言っています。この《主の救い》とは、いったい何なのでしょうか。もちろん、シメオンが喜んでいる決定的な理由は、主が決して裏切ることはなかった、ということです。お言葉を真実に実行して、神の御子が本当にこの地上にお生まれ下さった、ということです。しかし、その救いの内容は、何だったのでしょうか。実際、シメオンが今見ているものは、ただの赤子です。彼による全世界の救いはまだ実現していません。どうして、わたしは今、救いを見た、と言えるのでしょうか。
わたしどもとて同じです。確かにクリスチャン人口は、あれから2千年経って、世界の3分の1になったとはいえ、まだまだ世界に戦争も不幸も止みません。そういうことを考えますと、この聖句の説明としては、まだ不十分です。しかしわたしどもは、人間がする失敗と罪の歴史の方ばかりを見ていてはいけないのです。シメオンはこの時、まだゼロ歳の幼子を見て、自分は神の救いを見た、と言っています。幼子であることは、神によってこれから満たされる、無限の可能性を秘めています。人間によって満たされるのではありません。神によって満たされるから、わたしどもの思いをはるかに越えてすばらしいはずです。ですからわたしどもも、シメオンと共に、この幼子自身を、神の救いそのものとして、考える必要があるのです。
神がなさることに、自分も一体化するのです。この幼子に、すべての望みを托するのです。この幼子の救いと、自分の人生とを一体化することだ、と申してもよいかもしれません。
実は、イスラエルの本来の使命がそうでした。神が救いである。人間が主体ではない。だから、神に立ち帰れ、という福音を告げることであった。しかし、イスラエルはそうしなかった。だから悲しみと失敗の歴史だった。今、シメオンは、そうではなくて、この幼子の中に、完全な救いの実現がある。人々が神に立ち返る日が、彼の目には見えるのです。そのように、固く信じた。だから、安心して自分の死を迎えることが出来る、と言っているのです。
* * *
その救いの内容が、31節と32節に書いてあります。
「これは万民のために整えてくださった救いで、
異邦人を照らす啓示の光、
あなたの民イスラエルの誉です」
とあります。
シメオンは、全世界の救いを見た、と言っています。今、自分の胸の中に抱きしめることが許されているのが、そのお方だ。これが、主が万民のために、すなわち、全人類の救いのためにお供えくださったお方だ。
「これは万民のために整えてくださった(神の)救い」とは、神が何千年も昔から、いや、それどころか、わたしどもが存在するよりも前、天地創造よりも前の、永遠の昔から御計画し、宇宙の138億年の歴史を通してご準備くださった救いです。エフェソの信徒への手紙1章4節に、こういう御言葉があります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」とあります。これは、わたしどもの救いの御計画は、天地創造よりも前に、神様の御心の中にあった、と述べています。更にその少し後の7節には、「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるのです」とあります。この7節の御言葉は、神の子イエス・キリストの十字架による救いが、既に天地が創られる前から、神様の御心の中では決意されていて、その決意に基づいて、神は天地万物と全人類をお造りになった、という意味です。だから、人間が罪を犯すことも、すでに織り込み済みの御計画です。今彼が胸に抱く幼子イエスの中に、主イエスの御生涯は、この時のシメオンにはまだ見えていませんでしたが、わたしどもはよく承知しています。それは文字通り、十字架によって全人類の罪をあがなうという救いでした。すべての人の生きる悲しみ、失敗、そして虚しさ。そういう、成就しなかった人生を、完成しなかった人生を、主は癒し、救い、深く慰めてくださいます。だからそれは、「万民のために整えられた救い」だ、と言っているのです。あの人の救も、この人の救もその中にあるのです。
わたしどもはそのことを確信いたしましょう。そして、もう2千年もたっているのに、まだ世界の救いは成就していない、ということに目を受けるだけでなく、それももちろん大事なことですが、それだけでなく、主が必ず人類の罪に勝利し、最初の御計画通り、神の国が来る、ということを、確信致しましょう。そのことが、とても大切であると思うのです。
* * *
そこで最後に、32節の最後の御言葉に注目して、わたしの本日の説教を締めくくりたい、と思います。そこには、
「(この幼子は)あなたの民イスラエルの誉です」
とあります。
シメオンは、神の福音を宣べ伝えるわたしどもの労宇は決して無駄ではない、と言っているのです。確かに、イスラエルの歴史も苦難の連続でした。わたしどもも、教会を建て、御国のために働く労苦があります。
イエスを待ち望んだシメオンの人生は、最後に十分な慰めと喜びを得ました。わたしどもがしていることも、絶えず過ちや失敗はあるでしょう。しかし、それ以上に大きな、主イエスの赦しと癒しがあり、大きな希望が与えられます。そして主は、わたしどもがこの地上で力不足でできなかったことや、何かの理由で失敗してしまったことを、必ずや修復し、やり遂げて下さるのです。わたしどもの人生は皆未完成ですが、主が完全なものにして下さるのです。そして、聖書の福音は、わたしどもは、最後には死んで墓に入れられ、そのまま腐り果ててしまうのではない。キリストの恵みにより、天の御国の民とされる。その時には、まことに大きな慰めと喜びを与えられる、と教えています。その時には、この地上での悲しみは慰められ、喜びと讃美に変わります。主御自身が身をかがめて、わたしどもの目の涙をぬぐってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆きも労苦もない、と書いてあります(黙21・4)。
本日は2025年の最後の礼拝です。この一年も、色々なことがありましたが、無事守られ、支えられてきました。わたしどもは、神を讃美・礼拝しつつ、来し方行く末を思います。何よりも大きな慰めと喜びは、御復活の主がこの年もわたしどもと共におられ、来年も、必ずや共にいて下さる、ということです。感謝して、新しい一年を迎えましょう。
