2025/11/02 終末前々主日(聖徒の日)
聖餐礼拝説教(マタイ5章5節)
*柔和な者たちは国を受け継ぐ
聖書には、私どもの常識を静かに揺さぶる言葉があります。主イエスが語られた祝福もその一つです。「柔和な人々は幸いである」に続き、「彼らが地を受け継ぐ」と語ります。ある翻訳では「国を受け継ぐ」となっています。「地(国)を受け継ぐ」とは、聖書の言葉遣いによれば、その人の子孫や志を継ぐ者が絶えることなく、その存在が確かに継承されていく、という意味合いです。
ここで、私どもの常識が揺さぶられるのです。なぜなら、私どもの常識で行くならば、「力ある者」が国を受け継ぎ、「知恵ある者」が世を動かしている、はずだからです。しかし、そんな常識を持つ私どもに、主イエスは宣言されます。二心なくへりくだって主を信頼する、愚直なまでに真正直で「柔和な者」が国を受け継ぐ、と。
これはある意味で、新しい国を建設するという、国家宣言でもあります。この新国家樹立宣言を、主は山の上での説教の形でなさいました。そしてこの説教をその場で聞いた者たちは、旧約聖書以来の信仰的な伝統が立ち上がってくるような、そのような思いで特に詩編のある言葉遣いを思い出しておりました。その一節を、先程お読みいただきました。口語訳ではもっとはっきりと次のように訳しています。
「柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」。
柔和な者という言葉遣いを色々調べてみますと、例えば新しい翻訳である協会共同訳では「苦しむ者」となっていて、どうやら、「柔和な者」と訳されている言葉が元々いろいろなニュアンスを持っていることがわかります。
しかしいずれにしても、何か困難な出来事にぶつかっていて、そしてその困難を信仰をもって受け止める、そのような者たちが柔和な者と呼ばれているようです。
そして旧約聖書の民は、この言葉を自分たち自身に当てはめていました。つまり、柔和であり、貧しく、そして苦しむ者とは、自分たちイスラエル民族自身なのではないか。
しかしそれでも不思議さが残ります。なぜ苦悩する者たちが国を継承するとイエス様はおっしゃるのか。そこで、この不思議さを受け止めるために、まずは一旦聖書から離れて、一冊の小説本を取り上げたいと思います。
*クアジモド(もう一つの生き方)の場合
ヴィクトル・ユゴーの不朽の名作、『ノートルダム・ド・パリ』に登場する鐘突き男、「クアジモド」をご紹介したいと思います。
社会からは異形の者として疎外されていた捨て子の彼に居場所を与えたのは、パリの中心にそびえるノートルダム大聖堂でした。彼はやがて、鐘突きの仕事に従事します。教会の塔にこもり、日に何度も鐘を鳴らすのです。パリの人々に祈りの時を告げる、聖なる響きの担い手となりました。20世紀になってから鐘つきが自動化されるようになるまで、どの教会にもそのような専門の鐘つき男がいて、そして人々から密かな尊敬を受けておりました。
十分な学はなく、人から愛された経験もなかった彼は、ただ一心に鐘を突くことだけに没頭します。彼の名前「クアジモド」は、「もう一つの生き方」とも訳せます。この世の価値観とは全く別の次元で、彼は神に仕える生涯を送っていたのです。
あるとき彼は、純真な一人の踊り子に、初めての純粋な愛情を抱きます。そして彼女が無実の罪を着せられ、教会の前で処刑されそうになったとき、クアジモドは塔から駆け下り、彼女を群衆の中からさらい、大聖堂の中へと逃げ込みます。
追う兵士たちに向かって、司祭が中から叫びます。「ここは聖なる場所であるぞ」。武器を持って教会に押し入ろうとする権力を押し留めたのは、この一声でした。聖なる権威によって守られるのが教会という場所であり、社会の論理はそのまま通用しない、という宣言です。単に祈る場所を提供するというのではなく、社会的不正義の犠牲者を守る避難所、あるいはこの世に居場所のない者を受け入れ、聖なる役割を与える場所を生み出す声です。
これは神の招きの宣言でもあると思います。
柔和な生き方では世間をうまく渡ることはできないかもしれません。しかし、二心のない生き方は、「地(国)を受け継ぐ」志を呼び起こします。ユゴーは、人心を大聖堂に再度向かわせるためにこの小説を執筆したといわれています。
それから二百年後の2019年、ノートルダム大聖堂は大火に見舞われます。その復旧のために多くの献金が集められ、現在は復興しました。そこには政治的な野心と信仰的な献身という二重の思いがあると言われています。その信仰的な復興にはまだ時間がかかるかもしれません。しかしいずれにせよ、ノートルダムを見舞った火災からの物理的な復興という出来事には、歴史的伏線があるのです。
*イスラエルの民の場合
さて、私どもは聖書の言葉から離れて、この小説から「もう一つの生き方」を見たわけですが、聖書に戻ってこれをどう解釈すべきでしょうか。クアジモドは柔和な者として地を、そして国を受け継いだと言えるのでしょうか。
クアジモドは一人で様々な悲劇を背負った人物でした。聖書を見ると、信仰の民は一人ではなく集団で様々な悲劇を負っています。そして悲劇を負う以上に信仰を持って歴史を見つめる民族でした。
考えてみますと、クアジモドもまた、自分の身の上について、悲観的になろうと思えばいくらでもなることが出来ました。しかしそうはしなかった。なぜかといえば、世間的には悲劇を沢山背負う人物として同情を受けることしか出来なかった彼が、教会においては自分が自分らしくなり、神様に仕える場所があったからです。
同じように神の民であるイスラエルも、迷おうと思えばいくらでも迷うことが出来ましたが、しかし神様に向き続けることで、それらの悲劇の歴史を信仰の歴史とすることが出来たのです。
例えば出エジプト。例えばバビロン捕囚、そして捕囚が終わった後も政治的な抑圧は続きました。恐らく詩編37編は、捕囚後の状況を反映していると思われます。つまり、「地(国)を受け継ぐ」というのは、辛酸を舐めたイスラエル民族が、自分たちは主に従うことによって生き残ることが出来た、という信仰を確立する中で生み出された言葉です。そして次なる異教の国々の支配に耐える準備を始める際の言葉と言っても良いかもしれません。
主イエス・キリストが山上の説教において「幸いなるかな、柔和な者たちは国を受け継ぐ」(口語訳)とお語りになったとき、知恵があり力がある者たちが受け継ぐ国とは別に、柔和な者たちが受け継ぐ国があることをお示しになりました。それが天の御国と呼ばれます。そして弟子をお集めになりました。一人一人の弟子は名もなく、とりわけ大きな賜物を与えられているわけでもない者たちです。しかし天の御国に仕える者として彼らは召されました。私どももまた、クワジモドと並んで彼ら弟子たちにつながる者として御国を継ぐ、そのような可能性が、いえ命令が今日の短い言葉の中にあることに気づかされます。
*中世の教会の場合
かつて中世の教会では、会議に貴族の身分を持つ者が加わっていると、腰に帯びた武器は外してもらうことになっていました。何かの権威を笠に着て発言がなされるのを避けるためです。教会の交わりや会議において、現代の私どもが解除すべき「武器」とは何でしょうか。他者を論破しようとする自己主張や、世の成功体験に基づいた効率論を私どもが戒め、教会が「聖なる場所」であり続けるための努力が必要です。未熟だからといって信仰の声を押しつぶすことなく、またささやくような祈りの言葉を重んじる。教会を建てあげる、今はまだか細い論理をお互いから聞き取り合う、そんな交わりを保ち続ける必要があるのです。そして、鐘突きという、伝説を生み出した職業が教会において尊敬されてきたように、世の物差しでは測れない柔和な人々の奉仕や存在が尊ばれる価値観を、私どもが持ち続けられるかどうかにかかっています。
教会を守るものは、突き詰めていけば結局、柔和なお方そのものだからです。
*私どもの教会の場合
私どもの教会は、もうすぐ迎える創立120周年記念のわざの一環として、記念誌を刊行することといたしました。その際、従来の歴史叙述の形ではなく、葬儀説教をまとめることによって、私どもの歴史を確認する機会としたい、そういう願いが与えられました。ひとりひとりの故人を、クアジモドのようにして描く、つまり一般の歴史にも名を残す華々しい人物としてではなく、私ども信仰者が印象に刻むべき証しを残してくれた先輩として描く、そんな試みを葬儀を重ねることによって積み重ねてまいりました。故人の中には、教会に長く仕え、教会で誰もが愛した方も含まれています。他方で、教会に仕えることを願いながら実現することが出来なかった方々もおられます。たとえ、いわゆる信仰的優等生でない故人であっても、残された者が信仰者として故人が人生をかけてなした証しに耳を傾け、受け止めることができる。そのように語り、勧めるのが葬儀司式者、つまり牧師の務めです。世の価値観に流されず、時に不器用なまでに神様を信じ抜いた「柔和な人々」の姿を、葬儀説教において語り続けて参りました。ここで、この一年で新たに召天者に覚えられた方々の名前を読み上げます。
*ここは聖なる場所である――御国の建設宣言
教会が前進する力は、世渡りの知恵や巧みな戦略によるのではありません。「柔和な者がみ国を受け継ぐ」という主の約束は、神の選びと祝福によってのみ実現するのです。この事実に立つことなしに、私どもは一歩も前に進むことはできません。愚直なまでに柔和な生き方を、神ご自身が祝福してくださる。このことを信じることで、教会は神様の力によって前進します。
「ここは聖なる場所である」という声は、私どもを奮い立たせる声高な叫びにはならないかもしれません。しかし、それは静かに、そして確かに、私どもの心に響いてきます。その声を心に留めて、信仰の先達の姿から柔和な人々の志を見出し受け継いでいくとき、私どももまた「国を受け継ぐ」群れに加えられるのです。
柔和な人々は、確かに幸いです。
