2025/01/26 公現節第三主日礼拝説教
「迷うことを恐れない――使命に生きる」
使徒言行録説教第75回 27章1~32節
牧師 上田彰
*船旅について
古代から海は生命の母と呼ばれていました。海という字に母という文字が含まれている、そんな風に言う人もあるくらいです。話によると、海の成分は哺乳類の羊水と成分がかなり似ているのだそうです。海からすべての生物が発生し、個体として、また種として育っていった。
そのように命を司る海は、同時に死の象徴でもあります。海が一旦荒れると手がつけられなくなり、それによって命を落とす人も多いのです。
そのような中で、主イエスが海の上を歩かれた記事を思い出します。また、荒れ狂う海の湖に浮かぶ船上でぐっすりと休み、そして起きたと思ったら、海を静まれと命令し、波が穏やかになる、そんな出来事も思い出します。
私どもは驚くのです。海は漁師であった弟子たちの専門領域であったはずです。船長は船の上で治外法権にも近い権力を持っています。イエス様といえども船の上では黙って寝ているしかなかったはず。しかし船をたびたび襲う危機のときに、主は立ち上がります。海を主イエスが支配しておられる。命に危険を及ぼすものが、主の支配下にある。同時に、命を与えるものもまた、主の手の中にあります。
私どもの救いを船旅のたとえで考えますと、時折見落とされるのが、船の中が一体となっている、ということです。普通の船旅であれば、船員に任せておけば目的地にたどり着きます。しかしまれに海難事故に巻き込まれ、あなたは漕ぐ人、私はお客、という関係のままでいられなくなるときがあります。そういうときに、人間の本性がむき出しになります。船の旅において、陸の上での社会階層や力関係が最初は支配的でも、何かが起こったときにその関係が変わっていく。ある人はみにくいまでにその力関係を維持しようとし、例えば三等船室の人が救命ボートに乗れないように閉じ込めてしまう、その一方で救命ボートに乗る順序で女性や子どもを優先する人が現れる。かつて見えていなかった分断が明らかになり、かつて見えていなかった絆もまた明らかになる。船旅は、人間社会の縮図です。
私どもは信じています。主イエスキリストは海よりももっと深い、恐るべきものに立ち向かわれました。それは人間の罪という名の海です。その波は高く人を捉え、また深い海底に引きずり込みます。主イエスキリストが十字架上でエロイ・エロイ・ラマサバクタニとお叫びになった時、主はこの海の中でもがき苦しんでおられました。その叫びによって私どもは救われます。その時に、私が救われたことにとどまるのか、それとも船に乗っている者すべての救いを考えるのか。分断と絆の問題は、危機に襲われた船旅の中だけでなく、私どもの日常生活にとって十字架が私どもを一つとしていると信じているか、という問いにもなってくることでしょう。(図柄は「日本キリスト教協議会」のシンボルマークで、oikoumeneは直訳すると「一つの家」。現在伊豆地区は3月の超教派祈祷会のために準備を進めている。)
*一つとなっていく「私たち」
今日の箇所は、船旅について語る体裁になっています。しかし本当は、真の船旅には信仰が必要だ、ということを言っているようです。そしてその船旅の最初は、少人数で始まるが、やがて船全体が一つの集団になる、一つの教会になる、そんな様子を描く物語として読むことが出来ます。
私自身がそのことに気づかされたのは、一節について、聖書の写本家たちが同じ箇所を同じように書き写していながら、明らかに異なる言葉を入れたという例があり、現代でも異本と申しまして、有力な異本については翻訳の聖書にも載っておりますが、そこまで有力ではない異本の一つに、次のようなものがあることを知ったときです。
聖書は昔は手で写していました。その際、写本を作っている人がわかりやすいように解説を入れてしまうことがあるのです。飛ばすこともあります。ある異本が、この箇所に次のようなわかりやすすぎる解説を加えていました。「フェストゥスはパウロを皇帝の元に送り、他の数名の囚人と共に、百人隊長ユリウスに引き渡された」というものです。今私どもが目にしている、説明を省いた文章との違いを確認しますと、「私たちが行くことが決定した」と「総督はパウロを送った」という風に、ローマに向かったのは誰かということが全く変わってきます。写本家が説明を加えようとして、この旅がパウロの一人旅になってしまったのです。パウロは確かに同行者である仲間と共に乗ったのですが、さてパウロはともかく同行者は好んで船に乗ったのだろうか。むしろパウロが死刑になってしまうかもしれない旅に、反対していたのではないか。だから、彼らがどんな思いでついてきたのかはあえて曖昧にして、はっきりしているパウロの事情だけを、つまりパウロは捕まえられ、皇帝の元で裁判を受けたいと願ったのでこれから連れて行かれる、ということだけ記せばいい…そんな考え方から、独自の説明を写本の際に付け加えたのでしょう。
しかし、それは後代の付加であって、同行者も含めた皆が、つまり聖書の言葉でいう「私たち」が、自ら決断をして出発をした。そう考えることで、27章全体が見えてきます。27章の主題は、「船の中の私たち」であるという風に言えるのではないでしょうか。何度も「私たち」という言葉が出てきますが、そのたびに「私たち」という言葉は広がりを持ってきます。最初はパウロだけだったかもしれない。しかしそこにアリスタルコを含め10名前後の信仰者達が加わる。そして百人隊長や兵士達が加わり、最後に船の全員が「私たち」の群れに加わる。来週の箇所になりますが、この旅の終わりの段階である37節では、「私たちは276名であった」とルカは書くのです。そう考えると、「私たちが行くことに決まったとき」という、一見よくわからない一節の言い方に意味があることに気づきます。この旅はパウロだけで行うものではない。運命を共にすることを申し出た仲間達がいる。そして巻き込まれるようにしてだんだんと多くのものが、最後にはすべてのものがパウロを救ってくださる主なる神を中心とした群れの中に加えられる。
ですから、この旅を導いているのは使徒パウロです。彼は、いえ彼らは、旅に出ています。旅という場合、私どもが想像するのは普通、ある場所にたどり着き、そしてそこからまた戻ってくるという、Uターンの旅です。しかしこの時パウロたちがしていた旅は、当座の目的地がイタリアのローマ、しかし本当の目的地は天の御国でした。この船旅において最大276名に達した「私たち」のうちで、ローマにたどり着くのは囚人達、10数名の元からのパウロの仲間達、そして兵士達であり、そのうち天の御国にまで同行したのは10数名の仲間だけということになるかもしれません。しかし、あの数ヶ月間の船旅の中で、それ以外の200数十名の乗員乗客は、みな「私たち」というくくりの中に入れられました。命が神様によって救われるという体験をしました。船の中にいるすべての者が、パウロ達と共にローマへ、さらに天の御国への同行者になっても不思議はない状態になっていく。そういう物語として読み解いて参りたいと思います。
*風に左右される旅
まず、書かれていることがらは船旅の体裁を取っていますので、どのような船旅であったかについて少し見て参りましょう。数人という単位の囚人を移送するのに、今回は船が用いられました。穀物を運ぶ船であり、合わせて300名弱が乗る客船でもありました。ずいぶん大きな船であり、底の浅いところを通ろうとすると引っかかって船が壊れてしまう恐れのあるような大きさです。おそらく目一杯の荷物やお客を積んでいたものと思われます。
囚人の移送を担当するのは百人隊長です。部下は最大で100名、数名の移送であればその護衛と監視のために必要な数十名が今回は任務に就いている感じでしょうか。パウロ達囚人は、逃亡しないように鎖をつけられていたと思われます。しかしパウロについては港に着くと現地の友人に会うことが出来るように便宜を図ってもらっていたようなので、いつも鎖をつけられていたかどうかはわかりません。パウロと一緒に移送されていた囚人たちはどんな者達だったのでしょうか。ローマで裁判を受ける予定の者がいる一方で、すでに刑が確定し、死刑になることがわかっているという者もおりました。当時の死刑といえば、猛獣と戦わせ、その様を見世物とするという死刑が有名です。皆が別々の運命を背負っており、行き先も本当の意味でバラバラである、それが船が出発するときの状況でした。
船旅は風向きによって大きく左右されます。行き着くまでの日数も変わりますし、場合によっては目的地を変更せざるを得ないことさえあります。実際、今回の旅は思ったようにいかず、ある港までたどり着いた段階で、大きな問題に直面します。それは、この時期以降は冬になるので船を出さない方が良い時期、というのがあるのです。それが10月の下旬とされていました。そこにさしかかってしまったのです。
この船旅の時期の終わりを告げる日のことを、聖書は断食日と呼んでいます。これは断食をすることによって罪の赦しをこいねがうという、ユダヤ人達の信仰をよく言い表す日でもありました。つまり、この旅において、パウロたちは、罪の赦しの日を落ち着かない船の上で過ごす必要があった。断食をしながら罪の赦しを祈るのです。本当は陸の上で、落ち着いて過ごしたい一日を船の上で過ごしたい。しかしそれが適わない。旅をすると言うのは、自分が設定している目的知恵の到達が、自分の思い通りにはいかない、そのことを受け入れるということでもあります。
今停泊している港はラサヤという島にあります。しかし断食日を過ぎてしまった。ここで二つの選択肢がありました。それは、この港に船を留めたまま冬を越すのと、次の港まで無理をして行く、という選択肢です。この港は冬を越すには適していなかった、とあります。その港に船を停泊させたまま冬を越そうとすると、冬の強い北風が船を直撃する。それは船を守る上で賢くなかった。そこで、次のフェニクス港の方が都合が良いので、断食日を過ぎた船旅は危ないと言われていたが、無理をして出発する、という話が出てきました。
この相談を船長と船主の間でしていたときに、百人隊長が会話に入ってきました。旅の日程が大幅に変更するにあたって、少しずつこの旅が冒険の様相を呈し始めます。百人隊長が首を突っ込むのです。だんだん、「私たち」の形が変わってきています。
そこにもう一人、首を突っ込み始めた人物がいます。それは囚人の一人であった、パウロです。積み荷、船体、そして人命にも危害が及ぶ可能性がある、といって反対をしたのです。しかしこの段階ではパウロの意見は取り入れられず、次の港に急いで行くことになりました。この時点で、この船を導くことになるパウロは、まだただのお客様でした。
しばらくは穏やかな風によって順調に進んでいましたが、突如暴風がやってきて、船は完全に巻き込まれます。この船は、本体とは別に小舟を曳航していました。おそらく本体の船には荷物を積み過ぎていますから、少しでも軽くしようと、小舟に荷物を積んでいたものと思われます。しかし、その小舟を回収しないと本体の船の操縦がままならなくなりました。そこで、小島の陰で風がやんだ隙に小舟を引き上げ、本体に綱を巻き付けることで板が外れることを防ぐ措置を行いました。
しかし、もう一つ、あることをしないと遭難の恐れがありました。それは、小舟の荷物を引き上げたせいで、本船が重くなってしまったことと関係があります。喫水線が高くなってしまったままでは浅瀬に乗り上げる恐れが出てきます。碇を降ろすことで船の方向を整え始めましたが、やはりそれでは間に合いません。暴風がなかなかやまないからです。船を軽くせざるを得ない。そこで、泣く泣く荷物を海に投げ捨て始めます。元々この船は穀物を運んでいましたが、船旅の大きな目的の一つを諦めてでも人命優先とせざるを得ませんでした。
ところが暴風は一考にやまず、ついに三日目には船具を投げ捨てるに至ります。状況がだんだん悪くなります。何日もの間、太陽や星も見えない状態。助かる望みは全く消え失せようとしていました。この段に及んで、船乗り達の意見は全く意味を失い、百人隊長もなすすべがなくなってしまいました。船員に任せておけば良かったただの旅が、百人隊長を含めた冒険になり、そして誰も打開策を持たない遭難になってしまいます。
*神の救いを原動力に進む船
その時に立ち上がる人影がありました。
かつて私は、出発すると危険が及ぶと予言した。しかし改めて予言しよう。船は失うが、誰も命を失わない。なぜなら、私には目的があるからだ。それは二つあって、一つは皇帝の所に行かねばならないという私の使命だ。しかしそれはあなた方とは関係ないかもしれない。しかし、もう一つの使命を私は主なる神から託されている。それを聞いてほしい。それは、あなた方全員の命が神から託されたので、それら守るという使命だ。
今日お帰りになってから、もう一度聖書を開き、今日の箇所を読み返してほしいのです。そのとき、一人の乗客が、船全体を導く者になっていく様に思いを寄せてほしいのです。
かつてこの船旅は、様々な運命を持つ者達が一時的に寄り合っている旅でした。そのときパウロは鎖につながれているただの乗客に過ぎませんでした。しかし今は、鎖につながれたままであるにもかかわらず、この船旅全体を統括する立場に立っているのです。言い換えれば、パウロが立ち上がったときに、船は本当の意味で一つになりはじめました。
完全ではありませんが、一つとなっていったのは確かです。船員達が策動します。彼らの中には、パウロの予言を信じなかった者がいたのです。彼らは、もうこの船には見切りをつけざるを得ない、そう判断しました。そして碇を降ろすふりをして、一度引き上げた小舟をもう一度降ろしていたのです。しかし船員の脱出を見抜いたパウロは、こう宣言します。ここにいる全員が一つとなったときに救われる。兵士達が進み出て、小舟をつないでいたひもは切られて、小舟は何も乗せないままで流されてしまいました。船は失うが、全員の命は救われる、このパウロの予言に皆が従っているのです。
専門家であった船長は無力となり、素人パウロがこの船を治めるようになる。いえ、パウロは船を治める上では素人ですが、人々の命を預かり、一つとなった乗員すべての命を預かる上では専門家です。このときに、私たちの集団は、20人足らずのメンバーではなく、276名全員が一つの集団になりました。
この記事が2世紀に入るか入らないかという時にまとめられたときに、当時の教会はどのようにこの物語を聞いたのでしょうか。いろいろな可能性があるように思います。ある地域においては、あえて専任の牧師をおかず、皆が交代で説教や聖餐を担当していました。そのような教会がこの物語を聞けば、指導者が群れの中から現れることを祈り願うことでしょう。またある地域においては、すでに専任の牧師がおかれていた教会もあったことでしょう。そういった教会がこの物語を聞く場合に、ああうちの教会には専任の牧師がいて良かったね、そんな風に聞いて満足するでしょうか。もっと深い聞き方があるのだと思います。私たちの船は、どんな荒波にもたえられるほどの信仰を持っているだろうか。その時に、埋もれていた賜物を持っていた人が、指導者を助ける形で船を救ってくれるかもしれません。例えば、今日のパウロの説教を聞いて、まだ信じることのできない者に対して説得を始めた人がいるはずです。パウロの説教は無骨なところがあって誰にでもわかりやすいものではありませんでした。しかしそれを一生懸命聞き、一生懸命取り次ぐ聞き手がいることで、教会が真の意味で一つとなる。指導者が神に助けられた本当の指導者となり、教会が神の救いにのみ寄りすがる、本当の教会となっていく。
私どもの教会は、パウロの教会でなければ誰々牧師の教会でもありません。ただ真の救い主、主イエス・キリストを船長とした教会です。荒波の中で、なお主の救いのみを信じ、命救われる教会です。
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