2025/08/31伊東教会朝拝説教
「最初の栄光」(ヨハネ2・1~11)
上田光正
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって」と、最初の第1節に書いてあります。本日のわたしどもの礼拝に与えられました御言葉は、婚礼の席で、主イエスが水を葡萄酒に変えられて、最初の御栄光を現された、という記事です。ここはヨハネによる福音書の第二章で、いよいよ主イエス御自身の活動が始まったわけです。
主イエスの御登場の様子は、バプテスマのヨハネの時とはまるで違うものでした。バプテスマのヨハネの場合には、人々に激しく悔い改めを迫る、きびしい、また厳格で、どちらかというと暗い調子が全体を支配していました。ところが、主イエスの福音には、「きびしい」とか「厳格な」という言葉は余りぴったりしません。最初のしるしは婚礼の席で行なわれました。婚礼というのは、恐らく人生で最高の、喜びと祝福に満ちたものの代表です。主はその婚礼の席に招かれ、喜んでそこにおいでになったわけです。それは、主がわたしどもの人生を力強く肯定し、大いなる祝福を与えて下さるしるしに他なりません。それはまた、終わりの日の神の国の祝宴がどのようなものであるかをも暗示しています。婚礼はまさに神の祝福に相応しい席なのです。
そして、そういう席に、人々が主イエスをお招きした、ということは、大変意義深いことです。昔から教会の中に伝えられた祈りの中に、「主よ、来たりて我らの食卓の客となり給え」という祈りがあります。また、よくクリスチャン・ホームに招かれますと、キッチンの壁などにこういう言葉が書いた壁掛けが飾れれているのを見かけます.
「主イエスはこの家のあるじ。
主はすべての食卓の客うど。
すべての会話の静かなる聞き手」
という言葉です。
主はわたしどもを、礼拝の場にお招きしてくださいます。しかし、わたしどもが主をお招きする時にも、主は喜んでわたしどもの所に来て下さるのです。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28・20)と言われた通りです。
さて、カナでの婚宴は、宴もまさにたけなわという頃になって、突然、葡萄酒が底を突いてしまいました。この頃の婚礼の祝宴は、だいたい7日間ぐらい続いたそうです。人々はその間中楽しく歓談し、飲み明かすわけです。ですから、恐らく何らかの手違いで、あるいは客が多すぎたため、葡萄酒が不足してしまったのかもしれません。
* * *
お祝いのぶどう酒、婚宴のぶどう酒が無くなった、ということは、一つの象徴的な出来事です。それはまるで、人生の喜びには、いつか終わる時があることを示唆しているかのようです。この世の喜び、若さや強さや富、地位や名誉や人の賞賛など、色々な喜びをこの世はわたしどもに与えてくれるかも知れませんが、しかしそれは、あるところまでです。ぶどう酒はだんだん減って行き、いつか必ず無くなります。人生の喜びであるぶどう酒が無くなる。わたしどもの人生の様々な喜びを考えてみましても、やはりそういうところがあるのではないでしょうか。自分の持っているものは、手から砂がこぼれ落ちるように、どんどん目減りし、いつか無くなる時が来る。世の中の人は、それなりに人生に満足しているように見えますけれども、やはり基本的には、ぶどう酒はいつか必ずなくなるということも、知っておかなければならないことであると思うのです。それは、人生を知恵ある生き方で生きるために必要なことです。
さて、その時母マリヤは主イエスに向かって、「葡萄酒がなくなってしまいました」と率直に告げた、と言うのです。マリヤは恐らく、花婿とはきわめて近い関係にあったものと思われます。彼女が全体を取り仕切っていたのかもしれません。
このマリヤの言葉は、主イエスに奇跡を催促する言葉であると解釈する人もおります。しかし、わたしは必ずしもそのように取る必要はないと考えます。これはむしろ、わたしどもが主を自分の「よい羊飼い、よい牧者」であると信ずるが故に、その「よい牧者」の前に率直に自分の欠けを満たしてほしい、と願っているにすぎないように思われます。わたしどもはそのような時に、あらかじめ「こういうことはお願いしてもよい」とか、「こういう祈りは厚かましいからだめだ」と、自分で判断を下す必要はありません。フィリピ書の4章6節以下に、こう書いてあります。「主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平安が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。全ての求めを率直に申し上げるのがよいのです。それが如何に些細なことであっても、それがわたしどもの困ったことである限り、主イエスと無関係なものはありません。マリヤがここでしたことも、まさにそのことに他なりません。
* * *
しかし、その次の4節の御言葉は、お叱りの言葉ではないとしても、明らかに拒絶の言葉です。
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」
「婦人よ」、という言葉は、日本語のニュアンスでは、かなりよそよそしい感じがします。本来「母よ」とあるべき所を「婦人よ」とあるわけですから、突き放していることは間違いありません。主イエスは神の子ですから、マリヤが自分の母親であることの故に、彼女の要求に従わなければならない理由は何もないのです。「肉親」という関係は、信仰の関係ではないからです。
主はここで、「わたしの時は、まだきていません」と仰っています。この「わたしの時」というのは、主がご栄光を現わす時のことです。後になるとっきりと、十字架におかかりになる時であることが分かって参ります。しかし、ここでは必ずしも「十字架の時」ではありません。しかし、いかなる時であれ、主がご栄光を現わすのは、あくまでも父なる神の御心に従った、事柄にふさわしい時でなければなりません。主は父なる神のご指示がなければ、自分から先んじて何かをしようとはなさらないのです。「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない」と、5章19節ではっきりとおっしゃっておられます。
ところで、マリヤの願いに対するそのような主の拒絶の言葉を、マリヤはどのように受け取ったのでしょうか。わたしどもならば、自分の祈りが聞かれなかった時には、神の冷たい拒絶に出会ったと思い、非常にがっかりし、落胆したり、臆病になったり、時には絶望したりします。もっと良くないのは、自分で勝手な行動を始めることです。そうすると必ず失敗します。それは信仰ではないし、まだ時が来ていないからです。
では、マリヤはどうしたでしょうか。5節を読みますと、
「母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』」
とあります。
ここには、言わず語らずの内に、深い信頼関係があることが示されています。主が「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃると、マリヤはすぐ僕たちに、「このお方が何かおっしゃったら、あなたたちはすぐにお言いつけ通りにして下さい」、とお願いしたのです。ここにわたしどもが深く学ぶべきマリヤの信仰があります。この信仰の人マリヤは、「イエスがここにおられる限りは、祝いのむしろが壊されることはない」、と固く信じ、信頼しているのです。だから、時が来るまで待つことが出来ます。わたしどもは、主イエスから、幸いを頂く時には、待つことを学ばなければなりません。主に深く信頼する者の生涯に、暗やみがないということは、本当のことです。なぜなら、主が共にいます限り――主は世の終わりまで、共に居てくださるのです――、わたしどもは、自分の人生の小さな成功や不成功に一々一喜一憂はしません。なぜなら、主が共にいます限り、万事が合い働いて、全てのことが全ての人の益となることを知っているからです。そして大事なことは、わたしどもの祈りは必ず聞かれる、と固く信ずることです。そして、祈りは聴かれるからこそ、それが実現することを、忍耐して待つのです。
もしも、イエス様に祈るとすぐに、ガチャガチャ、ポンと、祈った通り実現するということになれば、わたしどもは信仰者として育ちません。祈れば必ずその通りになるというのでは、わたしどもの信仰は育ちません。それですから、主イエスに祈りながら、その実現をじっと待つことを通して、わたしども自身がそこから受け取ってゆくものが沢山あるのです。それは、わたしどもの信仰が育てられ、わたしども自身が変えられて行く、ということです。神を信ずるというのは、神の時を信じるということです。イエス・キリストの時、神様の時を信じてキリストに祈る。キリストの時を知る。そして、キリストの御業が表れるのをじっと待つ。
ですからマリヤは、「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」という強い拒絶の言葉に出会っても、落胆しません。ああそうですかと引っ込むこともしません。反対に、「この人が何か言い付けたら、その通りにして下さい」と召し使いたちに言うのです。
* * *
そして、その「時」は、意外と早くやって来ました。
そこには、ユダヤ人のきよめの習わしにしたがって、70リットルから90リットルもの水が入る石の水瓶が、6つ置いてあった、と記されています。「イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした」と書いてあります。昔は水道がありません。井戸です。その数も多くはないのです。大体小さな村であれば、一つぐらいしかなかったようです。水がめは水を満たせば100キロぐらいの重さになりますから、屈強な男が二人か三人でようやくかついで運べます。ですから、召使たちが井戸まで行って、石がめに水を入れて、それをまた家まで運んで来るというのは、大変な仕事です。
この「浄めの水」が、古いユダヤ教という、戒律と律法の宗教を意味しているとされます。それはユダヤ教では、食前に手を洗うために、是非とも必要なものでした。その「浄めの水」が、新しい新約の「葡萄酒」へと、しかも、「よい葡萄酒」へと変えられる、という出来事が起こるのです。新約におきましては、もはや「浄めのための水」は必要がないからです。むしろ、祝いのむしろのためには、新しいよい葡萄酒こそ必要なのです。主は僕たちに、6つの石がめの各々に水を一杯入れさせ、それを料理がしらの所に運ぶようにと命じました。
ここでわたしどもが、マリヤの信仰と共に、是非とも注目したいのは、この僕たちの信仰です。マリヤの場合にも、「婦人よ、あなたはわたしとなんの係わりがありますか」、という、一見大変冷たい言葉を掛けられましたが、マリアはイエスを信じ切って待っていました。
この僕たちの場合はどうでしょうか。彼らもまた、あるいは、彼らはそれ以上に、普通ではもっと空しい思いに打ちのめされるような状況でした。90キロもの水を遠い井戸から汲んで、石がめを充たす作業は、決して容易ではありません。それを、更に料理がしらの所にまで運んでくる労力は、想像するに余りあるものがあるのです。しかも、イエスを信じて黙々と従ったのです。普通なら、「何のためにこんなことをするのだろう」と思うでしょう。しかも、石がめは6つあった、とあります。
この水がめを運ばなければならないということから、この世を生きる労苦とは何かを考えることが出来ます。人生の90%は、そういう一見無味乾燥に見える労苦の連続です。この世には、意味がわかる労苦もありますが、意味がわからない労苦はもっと沢山あります。なぜこの石がめを運ぶのか。なぜ自分が運ばなければならないのか。重い石がめを、六つも運ぶことに、どんな意味があるのだろうか。途中で下ろしてしまいたくもなり、腹立たしくもなります。いくら主のご命令であるとは言え、彼らは幾度も幾度も、空しさや疑いとの戦いを経験したことでありましょう。そして普通なら、恐らく「こうしたほうがよい」という人間の思いが必ず出て来るのです。小さな船頭たちが次々と現われてくるのです。「ああしたらよい、こうしたらよい」と言い始めて、とても全行程を成し遂げることなど出来なくなるに違いないのです。それがわたしどもの現実です。
* * *
しかし、聖書の記述は実に淡々としております。そして、その淡々とした記述の中で、聖書はわたしどもにあることを語り掛けているのです。第7節。
「イエスは彼らに『かめに水をいっぱい入れなさい』と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた」
イエスは彼らとも共におられ、直接その御指導に当たります。彼らから言えば、彼らは直主イエスとつながっています。これが大切です。更に第8節。
「『さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい』。すると、彼らは持っていった」
「すると、持っていった」。何一つ、ためらいもつぶやきもありません。全てが、ちょうどマリヤとイエスの間にあったような、無言の信頼関係と単純な服従の内になされています。これは、神への信頼に生きる者の生涯がどのようなものであるかを示しています。マリヤも僕たちも、主イエスの「御心」を信じております。この「僕」とあります言葉は、新約聖書によく出てくる「奴隷」(ドゥーロス)という言葉ではありません。これは、ヨハネ福音書ではたった3回しか出てこない、「奉仕者」(ディアコノス)という言葉です。つまり、教会で奉仕する一人一人の教会員のことを言っているのです。ですから、9節にあります、「僕たちは知っていた」という御言葉は、大変意味深長です。彼らは単なる命令に従う奴隷ではなく、皆主イエスと直接つながっていて、信仰を持ち、水が葡萄酒に変えられる奇跡がきっと起こるに違いないと知り、それに喜んで仕える奉仕者であった、ということを意味しているからです。彼らが疑わずつぶやかず、全員が一致して、一糸乱れず一つの奉仕の業に与った時、何時の間にか水が葡萄酒に変えられて、主イエスのご栄光が顕れた、と聖書は語っているのです。
葡萄酒の芳醇な香りが家中いっぱいに満ち溢れ、人々はその新しい、よい葡萄酒を飲んで楽しんだことでありましょう。そして聖書は、このことをキリストの最初のしるしとし、主がそれによって最初のご栄光を現わされた、と述べているのです。
* * *
「栄光を現わされた」と申しますのは、単に水が葡萄酒に変わり、その香りが家中一杯に満ち溢れた、と言うだけではありません。
この出来事全体を支配しているものは、無言の、そして単純な信頼と素直な従順です。主イエスが父なる神に従い、マリヤが主に従い、僕たちが主に従うことによって、最後の出来事が完成しています。
わたしどもの毎日の生活も、教会の御奉仕も、あるいはわたしどもの人生そのものも、実は、これと同じなのです。本来、全ては整えられています。水瓶もあり、水もあり、僕たちもおります。そして何よりも、わたしどもにはいつも主が共に居て下さるのです。目には見えませんが、教会の真ん中に、そして僕たち一人ひとりと共にいてくださるのです。あとはわたしどもの信仰と服従だけが必要なのです。もしそれがないとするなら、わたしどもの家庭も、わたしどもの職業も、わたしどもの教会も、そしてわたしどもの人生も、すべては上手く行かなくなります。わたしどもの人生は「喜び」を知らず、香り高い葡萄酒のように、主のご栄光を顕すものではなくなり、味も香りもない、ただの水のように空しく流れ去るものとなってしまうことがとても多いのです。
しかし、もしわたしどもに、主が求め給う信仰の一かけらさえあるならば、わたしどもは自分の思いではなく、主イエスの「御心」を常に尋ね求め、それに単純に従うことに、熱心な者となるでありましょう。その時、わたしどもの人生は、この世的には、幸多い人生でありましても、あるいは、必ずしもそうでないものでありましても、いずれの場合でも、ある一つの方向に向かって、確実に動き始めます。それは、水がぶどう酒に変えられ、そして、香り高い葡萄酒の芳醇な香りを放ち始める人となる、ということです。みんなの人が喜べる人生となる、ということです。
料理頭は、「あなたは一番良いぶどう酒を、最後まで取っておかれました」と言いました。一番良いぶどう酒なのですよ。わたしどもが人生の最後に味わうのは。主がお一人お一人と共におられるからです。何よりもそれは、主のご栄光を顕すものとなります。主に深く信頼する者の生涯は、神の祝福の下にあります。それは、水が葡萄酒に変えられる生涯です。
祈ります。
