右手を差し出す

2025/07/27 三位一体後第六主日礼拝 

ガラテヤ書説教第五回説教 2:1~10 

「右手を差し出す」

 牧師 上田彰

 

*「顔」と「手」について

 

最近、SNSを見ていると、多くの人が実に巧みに自分の「顔」を作っていることに驚かされます。プロフィール写真一枚、自己紹介の一文に、自分が何者であり、どう見られたいかという願いが込められている。私どもは、その作られた「顔」を見て、この人はこういう人だろうと、瞬時に判断を下してしまいがちです。そういったことで混乱が起こります。現在起こっている、いろいろな選挙を巡る混乱も、「誰を顔役に選ぶか」ということと関係しています。しかし、本当にその人のことを知るには、画面の向こうにある「顔」をただ眺めているだけでは不十分ではないでしょうか。

 

 今日の聖書の言葉は、まさにそのことを私どもに問いかけます。神は人を「顔」、つまり見た目や肩書で判断はなさらない、とパウロは言います。一方で、エルサレムの教会の指導者たちは、得体のしれないパウロという人物を吟味し、最終的に和解の印として「右手を差し出した」と記されています。

 人を「顔で見る」ことと、「手で知る」こと。この二つの間には、一体どのような違いがあるのでしょうか。今日はこの「右手を差し出す」という行為に込められた深い意味を、皆さんと共に聖書から聴いていきたいと思います。

 

*手に取ることで自ずからわかること

 

 人間の体の中で、手という部分ほどにいろいろな役割を果たす部分はありません。手という言葉を使った言い回しが非常に多いのです。手を回す、手を下す、手を変え品を変え、などなど。

 

ある哲学者のたとえを思い出しました。ハイデガーという哲学者は、話の中でよくトンカチを持ち出すのですが、トンカチがトンカチとして使われるのはそれを正しく握ったときである、というのです。何のために用いるのかを説明されるよりも、あるいは腕組みをしてただ眺めているだけではなく、握って、軽く振ってみる。その時にトンカチという道具の使い方が自ずからわかる。もしここでトンカチを握ることなくただ眺めているだけなら、あるいは何かの事情で壊れてしまったトンカチであるとするなら、やむを得ずただ眺めるだけになってしまいます。その時にはトンカチがなんであるのかはわからない、ということになります。

 

 神様は人を表面的な「顔」では判断されない。それなのに、エルサレムの人々はまず、パウロという人物をじっと「見て」吟味しようとしました。パウロはそのことを、少し皮肉を込めて指摘しているのかもしれません。7節を見ると、彼らはパウロに神の恵みが与えられていることを「見て取り」、その後に「右手を差し出した」と、その順番が記されています。

 パウロはエルサレム教会にとっては当時、今で言うなら、どこの馬の骨ともわからないとされている人物でした。エルサレム教会が重んじてきたヤコブやペトロ、ヨハネといった「顔役」と比べると、経歴には大きな隔たりがあったのです。彼らにとってパウロは、まだ正体のわからない、しかし無視はできない一つの「道具」のようだったかもしれません。

 

 私どもは、人を判断するとき、まるでカタログを眺めるようにその人の経歴や評判ばかりを見ていないでしょうか。しかし、先ほどのトンカチの話を思い出してください。道具の本当の価値は、眺めることではなく、握ってみること、使ってみることで初めてわかるのです。エルサレムの人々が行ったのも、まさにそれでした。彼らはただ遠くから眺めて終わりにはしなかった。パウロという人物に触れ、その働きに触れ、そして最終的に、彼の手を固く握ったのです。

 

 神様でさえ誰がやっているかということでは判断しない、それなのに人間がそういう偏見を持って判断をするのはおこがましい、でしゃばった思い上がりだ、とも一方では言えます。しかし同時に人間が自分で偏見を、つまり偏って見ていないかということを吟味し、本当の使徒かどうかをよく考えて判断したということは、決して悪いことがらではないように思います。パウロはここで正確に、「彼らエルサレムの信仰者達は、パウロに恵みが与えられていることを見出した」といっています。つまりエルサレムの信仰者達は、パウロが本物の使徒であるかどうかを判断する際に、自分たちが持っている物差しで測ることはしなかった、というのです。例えば良い伝道者であるとは沢山の人を受洗にまで導いたとか、どのくらい沢山の距離を歩いたかで決まる、というような基準をまず持っていて、その基準に合うかどうか、あるいは基準に近いか遠いかで決めるというようなことをする決め方はあるでしょう。しかしエルサレムの信仰者達はそうはしなかった。吟味のためには基準はあるかもしれません。しかしその基準もまた神様によって与えられている。その、与えられている恵みを基準にして考えるなら、パウロは恵みの中に生きているのではないか。

 エルサレムの信仰者達の手探りの結果は、自分たちの右手をパウロとバルナバに向けて差し出す、ということでした。最初おっかなびっくりで握っていたトンカチを、やがて上手に使いこなすことが自然に出来るようになるのと同じように、パウロやバルナバと親しく伝道の思いを共有し、祈り、伝道計画を共に立案することが出来るようになる。

 

*貧しい者に思いを向ける――貧しい者とは?

 

 この話し合いは、使徒言行録15章にあるエルサレムの使徒会議そのものであったのではないか、とも言われています。使徒会議はご存じの通り、エルサレム教会として異邦人伝道に赴くパウロを祈りをもって応援し、エルサレム以外の教会建設のために彼を派遣する、というものでした。少し昔の言い方でいうなら、のれん分けです。エルサレム教会が仲間と認めることで、パウロが建てた異邦人教会が正統な教会と認められる、というのがこの会議の主な目的でした。

 しかしその会議の話し合いにはエルサレム側の計算とアンティオキア側の狙い、それぞれがあったようです。エルサレム教会は自分たちの教会の維持のために献金を必要としていました。アンティオキア側は、エルサレム教会のお墨付きを必要としていました。いわゆる人間的思惑、もくろみというものがあったのです。

 しかしその思惑がお互いに妥協できるから、という形で会議が妥結をしたわけではありません。単なる利害の一致で話がまとまったわけではないのです。いわゆる労働組合と会社の交渉、学生と教授の話し合いというようなものがここでなされているわけではありません。

 そのことを示唆しているのが、10節の言葉です。これは、形式的に言えば、エルサレム側から出された、今回の話し合いの際の念押しであるということになります。恐らくエルサレム教会は、ユダヤ教以来の伝統である貧しい者達、身寄りのない者達を引き取って面倒を見ることをしていました。そのような、貧しいとされている者達に対する援助を忘れないことが、エルサレム教会が教会というのれんを分ける際の条件だ、と持ちかけた、というのが一応の意味合いです。そしてそれに対して、パウロを代表とする異邦人伝道に赴くアンティオキア教会は喜んで同意した、貧しい者達への援助は自分たちも積極的に進めてきたし今後も進めていきたい。それをのれん分けの条件だというなら、喜んで受け入れたい、というような意味で10節を読むことが出来ます。

 

 この箇所についてカルヴァンが聖書注解を記すときに、教会が貧しい者に手を伸ばすということを実践している、という風に言い表していることを知ったときに、新鮮な思いを持ちました。手を伸ばすことは和解のための握手をするだけではなく、貧しい者にも助けの手を差し伸べる。両方とも手を差し伸べるのです。

 更にその思いを深めることが、この10節を丁寧に読むことで出来るかもしれません。エルサレム教会はアンティオキア教会に対して、「貧しい人たちのことを忘れないように」、と念押しをしています。それを受けてパウロはこう言っているのです。「これは、丁度私も心がけてきた点です」。つまりパウロは、貧しい者を忘れず、手を伸ばすのは教会だけでなく、自分自身も忘れないように心がけている、というのです。これはパウロが個人的に自分の財産を使って貧しい者達に施しをしている、という意味合いでしょうか。もう少し深い意味があるように思います。

 

 この「貧しい人々を覚えておく」という約束を、パウロは「それこそ、わたしも実行しようと心懸けていたことでした」と、複数形の「わたしたち」ではなく、単数の「わたし」という言葉で、一身に受け止めています。ここからわかるのは、エルサレム教会からの念押しをパウロは、経済的に困っている人々を助けるという教会の働きについての促しであると同時に、アンティオキア教会に対するのみならず、パウロ自身に対する問いかけであると受け止めた、ということです。その問いかけとは、すなわち、「あなた自身が、神の前に何も持たない『貧しい者』であることを、忘れてはいないか」という問いかけです。

この問いかけはまた、私ども一人ひとりに対する、根源的な問いかけになっているのではないでしょうか。私どもは、自分の正しさや経験、知識という名のこぶしを、固く握りしめてはいないか、と考えさせられます。神様が本当に求めておられるのは、固く握ったこぶしではないはずです。かつてエルサレムの指導者たちが、得体の知れないパウロという「トンカチ」を恐る恐る握ってみたように、私どももまた、隣人の手を握る勇気が求められています。眺めて批判するのではなく、触れて理解するのです。

 

 「マラナタ」を作曲した新垣壬敏さんの曲の中に、「空の手で」というものがあります(カトリック典礼聖歌集307)。「貧しい者は幸いである」という聖句は、私ども自身が神様に向かってその手を差し出すことの大事さをいっているように思います。自分の力ではどうにもならないことを認め、助けを求める「空っぽの手」を差し出す。ここで本当の意味で私どもは説教題にある、「手を差し出す」、ということをなすのではないでしょうか。

 

 神は、私どもを「顔」、すなわち経歴や能力では判断されません。神が見ておられるのは、ただ一つ。私どもが、助けを求めて差し出すその手であることを思わされます。和解を求めて差し出すその手であり、困難な中にある者の手を取る様子です。空っぽの、そして信頼に満ちた手を、神様に向けて、また隣人に向けて差し出す。その二つは意味が違いますが、しかし思いは同じかもしれません。

 パウロが遣わされた異邦人伝道とは、教会を建てるための派遣です。それは、「右手を差し出し合う」交わりの場を作るということでもあります。主の前で貧しい者とされることは、幸いなことです。だから手を伸ばせます。