「神を深く知る

2025/03/30 伊東教会受難節第四主日礼拝


「神を深く知る」(エフェソ1・15~21)

上田光正


わたしどもはどうしたら、神様が本当にいらっしゃることが分かり、その神様がわたしを本当に愛していてくださるということが確信できるのでしょうか。そのようにして、今よりもずっと信仰が強められ、信ずることのさいわいを得ることが出来るのでしょうか。あるいは求道中の方なら、思い切って受洗の決意にまで導いていただけるのでしょうか。

そのための、最善の、と申しますか、実はたった一つしかない道は、やはり、十字架の主と出会い、主がこのわたしのためにも十字架にお掛かりになってくださったことを確信する信仰を与えられることです。なぜなら、キリスト教の中心は十字架において啓示された神の愛だからです。それを知って、初めてわたしどもも愛のことが分かり、人を愛することが出来るようになるのです。何か例えば、とてもすばらしい信仰の体験をして、ああ、神様は本当にいらっしゃるのだ、そしてこういう素晴らしい体験が自分にも与えられたからには、わたしは本当に神様に愛されているに違いない、というような体験をすることを期待しても――もちろん、そういうものが有るのはよいことでしょうが――、それはなかなか得られるものではありません。それに、仮にそういう体験を生涯のある時恵みとして与えられたとしても、十字架が分からなければだめです。主の十字架が、このふつつかなわたしのためにもあったということが分からなければ、そんな体験も一時の感激に終わって、いつか元の黙阿弥となってしまうでしょう。到底70年、80年、いや、それよりももっと長生きするかも知れないわたしどもの一生を支える信仰にはなれません。そして実は、関係は逆なのでありまして、十字架の主とお会いして、初めて、ただ今申しましたような素晴らしい体験が、ある時突然与えられるのです。

その意味で、本日は、「神を深く知る」ということについて、ご一緒に聖書から学びたいと思います。

「神を深く知る」という聖句は、本日の礼拝に与えられました、パウロの祈りの中の、17節の御言葉です。パウロが、この手紙の宛先教会の信徒たち一人ひとりを覚え、彼らのために毎日毎晩祈っている祈りの言葉です。

「使徒言行録」によりますと、パウロはエフェソの町で、彼にしては珍しく、3年もの長い間伝道しました。普通のパウロの伝道方針は、新しい町に来て数カ月して、数名の信徒を獲得するとあとはその信徒たちの誰かを長老に任命し、自分たちに教会形成と伝道を任せ、自分はすぐ次の町に伝道に行くのですが、エフェソにだけは、3年もの間じっくり腰を落ち着けて教会のいしずえを作りました。ですから、信徒一人ひとりの顔と名前はもちろん、家族一人ひとりのこと、家庭環境や生活上の特別の悩みなど、何もかもよく知っています。パウロはもちろん一方では、教会が順調に成長していることを神に感謝しているのです。しかし他方では、教会員のAさんのところは実は母親が重い病気であるとか、Bさんは実は商売がうまく行かず、かなりの借金を抱えて毎日死に物狂いで働いているとか、全部知っています。そしてその一人ひとりのために毎日祈っているのです。ですから、この手紙は、そういうかつて自分が手塩にかけて育てた信徒のことを思い、その一人ひとりに向かって語るつもりで書いています。受け取った教会ではそれを何か月もかけて毎週の礼拝で朗読し、誰かが解説を加える場合もあったかもしれませんが、とにかく説教として皆で聴いていたようです。もしかしたら、パウロはローマの牢獄の中で書いていたのかもしれません。多分速記者に一言一言口述筆記させて書いたのです。「その言葉は『信ずる』ではなくて『信頼する』に換えてくれ」などと言いながら、本当に、一言一句、いちばん良い言葉を心の中から紡ぎ出すように探し出し、溢れる心情を込めて書いた手紙です。わたしどももこれを読む時には、そのように信徒たちを愛し、成長を昼も夜も祈り願っている伝道者パウロの姿を思い浮かべながら、お読みしたいと思います。

わたしも幸い来年度も、月に一度皆さまに説教をする機会が与えられました。伝道者であるわたしも、伊東教会の皆様方お一人おひとりが神の愛をますます深く知るようになることを、切に祈り願いながら、このエフェソ書をご一緒に読むことを楽しみにしております。

15節をお読みします。

 「そういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして絶えず感謝しています」と書いてあります。

* * *

そして、次の17節からがパウロの祈りです「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように」とあります。

パウロが言いたいことの中心は、何と言っても、信徒たちが神の愛をもっと深く知るようになることです。そのようにして神の力をいよいよ深く知ると、神さまをますます深く信頼するようになり、信仰の素晴らしさが分かるようになるからです。

「神を知る」と申しましても、ただの知識として知るのではありません。聖書の「知る」という言葉には、独特の意味があります。人格的に深く交わって知る、という意味です。例えば、「わたしはこの人を知っている」と言ったら、その人の良い所も悪い所も、心の奥深くまで全部知っている、という意味です。だから例えば、「アダムはその妻エバを知った。彼女は身ごもって、カインを生んだ」(創世記4・1)というような使い方もされます。

ですから、神を深く知るということは、ただの知識ではないのです。例えば、教会では受洗志願者が与えられますと受洗準備会が開かれます。半年とか一年かけて、使徒信条や主の祈りや十戒についての「お勉強をする」、というイメージです。しかし、それで神様についていろいろ知識が得られたとしても、それは多分、神様について、何千万分の一を知ったことにもならないでありましょう。とても、「神を深く知る」ということにはなりません。先ほど申しました通り、神を知るとは、主の十字架の愛を知ることです。主は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」(ヨハネ14・6)とおっしゃいました。ですから、主の十字架を知れば、神について人間が知らなければならない一番大切なことは、知ったことになります。パウロはそのことを願っているのです。

では、神を深く知るとは、どういうことなのでしょうか。

18節の最初に、「神があなたがたの心の目を開いてくださるように」という御言葉があります。今までは閉じられていた心の目が、開かれる。昨年お亡くなりになった、永らく鎌倉雪ノ下教会の牧師であられた加藤常昭先生が、この言葉について面白い解説をしておられます。先生が白内障の手術で両方の目を手術されて――御経験のある方も多いと思いますが――目が開かれた時のことです。それまで空を見てもいつも黄色に見えていたそうです。中国から、今日も黄砂がいっぱい飛んで来たのか、ととんでもない誤解をしていたそうですが、何と、御自分の目が悪かったのですね。それで、御入院して二日目、いよいよ目が開かれてはじめて見た空の色にびっくり仰天です。輝くばかりの明るさ。そして何よりも、深い深い空の青さですね。もう、飛び上がるほどびっくりしたそうです。

「神を深く知る」とは、そういうことです。今まで信仰の常識程度で済ませていたのに、聖書の福音とはこんなにも奥が深く素晴らしいのか、ということが分かるのです。

* * *

では、神を深く知るとどうなるか。そのことが更に具体的に書いてあります。一つは18節に、「希望が与えられる」と書いてあります。自分の将来も暗い、この世界の将来も暗い、わたしどもは普通はそう考えやすいのに、明るい希望を持てるようになります。もう一つは次の19節ですが、「神の力がどれほど大きなものであるか」が分かる、と書いてあります。十字架の主が御復活された、十字架が神の敗北ではなくて、神の大勝利であることが分かる。全世界が束になってかかって来ても、神様の方が強いことが分かる。この手紙全体で、そういうことが書いてあるのです。

しかし本日は、そこに移る前に、このエフェソ書全体を理解するためにも、是非とも少し立ち止まって、十字架の意味をしっかり知るための時間を取りたいと思います。

本日は受難節第四聖日ですね。わたしは2月の説教を終えた時点から、来月は「神を深く知る」という題で説教をしようと考えていました。そして、ただ今の季節がちょうど受難節で、主の十字架の意味を考える季節であることの中に、神様の深い御導きのようなものを感じています。

信徒の方はよくご存じと思いますが、受難節は主の十字架を思うときです。40日間続きます。40日が開けますと、待ちに待った復活日、イースターで、今年は4月20日です。そのイースターがまさに神の力が現れる出来事ですが、そのイースターを今年も意義深く迎えるためにも、受難節の40日間は、主がわたしどもを罪からお救いになるための、十字架を担われたことを、深く心に覚える時です。

昔の教会では、この40日間は、飾り物などは一切外し、頭に灰をかぶって断食が行われました。今でも、結婚式などの祝い事はせず、祈りに精進します。わたしが育てられた教会では、信徒の方はそれぞれ何かの工夫をして、受難節を守っていました。例えばある人は、自分は毎日大好きなコーヒー代一杯分を節約して、それを「克己献金」としてお捧げするとかして、このふつつかな自分も、どんな形でもよいから主の十字架の御苦しみの一端にあずかりたい、という風に守っていました。

しかしそれでは、わたしどもは断食をしたら、本当に受難節を有意義に過ごしたことになるのでしょうか。必ずしもそのようにして自分の肉体を苦しめることが、大切なのではありません。わたしはむしろ、十字架の主の御苦しみに与る最もよい方法で、どなたでも出来ると思うのですが、聖書の御受難の記事を毎日読むのです。一日わずか15分でよいのです、「マルコによる福音書」で言えば、イエス様がエルサレムに入場された11章からでもよいですし、最後の受難週の記事だけなら13章から15章までの二章です。

みなさん方の中には、きっと、まだどうも、自分は十字架のところが、よく分かっていないようだ、とお感じの方もおられましょう。あるいは、もっとしっかりした信仰を持ちたいとか、この辺りで、本物のクリスチャンになりたいとか、この伊東教会を愛してきちんとした教会生活を始めたいとか、イエス様の愛が本当にこのわたしの心の中に根を下ろして宿ってくださるように祈りたい、そうなったらどんなにか幸せだろう、とお考えの方もおられるに違いありません。毎日ワン・パラグラフでよいのです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書を読み比べると、とても面白いです。もう、夢中になってしまうかも知れません。

* * *

そして、読んでどうするかと言うと、3分でも5分でもよい、静かな黙想の時を持ったり、祈りの時を持ったりするのです。

それは必ずしも、自分の罪について、一々反省して悔い改めると言ったことではありません。あるいは、ただ教理をもう一度おさらいする、ということでもないのです。

普通、十字架の意味を知ると申しますと、そういうことを考える方が多いと思います。それももちろん、大切です。主が父なる神の御独り子でありながら、この罪の世をお救いになるために、身代わりの十字架を背負って死なれたことを感謝しながら、「主よ、どうか、その意味を深く分からせてください」、と祈ることはもちろん大切でありましょう。自分の罪を知ることも大切です。しかし、ここでも順序はやはり逆なのですね。自分の罪を知って神の愛を知るという順序ではなくて、神の愛が本当に分かったら、自分の罪がいっぺんに全部分かるようになるに決まっているのです。

そして、どんな場合でも、断然忘れてはいけないことが一つあります。それを知らなければ、十字架の愛が分かったとは言えないことが一つあります。それは、神の子の十字架は決して敗北ではなかった、ということです。キリストの十字架は、勝利の十字架です。それも何よりも、キリストの十字架は、このわたし。この自我の強い自分ですね。このふつつかなわたしの罪に、勝利している。そのことを知ることです。なぜなら、神の子イエス・キリストは十字架の愛において、このわたしの罪に勝っておられるからです。御子は十字架から降りようと思えばいつでも降りられたのに、最後の最後まで、どんなことがあっても降りずに父なる神の身代わりのお裁きを受けて死なれました。そのことにおいて、主の愛はわたしの罪に勝っておられるのです。ですから、十字架の主の前で祈る。本当の祈りというのは、いつでも、自分が神の愛の前で敗れるのです。自分は敗北して、神が勝利するのです。そのことが、よく言われます、「キリストと出会う」とか、十字架が分かる、ということに他なりません。ここでパウロが言っている、「神を深く知る」ということなのです。神の愛が、傲慢な自分に勝利するのです。神に逆らおうとする自分に、勝利するのです。そのことが分かるのが祈りですし、本当の祈りは、いつも神が勝利し、自分は神の前で兜を脱ぐようになることではないでしょうか。

例えばわたしどもは、神さまの前で、ああしてください、こうしてください、と色々と頼みます。しかし、本当に祈った、という経験をするのは、その願いが叶えられた時でしょうか。そうではないと思うのです。むしろ反対に、神がわたしの隅々まで全部ご存じであり、わたしの苦しみをも悩みをも、心の奥深くの願いも望みも、何もかもご存じであることが分かって、その神様に自分の全部をお任せすることが出来ることが分かった時に、初めて、自分は本当に祈れた、と感謝できるのではないでしょうか。その時には自分のわがままや、自己中心的な様々な願いや願望が聞き届けられたかどうかなどはどうでもよい。それ以上に、神の御心が成ることが自分にとっても、自分の周囲の人々にとっても最上で最善であることがよく分かる。その時にはまさに、自分が神の愛に負けて、自分のわがままや自分中心は消え失せ、すべてを神に委ね、神に全面的に従う気持ちになっているのではないでしょうか。

主の十字架の愛が分かるというのもそれと同じです。わたしどもはともすると、イエス様がどんなにこのわたしを愛してくださっていても、わたしがその愛を拒否すれば、イエスさまとわたしとは何の関係もなくなる。幾らキリストの愛が御自分の命を捧げるほどの愛であっても、わたしはそれを信ずることも出来るし、信じないことも出来る。わたしと神様は平等だから、わたしにもそういう自由と権利がある、と考えがちです。これはとんでもない間違いなのですね。主イエスの十字架は、主が最も弱くなられたように見える時です。世界中で最も弱く、虫けらよりも弱くなられたように見えます。しかし実はそうではない。神の完全な愛は、その弱さの極みにおいて、世の罪に勝利するのです。その力は原爆や水爆よりも強い。世界中の罪が束になってかかって来ても、キリストの十字架の愛には勝てません。それは死の力よりも、陰府の力よりも強いのです。十字架におかかりになった弱さの極みにおいて、神様は世界中の罪に勝利されたのですから、最も神さまらしくあられた。全知全能の神様であられたのです。ですから主は、十字架の最後に、いよいよ息を引き取られる最後に、「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)とおっしゃって、こうべを垂れられました。「成し遂げられた」というのは、これで、全世界の罪の赦しと救いが成し遂げられた、という意味です。

* * *

イエスは十字架上で、このわたしの罪に打ち勝たれた。だから、全世界の罪に対しても必ず勝利なさると確信出来るのです。

わたしどもは例えばですね、ロシアがウクライナと戦っている。戦争がいつまでも止まない。そういう世界情勢を見ると、神は全能であると言っても、わたしどもは了見の狭い人間ですから、本当にそうだろうか、とつい疑念を抱いてしまいやすいのです。「イエスは勝利者だ」と言うけれど、人間の罪や悪の力の方が強いのではないか、とつい疑いたくなってしまうのです。

だから、この「エフェソの信徒への手紙」の二章の中の有名な聖句がありますね、「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において、敵意という隔ての壁を取り壊してくださいました……十字架を通して、(敵同士を)一つの体として神と和解させ……十字架によって敵意を滅ぼされました」(2章14~16節)などの聖句を読んでも、つい「本当かな」と疑ってしまいます。しかし、それならばもし、十字架が無かったなら、この世界は今頃どうなっていたでしょうか。この地球は何千発もの原爆と水爆で消えて無くなっていたに違いありません。

実は、キリストの十字架は、A国の人をもB国の人をも愛してそのために御自分の肉が裂かれ、血が流されたこの十字架によって、全世界の平和が保たれているのです。

ノーベル文学賞を貰った大江健三郎さんが、『「新しい人」の方へ』(朝日新聞社2003年)というエッセー集を出しています。この本は奥さんの大江ゆかりさんが挿絵を描いた、大江さんにとっては特別の本のようです。そのエッセーの中の一つが本の題となった「『新しい人』の方へ」で、この本の中で大江さんは、先程のエフェソ書2章の聖句「キリストはわたしたちの平和です」という御言葉について、人類はこの聖句を信じなければいけない、という意味のことを言っています。彼自身はまだ洗礼を受けていないので、自分は解説をすることは出来ないが、と断って、でも、一人の人間としてこれだけは分かる、「キリストの十字架は、わがままで最後には殺し合うことしかできない人間の罪に、きっと勝利する」、という意味のことを言っています。

大江さんは日本人の作家の中では一番キリスト教に興味を持った人の一人ですが、残念ながら、単なるヒューマニズムに留まり、洗礼を受けずに死んでしまいました。大江さんは、キリストの十字架の愛のような、分け隔てのない愛、自分の命を捧げて人類に平和をもたらす愛が、「勝利しなければならない」、とは言いましたが、「必ず勝利する」とは言えませんでした。では、聖書はなぜそこまで言うのでしょうか。人間の罪や悪の力を軽く見ているからでしょうか。そうではありません。キリスト者は、キリストの十字架が、このわたし(自分)に勝利した、ということを知っているからです。だから将来に対しても、とてつもなく明るい希望を持つことが出来るのです。大江さんは、本当にあと一歩でしたが、キリストの愛が、大江さんの罪にも勝利し、彼の罪を赦し、お救いになったことを、信じなかったのです。

* * *

最後に、まだ少し時間が残っておりますから、神の十字架の愛の勝利を知ると、どうなるかを本当に要点だけお話しします。本日は一番大切な、キリストの十字架の愛が人類の罪に勝利したことだけはお話ししたかったので、その他のお話はいずれ詳しくお話しできる時が来ると思います。

第一に、希望を抱くことが出来る、です。18節をお読みします。

 「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」

これは、神に招かれて教会に集められたわたしどもが、御国を受け継ぐ者となる、ということが書いてあります。御国を受け継ぐというのは、罪が赦され、神の御国(マタイ伝では「天の御国」と訳されていますね)を受け継ぐ。死はキリスト者にとっては、もう自分の背後にあることになります。前にあるものはただ肉体上の老いや死に過ぎません。「たといわたしたちの『外なる人』(これは肉体のことです)は日々衰え行くとも、『内なる人』(これは神を信じるわたしどものことです)は日々新しくされる」(コリント第二、4・16)のです。パウロとしては、だから、どうか辛いことや苦しいことにもめげず、しっかりと教会を形成し、伝道に励んでもらいたい、あなたがたの労苦がむだになることは決してないのだ、と言いたい気持ちがあります。

なお、その際にわたしどもは、またしても非常な了見の狭い不信仰に陥ってはなりません。それで、二番目にこう言うのです。19節です。

 「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように」。

これはまさに、パウロが「神を深く知って欲しい」と祈っている祈りです。神の御子の十字架の愛は完全な愛ですから、必ず人間の罪にも勝利します。例えばわたしどもは、ついつい、自分は信仰に入れたから明るい希望を持って死ぬことが出来るが、わたしの夫は、わたしの子供はまだだからどうなるのだろう、と悲観しがちです。そういうことがあるので、パウロは神の力がどれほど大きなものであるかを知りなさい、と言ったのです。なぜかなら、わたしどもはキリストの十字架の愛が、すべての人にとってその人の罪の力よりも強いことを知っているからです。

ですからわたしどもは、家族や教会のために祈りましょう。そして、キリストの愛をもっと深く知り、証ししましょう。それは愛ですから、断じて信仰の押し付けや自分の願望をぶつけることであってはなりません。礼儀正しく、相手のさいわいを心から祈るのです。そのために、わたしども自身が本当の謙遜さと愛の心を与えられるよう、神に祈りたいと思います。