平安をあえて願う

2025/06/01 昇天後主日 

平安をあえて願う ガラテヤ書説教第二回 

1:6~10、イザヤ書11:6~9

 

*平和と嘆き

 

 新約聖書の書簡を開くと、目に入り込んでくる表現があります。それは「平和の挨拶」というものです。手紙というものが、平和の祈りで始まり、平和の祈りで終わるのです。言い換えれば、手紙を読む間、そして書く間、人は平和について思い続ける。

 ガラテヤ書もまた、そのような祈りの構造を持って書かれています。著者パウロの祈りは、ガラテヤ地域の教会において、平和があるようにということに集中いたします。

しかし、今日読まれた箇所を見て、不思議に思う方もおられるでしょう。平和の挨拶の直後に、なぜこのような嘆きの言葉が続くのか、と。

 私どもは心のどこかで思うのではないでしょうか。「平和の挨拶の後なのだから、少しは褒めてほしい」と。あるいは「呪いの言葉ではなく、もっと受け入れやすい言葉で語ってほしいのに」、と。平和と嘆き、それは水と油のように相性が悪いもののように思えます。

 

 パウロはここで、呪いという言葉さえ使っているのです。そして彼は自分自身に問いかけるのです。「人に取り入ろうとしているのか、神に取り入ろうとしているのか」。これは戸惑いの言葉ではありません。人に取り入ろうとしているとすればパウロ自身もまた呪われるべきであり、なんとか神様に取り入ろうとする、いえ神様にだけ目を向ける、そんな一人のキリストの僕に、自分はならせていただきたい。

 

*真の平和とは何か

 

 ここで、パウロが用いている「平和」という言葉の意味を探ってみましょう。先ほど、イザヤ書11章の言葉を読んでいただきました。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。

牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。

 

 預言者イザヤの見た平和の光景。本来なら互いを食い合うはずの獣たちがお互いに共存し、そして本来彼らの前で無力なはずのか弱い赤子が、無邪気に彼らと戯れ、共に平和に暮らす。それが平和の光景として描かれています。

 気がつかされます。私どもは普段、「平和」という言葉と「平穏」という言葉を取り違えているのではないか、と。単に争いがなくなる「平穏無事」だけでなく、全てのものが本来の秩序を取り戻し、神さまの美しい調和の中に生きる、それが真の意味の「平和」だというのです。シャロームという言葉は、イスラエルで使われるヘブライ語の枠組みを超えて、世界共通の挨拶であり、世界共通の祈りです。出来事が起こらないことを願う平穏無事ではなく、むしろ様々な出来事が起こる中で、それらが最終的に神さまの美しい秩序へと整えられていくことを願います。

 

 神様の作り出す「平和」の中で、人間は一体どのような役割を果たすのでしょうか。人間が主体となって平和を作り出す、という考えもあります。パウロの時代においては、「ローマの平和」という言葉が人々によって実感を持って受け入れられつつありました。古代ローマ帝国は、圧倒的な武力と政治力によって、争いのない時代を築きつつあったのです。1世紀のローマ皇帝ネロの時代はその絶頂期に入りつつあり、当時のセネカという歴史家が書物の中で使いました。ローマの平和(パックス・ロマーナ)という言葉そのものは、相当広まっていたことでしょう。セネカは歴史家であって、当時の政治的プロパガンダからは距離を置いていました。一方では物質的な繁栄や権力によってもたらされた平和であるということを彼は皮相に捉えていますが、他方で、目に見えて作られていく「秩序」を、人間理性の勝利と見なしてもいたようです。しかしその後も争いは絶えることはなく、ひとたび戦争が始まれば戦闘員はもちろん、女性や子どもの血が流れる状況は、変わりありません。人間理性の敗北というよりも、人間理性に頼りすぎることは愚かだと言った方が正確でしょう。しかしにもかかわらず、人間は自分の力に頼りすぎてしまう。人間の作り出す平和は、もろく、そしてもの悲しい。その後2000年経った今も、私どもはその悲しみのうちにとどまり続けています。

 

*福音こそが平和

 

 セネカが自分の著作で「ローマの平和」という言葉を使ったのと、ガラテヤ書の執筆は、ほぼ同時期です。パウロはこの言葉が世に広まっていく時代を生きていたのです。そしてこの言葉を聞く度に、あるいは読むたびに、改めて思いを向けていたのではないでしょうか。いや、福音こそが平和なのだ、と。

 

 福音こそが平和。なんとなく聞き過ごして良い言葉ではありません。福音以外のものによって真の平和が来ないということを知っている信仰者だけが、この言葉の真の意味を、真の力を知っています。説教題であります「平安をあえて願う」というのは、主の平和を祈ることはそれほど日常的ではないということです。時には主の平和以外のものを退けるという、周りと軋轢を生みかねないことだって起こるかもしれません。それでもあえて主の福音がもたらす平和だけを願う。これがパウロの姿勢です。

 

 パウロは驚いています。一旦この主の福音を信じ、主の平和について教会で聞き、それを受け入れたガラテヤ教会の人たちが、この確信から離れてしまっていると聞いたからです。かの歴史家セネカは、武器と権力がもたらした平和を、距離を取って淡々と受け止めました。ガラテヤの人たちにとって、神の平和を受け入れることは、同じように距離を取ったやり方だったのか。むしろ、流行に乗って人間の平和に関心が傾いてしまうものなのか。彼らの様子を、パウロは深く嘆くのです。

 

 興味深いことに、ルターはこの箇所について、パウロはここで、「叱責」を行っていないことに注意すべきである、と指摘しています。もし叱責であれば、ガラテヤの信徒達は、福音をゆがめた加害者ということになり、犯人を責めるニュアンスになるでしょう。しかし、パウロは、ガラテヤの人々はどちらかと言えば「被害者」なのではないか、平和の福音から引き離されてしまって、まだ実感はしていないが彼らはこれから苦しむことになる。パウロはその彼らの苦しみを先取る仕方で共に嘆いている、というのです。

 ルターは、パウロが問題にしている「福音のゆがみ」というものを、どのようにとらえていたのでしょうか。ここでは、ローマの平和と福音の平和になぞらえて考えてみたいと思います。ローマ帝国がもたらした平和において、人間の力は、理性であれ武器であれ、積極的な役割を果たします。それに対して福音がもたらす平和の場合は、人間の役割は受け身です。この区別で申しますと、律法は一体どちらに属するでしょうか。ここでルターは、簡単に律法は律法主義につながるから、人間の力の側だ、とは言っていません。今日は詳しくは解説しませんが、パウロは律法そのものは神様が与えてくださった恵みの一つであると理解しています。しかし、律法を守ることで神様の恵みを十分に受けることが出来るのか、律法を人間の力で守り切る、そのことによって神さまに認められようとする生き方は、ローマ帝国の平和と同じように、やがてきしみを生み出します。頑張って良い行いをし、規則を守り、完璧であろうとする、これは頑張って勉強して理性を更に磨き上げ、この社会を立派にしようということと同様に、それら自身は否定されることではありません。

 

しかし、私どもが自分の努力や行いに頼り切ってしまうと、決して届かない境地がある、とルターは言うのです。

 それが「恵みを受けめようとする態度」、「受動的な義」です。「受動的な義」とは、心の中で神様の恵みを反芻し、様々な祈りを思い浮かべる。良いことばかりでなく、割り切れない思いを受け止める。シャロームの実現を、まずは祈ることから始める態度です。平和を求める祈りは、まず自分の心の中に平安が来ますように、という祈りへと向けられるかもしれません。そして自身や社会のことを嘆くことだってあるかもしれません。しかしそれらの祈りは、それらの嘆きは、みな神様から与えられる出来事を巡るものであることに気づくときに、わかるのです。全ては、神様の恵みから始まる。全ては主の平和のうちの出来事なのだ、と。

 

*礼拝の中で見出される恵み

 

 過ぐる日曜日の礼拝後、私は中静分区の清水教会に向かいました。新しい牧師の就任式に参列するためです。分区外の教会の就任式にわざわざ参列するということは、それほど多くあるわけではありません。一つ、心の中に秘めている理由がありました。それは、この清水教会の前任者と私との関係にありました。実は、2022年に清水教会に赴任したのは私の友人の牧師であり、そして彼は一年経つことなく解任されることになったのです。その解任の前日、私は友人の牧師館で彼と一日祈って過ごしました。

その後、分区の議長であった代務の先生が適切な牧会を行い、教会は動揺から立ち直り、主イエス・キリストの福音を聞き続けるためにはやはり専任の牧師が必要だという結論に落ち着き、二年経って牧師を迎えるに至ったのです。その代務の方が、正式の牧師として遣わされました。この一連の出来事を間近で経験した者として、最後まできちんと見届けておこう、と思ったのです。

 

 就任式は第一部が礼拝、第二部では教会役員が司会をする形で進められました。第二部の冒頭で、今回の牧師招聘の経緯についての説明がありました。書記長老がマイクの前に立ち、こう語り始めました。

 「今回の招聘に際して、前任者との関係について話をしないわけにはいかないので、前段階として最小限のことを話したい。前任者は赴任直後からいくつか長老会と衝突することがあって、長老会としては分区や東神大とも相談をしていた。1月に、教会総会の選挙結果とは異なる者に長老としての按手を牧師が執行したことから、一線を越えたと見て、分区三役や教区議長を交えての会談を当時の牧師と2月に持った。しかし話は平行線をたどり、3月にやむなく解任に至った。その後、私たちとしては後任牧師を迎える話をする気力はなく、代務として迎えた分区議長の下で礼拝を守り続けた。そして礼拝の中で力を得て、次の牧師を迎えたいという思いを持つようになった。そして次の牧師として現在の代務牧師がという線が示され、それは思ってもいなかったことであったが、逆に思ってもいなかったことであったからこそ、人間の意志としてではなく神様の意志として受け止めたいと考え、新しい牧師の招聘に至った」。

 

 その後、出席教会の代表者が一人ひとり挨拶をすることになりました。

 分区内にある、前任牧師が以前仕えていた焼津教会の長老が挨拶をなさいます。「今回、自分たちの牧師を送り出し、私どもはまた無牧になってしまった。しかし6年前に私どもの教会でも似たようなことがあり、無牧になったところで今の分区議長に来ていただいて助けてもらった。だから今度は自分たちが助けなければならない」と、断腸の思いで送り出している、と語ったのです。その後に別の教会牧師が、「今回の人事が成功するかどうかはまだわからない。それらは清水教会と焼津教会の長老や信徒の、これからの祈りの踏ん張りにかかっている」と語りました。

 これらのやりとりは、いわゆる台本通りに進んだものではありません。またやりとりの中には、隠蔽も美化もありませんでした。教会の苦しみや嘆きがはっきりと表れていました。そしてそれ以上に、礼拝の喜びによってそれらの困難から癒やされ、再び立ち上がり始めている人たちの姿がありました。

 

*全ての信仰者は主によって召し出されている

 

 今日の説教準備をする際、一週間前の出来事を思い出さないわけにはいきませんでした。そうしながら、ルターが記した註解書の、ある一節に目が留まりました。若きルターが修道院において規則や決まりによって閉塞の思いを持っていた時に、聖書を読み祈る中で発見したことがある。それは、「主の召し」とは何か、ということについて記す箇所です。地上の教会を見ていると、規則や形式で成り立っているかのように思ってしまう。少なくとも修道院では、そう教えられている。そして修道院長の一存で決まってしまい、修道院長の目の色を伺いながらおびえつつ、司祭になる準備をしている。やがて修道院長に呼ばれて教会に遣わされる。これでは、教会に遣わされることが、「主の召し」とは言えないのではないか。むしろ、十字架にかかり復活された主イエス・キリストによって私は召されている。そのことに祈りと聖書黙想の中で気づいた、というのです。

 主の召しを受けるというのは、ルターの場合は、司祭になるための召しという意味で使っています。しかし、主の召しというのは、洗礼を受ける際に、人が皆キリストから受けるものです。人の声を聞くのではなく、キリストの声を聞いて私どもは洗礼へと導かれる。

今回清水教会に伺って、主の召しを再確認するために、礼拝を重んじる方々の信仰に触れることが出来ました。苦しみと嘆きを正直に表しながらも、礼拝の中で与えられる神の恵みによって、再び立ち上がることができる。それは、まさに自力で恵みを実現するという「能動的な義」の重荷から解放され、受け身になって神様の恵みを受け入れるという「受動的な義」、すなわちキリストの恵みによって生かされる平安へと立ち返る姿と重なって参ります。

 

*白い悪魔の誘惑

ルターは更に重ねて、「白い悪魔を警戒せよ」という警告を記しています。律法を重視してガラテヤ教会を惑わした者たちを「白い悪魔」と呼ぶのです。

 ――悪魔には黒い悪魔と白い悪魔がいる。

 黒い悪魔は「神などいない」と言って天を仰ぐのをやめさせます。しかし白い悪魔は「神の恵みは存在する」と言うのです。ただし、「その恵みとは律法を守ることだ」と教える。

 白い悪魔には悪意はありません。しかし、「地獄への道は善意によって敷き詰められている」のです。ルターはここで、「全ての不幸な出来事は、神の名によって始まっている」というドイツに伝わることわざを紹介します。どんな信仰者であっても、黒い悪魔を受け入れることはありません。しかし、「福音を実現するために頑張ろう」「律法を重んじる生き方は悪くない」「力を合わせて自分たちの教会をもり立てよう」とささやく白い悪魔には、意外と無力であるのかもしれません。

 

*福音の平安

 

 そしてパウロは、ルターが言うところの「白い悪魔」に立ち向かうために必要なものは何か、それは福音への憧れであると今日の箇所で記すのです。彼は今日の箇所で、嘆いています。私どもはその嘆きの中に、福音を信じる姿勢を見出すのです。パウロは真のシャロームに対する強い憧れをガラテヤの信徒達に、そして私どもに、隠すことなく示すのです。彼が嘆いてみせるのは、ガラテヤの人々が福音の平安へとなお招かれ続けていることを示すためです。

 ですから、パウロの嘆きは、単なる叱責であるはずがないのです。パウロはガラテヤの人々が、真の「シャローム」、すなわちキリストの恵みによる平和から離れてしまったことへの、深い悲しみと、その平和を再び取り戻してほしいという思いを持ち続けています。パウロの嘆きを受け止めたときに、彼らは再び平和の中に招かれるのです。

 パウロは丁寧に、言葉を選びながら、次のことを伝えます。「他の福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではない」。

 福音は一つしかないのだから、一つの受け取り方しかないはずなのです。福音を聞いたのだから、それを聞いて喜ぶ、これです。そのことをルターは「受動的な義」と呼びました。赤子が無邪気に戯れる様子を、あるいはシャロームと声をかけ合いながら、お互いの様子を慮る交わりの様子を、あるいは隠蔽も美化もなく牧師招聘に至る様子を語る様子を思い浮かべます。私どもは、自分の力で頑張って神に認められようとするのではなく、あるいは自分たちの力で教会を盛り上げようと頑張るのではなく、ただ神様がキリストを通して私どもに無条件に与えてくださった平和の福音を、信じ、受け取るのです。これこそが、「受動的な義」であり、私どもに真の平安と慰め、そして人生を歩む上での力強い励ましを与えてくれるものです。

 

 

*結び

 

 パウロが平和の挨拶の直後に嘆きの言葉を記したのは、真の平和がどこにあるかを示すためでした。それは人間の作り出す表面的な平穏ではなく、福音によって与えられる深い平安です。

 この平安は、困難や試練の中でも私どもを支えます。教会が傷つき、人間関係が破綻し、期待が裏切られる時でも、福音の平安は変わることがありません。なぜなら、それは私どもの状況や行いではなく、神の愛と恵みに基づいているからです。

 今日、私どももこの福音の平安の中に憩うことができます。キリストにあって、私どもは神に愛され、受け入れられている。この確信こそが、真のシャローム――神の平和です。

 

聖餐の食卓が用意されています。広くなった内陣において、私どもはキリストの招きによって食卓へと集められている、ここに主の召しがあることを覚えます。私どもに、主の平和がありますように。        †

 

(画像は全て生成AI、一枚目が「平和の挨拶のために手を伸ばす人」、四枚目が「平和の挨拶のために互いに手を取り合う人々」)