委ねて与えられる平安

2025/05/11 復活節第三主日礼拝説教 


「委ねて与えられる平安」 創世記43章1~34節                    牧師 上田文

 

シャロームという、ヘブライ語があります。平和とか平安という意味の言葉です。この言葉を使った歌があります。このような歌詞です。歌詞には、平和とありますが、ここでは、平安と置き換えて読んでみます。「平安、初めて知った。イエスに出会ってから。平安、それは湧き上がり、満たし、生かす、私たちの心を」。平安や平和という言葉は、私たちに馴染みのない言葉ではないと思います。戦争や、争いのない、静穏(せいおん)な状態、そう考えるかもしれません。しかし、この歌は、平安を何もない静かな状態とは捕えていません。むしろ、私たちを完全に満たし、いきいきとさせる力強いものとして、歌い上げるのです。

 今日、私たちが耳を傾けるのは、ヤコブと、死んだと思われているヤコブの息子ヨセフが、神さまによって再び平安を与えられる物語です。この物語をとおして、平安とは、何も変わらない、何も起こらない、静かな状態ではない事が明らかになります。平安は、神の国を目指す私たちの歩みの、確かな土台となるのです。そのことについて、今日の物語に耳を傾けてみたいと思います。

 

以前の創世記42章の説教では、親子の対立を続けていた、ヤコブの息子たちが「もう、家族の誰も失いたいたくない」という父の愛を知った話をしました。しかし、この章は、家族のみんなが幸せになって、終わったとは書かれていません。最後の節(せつ)には、このようなヤコブの言葉が書かれています。「いや、この子だけは、お前たちと一緒にいかせるわけにはいかぬ。この子の兄は死んでしまい、残っているのは、この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆(ひたん)のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのだ」(38)。息子たちは少しずつ変わり始めたかもしれません。しかし、父はまだ疑いの中にいるのです。息子たちを疑っています。そして、恵みの主である神をも、疑ってしまっているのです。大切な息子ヨセフの命が取られてしまった。この陰府の力を前に、父ヤコブは打ちひしがれ、座り込んでいるのです。

 

 そして、今日私たちが読むのは、その後の話です。飢饉はひどくなるばかりです。息子たちがエジプトから持ち帰った穀物は、もう食べつくしてしまいました。イスラエルの家族は、また命の危険にさらされるのです。そのような絶望的な状況の中で、ヤコブが息子たちに、このように命じます。「もう一度行って、我々の食糧を少し買ってきなさい」。この「もう一度行って」という言葉は、「帰れ、戻れ」という意味の言葉で書かれています。エジプトに帰れとヤコブは命じたのです。ヤコブも息子たちも、エジプトに戻らなければいけないことは、充分に分かっていました。なぜなら、エジプトには彼らの兄弟シメオンが囚われているからです。しかも、状況はさらに悪くなっている可能性があるのです。この家族は、銀を盗んだという疑いをかけられているかもしれません。さらに、目の前の家族が、お腹を空かせて命が危なくなっています。エジプトに行かなければ、食糧がなくなりヤコブ一家は全滅してしまいます。しかし、この家族は、何故かエジプトに行くのを拒(こば)むのです。それは、息子たちだけではありません。ヤコブも「エジプトに帰れ」と息子たちに命令しながら、心の奥底では、息子たちがエジプトに行くことを恐れているのです。もうこれ以上家族を失いたくない。末の息子まで死んでしまったらと思うだけで、再び家族をエジプトに送ることができなかったのです。息子たちも、また、エジプトに行く事を恐れていました。エジプトは訳の分からない質問をされて、牢にまで入れられた、悪夢のような場所です。しかし、息子たちが、エジプトに出発しない理由は、これだけではありませんでした。弟ヨセフの命を狙(ねら)った。彼らはその拭い去ることの出来ない罪を背負っていました。そしてこの罪のために、この兄弟たちは、父の信頼を失ってしまいました。信頼を失ってしまった息子が、父の下で生きるためには、無条件に父の言う事に従わなければいけません。父の許可なしに、ベニヤミンをエジプトに連れて行くことなど、到底できなかったのです。ヨセフの兄たちは、過去の罪のために、父の前で自由に生きることが出来なくなっていたのでした。このような、状況が積み重なり、結局、ヤコブと息子たちは、エジプトに行かなければならないと思いながら、ずるずるとエジプト行きを伸ばし続けていたのでした。

 

 しかし、このままでは、なにも解決できません。そのとき、一人の息子が立ち上がりました。ユダです。このユダは、将来、イスラエルの12部族のユダ族の先祖となる人物です。ユダ族は、南ユダ王国を作り、政治的にも強い影響力をもつ、ダビデ王朝を築いた部族でもあります。そのユダが、父をこのように説得したと聖書にあります。「あの子をぜひわたしたちと一緒に行かせてください。それなら、すぐにでも言って参ります。そうすれば、我々も、あなたも、子どもたちも死なずに生き延びることができます。あの子のことはわたしが保証します。その責任をわたしに負わせてください。もしも、あの子をお父さんのもとに連れ帰らず、無事な姿をお目にかけられないようなことにでもなれば、わたしがあなたにたいして生涯その罪を負い続けます」。このようにすれば、我々兄弟も、父であるあなたも上手く生き延びる事ができるはずだ。年下の兄弟のために、自分自身を提供するので、どうかエジプトに行かせてくれ。もし、うまくいかなかったら、一生罪を負うとまで言って、ユダは父を説得するのです。ヤコブは最終的に、ユダの話に応じるのですが、しかし、わたしたちはここで、一つの疑問を抱かざるを得ません。はたして、このような説得方法でヤコブは納得したのだろうかと思うのです。何故なら、もう既に、同じような事を兄であるルベンが父に向かって話しているからです。そして、ルベンの話を聞いたヤコブは、結局、何も変わらず依然として、座り込んだままなのでした。

では、ユダの言葉の何が、ヤコブを動かす事になったのでしょうか。それは、次の言葉にあると思うです。「こんなにためらっていなければ、今ごろはもう二度も行って来たはずです」(10)。この言葉を正しく訳すと「わたしたちが、こんなにためらっていなければ、今ごろは、もう二度もわたしたちは、エジプトに行って来たはずです」となります。「父であるあなたがためらっていなければ」と言ったのではありません。また、「息子である自分たちがためらっていなければ」と言ったのでもありません。「わたしたち皆が」、「家族であるすべての者がためらっている」。家族全体が足踏みをして、座り込んでしまっている。そうでなければ、私たちは、すでにエジプトに行っていたはずだとユダは父に訴えかけたのでした。「わたしたちが」。この言葉は、ばらばらになっていた父と息子たちが、一つに吸い寄せられるような言葉であったと思います。そして、勇気のいる言葉だったと思います。父ヤコブが、息子たちを責任のある大人だと見ていなかったら、この言葉は全く通用しません。それどころか、かえって父を傷つけてしまう言葉になったかもしれません。しかし、ユダの言葉は、ためらって立ち止まってしまったヤコブの家族に大きな転回の機会を与えることになったのでした。「わたしたちが、ためらっていなければ」という息子の言葉を聞いて、ヤコブは、立ち止まってしまった数年間を振り返る機会を与えられたのかもしれません。息子たちも同じです。父にだけ責任をなすりつけて、自分たちが責任のがれをしていたのならば、この言葉は出てこなかったと思います。「わたしたち」というユダの言葉は、家族が初めて真に一つとなって一歩を踏み出すことになる、不思議な言葉となったのでした。

 

 様々な事が、この一言をきっかけに少しずつ動き始めました。そのような中で、父ヤコブは、これまで座り込んでいた時とは、全く違う態度を見せ始めます。「どうしてもそうしなければならないのならば」と、息子の言葉を受け入れ、息子を信頼しながら、多くの土産(みやげ)をエジプトに持って行くように用意させます。そして、銀も二倍用意させ、弟ベニヤミンを連れて、早速その人のところ、エジプトへ帰りなさいと言うのです。ヤコブは、成長した息子の力添えを始めたのでした。贈り物を持っていくことは、ヤコブやその息子の誠実さの現れとなります。かつて、ヤコブは叔父であるラバンや兄であるエサウにも、贈り物を沢山用意して、和解を果たした経験をしています。ヤコブは、エジプトで息子たちの身を守り、人質となった息子を返してもらい、食糧を与えてもらうために、自分が知っている一番良い方法を息子に教えたのでした。

それだけではありません。ヤコブは、再び神さまの祝福を受けるイスラエルとして、神さまに従う力を取り戻します。ヤコブはこのように言いました。「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施(ほどこ)し、もう一人の兄弟と、ベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子どもを失わなければならないのなら、失ってもよい」。全ては、創造の主である神さまの祝福の約束から始まった。そして、祖父アブラハムに父イサクという命を与えられたように、自分には、息子たちと、愛する末の息子ベニヤミンを与えられた。彼は、この祝福を再び思い出したのでした。神さまの創造の御業を、再び信じるようになったのでした。その時から、ヤコブは、神さまの御計画に再び期待する事が出来るようになりました。「全能の神さまの憐れによらなければ、息子たちの命も、愛するベニヤミンの命も与えられなかった。だから、その命を主が取られるのであれば、それもまた神のものとして受け入れよう」。この言葉は、ヤコブの信仰告白の言葉のように聞こえます。ヤコブは、このように告白しながら、自分が掴(つか)んでいると思い込んでいた全ての物を、つまり、家族も家畜も準備した、贈り物も、銀も、そして、ベニヤミンまでも、自らの人生そのものを、主に委ねたのでした。それは、私たちが想像もつかないほどに、勇気のいる事だったことでしょう。しかし、この事をやってのけるヤコブは、確かに平安の中にいる。そのことを、聖書を読む私たちは、伺(うかが)い知ることが出来ます。

また、「全能の神さまの憐れみによらなければ、息子たちの命も、愛するベニヤミンの命も与えられなかった。だから、その命を主が取られるのであれば、それもまた受け入れよう」という言葉は、父から息子たちへ、信仰を伝える言葉にもなりました。命はすべて主なる神さまの恵みであり、賜物である。わたしたちの命は、主なる神さまの恵みによってのみ生かされている。父ヤコブの言葉を通じて、神さまの恵みを知った息子たちは、初めて自由を味わったと思うのです。彼らはこれまでずっと、「自分たちは、父に愛されていないのではないか」。「何とかして愛されたい」という思いに捕らわれていました。そのため、父にさまざまな事をしてきました。努力し、こびへつらい、また父の見えないところでは、激しく争ったり、意地悪をしたりもしました。しかし、そのような努力は、彼らが望むような実を結ぶことはありませんでした。自分たちが犯した罪に束縛され、さらに、父に信頼されたい愛されたいという切実な思いに、ますます束縛されていくだけなのでした。

けれども、その父が、教えてくれたのです。「あなたたちは、神さまの恵みによって、生かされているのである。あなたたちが、ここに生きている。その事自体が特別なことであり、あなたもわたしも神さまの愛の証なのだ」と。これは、父が息子へ語る、深い愛の言葉となりました。そして、それは、父を通して語られる神さまご自身の言葉ともなりました。この言葉を聞いた時、息子たちの心にあった父に対する長年のわだかまりは、解け去ったのだと思います。わだかまりが解けた瞬間、ヨセフの兄たちは、神さまに愛されて、全てを神さまに委ねて自由に生きるという、かけがいのない喜びを知ることができたのです。この自由さと平安のもとで、ヤコブと子どもたちは、これまでにない程しっかりと結び合わされたのです。

 

 全能の神さまの前に立たされる喜び。神さまに愛されて、初めて知る真の自由。そして、平安。それは、私たちが教会で知る事の出来る恵みです。例えば、私たちは、教会でさまざまな奉仕の機会が与えられているように思います。神さまに献身する喜びを与えられているのです。しかし、その一人一人の働きを見る時、私たちは多くの不満を抱いてしまうのではないでしょうか。「あの人が、このように働いてくれたらもっと上手くいくのに」。「もう少し、私の事を大切に用いてくれたらいいのに」。「もっと分かりやすく説明してくれたらいいのに」と、奉仕を通じて、私たちはさまざまな思いを抱きます。一人一人が、真剣に誠実に奉仕をしているからこそ生(しょう)じて来る、避けられない問題なのかもしれません。しかし、そのことにより、全体が全く上手くいかなくなることもあります。一人一人が、自分が掴んでいると思い込んでいるもの、つまり、自分の思いにこだわりすぎて、全く前に進まない。ヤコブとその家族の経験は、私たちの経験でもあるように思います。しかし、そのような私たちに向かって、ヤコブは静かに、しかし力強く教えてくれるのです。「全能の神さまの憐れみによらなければ、わたしたちは命も与えられなかった。わたしたちは、神さまの恵みによって、生かされているのである。あなたもわたしも、神さまの愛の証なのだ」と。神さまの愛を知るとき、私たちは自分の全てを神さまにお委ね出来るように思います。自分で掴んでいると勘違いしているさまざまなものを、全て神さまの御手に明け渡すことが出来るように思います。自分の思いも、命も全てを神さまに委ねる。その時に、私たちは初めて神さまの御前に、何の恥ずかしさもなく、立つ事が出来るようになると思うのです。自分の何かを無理にアピールしなくても、神さまはわたしたちを良い物として用いてくださるのです。そのとき、私たちは、初めて、真に自由に、平安の中で、喜びを持って心から奉仕ができるようになると思うのです。そして、神さまの御前に立たせていただいた、ヤコブと息子たちがそうであったように、私たちもまた、初めて一つとなる事が出来るのです。主イエスが建ててくださった教会に自分自身の全てを捧げ、前進し続ける事が出来るようになるのです。ヤコブの言葉は、その恵みを確認させてくれる言葉なのです。

 

 けれども、ヤコブの家族、イスラエルの家族が完全に神さまの御前で、神さまの愛により生き始めるのは、まだまだ先の事です。15節からは、ヤコブの息子たち、つまりヨセフの兄たちと弟であるベニヤミンが、再びエジプトに下って行った時の話が書かれています。

 ヨセフの兄弟たちが、あのエジプトの総理大臣、即ちヨセフに面会を求めました。聖書には、「一行がヨセフの前に進み出ると、ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、自分の家を任せている執事に言った。『この人たちを家へお連れしなさい。それから、家畜を屠(ほふ)って料理を調えなさい。昼の食事をこの人たちと一緒にするから』」と言ったことが記されています。兄たちは、緊張して、気を引き締めて総理大臣との面会に備えたと思います。ところが、以前とは違って、総理大臣の家来が親切に近づいて来て、主人の家へお連れしますと言うのです。なぜ。どうして、エジプトのお偉い方の家に連れて行かれなければいけないのだろう。兄たちは、心配になったと思います。この先どうなってしまうのだろうか。そうだ。あの銀のせいだろうか。それならばあの銀の事について説明しよう。しかし、正直に説明し、無実を訴えたとしても、総理大臣が、それは嘘だと言えば、嘘になってしまうのではないだろうか。考えれば考えるほど、事態は、悪い方に進むばかりです。ベニヤミンを無事に父のもとに返すどころか、自分たち全員が奴隷にされてしまうことになります。兄たちは、ヨセフの家に近づけば近づくほど、父の語った祝福の言葉を忘れ、不安に苛(さいな)まれるようになったのでした。

 

 今までの人生が、予想もしなかった出来事に急変してしまう。祝福の中にいるはずなのに、全くそのように感じられなくなってしまう。神さまは、なぜこのような事を私たちにさせるのだろうと分からなくなり、不安になってしまうという事は、ヨセフの兄だけでなく、私たちも経験する事のように思います。それは、予期せぬ病気であったり、大切な家族との突然の別れであったり、また、教会生活の中で起こる人間関係の摩擦であったりするかもしれません。そのような時、私たちは、ヤコブの息子たちがそうであったように、不安の力に負けてしまい、神さまを見上げることさえ出来なくなってしまうのです。ヤコブが、息子たちと、そして私たちに教えてくれた「どうか、全能の神が憐れみ施してくださるように」という祝福の言葉を忘れてしまうのです。

 

 不安と恐怖に包まれた、ヤコブの息子たちは、神さまに全てを委ねて、神さまと共に歩む事を忘れてしまいました。しかし神さまは、祝福を与えると約束したイスラエルの息子たちと、それに続くわたしたちを、とても忍耐強く、導いてくださっているのです。

ヨセフの兄たちの深い不安を察したのでしょう。ヨセフの家を任されている執事は、彼らにむかってこのように言ったと聖書は伝えています。「ご安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋にいれてくださったのでしょう」(23)。ヨセフの執事は、エジプト人でした。そして、ヨセフと兄たちが、実の兄弟であるという事を知らされていなかった可能性があります。つまり、彼はただヨセフの忠実な執事であり、この一連の出来事とは、全く関わりのない人物だったと考えられるのです。しかし、全くの部外者であったからこそ、見えてくるものがあったのかもしれません。執事は以前、この人たちが来た時、主人はとても悲しそうな様子だったのを覚えていました。でも、今回は、なんだかうれしそうに見える。決して、怒っているのではない。目の前にいるこの人たちが恐れている状況とは、全くかけ離れている事が起こっているのではないか。そう感じたのでしょう。「安心しなさい。心配することはない。」「恐れることはない」。この言葉は、全くの部外者であった執事だからこそ、何の打算もなく、純粋に語ることが出来た言葉なのかもしれません。執事はさらに続けます。「きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう」。執事が、イスラエルの神をどこまで知っていたか定かではありません。しかし、目の前で不安と恐怖に打ちひしがれるヨセフの兄たちの姿を見た時、彼らを少しでも安心させたいという純粋な思いから、自然にこの優しい言葉を語ったように思えるのです。

執事にとっては、何気ない優しさを表す言葉でした。しかし、聖書を読む私たちは、執事の語る「安心しなさい。シャローム」という言葉が、主なる神の愛の言葉として響いてくるのです。今もなお不安の中で生きる私たちに、聖書の中から、神さまが「シャロームを思い出しなさい」と語りかけてくれているとさえ、感じられるのです。それは、神さまの聖なる霊が今ここで働いているからに他なりません。シャロームは、いつでもどこでも、主なる神さまにより降り注がれている。困難の中にある、ヤコブの兄たちにも、私たち一人一人にも確かに届けられている。聖書はその揺るぎない真実を私たちに教えてくれるのです。

 

シャローム、平安は、自分の家に兄たちを招き入れた総理大臣ヨセフにも、深く与えられます。兄たちの面会の申し出を受けたヨセフは、どのような気持ちで家に帰ってきたのでしょうか。複雑な感情が彼の胸を渦巻いていたと思います。次は何が起こるのだろうと、ヨセフもまた不安を感じていたかもしれません。しかし、そこにいる末の弟ベニヤミンを見た瞬間、ヨセフは、突然、ベニヤミンに向かって祝福の言葉を口にするのです。「わたしの子よ。神の恵みが、お前にあるように」。それは、かつて息子たちに「どうか、全能の神が、その人の前でお前たちに憐れみを施してくださるように」と祈った、父ヤコブの祝福の祈りを思い出させます。この父ヤコブの祈りが、ベニヤミンを通して、遠く離れた地で、もう何十年も父にあっていないヨセフに届いたに違いありません。ヨセフは、父の祝福を携えてきたやって来た弟に対して、祝福を与えることで、父に応答するのです。

また、ヨセフは、ベニヤミンを見て、抑えきれない懐かしさに襲われました。ヨセフは、奥の部屋に入ると泣いた(30)とあります。原語に忠実に読むと、「ヨセフは神の憐れみを思い泣いた」と訳すことができます。ヨセフは、間違いなく、憐れみを祈る父の祝福を受け取っているのです。父の愛が、そして、神さまの祝福と平安が、時も場所も超えて、ヨセフの降り注がれる瞬間でした。

そして、それと同時に、ヨセフは自分に夢を見せた、神さまの祝福のご計画を強く感じ始めたのでした。神さまは、自分を通して、救いのご計画を実現しようとされていると、確かに感じ始めました。ヨセフもまた、遠く離れたエジプトの地で、神さまの祝福のご計画を実現する恵みを与えられたのでした。

 

神さまの祝福をいただき、神さまの御国が完成するために遣わされているのは、私たちも同じです。今、この伊東教会で礼拝を捧げる私たちは、ヨセフの時代からも、ヨセフの住むエジプトの地からも遠く離れた所にいます。しかし、聖書を読むとき、ヨセフとその兄弟たちに与えられた祝福が、今、自分にも及んでいることを感じることができます。ヨセフが経験したのと同じように、神さまの祝福は時空を超えて私たちに与えられることを、私たちは経験しているのです。アブラハムの神さまは、過去の出来事として語られるお方ではなく、今も生きて、私たちに強く働いていてくださり、私たちの全てをその福音のご計画の実現のため用いてくださるのです。

 

「なぜ怖(こわ)がるのか。信仰の薄い者たちよ」(マタイ8:26)。これは、荒れ狂う嵐の中で、弟子たちに、主イエスが言われた言葉です。どのような時も、主なる神さまが、いつも私たちと共にいてくださいます。この深い愛で私たちを包んでくださる神さまに、喜びの時も、そして深い恐れの中にいる時でさえ、全てをお委ねし、信頼し、歩みたいと思います。わたしたちを大切にしてくださる、この方は、いつも変わることなく、私たちに深いシャローム平安を注ぎ続けてくださっているのです。そのことに感謝したいと思います。