キリスト者の過去と現在

2025/5/25 伊東教会礼拝説教


「キリスト者の過去と現在」(エフェソ2・1~10)

上田光正

 

 本日から、この手紙の第二章に入ります。ここでは、わたしどもが救われているとはどういうことかについて、もっと分かりやすく述べられています。


 しかし、まだ教会に来たことのない方にご説明しても、すぐにお分かりいただけるわけではありません。わたしは毎月自分の説教プリントを何人かの方に送っておりますが、そしてだんだんキリスト教に興味を持って下さるようになったことは、それこそ神様の不思議な御業としか思えませんが、そのうちの何人かの方は、「自分は宗教音痴で、宗教的なセンスがまるでないので肝心なところがどうしても分からない」とおっしゃいます。


その肝心なところとは何かと申しますと、やはり、キリストの十字架の愛と自分の罪のことです。わたしもそうでした。大学に入って、初めて教会に行って、なかなか分からないのが「罪」でした。特に自分の罪です。大学のYМCAの学生寮に住んでおりましたので、向かいの部屋の、普段から尊敬している三浦さんという先輩に、「罪って何ですか」と尋ねたのです。


その人はじっと考えてから、答えてくれました。「上田君、罪とはね、神様がお示しくださらないと誰にも分からないものなのだよ。しかし、イエス様の十字架を見上げて、それから自分の心の中をのぞくと、自分の本当の弱さや醜さや傲慢さなどが、分かるようになると僕は思うよ」、と。これはもちろん、その時のわたしには一度聞いても分かりません。


でも、神様が助けて下されば分かるというのなら、「神様、どうか、このわたしにも分からせてください」と祈れば必ず分かる、ということでもあります。この三浦さんの言葉が決定的なヒントになり、しばらくしてわたしは信仰が分かる出来事へと導かれました(そのことは去年のクリスマスの前の週の説教で、自分の育った家庭のことなどを交えてお話ししましたので、本日は割愛します)。



 本日は、神に祈る礼拝の場ですから、きっとどなたでもキリストの愛や御自分の罪を分からせていただけるきっかけは与えられると思いますので、ご一緒に御言葉に耳を傾けたいと思います。


* * *


 本日のところは、パウロが自分の立てた教会の信徒に向かって、その救いを知らなかった過去と、救われた後の現在について語っているところです。

この箇所を読むときに、わたしどもが決して忘れてはならないことがあります。それは、著者パウロはこの罪に支配されていた彼らについて、徹底的に過去のこととして語っているのです。罪に支配されている世界は、キリスト者にとっては、あくまでも過去の世界です。現在ではありません。それは、罪の恐ろしさを弱めるためではありません。むしろ逆です。罪とはとても恐ろしいもので、わたしどもの生きる意味や目的をすべて奪ってしまう。その結果、人間らしさを失わせてしまいます。わたしどもはむしろ、神の怒りのもとに、死んでいたも同然だ、と言っています。これは、人間をまことの命へと導くためには、キリストの十字架がわたしどもには《どうしても必要であった》ことを、語るためです。

どなたも考えやすいのです。


なぜ教会では、罪とか、神の御子がそのために死なれたといった陰鬱な面も――そればかりではもちろんありませんが、それも――しょっちゅう語るのか。「神様は誰をも愛してくださる、みんなで元気に頑張ろうではないか」、でよいのではないか、と。でも、そうではない。教会が、2千年の間、どうしても罪のことを語らなければならなかったのは、たった一つの理由からです。それは、神様の愛を語るためには、十字架のことを語らなければならないからです。それ以外の理由は何もありません。


罪はしかし、自分の心の中をのぞいて見るだけでは、なかなか分からないのです。イエス・キリストの十字架を見上げなければ、分からないのです。本日はそのことをお話ししたいと思います。


* * *


わたしどもは、少しぐらい自分を反省したぐらいでは、罪は分かりません。確かに、自分のわがままや、ちょっとした言葉が相手をひどく傷付けたことから少しは気が付くこともありますが、それは罪のほんの一部分です。なぜなら、罪とは、第一には、わたしどもが神を忘れ、せっかく神によって神の似姿にまで創られているのに、神に背いた生き方をして人生を台無しにしている、そのような、自分と神との関係で罪が生まれるのですから、神様の視点から見なければ、絶対に分かりません。そして、それは、聖書が教えてくれる見方で見る、ということなのです。


ですから本日は、聖書に導かれて、神がどのようにわたしどもを御覧になっておられるかに、注意を集中してみたいと思います。3節の御言葉をお読みします。


 「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」


 ここでのところはいきなり、「わたしたちも皆」、という語り方になっています。今までは、「あなたがたは」でしたが、それが「わたしたちも」に変わっています。これは何か、今までとは違うことを言おうとしているのでしょうか。そうではありません。「あなたがた」と「わたしたち」とは同じ人たちです。


ただ、その中に、著者パウロ自身も、意識的に自分を罪びとの仲間の一人に数え入れています。それは、罪は決して他人事ではない、「私と神」とのことだからです。特に、キリストの十字架を見上げるときには、自分は罪とは関係がない、とは誰一人として言えないのです。自分も罪を犯している罪びとの一人だ、という認識が、信仰を知るためには、とても大事なのですね。でないと、信仰のことは何もわかりません。キリストの十字架の愛は永遠に分かりません。


また、わたしどもは良い教会を一緒に建てようと、どんなに頑張ってみても、お互いに愛し合わないで相手を裁いてばかりいる場合には、絶対によい教会は建てられません。自分のことさえ何一つ分かっていないからです。

繰り返しになりますが、あくまでも重要なことは、まずイエス・キリストの十字架を仰ぎ見て、それから自分を知る、ということです。そして、十字架を仰ぎ見るということは、それを証ししているのはただ聖書だけですから、聖書に導かれ、聖書が証ししている通りの見方で見る、ということです。


* * *


先ほどお読みした3節の最後に、「(わたしたちは)生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とあります。「生まれながらに神の怒りの子」というのは、大変強い御言葉です。聖書で人間の罪について語った、一番強い言葉であると言われます。これは、すべての人は、罪を犯し、神様の御心に背く生き方しかしていない、「生まれながらの神の怒りの子だ」、と言うのです。


親が自分の愛する子の頭の上に自分の手を置いて、「これはわたしの怒りの子です」、と非常に苦しみに満ちた面持ちで語った場合、それは、親のどんなにか深い苦悩を言い表わしていることでしょうか。神はわたしども一人ひとりを、本当に自分の子以上に愛してくださっているのです。何しろその救いのために、愛する御子イエス・キリストを十字架上に死なせてまでして、お救いになったほどです。それはまさに、燃え盛る大火事のまっただ中に飛び込んで救い出してくれたようなものです。ですから、この神の怒りとは、何よりも、深い愛ゆえの怒りです。そしてその意味では、それ以上の深い悲しみでもあるのです。


深い愛であるゆえに、そしてしかし、わたしどもの救いを願われるがゆえに、決してわたしども自身を――過ちと迷いに満ちた、神の御心を知らず、御心を痛めて生きているわたしどもの上に――、激しく憎しみを爆発させたのでは断じてありません。そうする代りに、御自身の愛する御独り子イエス・キリストを犠牲とし、その十字架において、わたしどもの罪の重荷を御自身で全部背負い、わたしどもの罪を根底から担われ、取り除かれた、とここには書いてあります。それが、4節以下の御言葉です。少しゆっくりとお読みしますので、じっとお聞きください。


 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」。

 この御言葉の中に含まれている意味を、特に、「わたしたちをこの上なく愛してくださった」ということの意味を、別の言葉で皆様にお伝えします。


 ここにはまず、わたしどもの罪の裁きについて、語られています。神様は正しいお方で、正しくこの世界を統べ治めるお方ですから、わたしどもの罪を裁かず、曖昧にお赦しになることはなさいません。もしそうすれば、罪は永遠に残ってしまうからです。罪を罪として、わたしどもの罪を取り除くために、正しく裁き、そして完全に救われます。それが、御子イエス・キリストの十字架です。


しかしそれは、わたしどもを殺したのではなくて、御自身の最愛の御子を身代わりに、十字架上で殺し、わたしどもを生かしてくださったのです。/しかもその死を、御子イエス・キリスト御自身もまた、決していやいやとか、しぶしぶではなく、屠り場に引かれ行く小羊のように、父なる神の御心にどこまでも従順にお従いしました。最後まで十字架を降りようとはなさらず――すべて、わたしどもへの深い愛のゆえにです――、死と陰府のどん底にまで赴かれました。/それゆえに、父なる神はその御子の従順を大層お喜びになり、三日目に彼を死人の中から甦えさせられました。これが、イエス・キリストの三日目の御復活です。そして、わたしどもをキリストと共に復活させてくださったのです。そのようにして、わたしどもの罪を完全に赦し、罪を永遠に過去の世界へと押しやってしまわれたのです。

 罪を過去の世界へと押しやったとということは、もう決してわたしどもの罪を、一切合切、神さまは思い出さない。忘れて下さる。罪としてはもう認めない。罪としてカウントしない、ということです。そしてこれは、確定事項なのです。


これは、いったい、どういうことなのでしょうか。

 これは断じて、じゃ、これからは幾らでも罪を犯し、今まで以上に悪さをしてもよい、ということではありません。今までは神の裁きが怖かったが、もうこわくないから、好きなだけ罪を犯し、我がまま勝手に生きてもよい、ということでは、断じてないのです。いや、もう、そういう今までの生活は、出来なくなってしまったのです。これは神の愛の圧倒的な勝利なのです。なぜなら、神の御子の十字架は、神様の一人芝居ではありませんでした。それは決して、神さまが天の上で、ひとり合点なさったのではありません。決して天上で、神さまがお一人で考えて、《もう、人間の罪を一々真剣に取りあげても仕方がない。


もう、人間を一生懸命愛するのは止めにしよう。人間がわたしを捨てて滅びるなら滅びればよい、とお考えになったのではありません。それならば、神は人間を見捨ててしまわれたことになります。むしろ正反対です。そういう人間をますます深く憐れみ、御自分の全存在と全名誉にかけて真剣に愛しよう、と決心なさったのが、御子の十字架だったのです。なぜなら、それは天上ではなく、この地上で実行に移された出来事だったからです。ベツレヘムの馬小屋から、ゴルゴタの十字架までの出来事です。キリストの十字架と復活は、この世の真っただ中で、わたしどもの目の前で、起こりました。確かにそれを見ていた人びとは、人類の中のごく一部分でした。ですが、それは決して、神の微々たる勝利ではありません。むしろ決定的で、圧倒的な勝利です。それは文字通り、この世界に、限りなく大きな一大転換を起こしてしまったのです。なぜなら、自分たちの目の前で起こった十字架と復活の真相を知った彼らは、徹底的に心が洗い清められてしまったからです。つまり、神を真面目に信じる教会が生まれたのです。


彼らは自分たちが十字架の愛で愛されていることを自分の目で見、手で触るほどに確かに知ったからです。彼らはこの神に頼り、この神に感謝し、この神の愛し、この神の絶大な愛に信頼し、自分の身を委ねて生きるよう、と心に決めました。そして、どこまでも主に従おう、と思いました。そして主は、彼らの罪を赦し、彼らに神の子としての資格を与え、神を愛し、隣人を愛する心を与えられました。


なるほど、その教会は初めは世界の片隅の、ほんの120名ばかりの小さな集団だったかも知れません。しかし御承知のように、その小さな集団はどんどん大きくなり、民から民へ、国から国へと、世界中に広がったのです。彼らはもはや、お互いに裁き合うことはせず、お互いの罪を赦し合い、お互いのことを祈り合い、愛し合って生きるようにさせられて行ったのです。だから、神の勝利だったのです。神は罪の力からわたしどもを取り戻されたのです。


* * *


 では、このことによって、わたしども人間にとっては、どのような変化が起こったのでしょうか。それは、罪に支配されていた人間の生活が、過去の世界に押しやられた、ということです。

わたしどもの過去の世界とは、少し後の方の、2章12節の御言葉ですが(次頁にあります)、「あなたがたはこの世の中で、希望を持たず、神を知らずに生きていました」と言っています。過去の世界とは、この世で希望もなく神もない世界です。神がいないということは、頼るべき心の支えがないということです。わたしどもはキリストの十字架の愛を知らない間は、神を知らず、自分の欲望のままにしか生きることが出来ません。毎日は不安であり、老いを恐れ、病を恐れ、死を恐れてしか生きられません。他者にはなかなか心を開けず、ひたすら自分ひとりの幸福と安全、仕事や商売に心と時間を奪われ、己の満足を求めることしかできません。そんな一章を、みんな過ごしています。


そして、ご存じのように、自分のため、自分の幸福のためだけに生きるということは、とてもむなしいことなのです。何よりも、希望がないのです。希望がないということは、いつか死を迎え、それで終わりだ、ということです。

しかし、それは全部、キリストの十字架によって、わたしどもにとって、過去のものとなったのです。


* * *


わたしどもの現在については、5節と6節に書いてあります。こう書いてあります。

 「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたが救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」

ここには大変驚くべきことが書いてあります。特に、「キリストと共に天上で王座に着かせていただいた」というのは少しわかりにくいでのすが、これは要するに、洗礼を受けることによってわたしどもが神の子とされ、自分が救われているという強い確信が与えられることです。そして、御国への確かな希望を与えられることです。


罪が過去の世界に行ってしまった、ということは、必ずしも、もう罪を犯さなくなった、という意味ではありません。そうではなく、キリストと結ばれて、キリストの復活の勝利に与らせていただく、ということです。それが洗礼です。わたしどもが受けた洗礼とは、主の十字架を確信出来るためのものです。主イエスが御自身の手をわたしどもの頭の上に置かれ、そして、「これはわたしの怒りの子だ」ではありません。「これはわたしの愛する子だ」。「わたしは永遠にあなたを愛する。あなたを必ずわたしの父の家、天の御国に連れて帰る」、と宣言してくださることです。そうすると、わたしどもはキリストのものとされ、わたしどもとキリストとは、固いきずなで結ばれます。


主はそのきずなをわたしどもと結ぶために、十字架にお掛かりになった、とも言えます。ですから、もう、罪の力を、必要以上に恐れる必要はないのです。もちろん、わたしどもは自分の肉の弱さのゆえに、あるいは無知や愚かさのゆえに、生きている限りはずっと、罪を犯し続けることは事実です。それはちょうど、たき火に水をかけていったん消しても、燃えさしがしばらく残っていて、時々小さな炎がぼっこりと燃え上がるように、わたしどもの心の中には罪がまだ残っています。しかしわたしどもは、もう、前のように自分一人で生きる不安や孤独や人生の虚しさとは無縁となりました。ですから、それらがわたしどもをキリストの愛から引き離すことはできません。


そして何よりも、主は、まさにそういう、弱くてすぐに罪を犯してしまいやすいわたしどもをこそお救いになるために、喜んで十字架にお掛かりになったのです。わたしどもが弱いからこそ、その十字架がわたしどもの罪に勝利したという、絶対に動くことにない出来事が既に確立していることが、限りなく尊く、絶大な意味を持っています。そしてわたしどもも、自分が弱く、愚かで躓きやすい者であるからこそ、主の十字架が常に必要であったのです。そのために、聖餐があります。


主は決して、弱い者や小さい者をお見捨てにはなりません。むしろ反対です。「だれでも重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい」(マタイ11・18)とおっしゃいます。そして、わたしどもが主の十字架を信じて生きるために、教会をお立てになったのです。それですから、わたしどもはいつでもそこに帰れます。「そこ」というのは、第一には主の十字架の救いですが、第二に教会です。


その意味において、罪の世界は永遠に過去のものとなりました。この神の御子の十字架に、わたしどもは希望を置くことが出来ます。どうか、一人ひとりが、そして、わたしどもの伊東教会の全体が、そのように生きられますよう、ご一緒に祈りましょう。