それでも使徒と呼ばれて

2025/05/04 復活節第二主日聖餐礼拝説教 


それでも使徒と呼ばれて(ガラテヤ書説教第一回)

聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節説教 

牧師 上田彰

 

*肩書きと、神さまからの呼びかけ

 

 昨日、隣のカトリック教会で行われた創立75周年記念式典のミサに参列しました。礼拝にふさわしい黒のスーツを着て出かけました。その際、少し迷ったことがあります。「名刺を持っていくべきか?」ということです。

普段、何か社会的な会合で人と会う時は、名刺を交換することがよくあります。私の灰色のスーツのポケットには、いつも名刺が入っています。でも、教会関係の集まりで着る黒のスーツの時には、名刺を使うことはほとんどありません。私ども牧師や教会員にとって、教会の中では社会的な名刺交換は、どうも馴染まないことのように感じられるからです。

 

 名刺を受け取る側からすると、そこに書かれた「肩書き」は、その人が社会的にどんな人物か、どれだけ認められているか、ということを判断する手がかりになりますよね。もちろん、私自身は「牧師」という肩書きを担うことに、大きな意味と責任を感じています。それは、神さまが一人の人間を、ご自身の僕(しもべ)として呼んでくださる時の、大切な呼び名だと考えているからです。

 でも、社会的な物差しで見れば、「牧師」という肩書きは、必ずしも高く評価されるものではないかもしれません。名刺を受け取った相手が、「大したことない肩書きだな」と思ってしまうこともあるでしょう。

 

 そんな時、たとえ社会的な評価で軽んじられても、それでもいいと思えるような方々の姿を思い出します。10年ほど前、日本キリスト教学会が広島であった時のことです。私はそこで、多くの著名な学者の方々にお会いしました。本でしか名前を知らなかった、大きな影響を受けた方々が目の前を歩いています。皆、胸に名札をつけています。あるキリスト教主義大学の元学長先生が、その輝かしい大学名を名乗るのではなく、ご自身の「〇〇教会員」という、信仰者としての身分を名札に掲げておられました。本当にささやかなことかもしれませんが、「私自身も、ささやかで良い。神の前でいただいた『牧師』という呼び名を大切にして歩もう」と、その時強く思わされました。

また、日本の教会の歴史において、大きな影響力を持った植村正久牧師は、旅館の宿帳に肩書きを書く際に、「伝道者」と記したと伝えられています。社会的な地位や功績ではなく、神さまからいただいた「伝道者」「教会員」という身分にこそ、自らの本当の「肩書き」を見出しておられたのです。「主が私のことをなんと呼んでくださったのか」。その呼びかけをいつも意識して生きる。その大切な姿勢を教えられます。

 

 私どもは、別に声高に「私は牧師です!」「私は教会員です!」と周りにアピールして歩く必要はありません。しかし、これらの呼び名を、単なる教会内部での役職や所属を示す「肩書き」として限定して捉えるものでもありません。これらの呼び名は、単なる社会的な肩書きとは全く異質な、私どもの存在の根幹に関わる、神さまご自身が私どもに与えてくださったかけがえのない「身分」であり、そして「召し」を表す言葉だからです。

この神さまからの身分と召しは、教会関係の集まりの中でのみ意味を持つものではありません。私どもが一歩教会の外に出て、社会生活を送るあらゆる場面においても、常に私どもと共にあり、その生き方を形作っています。私どもは、心の内では、その信仰者としての身分と神からの召しを密かに、しかしはっきりと意識し、その自覚をもって世の中に立つのです。

 

 昨日の式典ミサの説教の中で、司祭の方が最近の教皇選挙をテーマにした映画に触れ、印象的な台詞を紹介されました。教皇を選び出す枢機卿たちが激しく議論する中で、「選挙をしているんだぞ。戦争をしているわけじゃない」と諫める一人の枢機卿に対して、別のある枢機卿が「戦争をしているんだ!」と応酬する場面が描かれているのだそうです。

 もし「教皇」とか「枢機卿」といった、ローマ教会において最高位にある肩書きが、単に政治的な力や影響力を持つための目標となり、選挙が陣取り合戦のようになってしまうとしたら、一体その教会をどのように見ればいいのでしょうか。陣取り合戦を勝ち抜いた人は、その教会の中では「教皇」となるのかもしれませんが、教会を越えて、例えば私ども福音主義教会の信仰者が尊敬することはもうできなくなってしまいます。司祭はその昨日の説教の中で、「まさに現在教皇選挙が行われている真っ最中ですが、自分たちのグループの代表者の為にだけ祈るのではなく、教皇選挙に関わる全ての枢機卿のために祈ろう、私たちの祈りは教会全体に向けられなければならない」、と語っていました。神様によって与えられた「肩書き」や「務め」が、世俗的な権力争いの道具と化してしまうことがないよう、ローマから遠く離れたこの地においても、祈りによる戦いがなされ、ローマ・カトリックを真実の教会にするための信仰的努力がなされているのだ、と感じる一瞬でした。

私ども福音主義教会も、教会が教会であるということを同じ意味で意識せねばと思わせる瞬間がないわけではありません。教会において社会的な肩書きが幅を利かせたり、教会の中での役割、地位といったものに囚われてしまう危険性があるからです。

 

*「使徒」と呼ばれて

 

 一人の主の僕が、そのような危険と戦いながら、神さまから与えられた「使徒」という呼び名を全うした人物がいます。使徒パウロです。私どもは今日から、彼がガラテヤにある諸教会に送った手紙を、一年近くかけて読み進めて参ります。この手紙は、パウロが伝道者として大きな影響力を持つようになっていた時期に書かれました。

しかし、彼の働きや権威に対しては、様々な批判がありました。中には単なるやっかみもあったでしょう。ですが、もう少し丁寧に考えておくべき批判もありました。それは、彼の「使徒」という肩書きについて、「パウロは使徒を自称しているが、あれは偽物の肩書きだ」という言い分です。なぜ、パウロの「使徒」という呼び名が、これほど問題になったのでしょうか?

 当時の教会では、「使徒」という言葉は、イエス様が地上におられた時に直接呼び集められた12人の弟子たち、そして後に選ばれたマティアを含む十二使徒のためにある特別な称号だと考えられていました。彼らはイエス様と共に生活し、その教えを聞き、何よりも復活の証人となった人々です。教会はこの十二使徒こそが、イエス様から直接立てられた、教会の正当な代表者であると考えていました。それ以外の奉仕者は、執事や長老といった別の役職で呼ばれるべきだと区別していたのです。使徒言行録でも、これらの役職は区別されています。

このような考え方からすると、パウロはイエス様が地上におられた時に共に過ごしたわけではありませんから、「使徒」と名乗るのはおかしい、偽物だ、ということになったわけです。「パウロは確かに熱心に働く伝道者だが、使徒という特別な称号を名乗る必要はないのではないか?」このような批判があったのです。

 当時の人々の中には、「使徒」とは、単にイエス様と共に過ごした歴史的な人物であり、特別な権威を持つ「置物」のような存在であっても、そこにいるだけで教会とイエス様との繋がりを保証してくれる、と考えていた向きもあったかもしれません。実際の伝道や教会形成は、執事や長老がすれば良い、パウロもそちら側の人間に過ぎない、なぜ使徒を名乗るのか――そんな思いがあったのでしょう。

 

では、パウロはなぜ、それでも自分を「使徒」と名乗り続けたのでしょうか? 彼は本当にイエス様に直接会ったことがなかったのでしょうか? パウロ自身は、コリントの信徒への手紙一の中で、復活されたイエス様を見たことがある、と明確に述べています(第一コリント9章1節、15章8節)。それは、彼がダマスコ途上で経験した、あの劇的な出来事です。

パウロは、かつてのダマスコ途上で起こった体験を思い起こすのです。キリスト者を迫害しようと鼻息荒くしていたところ、なぜ私を迫害するのかという声を聞きます。その声は周りの者にも聞こえていたとパウロは後に証言します。皆が聞いていた声によって、自分一人が召された。「使徒」とは、人間の手によって与えられる肩書きではなく、神ご自身が、復活された主イエス・キリストを通して与えられる、「召し」としての肩書きなのではないか。物理的にイエス様と共に過ごしたかどうかではなく、神様ご自身が私を召し派遣してくださる。だからパウロは使徒と名乗らざるを得ない。

 パウロは、自身の使徒性を、人間的な経歴や資格、あるいは他の使徒たちからの承認に求めたのではありません。今日読んだガラテヤ書の冒頭で、彼ははっきりと述べています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(ガラテヤ1章1節)。

さらにパウロは、第一コリント9章で、別の角度から「使徒がなす務め」について語っています。そこでは、「福音のために全てをなす」(9章23節)と述べており、教会に仕え、人々の弱さに配慮し、福音宣教のために献身的に働く姿を「使徒的」なあり方として示唆しています。この定義に従うなら、神からの召しに応えて、教会や隣人のために献身的に仕える人々は、現代においても様々な形で「使徒的な働き」を担っていると言えるでしょう。私どもがCSや礼拝準備の、また発送、問安の奉仕にあたるときに、パウロが使徒と名乗ったときの心境を思い起こすのです。

 

*神の恵みと、主にある平和

 

 パウロは、自身の「使徒」としての働き、そしてその驚くべき成果について、決して自分の力や努力を誇ることはありませんでした。第一コリント15章10節で、彼はこう告白しています。

 

 わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

 

パウロの伝道への情熱と、その活動の規模が他の使徒たちに比べて際立っていたのは事実でしょう。しかし、彼はそれを自分の能力や資格によるものとは考えませんでした。全ては「神の恵み」によるのだ、と彼は言い切ります。パウロの「使徒」としての権威も、その働きも、彼の努力や成果の結果なのではなく、全てを可能にする神の恵みが、彼を通して働いたことの証しなのです。パウロは、この「神の恵み」こそが、彼を「使徒」とし、その働きを支えるただ一つの源泉であると深く理解していました。だからこそ、「偽物だ」と批判されても、彼は臆することなく、「神の恵みによって立てられた使徒」と名乗り続けたのです。

 ガラテヤの信徒への手紙の冒頭の挨拶で、パウロはこう述べています。「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ガラテヤ1章3節)。この「恵みと平和」という言葉に、パウロが「使徒」として、命をかけて伝えようとした福音の核心を見ることができます。

 

 特に「平和」という言葉は、当時、ガラテヤの人々にとって特別な響きを持っていました。ガラテヤは、強大なローマ帝国の支配下にあったからです。ローマ帝国が力によってもたらした平和は「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」と呼ばれました。それは、軍事力による支配と征服の果てに訪れる、力による一方的な秩序です。剣と力によって敵を屈服させ、戦いが起こらないようにする。ローマの平和とは、まさにそのような「陣取り合戦」の果てに訪れる、弱々しい、もろい平和でした。暴君と呼ばれた皇帝ネロの師であった哲学者セネカが、この「ローマの平和」を高く評価しましたが、ネロ自身が後にキリスト教徒を激しく迫害したことを思うと、人間が作り出す「平和」がいかに偽物であるかを感じずにはいられません。武力の脅しによって戦いが起こらない状態は、「秩序」ではあっても、聖書が語る意味での真の「平和」ではないからです。

 

 それに対して、パウロが告げる「平和」は、主イエス・キリストによって一方的に与えられる、全く質の異なる、本当の平和です。それは、力や支配によるものではありません。

昨日のカトリック教会のミサでは、聖餐式の際に、互いに「平和の挨拶を交わしましょう」という司式者の呼びかけがありました。私どもは席を移動して、隣の席の人と顔を合わせ、声をかけ合い、握手をして「平和がありますように」と挨拶を交わしました。この挨拶は、単にその場の雰囲気を和ませるためのものではありません。それは、私ども一人ひとりが主イエス・キリストの十字架によって神との和解を与えられ、神との平和を与えられていること、そして、その同じ主イエス・キリストにあって、互いが受け入れられ、赦され、共に生きる者とされていること、すなわち、真の平和の源である主が私どもの内に、そして私どもの間におられることを、言葉と体を通して確認し合うことなのです。

 

 パウロが「使徒」として宣べ伝えたのは、このような、人間の力に依るのではない、神との、そして人間との間に真の和解をもたらす「主にある平和」でした。そして、この平和は、私どもの努力や功績によって勝ち取るものではなく、全てを可能にする「神の恵み」によって一方的に与えられるものです。

 パウロの使徒としての働きは、この神の恵みと平和を、言葉と業をもって証しすることでした。彼の伝道は、彼自身の力や才覚、努力の現れではなく、全て神の恵みによってなされたこと、すなわち神ご自身が彼を通して働かれたことを映し出す鏡のようなものでした。だからこそ、彼は「他のすべての使徒より多く働いた」という成果を誇るのではなく、「働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」と告白できたのです。

 

*肩書きの 重みによって へりくだる

 

 パウロにとって、「使徒」という肩書きは、世俗的な権威を求めたり、自分の功績を誇ったりするためのものではありませんでした。それは、彼が神の恵みによって一方的に選び出され、神の恵みと平和を宣べ伝えるために立てられた者であるという、神の前での真実の姿を表す言葉でした。そして、その名を名乗るたびに、彼は自分のような者が神の大きな務めに召されたこと、神の恵みの計り知れない大きさを覚え、同時に、そのような大いなる務めに召された者としての謙遜さを深めたことでしょう。責任の重さを感じ、神の前に深くへりくだらされたことでしょう。

 

 私ども一人ひとりもまた、社会の中では様々な「肩書き」を持っています。会社の役職、地域での役割、家族の中での立場。しかし、これらの社会的な肩書きとは別に、神の前では、私どもは皆、神によって愛され、召し出された「教会員」、あるいは「信仰者」という、ただ一つの、かけがえのない身分を与えられています。この身分は、私どもの功績や能力によって勝ち取ったものではなく、全て神の恵みによるものです。

 このことに思いを向けるときに、「主にある平和」について改めて考えさせられます。なぜならば、人間同士の争いはほとんど、いや全て、自分が今あるのが主の恵みであるということを忘れたときに起こるからです。私どもは主に呼びかけられて信仰者とされました。教会員という肩書きを名乗るときに、社会的な肩書きとは異なる意味で重んじ、神さまからの呼びかけを思い起こし、神の前で深くへりくだれるのだと思います。確信をもって、しかし謙遜な者とされて歩むことができる、これはパウロが、いえイエス様が、私どもに示した生き方なのではないでしょうか。

 

 今日から始まるガラテヤ書を通して、私どもは、神の恵みによって使徒とされ、「恵みと平和」を告げ続けたパウロの信仰に触れていきます。そして、私ども自身もまた、主イエス・キリストによって与えられた「恵みと平和」に生き、この大いなる福音を、それぞれの場で、それぞれの賜物を用いて証しする者へと召されていることを改めて覚え、歩んでいく者とさせていただきましょう。