神の家族

2025/07/20 伊東教会礼拝説教

「神の家族」(エフェソ2・19~22)

上田光正

 

 

 ただ今ご一緒にお読みしました19節に、「あなたがたは神の家族である」、と書かれた御言葉があります。わたしどもが救われたことについて、これ以上に分かりやすく、ピンとくる言葉はないだろうと思います。それは、神の家族の一員とされることだ、と言うのです。そういう特権を与えられている、と言うのです。わかりやすいだけでなく、味わい深く、無限に大きな意味を含んだ言い回しのように思いますので、本日はこの御言葉を中心に学びたいと思います。

「神の家族」の反対の言葉として、「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもない」、と語られています。つまり、今までは、自分の国に住んでいなかった。外国暮らしであった。さすらいの旅人であり、目的地も、はっきりとは分からなかった。「寄留者」は「宿り人」という意味です。宿り人の特長は、まだ自分の家には住めない、ということです。人間はこの世では、宿り人のようだ、ということは、古くから、多くの人々によって言われて来たことです。そういうことは、誰でも、時々は実感してきたことなのではないでしょうか。一番感じるのは、自分が何を目指して生きていて、毎日の努力が結局はどんな実を結んでゆくのかが、よく分からないことです。

そして、人間の最大の不安の一つは、わたしどものこの世の生活は、せいぜい七〇年か八〇年、長くて九〇年ぐらいで、消えて無くなることです。地上の家は、永遠の家ではありません。地上の旅には、目的地に着ける保証はありません。だから、神を信じたい、という人も居られるようです。そういう人は、案外多いのかもしれません。しかし、「神がある」と信じても、それはまだ、何の保証にもならないのです。大事なことは、神の存在を信じるということだけでなくて、神が、この自分の神となってくださり、確かなつながりを結んでくださるかどうかです。「神の家族」というのは、その意味で、大変分かりやすい言葉です。神との間に、そういう確かなお約束が結ばれている、ということです。神様の方から、そのように約束してくださる。それが洗礼です。神がそうして下さるならば、今はまだ、旅の途中であり、この先まだ何があるかは分からなくても、この世は決して「涙の谷」ではありません。自分の毎日の歩みは、確かに自分の家を目ざしており、そこには父なる神とイエス様と兄弟姉妹がいる。今は亡き父・母も居ます。旅路の終わりには、目的地に着けるということが、生きる支えとなるのです。

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 ところで、このエフェソの信徒への手紙の主題が「教会」であることは、今までに何度かお話ししてきました。先ほどの聖句で、初めて、教会が「神の家族」であることが、語られました。ところで皆さんは、「神の家族」というと、神様とそういうお約束で結ばれるということは、有難いことであるとしても、何か、束縛のようなものを受けるのは嫌だ、という気持ちは、ないでしょうか。人間には誰でも、自分が一人で神さまを信じ、心の平安を得られれば良い、しかし、何か人間が作った組織や団体に入って、ある一定の考え方や行動を強いられるのは嫌だ、という考え方があります。それは、人間が、すぐに他人を支配したがる動物だから、支配されるのは嫌だ、と思うからです。それだけに、教会を建てているのは、牧師でも役員会でもなく、誰かこの世的に偉い人でもなく、主イエス・キリスト御自身だ、ということをはっきりさせることが、無限に大事になるのです。

そのことを、著者パウロは、何とかしてはっきりさせようとして、本日の所を書いています。ここでは、みんなで教会を建てることを、ある立派な神殿、神の住まわれる家を建てて、そこに来た人が皆救われる神殿に、なぞらえています。例えば二二節には、その家は、「キリストにおいて建てられる」。だから、その土台は「使徒と預言者である」(二〇節)。つまり、旧約聖書と新約聖書という、神の確かな御言葉を土台として建てられる。教会は厳密に、人間の思いつきや、誰かさんの面白い発想法や趣味や考え方の上にではなく、「使徒や預言者という土台」、つまり、聖書という神の御言葉の上に、建てられなければならない。教会を建てているのは人間同士ではない、イエスさまだ、と、口が酸っぱくなるほど沢山の言葉が使われています。だから、クリスチャンはみんな、聖書をよく読むことがとても大切となってくるのです。

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西洋ですから、建物は石を積み上げて造ります。この建物とは、みんなで建てている、神のお住まいとしての神殿です。イエス・キリストを土台として、一つ一つの石が積み上げられて、教会が建てられます。わたしども一人ひとりは石です。あるいはまた、この建物はわたしども一人ひとりの人生にたとえることも出来ます。教会につながるわたしども一人ひとりの人生もまた、イエス・キリストという土台の上に建てられるからです。いずれに致しましても、一人ひとりの毎日の仕事は、ただ重い石をこちらからあちらへと運び、ノミで砕き、形を整えて積み上げるだけの、言わば、全く無味乾燥な仕事の連続です。わたしどもの毎日は、ある意味では、大体そういうものなのではないでしょうか。毎日朝早く起きて、会社に出勤したり、お店を開いたりして、あくせくと汗水垂らして働くだけです。主婦の方であれば、台所に立ち、子供を学校に送り出し、掃除・洗濯・買い物・炊事の毎日です。これは永遠の世界にはつながっていないように見えるのです。あるいは、立派なお店や会社を作っても、息子が継いでくれなければ自分一代で終わります。お店でも会社でも、よほど立派なものを作らない限り、とても一〇代、二〇代と受け継がれません。つぶれてしまいます。わたしどもの地上の仕事は、すべていつか消えて無くなります。しかし、教会を建てるのは、永遠の世界につながります。例えばそれが、今スペインのバルセロナで建築中の、ガウディのサグラダ・ファミリアのような、百年以上もかけてみんなで仕上げる立派で、その上美しく、そこへ来た人が皆救われるような意味のある建造物であるとしたら――わたしども一人ひとりの人生も、そういう意味のある仕事に、どこかでしっかりとつながっているとしたら――、苦労のしがいがあるというものです。ただわけもわからず、自分が生きるために毎日重い石をこちらからあちらへ運ぶのではなく、わたしどもは神の神殿、そこで大勢の人が救われて、神の家族とされてゆき、喜びと平安を分かち合える神様の住まいをこの世に建てていると自覚しているのとでは、毎日が全く違ってくるのではないでしょうか。

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この間テレビで、このサグラダ・ファミリア教会のことが放映されていました。「サグラダ」とはスペイン語で「聖なる」で、「ファミリア」は「家族」ですから、「聖家族教会」、つまり、「神の家族教会」という意味です。正式には、「聖家族贖罪教会」と呼ぶのだそうです。大変面白いことに、この教会の外側のかなり上の方に、ペリカン親子の彫像があります。この像は、「親子愛の象徴」なのだそうです。ペリカンの親子は、食糧が不足して家族が飢え死にしそうになると、親ペリカンが自分の体をくちばしで傷つけ、血を出して、それを子供たちに分けて上げるそうです。ですから、この親子愛は、まさに家族愛の象徴とも言えましょう。「聖家族教会」という名前とつながっていると思い、感銘を受けました。

大変面白いことに、この彫像は、すぐ下から見上げても、見えないのです。他の彫像物に邪魔されていて、見えないように造られているのです。少し離れて遠くへ行って見ないと見えないように、わざと造られているそうです。これは、親の愛は、人間は遠くからでないと分からない。ようやく五十歳、六十歳ぐらいになって、自分が人の親となって苦労してみて、初めて、親の愛がしみじみと分かってくる。そこでわざと、遠くからでないと見えないように造られているのだそうです。まさに、「親の心子知らず」ですね。これは、人間が神の愛が分からないのと、同じことのように思われます。神はその御独り子の血を流してまで、わたしどもを御自分の家族の一員として扱ってくださった。毎日のように、わたしどもの衣・食・住のことを心配していて下さる。それだのに、わたしどもにはそれが当たり前としか思えず気がつかないのです。

しかしわたしどもキリスト者は、何のさいわいか、それを知らされて教会に集められました。そしてそこで、神の教会を建てようとして、日夜いそしんでいます。

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わたしどもが神の家族の一員であるということは、何もない所からふっと沸いたような、摩訶不思議な話しではありません。また、神話のような根の無い話でもありません。聖書に書いてありますように、イスラエル民族の先祖であるアブラハムという人が居て、彼は今から四千年前に実在した、歴史上の人物です。「これが、アブラハムが妻のサラと一緒に実際に歩いた道のあった地層だ」、というものが、今でも発掘で見つかっているそうです。神が今から四千年前に、このアブラハムという人を特別に選んでその子孫から御自分の民イスラエルを造り、その子孫から今から二千年前に、メシア、すなわちイエス様が生まれるというお約束をなさったのです。創世記一二章に書かれています。

「主はアブラ(ハ)ムに言われた。

『あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

(あなたは)祝福の源となるように』」

と書かれています。 

「祝福の源となる」とは、神がアブラハムを選ばれたのは、この人一人だけを祝福するためではなく、この人を通して、全人類をお救いになるためです。全人類を「神の家族」とするためです。そのために、彼を「祝福の源」とする。全人類の祝福のいしずえとする。それが、神さまの永遠の御計画でした。そして、その御計画通り、アブラハムの子孫から、今から二千年前に、主イエスがベツレヘムの馬小屋の中にお生まれになり、彼が、十字架によって、わたしどもの罪の贖いを成し遂げられたのです。そして、わたしどもを呼び集めて教会をお建てになられるのです。

ですから、わたしどもの教会はイスラエル民族の使命である、「祝福の源となる」という一大使命を受け継いでいます。実に、神さまのご意志は、この伊東の地に、立派な教会をお建てになることなのです。そのために、わたしどもをここに集められたのです。わたしどもはその教会を建て、この教会が「祝福の源」となって、この地に住む大勢の人々が、「神の家族」の一員とされる福音を伝えるために、ここに集められているのです。

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 さて、それでは、わたしどもが「神の家族」とされていることと、わたしどもが「祝福の源」となるということとは、どういう風につながって行くのでしょうか。恐らくこれが、いちばん大切な問題ではないかと思うのです。それが分からないと、何のために苦労をして教会を建てているかが分からなくなります。

 そこで、二〇節をもう一度お読みします。これが、本日の中心聖句ですので、お聴きください。

  「(わたしたちは)使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」

この聖句の中心となる御言葉は、「キリストにおいて」です。わたしどもは「キリストにおいて」、人々の祝福の源となります。ですから、21節の冒頭にも、そして22節の冒頭にも、「キリストにおいて」、と書かれています。わたしどもの毎日の苦労は、「キリストにおいて」この永遠の世界につながって行くのです。

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 それですから、「この建物のかなめ石はキリストである」という御言葉は、一番重要なことを述べています。

 この「かなめ石」には、二通りの意味があります。一つは、イスラエルでは、建物を建てるときに真っ先に「隅の親石」を建物の隅に据えます。「何年何月何日、この石を据える」という文字が刻み込まれたりします。これが建物全体とあらゆる部分の基準となる、建物を建てるためには絶対になくてはならない基準となる「親石」で、全体の基準となるので、「かなめ石」とも呼ばれます。建物全体、あるいはわたしどもの人生全体の基準という意味です。

しかし最近では、もう一つの解釈がより適切であるとされます。わたしもそう思いますので、本日はそちらの方をご紹介します。

この解釈によると、「かなめ石」とはアーチの建物などを建てる場合をご想像ください。一つのアーチを作るのに、二本の柱となる石を両方から積み上げてゆきます。上の方でだんだん近づいて来て、最後に両方の柱が一つに結ばれます。ここの所ですね、この一番頂上の所に、最後にはくさびのように打ち込まれる石が、「かなめ石」と呼ばれる石です。英語では「キー・ストーン」と呼びます。この石がはめ込まれると、初めて全部の石がしっかりとお互いに固定され、安定して、もう絶対に崩れない丈夫なアーチになります。この解釈の場合には、イエス様は建物の最後の目標としての「かなめ石」です。それは特別立派で美しい石で、建物を建てる時の目標であり、家を建てる人は全員がそれを目ざして石を積み上げます。わたしどもはイエス様を目標として教会を建て、あるいは、自分の人生を建てるのも、イエス・キリストが最後の目標だ、ということになるわけです。わたしどもは、キリストに愛され、キリストを愛して生きるとそのようになるのです。そうすると、わたしどもも永遠の世界につながるのです。

これは大変分かりやすい解釈ではないでしょうか。二つの解釈は、どちらが正しく、どちらが間違っているというのではなく、二つが補い合って、わたしどもに、イエス様を自分の人生のいしずえとし、あるいは目標として、初めて永遠の世界につながる、ということを教えています。どの小さな石も、皆キリストを目ざして置かれていて、無駄な石はひとつもありません。どんなにキリストとは離れた場所にある下の方の石でも、間に沢山別の石があってようやくつながるのではなく、御霊によってキリストと一つにされています。キリストによって満たされ、キリストとの関係において、意味があり、お互いにも、愛のきずなによって固く結ばれる、と言っているのです。

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それですので、少し後の方になりますが、四章一五節以下にはこう書いてあります。

  「むしろ、(一人ひとりは)愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、各々の部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」 

石を積み上げるということであれば、日本にはお城を作る立派な技術があります。伊東の石も良い石ですので、切り出されて、江戸城の築城に使われたと聞いております。

石を積み上げるためには、一つ一つの石を切り出し、表面を削り、磨き、漆喰なしにも上手に積み重ねて行けるようにしなければなりません。そこで必要となるのが、愛である、とパウロは言います。

愛は積極的なものです。御霊によってキリストと一つにされておりますから、それによって、自分が少しずつ変えられてゆきます。隣人に心を開ける人となります。自分自身で積極的に、例えばだれか兄弟姉妹が困っているのを見つけたらお声をかける。お話を聞いてあげる。あるいは、自分が出来ることがあれば何かをして差し上げる。祈りの中に覚える。そのようにして、自分自身が教会の交わりの中に組み入れられてゆく。自分は何もしないで、教会の中にいれば、組み合わせてもらえる、と考えるのは多少無理があります。自分の形は石としては少しいびつであるかもしれません。自己主張が多すぎるかもしれません。表面は滑らかではないかもしれません。一人ひとり、他と組み合わせられるのにふさわしい形になっているでしょうか。まず、自分が、この建物を建てる一つの石として、自分を造り上げているかどうかをよく考える。また、どんな時でも、この建物は何のためにあるのか、そういうことを、聖書から正しく学ぶ必要があるのではないでしょうか。それは自分一人のことではなくて、建物全体のために必要です。

それでは、どのようにして、自分はその建物にふさわしいような石に作られて行くのでしょうか。そこで、「キリストにおいて」とか、「キリストによって」ということが、重要となるのです。自分を造り上げるというと、すぐに自分の能力とか、才能とか、どんな御奉仕ができるか、そういうことばかり考えがちなのです。そういうことも、いずれは必要ですが、何によってそうするか、ということが、もっとはるかに重要です。それは、キリストによるのです。キリストによるとは、いつもキリストと一つとなって生きるということです。自分がキリストに愛せられていることを知り、またキリストを愛するのです。先ほども申しましたように、御霊によってキリストと一つにされておりますから、それにって、自分が少しずつ変えられてゆきます。隣人に心を開く人となります。キリストの御力によって、隣人に仕える人となり、キリストの御体を造り上げて行くようになるのです。

そのようにして、全人類が、御子を十字架につかせてまでわたしどもを愛し、わたしどもを救ってくださった父なる神を崇め、讃美するようになることが、わたしどもの人生の目標なのです。そうすれば、この教会に来る誰もが、ここで神の家族とされてゆきます。命と平安を与えられ、共に教会を建てる仲間に加わってくれるようになり、教会は成長するのです。

御一緒に祈りましょう。