🕊️ 「主が共にいてくださる」
(創世記28・10〜22)
2025/11/9 於伊東教会礼拝説教
上田光正
📖 聖書箇所(創世記 28章10~22節)
10ヤコブはべエル・シェバを立ってハランヘ向かった。
11とある場所に来たとき、日が沈んだのでそこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。
12すると、彼は夢を見た。
先端が天にまで達する階段が地ちに向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。
13見よ、主が傍らに立って言われた。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
14あなたの子孫は大地の砂のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
15見よ、わたしはあなたと共にいる、。なたがどこへ行ってもわたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」
16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
17そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、
19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。
20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物着る物を与え、
21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
🐑 ヤコブの孤独と神との出会い
先ほどご一緒にお読みしました聖書の御言葉は、ヤコブという人が生まれて初めて神と出会った不思議な体験を記しています。
それ以来、ヤコブは神を心から崇め、信ずる人となり、アブラハム、イサクの信仰を受け継ぐ人となりました。そして、主イエスの御祖先となりました。
それは彼が人生で初めての、しかも、最もつらい、たった一人の旅をさせられ、長年住んでいた父の家を追い出された時の出来事です。
その中で、神が彼と出会って下さった、ということが書いてあります。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」、と一六節で彼は語っています。
その場所は父の家の暖かい暖炉のそばではありません。文字通り、家一軒、猫の子一匹いない荒涼とした荒野の真ん中です。
しかも、彼は一人ぼっちで、生まれて初めて神と出会いました。「まことに主がこの場所におられたのに、わたしは知らなかった」と言っています。
彼はそれまで、神を敬う信仰心や宗教心は余りなかった人です。
その彼が、この時生まれて初めて神と出会い、非常に深い宗教的体験をさせられたのです。そしてこの出会いは、その後の彼の一生を支える重要な出来事となりました。
彼は神と共に生きる人となったのです。
🏞️ 荒野の夜とヤコブの涙
ヤコブが今居る場所は、その頃は、ライオンや熊も出たと言われる、荒れ果てた砂漠のような所だったようです。
彼は実は、父の家を追い出されて、追われるようにして、やっとそこまでやって来たところなのです。
今しがた、美しい夕日が沈んで、辺りはすっかり夜になりました。野宿するしかありません。
仕方なく、彼は手ごろな大きさの石を枕にし、担いできたずた袋から引っ掛けるものを引っ張り出して寝ました。
石を枕にしながら、彼は自分の境遇を思うと、思わず大粒の涙がポロポロと溢れてきました。
実は彼は、父親と兄の二人をだまして家督の権利を兄から奪い、二人の激しい怒りを買って家に居られなくなったのです。
父イサクは体を震わせて怒り、だまされた兄エサウの方は、いつか必ず弟を殺そう、と固く
心に決めていました。
そのことに気づいたヤコブの母は、彼を遠い親戚の家に逃がそうとして、大急ぎで彼を旅に立たせたのです。
彼はろくに旅支度もしないまま急いで家を飛び出しました。目的地までは、まだ毎日歩いても一カ月はかかります。
しかも日が暮れて来て、辺りはだれも居ません。彼は家から追い出され、ふるさとを追い出され、いきなり天涯孤独の身にさせられたのです。
しかし、旅の疲れの方が大きく、彼はたちまち深い眠りに落ちてしまいました。そして、とても不思議な夢を見たのです。
🪜 天に通ずる階段の夢
天から一つの階段がまっすぐ下に向かって降りてきています。
昔の聖書では「はしご」と訳されていましたが、どうも「階段」が正しい訳のようです。
その階段は、夜空の中でくっきりと、ひときわ美しい七色の光を放ちながら上から下に向かっています。そしてその階段の上を、真っ白い衣を着た神のみ使いたちが上り下りしているのです。
階段は遥か高い、神の居られる天から降りてきて、その先は地に着いています。ですから誰でもその階段で天に昇って行けそうなのです。
それはまるで、今の境遇のヤコブと、天の父なる神を一つに結ぶ階段のようでした。
🗣️ 神の約束
そして、ヤコブは夢の中で、主なる神が彼の枕元に立ち、彼に告げた、という不思議な体験をしたのです。
日本でも「正夢」という考え方がありますが、正夢どころか、聖書では神は本当に夢の中で現実に現われて人と会って下さるのです。
そして神は彼にこうおっしゃいました。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」
神が孤独なヤコブと常に共にいて下さる。
そして、今彼がいる大地は東西南北、見渡す限り彼のものとなる。彼は全人類の祝福の源となる。
この意味は、彼の子孫から主イエス・キリストがお生まれになり、全人類の救い主となる、という意味です。ですから彼はその御先祖となるのです。
そして神は、ヤコブがどんな境遇になったとしても、決して彼を見捨てることはしない、と約束して下さったのです。
✝️ 信仰心の篤くない人との出会い
ヤコブは、生まれて初めて神さまの御声を聴きました。
彼は兄をだまして恨みを買うような人ですから、必ずしも信仰心の篤い人ではありません。
父のイサクが一生懸命礼拝している時でも、彼はただそばでひざまずいているだけで、神と出会ったことはありません。
しかしこの時ばかりは、彼は砂漠の真ん中で、まさに人生の孤独の極みのど真ん中に突き落とされた中で、生まれて初めて、生ける神と一対一で出会ったのです。
日本人で偉い仏教のお坊さんがおっしゃっていました。
人間というものは、だれでもその本当の、裸のままの姿は、一人ぼっちでとても寂しい存在なのだ、と。
わたしどもは若い内は大勢の人に囲まれて楽しくおしゃべりをしていると、自分が孤独だなどとは夢にも思いません。
しかしそのお坊さんは言います。たとい何十人の友だちに囲まれ、自分がその中心に居てちやほやされているような時でも、本当はだれでも無限に孤独なのだ、と。そして、年を取ればそれが分かる、と。
その通りだと思います。体が弱くなれば、一週間に何日か病院通いするほかには構ってくれる人もいなくなります。
そして、だれでも死ぬ時はひとり、ひとり、別々になって死にます。
そういうわたしどもの人生は、よくよく考えれば、皆本日のヤコブのように、荒野のようなところを、たった一人で旅をしている**「一人旅」**なのかもしれません。
夜になれば、石を枕に一人寂しく寝なければならないのかもしれません。
🙏 人生は決して「一人旅」ではない
しかし聖書の信仰は、目に見える事実はその通りですが、人間の本当の、裸のままの姿は、**「神、我らと共にいます」**である、と告げるのです。
つまり、どの人にも主イエス・キリストがその人と共にいて下さり、そして、決してその人を見捨てることはしない、と聖書は言っているのです。
人生は決して「一人旅」ではありません。
目にこそは見えませんが、神さまが、いつもわたしどもと一緒に居て、旅をしていて下さるのです。
そして、考えてみれば、これほど大きな心の支えはありません。
詩人のダビデはそのことを次のように謳っています。皆さんのよくご存じの詩です。「たとい我、死の影の谷を歩むとも、災いを恐れじ。汝、我と共にいませばなり」(詩23・4)。
口語訳聖書でもう一度読みますと、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも/災いを恐れません。/あなたが(つまり、神さまが)わたしと共にいて下さるからです」、となります。
人生にはしばしば、「死の陰の谷」と呼ばれるような厳しい難所や急所があります。
日の光が少しも差し込まない、昼なお暗い谷間のような、死や墓場のにおいのするような境遇もあります。
この句はまた、「涙の谷」とも訳され、教会のお葬式でよく読まれます。愛する子を失った時。夫や妻を失って、たった一人になった時。
先週の日曜日に出版された伊東教会の『聖徒たちの群像』の下巻には、高見さんが人生で初めて手術台に上ったとき、この聖句をずっと黙想しておられた、と書いてありましたね。
「たといわたしは、死の陰の谷を歩むとも/災いを恐れません」なぜなら、「あなたが共にいて下さるからです」。
高見さんは恐らく、手術台の上でも、主が自分の手を固く握りしめて一緒に居てくださることを実感しておられたのだと思います。
高見さんの傍らに主が立っておられて、「わたしがあなたと共にいる」、とおっしゃってくださるのです。
ちょうどこの、天に通ずる階段がどの人のいるところにも降りて来ていて、その人の上に、天の御使いが上り下りしているようなものです。文字通り、どんな時にも、です。
💡 荒野に開かれた天の門
更にヤコブは、夢から覚めると、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言っています。
「この場所」とは、砂漠の真ん中です。人生で一番つらい場所です。一番辛く、すべての人から見棄てられたような場所です。
しかしそのような場所でも、天の門がそこに開かれていて、天と直結している。そこもまた、神の家である。
そのことが、今までのヤコブには、分からなかった。見えなかったのです。
しかし目が開かれると、自分のいるところに、主が共におられる。
主が降りてきて、自分は主に選ばれており、愛されており、守られていて、主が自分と共に人生の旅路を歩んでいて下さる。そういうことが、分かったのです。
彼は本来の、ヤコブらしい人間になりました。
以前は、兄をだまして父の全財産を手に入れたいと考えるような人でしたが、今は、二〇節にありますように、神がもし本当に自分を見捨てず、日毎の食べ物と着物を恵んでくださるなら、わたしは一生神を神としてあがめ、全財産の十分の一をささげます、と言っています。
そして、彼の子孫から、主イエス、キリストがお生まれになったのです。
🎁 神の選びの愛
さて、ここまでは、今から約四〇〇〇年前に生きていたヤコブという人の話です。
ここからは、わたしどものことを一緒に考えてみましょう。
皆さんは不思議に思われるかもしれません。
非常に信仰心が篤く、神を求めていた人が砂漠の真ん中で神と出会った、という話なら分かりやすいのです。しかし、聖書はそういう書き方をしていません。
もちろんヤコブは、アブラハムの孫、イサクの子でしたから、神がおられることを、疑ったことはきっと無かっただろうと思います。
しかし、まさかこんな荒野の真ん中で、神と出会えるとは夢にも考えたことがありません。彼は実際、神と出会う心の準備など、全くしていなかったのです。
むしろ聖書は、一切は神の方から彼と出会って下さったと、そういう書き方をしています。
第一彼は、自分が父と兄に対してした行いを必ずしもきちんと悔い改めてはいません。涙をポロポロ流したのですから、とてもまずいことをした、という程度です。それも半分は、自分の不幸を嘆く涙です。
そこでわたしどものことです。
わたしどもは、一生の内でヤコブが出会ったような辛い境遇に、陥ることがあるかもしれませんし、また、ないかも知れません。
しかし信仰は、決してヤコブと同じような辛い経験や、人生の深い孤独を味わわないと、身に付かないものでは必ずしもないのです。
信仰というのは、ただ神の選びの愛を信ずる、ということだけだからです。
加藤常昭先生は、教会という場所は、**「信仰の生まれる場所」**だ、とおっしゃいました。
その意味は、信仰とはまるで縁のなかった人でも、ここに来れば信仰が与えられ、更に、その信仰が育てられ深められてゆく、ということです。
教会で、主を礼拝するたびごとに、主が御言葉によってわたしどもの閉じた目を開いてくださり、自分が主から愛されていること。選ばれていること。主が共にいて下さるということ。それが、次第に固く信じられるようになるのです。
それはなぜかと言えば、例えば本日のような信仰の体験が、二〇〇〇年の教会の歴史を通して、いや、二〇〇〇年どころか、アブラハム、イサク、ヤコブから数えると、実に四〇〇〇年の間、神を信じる信仰の歴史があり、その四〇〇〇年の蓄積が、遺産としてここにある、ということです。
だから、教会に来る人は、説教を通し、また、祈りの交わりを通し、信徒の交わりを通して、本日のヤコブと同じように神との出会いが繰り返し与えられ、深められるのです。
その人が神に近づくというのではなく、神がその人に近づいてくださり、その人の神となり、その人が一生涯、救われた人生を歩むことが出来るようにしてくださる、ということなのです。
また、その人の子孫を持そうして下さる、
ですからこの話は、実は、神さまが彼を選び、彼と出会って下さった、という話なのです。
神は彼を母の胎にある時から選び、それまでずっと彼を愛し、導いておられ、今、砂漠の真ん中で彼と出会われたのです。
そして、この話しの中心は、その神の選びを、彼は非常に有難く大切に思い、それを感謝して受け取り、一生涯、ずっと大事にするようになった、ということなのです。
💖 わたしたちも神に選ばれている
このことは、わたしどもにとって大きな励ましとなります。それは、わたしどもも同じだからです。
わたしどもが信仰を与えられるのは、決してわたしどもが特別神の愛を受けるにふさわしい、信仰心の篤い、行いの正しい人だとか、心のきれいな人だったからではありません。
また、わたしどもが特別熱心に神や救いを求めたからとも申せません。事実熱心に神求めていたとしても、その熱心な求道心自体が、神がお与え下さったものだからです。
人間が神を自分から選んだり求めたりすることは出来ないのです。人間が求めるものは、いつも偶像です。自分に都合のよい神話の神様ばかりだからです。
唯一のまことの神が、わたしどもを選んで導いておられ、時が熟すると、慈しみと憐れみの御心によって教会へと招いてくださるのです。
そもそも、わたしどもが最初に教会の門をたたいたことこそ、神がしっかりとわたしどもを御自分のものとして選んでくださった何よりの証拠なのです。
それですから、わたしどもは自分の信仰深さや熱心さを誇ることは大変大きな危険なのです。
わたしどもはただ、その神の選びを大切にし、生涯それに感謝し、神に信頼し、神に従う人生を歩むことが大切なのです。
神は選ばれるにふさわしくないわたしどもをお選びくださいました。神の恵みの器としてお選び下さいました。
ヤコブの場合には、主イエスの御先祖となるためです。「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」という一四節の御言葉は、先ほど申しましたように、ヤコブの子孫から、およそ二〇〇〇年後に、主イエス・キリストがお生まれになる、ということです。
だから彼の人生は他の人の幸せを生むのです。だから彼にとっては、自分の信仰を子供たちに残すことがとても大切なのです。
わたしどもの場合にも、それぞれの人生が神の祝福を受けて、他の人の益となり、神の御栄光を表す人生を歩む者となるためにあるのです。
👑 無くてならぬただ一つのもの
わたしどもの人生で、いちばん大切なものとは何でしょうか。決して多くはないはずです。
主イエスは、多くのことで心を煩わせているマルタに対しておっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、ただ一つである」(ルカ一〇・四一~四二)、と。
わたしどもにとって一番大切なことは、この神の選びの愛を、もっともっと深く知って、人生を感謝できるようになることではないでしょうか。
そしてそのことは、教会へ来ると必ず分かるようになります。なぜなら、ここ教会が、信仰が与えられる場所だからです。
🤝 友となってくださるキリスト
そして、いつの日か必ず主の十字架がこ.の自分の罪のためでもあった、と信じられるようになります。
主はお亡くなりになる前に、たらいに水を汲んできて、弟子たちの足をお洗い下さいました。そして御自分で一人ひとりの足をお拭きになりました。
そしてこう仰いました。「人がその友のために、自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしがこれから十字架にかかって死ぬのはあなたがたの罪を洗い清め、あなたがたを父なる神の御許に連れて行くためなのだよ」、と。
もちろん、主はあくまでも主です。神様です。わたしどもの「しもべ」ではありません。わたしどもが「しもべ」です。
しかし、その主であり、神であられるキリストが、わたしどもの**「友」となってくださる**のです。
💌 お一人お一人への主の御言葉
もう一度、一三節以下の御言葉をお読みして、本日のわたしの説教を終えたいと思います。
この御言葉は、本日、皆さま方お一人お一人に主が語っておられる御言葉だと信じて、静かにお聴きください。
「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくだろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。**見よ、わたしはあなたと共にいる。**あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」。
ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」
お祈りします。
