2025/07/13 三位一体説第四主日礼拝
創世記45章1~28節「神の光の中を歩む」
牧師 上田 文
先週の礼拝後に、伊東教会讃美歌2025「伊豆伝道の幻」を初めて歌いました。この歌詞の2番に、「一人で知らずに道迷う その時開く主の御文。命の水を汲みだして 生かされ直す 我が信仰」とありました。
私たちは、日々の生活の中で、複雑な人間関係や、見えない力の働きに翻弄(ほんろう)されることがあります。家族や友人、職場の仲間、教会の兄弟姉妹との間に生じる、誤解や摩擦、あるいは裏切りと感じる出来事に直面し、心が深く傷つく経験をしたことがある方も少なくないでしょう。その結果、孤独や絶望を感じ、
「神さまは本当に私に希望を与えてくださるのか。」「真に主に与えられた繋がりを回復することが出来るのか。」
「自分が置かれている状況に深い意味や目的があるのか」
と不安に駆られることもあります。まさに讃美歌の歌詞のように、「一人で知らずに迷ってしまう」のです。
今日のヨセフの物語は、まさにこのような私たちの心の奥底にある問いに、確かな答えを与えてくれます。
ヨセフは、兄弟たちの裏切りによって奴隷として売られ、異国の地で度重なる苦難を経験しました。
しかし、彼の人生は単なる悲劇で終わることも、安易なハッピーエンドを迎えることもありませんでした。
この物語は、人間の弱さや過ちを超えて働かれる神さまが、その壮大なご計画の中で、いかにして家族の絆を回復させ、一人一人の信仰を養われ、神さまの御前に立たされる家族を築き上げてくださったのかを私たちに教えてくれます。
これは決して、ヨセフの家族だけの話ではありません。私たちにも既に与えられている恵みの話です。今日は、この恵みを、教会に集められた兄弟姉妹と共に確かめ合いたいと思います。
先日、私たちはヨセフの兄弟たちが、神さまの導きによって、自分たちの罪と向き合い、心から悔い改めた話に触れました。少し振り返ってみましょう。
世界各地に激しい飢饉が発生し、多くの人々が穀物を買うためにエジプトを目指しました。ヤコブの家族が住んでいたカナン地方でも食糧が不足し、ヤコブは子供たちにエジプトに行って穀物を購入してくるように命じます。このようにして、エジプトに下ったヨセフの兄弟たちは、ヨセフがエジプトの総理大臣だとは知らずに彼にひれ伏します。
兄弟たちと面談したヨセフは、自分の目の前にひれ伏す兄たちを見ながら、あれほど怒りを覚えた、ヨセフの夢が現実となっているのに、何故平気で居られるのだろう。どうして、兄たちは自分がヨセフだと気が付かないのだろうと、訳が分からなくなりはじめます。そして、次男シメオンを人質に残して、残りの兄弟たちをカナンに帰らせ、次に来る時は末の弟ベニヤミンを連れて来るように命じました。
飢饉は激しくなり、買い求めた食糧もなくなり、ヤコブの息子たちに再度エジプトに食糧を求めて行くことになりました。しかし、
「次に来るときは末の弟ベニヤミンを連れてくる」
ことが条件となっています。ユダはベニヤミンを連れて行くことを渋る父に、
「弟を命をかけて守るから一緒に行かせて欲しい」
と説得し、兄弟たちは弟ベニヤミンを連れて、再びエジプトにくだり、エジプトの総理大臣ヨセフと再会します。
しかし、ヨセフはまだ正体を明かしません。そして、ヨセフは兄弟たちに食糧を売ってカナンに戻す時に、ベニヤミンの袋に銀の杯を忍ばせ、血を分けた愛する弟ベニヤミンがエジプトに残されるように企(たくら)みます。
しかし、ヨセフの企みは上手くいきません。兄弟たちは全員で、ヨセフのもとに引き返し、ユダは「神が僕どもの罪を暴かれたのです。
僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下させることになります。何とぞ、この子の代わりに、この僕をご君主の奴隷としてここに残し、この子は他の兄弟たちと一緒に帰らせてください」とヨセフに訴えました。
このユダこそ、かつてヨセフをエジプトに奴隷として売った張本人でした。そのユダが今、弟のために命を投げ出そうとするのです。
ユダのこの言葉は、彼の心からの悔い改めと家族への深い愛が示されています。
彼は、かつて自分たちがヨセフを売った罪によって、父ヤコブをどれほど悲しませたかということを理解していました。
また、悲しみが父だけの悲しみではなく、自分を含めた兄弟全体の悲しみであることを認め、家族の思いが一つであることを示しました。そして、家族の愛するベニヤミンをどうしても連れて帰らなければならないという思いから、自分が身代わりとなって奴隷になるとヨセフに告げたのでした。
ユダの、この行動を通して、ヨセフは父ヤコブとその息子たちが、神さまのもとで、深い愛の絆で結ばれた、「イスラエルの家族」として成長している事を知りました。彼らは、過去の過ちを悔い改め、神の家族の絆をなによりも大切にする者とされていたのでした。この出来事をきっかけに、訳が分からなくなっていたヨセフもまた、神さまの御前に立つ姿を回復しはじめます。
そこから、今日の聖書箇所である45章が始まります。
1節には、彼は、もはや平静を装うことが出来なくなり、兄弟たちに自分の正体を明かしたと記されています。
そして、
「ヨセフは大声をあげて泣いた」
とあります。これまでのように隠れてではなく、兄弟たちの目の前で泣いたのです。ヘブライ語では
「声の全てを、泣くことの中に注ぎ込んだ」
と書かれ、激しい感情が表現されています。
エジプトに売られて以来、ヨセフは人前で涙を見せたことなどなかったはずです。
多くの出会いの中で、彼は常に人と距離を取り、父ヤコブの教えを固く守り、慎重に生きることで身を守ってきました。涙を見せないのは、彼のエジプトの高官としてのプライドであり、生き抜くための技術であったのかもしれません。
しかし、今、ヨセフはその仮面を全て脱ぎ捨てて、裸の心で、まるで赤子のように思い切り泣いたのです。また、それは兄と再会し、訳が分からなくなってしまったヨセフが、正気に戻った瞬間でもあったように思います。その声は、壁を越えて、ファラオの宮廷にまで伝わったと記されています。
この涙をきっかけに、ヨセフは、神さまの御前で悔い改め、新しく生きようとしている、兄弟たちを愛し始めたのかもしれません。それは、ユダを通して、兄弟たちもまた、神さまに導かれていること、そして、神さまの御前で、命を頂いて生きているのを悟ったからです。神さまの御前で生きる人は、その周りにいる人々をも神さまへと導きます。兄弟たちの、神さまへの思いを見たヨセフは、兄たちの言動によって再び主の御前に正しく立つ者へと、導かれたのでした。
涙を流したヨセフは、兄たちに言います。
「わたしはヨセフです」
ヘブライ語で、「アニー・ヨーセフ」と記されるこの言葉は、とても重い意味を持ちます。
「アニー」とは、王さまのような、非常に身分の高い人が、威厳をもって自己紹介をするときに使う言葉です。訳が分からなくなり、兄たちと距離を取ろうとしていたヨセフは、我に返り、主の御前に正しく立ち始めます。だからこそ、彼は本来あるべき姿で自分の名を名乗ることが出来たのだと思うのです。もし、これ以前に名を名乗ったとしても、兄との心理的距離は埋まらなかったはずです。また、訳が分からない状態で、距離を置きながら名乗ったとしても、兄たちは困惑するだけだったでしょう。ヨセフの涙は、彼の中にあった兄たちとの心理的な距離を洗い流し、和解のために名を名乗る絶好の機会を与えました。正気に戻ったヨセフは、兄たちと距離を取るのではなく、まず自ら近づくことで和解への努力を始めたのです。
しかし、もしヨセフが、単に過去を赦し、弟として兄たちの胸に飛び込むつもりだったのなら、「兄さん。弟のヨセフだよ」といって駆けよれば良かったはずです。ところが、彼はそうは出来ませんでした。たとえ涙によって、再び神さまの御前に立つ者とされたとしても、兄たちは、この瞬間まで、この総理大臣がヨセフだとは知らなかったのです。そして、この総理大臣は、さっきまで、兄たちに、無理難題を押し付け続けていたのです。
兄たちも、「兄さん」と言って、自分の所に飛び込んできた、エジプトの総理大臣を、素直に受け入れることは出来なかったと思うのです。そのことが、「兄弟たちは、ヨセフの前で驚きのあまり、答えることが出来なかった」という言葉によく表されています。兄たちは、エジプトの圧倒的な力を持って、過去の事件の仕返しをされるのではないかと脅えたに違いありません。涙を流し、神さまの御前に立つ者として、「アニー・ヨセフ」と語ったヨセフの言葉は、兄たちには、簡単には届かなかったのでした。
けれども、主なる神さまは、ここでもまた、神さまを見つめ始めた、兄弟同士が影響し合うことによって、神さまの家族を作り上げ、多くの人々がその救いに与るように導かれるのです。兄たちの証を聞くことによって、自らも神さまの御前に再び立つ者とされたヨセフは、このように言います。
「どうか、近くに来てください」。
「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。ヨセフは、力で復讐するでもなく、高官となった自分を誇るでもなく、神さまを示すことにより、兄弟たちと向き合いました。そして、自分が売られてここにやってきたのは、神さまの導きであったと、自分に与えられた信仰を伝えたのでした。それは、ヨセフが、同じイスラエルの家族である兄から教えられたことでもありました。このような、ヨセフの兄弟との関わり方は、一見すると、とても形式的で、冷たいように感じるかもしれません。
「どうか、もっと近寄ってください」
と言うよりも前に、自分から兄に近寄ってはいけなかったのかと思います。
神さまの話をするより、互いに兄弟の話、家族の話を優先させたらますます、近くなれたのではないかとも思うかもしれません。しかし、15節には、
「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った」
とあります。神さまの御前で、同じ神さまを見つめる者同士として向き合った時、そこに真の親しさと一致が与えられたのでした。かつては、
「穏やかに語ることのできなかった」
兄弟たちが、共に神さまへの信仰を語ることによって、心から語り合える「神の家族」になった瞬間でした。
ヨセフにも、神さまに導かれるイスラエルの家族としての自覚が生まれました。兄弟たちと共に神の家族とされたその瞬間、彼は、自分が何故、「アニー・ヨセフ」と名乗る、エジプトの総理大臣とされた理由を初めて悟ったのだと思います。彼は、兄たちにこのように打ち明けました。「神が私をファラオの顧問、宮廷全体の主(しゅ)、エジプト全国を治める者としてくださったのです」。わたしを、エジプト全国を治める者としたのは、神である。だからこそ、その務めに忠実でありたい。新たにされたヨセフの神さまへの決意が、「アニー・ヨセフ」「わたしはヨセフです」という言葉に、重ねられることになったのでした。
教会に集められる私たちは、しばしば兄弟姉妹との大きな距離感を感じることがあるように思います。十分な交わりが感じられないのです。そのような時、私たちは、ヨセフが銀の杯をベニヤミンの袋に入れさせたように、周りの人々にさまざまな事を仕掛けるように思います。何か、自分が分かる確かさが欲しいのです。しかし、ヨセフは教えてくれます。兄弟姉妹を導いてくださる神さまが、私たち一人一人を導いてくださっている事をまず信じることが大切なのではないか。こうした、神さまへの信頼があれば、私たちは必ず深い交わりを取り戻すことが出来ると。
自分の事ではなく、神さまの大きなご計画を兄弟姉妹と共有することで、教会で本当に生きる力を与えられる。また、人間の力だけでは乗り越えられない深い悲しみや溝も、神さまへの信仰を持ち、全てを益としてくださる神さまの御計画を信頼することで、真の赦しと信頼のある交わりが与えられるのだと、ヨセフの物語は私たちに語りかけてくれるのです。
また、ヨセフが「アニー・ヨセフ」と語るとき。この言葉は、「私はすべての事柄が神の計らいに基づいていると信じる」というヨセフの信仰の告白となって聞こえて来るように思います。すべてのことは、イスラエルの子とされた私たちに命を与え、大いなる救いの恵みをもたらすために神さまがなさったことである。私たちの苦しみもまた喜びも、すべては、主なる神さまが生きて働かれ、全ての民に救いをもたらされるために必要なことなのだと、信仰者の真理を、ヨセフは私たちに伝えてくれているのです。私たちもまた、「私は、神さまに救われ命を頂いた者です。神さまの計らいの中を生きる者です」と告白する者にされていると、ヨセフは確信させてくれるのです。
神さまの計らいを知ったヨセフは、神の家族の命を守ろうとします。ヨセフは兄弟たちに言いました。「急いで父上のもとへ帰って、伝えて下さい。『息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわずに、わたしのところへおいでください』」。ヨセフが、イスラエルの家族の命を守ろうとする姿。この姿は、兄たちがヨセフに見せた姿そのもののような気がします。兄が弟ベニヤミンを父ヤコブと同じように愛する姿を見た時、ヨセフもまた、命を投げ捨ててでも、家族を愛する者へと変えられたのでした。彼は、神さまが大切に育てられた家族に触れ、神さまに与えられた大きな力をもって、神さまの家族を愛し、その命に仕える者とされたのでした。この恵みは、私たちの教会にも既に与えられています。
しかしこの物語は、ここで終わりではありません。イスラエルの家族が、神さまの御計画を信じて一つになろうとする時に、エジプトのファラオが登場するのです。ファラオは、このように言います。「父上と家族をここへ連れて来なさい。わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう」。たった一人で生きているように見えた、親しいヨセフに家族がいた。ファラオもまた、ヨセフの事を喜んだのだと思います。そして、自分の知っているやり方で、ヨセフの家族を支えようとします。それは、飢饉で困っている、ヨセフの家族を、豊かなエジプトに迎えいれよう。そして、エジプトの中でも最も良い物によって生活できるようにしようというものでした。ファラオの親切は、神さまによって一致した家族を、再び、迷いの中に落とし入れます。自分たちのような小さな部族が、エジプトのような大きく豊かな国に移住して、大丈夫なのだろうかという迷いです。だからこそ、ヨセフは、兄たちを父のもとに送り出す時に、このように言います。「途中で、争わないでください」。自分たちは、この迷いによってまた、争いを始めてしまうのではないかと、心配になったのでしょう。しかし、この心配は、神さまの家族でありたいと願う、イスラエルの家族だからこそ生じたものであると言えるかもしれません。
神さまの家族とされた、ヤコブの息子たちは、ふさぎ込んでいた父をも動かし始めます。「ヨセフがまだ生きている。しかもエジプト全国を治める者になっている」と聞いたヤコブは、その言葉を信じることが出来ませんでした。息子たちと離れていた間に、ヤコブもまた、混乱し神さまの御前に立つ姿を失っていたのかも知れません。息子たちを信頼する事が出来なかったのでした。しかし、ヨセフの兄たちは、信仰の力を持って父を立ち上がらせようとします。
27節には、
「彼らはヨセフが話したことを、残さず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた」
とあります。兄たちは、離れてしまい正気を失っている父に、何とか近づこうとします。ヨセフの話を伝え、ヨセフが遣わした馬車まで実際に見せて、兄弟ヨセフに近づけようとするのです。そして、神さまの家族として成長し始めた兄弟たちの努力は、ヤコブをも正気に戻します。聖書は、ヤコブが正気に戻り、神さまの御前に正しく立つ姿を取り戻した瞬間をこのように言い表します。
「イスラエルは言った」。
ヤコブは言ったとは書かないのです。正気に戻ったイスラエルは、息子たちの迷いと心配を、とても簡単に解消してしまいます。彼は言うのです「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」。死んだはずの息子を神さまが生き返らせてくださった。最も力がなく、最も運が悪く見えた、末の息子を神さまが祝福してくださった。その神さまの業を見に行くのだ。神さまの行われる、祝福と創造の業が真であることを見に行くのだと、イスラエルは家族全体に宣言するのです。命を大切にされる神さまの創造の業を見つめ、その真実を信じて生きるのならば、エジプトでも、またどこに行っても、神さまは導いてくださる。神さまは、私たちを近くに集めてくださり、神さまに命を頂いた神さまの家族として、生き続けることが出来るようにしてくださると、イスラエルは私たちにも宣言するのです。
「盗人(ぬすびと)が来るのは、盗んだり、屠(ほふ)ったり、滅(ほろ)ぼしたりするために他ならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10:10)。イエスさまの言葉です。この言葉は、私たちの二つの生き方を鮮やかに示してくれています。一つは「盗人」としての生き方。もう一つは、「イエスさまの羊」としての生き方です。私たちは、ヨセフがそうであったように、さまざまな人に出会い、その考え方や思想に囲まれて生きています。そして、時に、私たち自身も、イエスさまが言われる「盗人」のように生きているのか、「羊」のように生きているのか分からなくなることがあります。しかし、一人で迷い、誰についていけば良いのか、どの道を歩めばよいのか見失いそうになる私たちに、イエスさまは、はっきりと教えてくださいます。それは、神さまの御前で、神さまを見つめて生きているかどうかであると。神さまを見つめ、神さまの御計画の中で生きている者が、主イエスを見分けることが出来るのです。
この主なるイエスさまは、かつてイスラエルの家族を守り養われたように、私たちにも豊かな牧草を与え、育み、守り、平安を与えてくださいます。けれども、もし、私たちが他のことに気を取られたり、人間関係にのみ生きようとするのならば、この方を見失い、「盗人」のように生きてしまうのです。
イエスさまは、私たちを生かすためにご自分の命を投げ打って、十字架に架かって死なれ、そして復活してくださいました。この主なるイエスさまによってこそ、私たちは救いの恵みを与えられ、永遠の命を生きる者とされます。
私たちもまた、ヨセフのように宣言したいと思います。
「アニー・ヨーセフ」
「わたしは、主に命を与えられた者です」と。
主によって養われ、守られ、主のご計画の中を生きる「羊」になりたいと願います。
