2025年1月19日伊東教会礼拝
「神の恵みの選び」
(エフェソ1・3~7)
上田光正
本日のわたしどもの礼拝に与えられました御言葉は、神様への賛美の言葉が次から次へと湧き出てくるような御言葉です。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)で始まっています。つまり、「ほめ歌」ですね。教会ではこういうのを、「頌栄」と呼びます。礼拝の最後に歌う讃美歌の541番などがそうです。
実は、本日ご一緒にお読みましました3節から7節までは、原文はまったくよどみなく流れている文章で、何かを論理的に説明しているというよりも、むしろ、ただひたすら、内側からあふれ出る喜びと讃美の思いを、まるで詩のように、ひたすら言葉にして表しているような文章です。
それではいったい、どうして、神さまはそんなにほめたたえられるべきだ、と言うのでしょうか。その中心にある気持ちが書かれているのが、特に4節の御言葉です。ですので、本日はまず、4節の御言葉に注意を集中したいと思います。お読みします。
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」
ちょっと読み取りにくいかも知れませんが、ここには「天地創造の前に、わたしたちをお選びになりました」。「選んだ」という、「選びの信仰」が表明されています。わたしども一人ひとりは、キリストに愛され、神に選ばれている。それも、天地創造の前の、永遠の昔から選ばれている。これはなんと嬉しいことではないか、と言っているのです。これを「選びの信仰」とか、「恵みの選び」と申します。
「福音」とは、「喜びのおとずれ」という意味であることは、皆さまもよくご存じと思います。その喜びの源にあるものが、わたしどもは神から選ばれ、愛されている、という確信、選びの信仰です。本日わたしどもは、この選びの信仰を学びたいと思います。そこから出る喜びと感謝の思いが、少しでもわたしどもの信仰の中心となって来れればよいと願い、御言葉に耳を傾けたいと思います。
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初めに申し上げておきますが、この選びの信仰は、聖書の一番根底を流れている信仰です。わたしどもが第一聖日の礼拝で告白致します「日本基督教団信仰告白」の第三段落の最初にも、「神は恵みをもて我らを選び」とあります。「恵みの選びを信ずる」ということが、謳われています。この選びの信仰をしっかり意識しているのと意識していないのとでは、わたしどもの信仰の質が大変大きく違ってきます。意識していないクリスチャンの場合には、どうしても、自分は自分の信仰によって救われた、という思いになりがちで、いつも自分の信仰、「マイ・フェイス」がしっかりしていなければ、救いから落ちてしまうかも知れないと、どこかに不安なところや、その分、肩ひじを張ったところがあります。いつか、また元の木阿弥になってしまいそうで、それが心配なのです。しかし、自分はキリストに愛され、キリスト御自身がこのわたしを選んで救ってくださった、それは神様から出た尊い御心であった、ということを知りますと、先ほどのような「自分頼み」の危なっかしさや余計な緊張感が無くなり、大船に乗った気でいられます。主イエス御自身も、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15・16)とおっしゃいました。
ただし、もちろん、だから信仰や行いはどうでもよい、ということにはなりません。むしろ反対です。選ばれたからこそ、主の選びを尊くありがたく思い、ますますキリストを愛し、教会生活に励むようになるということが、本当の選びの信仰です。聖書の中心は、ご承知のように、わたしどもが救われたのは神さまの恵みによるのであって、自分の行いによるのではない。自分が立派な人間であるからでもない。むしろ、わたしどもは土の塵から創られた「土の器」にしか過ぎません。弱くてもろく、壊れやすい器です。市場で二束三文で売られている「土器(かわらけ)」です。いつか死ぬべき存在でもあります。その上神を知らず、神に背いても平気でいられるような存在でした。しかし、そのわたしどもが、神に愛されている(コリント第二、4・7)。だから、救われたのはまったくただひとえに、ただ神の憐れみ深い御心によるのだ、という信仰です。そうだとするなら、「選びの信仰」とは何かと言えば、その信仰すらも、神の恵みによって与えられた、ということになるのです。だから、感謝しかないのです。
選びの信仰を持つということは、例えば、実業家が倒産した、恥ずかしいし辛いから夜逃げもしたくない、もう橋の上から身を投げて死ぬより他にない、という絶体絶命のときに、橋げたに足を掛けた最後の瞬間、彼をぐっと思いとどまらせてくれる信仰です。自分は、イエス・キリストによって選ばれている。自分はどうなっても仕方がないが、その尊い神さまの御心だけは、無にしたくはない。だから、今飛び降りて死んだつもりで、もう一度死に物狂いでやってみよう、と思い直す信仰です。自分にはもう何もない。自分の中にあるものはすべて神の忌み嫌われるものばかりだ、と思いつつ、しかし、それにもかかわらず、わたしは選ばれているのだから、もう一度神によりすがろう、と思う時の、その「にも関わらず」が、選びの信仰と呼ばれるものです。
これが聖書の信仰の基本であるということは、例えば、イスラエル民族は、自分たちがどんなに苦境に立たされても、「自分たちは選ばれている」という信仰がありました。だから、弱くて小さな民族で、周囲は強い国々に囲まれておりながら、4千年も生き延びたのです。イスラエルの歴史は、皆さまもよくご承知のように、苦難の連続です。今からつい90年程前にも、6百万人ものユダヤ人が、ナチスによって虐殺されています。しかし、彼らは今なお、世界の文明の一端を担っています。それは、優秀な民族だったからではなくて、自分たちは神から真実な愛で愛されているから、絶対に見捨てられることはないのだ、という信仰があったからです。
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パウロが活躍していた紀元50年頃、ローマにはセネカという哲学者がいました。彼はローマ皇帝の後ろ盾を務めたこともある、非常にすぐれた政治家であり、文筆家であり、また、哲学者でもありました。セネカは、人間はどうしたら本当に幸福になれるのだろう、と真剣に考え、『幸福な人生について』という有名な本を書きました。その中で、セネカは幸福のことを、しばしば「港」という言葉で表現しているのです。自分の魂が本当の安らぎを見出せる場所が、「港」です。そしてこう言っています。「自分がどの港へ向かって船出するのか。それが東にあるのか西にあるのかが分からない人にとっては、いかなる風も順風とはなり得ない」、と。自分の魂の本当の港(本当に安らげる、いつか自分が帰るべき場所)がどの方向にあるかが分からないと、せっかく順風が吹いてきても、どちらに向かって船を走らせたらよいかが分からないから、風を利用することができない、という意味です。そしてセネカは、若い頃には大病を患って自殺を考えたこともありますが、それでも頑張って、政治家としても思想家としてもローマ中で彼を知らない人はいないほど大成しました。そのセネカは結局、わたしがまとめてみると、こういう意味のことを教えていることになります。「人間は悪徳を愛する心と、それを憎む心の両方を持っている。だから、人類が最も必要としているものは、人類を高く引き上げてくれる《手》である」、と。彼は「人類」という言葉を使っていますが、これは、本日の選びの信仰に通ずる考え方です。人類の魂が本当に求めているものは、永遠に安らぎが見出せる「よい港」なのです。しかしそのためには、どうしても自分の努力だけではだめで、是非とも悪を捨てて善を選び、人類を高く引き上げてくれる《手》がなければだめだ。この、人類を高く引き上げてくれる《手》こそが、実は、聖書が言っている神の御手、神の愛、神の恵みの選びなのです。でないと、人間は善にも悪にも傾く、大変不安定な、浮草のような生き物だ、ということです。
しかし、ローマの多神教の世界では、彼の魂は遂に救われず、最後には、ふろ場で静脈を切って自殺してしまいました。わたしはその場面を小学校五年生の時に「クォ・ヴァディス」という映画で見て、今でもとてもよく覚えています。
わたしどもキリスト者の魂にとっての「良い港」とは何でしょうか。申すまでもなく、イエス・キリストです。そこへと引き上げてくださったのが、キリストにおける、神の選びなのです。
イギリスに、やもめで一人暮らしのクリスチャンの方がいました。夫を亡くし、息子もなくした後で、なお試練や苦しみが続くご生活を続けておられましたが、いつも不思議なほど心の静けさを漂わせている女性でした。ある人が、「どうしてあなたはいつもそんなに穏やかなのですか」、と尋ねると、彼女はこう答えたそうです。「わたしの秘密は、海を航海していても、心はいつも港に置いていることです」、と。キリスト教信仰の真髄は、自分がキリストに選ばれて、自分はどこに居て、どんな荒海を航海している時でも、イエス・キリストという「良い港」に錨を降ろしている、だから失望しない、ということです。
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さて、聖書はそのことを、どう教えているのでしょうか。
まず、神様はわたしどもが母の胎で造られるより前から、一人ひとりを選び、キリストを信ずる救いにあずかるよう、ご計画を定めてくださった、と言っています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」と書いてあります。これを「永遠の選び」と申します。パウロは、自分は天と地の造られる前から、救われるようにと予定されていた、と言うのです。
そんな昔には、わたしは存在していなかった、と言えばその通りです。曹洞宗(禅宗)の開祖である道元というお坊さんが書いた本に、『正法眼蔵』という本があります。この本の中の一節に、「父母未生の昔」という言葉があります。「父母」、つまり、父も母も、「未生」、つまり、いまだ生まれていなかった大昔、ということです。その頃わたしは存在していなかった。だからわたしは無である、ということを言おうとしているのが仏教の教えです。だから人間は無から生まれ、無に帰る、ものごとにはこだわるな、という教えです。
確かに、わたしどもは百年前はどこにも存在していませんでした。ましてや、天地創造よりも前、今から139億年も前にはわたしはいなかった。そうも言えます。しかし聖書は、わたしどもは母の胎から生まれるよりも前に、それどころか、天も地も造られる前から、わたしどもは神さまの御心の中で、永遠の愛の対象として選ばれ、救われるようにと予定されていた、と教えているのです。そして、この世で父と母から生まれてから今日に至るまで、ずっと神さまの御手によって守られ、導かれ、遂に救いに入れていただいた、と教えているのです。
これは、われわれ人間は万物の霊長だから尊いのだ、ということでは全くありません。わたしどもは、「土の器」に過ぎません。先ほども申しましたように、弱くてもろく、壊れやすい存在です。しかし、神様に愛されている。だから、尊いのは、天地万物の創り主であられる神です。本当に尊くて偉大であるのは、神がこんなちっぽけな、救われる値打ちもないような自分を選び、愛してくださった、ということなのです。
ですから、わたしどもは神様から選ばれたその選びを、有難いと信じて感謝するのです。毎日くよくよ悩まず、明日のことを思い煩わない。老いとか、死というような、自分の力ではどうにもならないような悩みも、毎日の小さな悩み事や心配事も、すべてを神さまにお委ねして、神を愛し、隣人を愛して生きる。これが、「選びの信仰」です。
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その次に大切なのは、第7節の御言葉です。まずお読みします。
「わたしたちはこの御子(キリスト)において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」
とあります。
これはお分かりになりますように、イエス・キリストの十字架による罪の赦しのことを言っています。つまり、神はわたしどもの罪を赦し、滅びから救おうと、天地創造の前から、既に十字架による救いを決意しておられた。ここでパウロが言いたいことは、イエス・キリストの十字架ですね。それを神さまは、天地創造の前にまずわたしどもをお選びになったときから、決意しておられた、と言っています。つまり、キリストの十字架というのは、決して主イエスの伝道の失敗とか、何かの偶然でやむを得ず起こってしまった出来事ではなく、父、子、聖霊の三位一体であられる神が、永遠の昔から決意しておられたことだ、と言うのです。われわれが創られ、罪を犯すよりも前から、十字架の救いを決めておられた。そしてその上で、天地万物とわれわれ一人ひとりをお創りになった、ということです。ちょうどわたしどもが、子供を産む前に、まず家を買い、子供のベッドを買い、用意万端を整えてからそうしますね。本当の親なら、そこまで考えるはずです。そのように、神は十字架の救いを天地創造以前の、永遠の昔から決意なさっておられたのです。そして、ここにこそ、わたしどもが神をほめたたえる最大の理由があるのです。もう一度申しますと、人間が神に背いてどんなに深い罪に陥っても、その人を見捨てずに救い出す。最後まで絶対に愛し抜いて、そのすべての罪を御自分が背負う。その十字架への断固たる決意が、天地創造よりも前から、神にはおありでした。
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しかし、どなたも不思議に思われるでありましょう。どうしてそのようなことが、わたしどもにも分かるのでしょうか。そのことをご説明します。
わたしどもは、神の御愛はイエス・キリストの十字架にこそ表れている、と承知しております。そしてその主の十字架のことが、福音書に書いてあります。その御最後の御様子から、神の決意が永遠の、天地創造よりも前からの、とても固い決意であったことが、よく分かるのです。わたしどもは、ともすると、どんなに神様の愛が強くても、もしわたしどもがそれを受けることを拒否すれば、その愛も無効になるのではないか、と高をくくりがちです。わたしども人間同士であれば、そうなります。わたしどもは、大変身勝手で浅はかな動物ですから、だれかを愛しても、相手が同じように自分を愛してくれないと、逆にその相手を憎むことしかできません。しかし、神の愛はそうではないのです。神様の愛は、<わたしはあなたを愛します。だから、あなたもわたしを信じて愛してください。そうすれば、わたしもあなたを救ってあげます。もしあなたがそうしないなら、わたしもあなたを救ってあげません>というような、こちらの態度次第の、曖昧で不確かなものではありません。それは、動くことのない、永遠不変のものです。たといわたしどもは不真実であり、しょっちゅう神を忘れ、自分勝手に生きて神を何度も何度も裏切ってしまうような者であっても、神さまは断固として、どこまでも真実な御方です。だから、キリストの十字架の愛は、それをわたしどもが承認し、受け入れるかどうかとは全く無関係に、有効です。まだそのことを知らない方たちにとっても、有効なのです。
そのことは、イエス・キリストが十字架にお掛かりになる前の、ゲッセマネの祈りの真剣さからも分かります。特にまた、十字架の御最後の御様子から分かるのです。あれほどの固い決意で、そして、十字架から降りようと思えばいつでも――主イエスは神様ですから、全知全能のお方ですから――降りようと思えばいつでも降りることが出来ました。それにもかかわらず、最後の最後まで、わたしどもへの愛のゆえに、降りることはなさらなかった。その愛が、仮初めの愛であるとか、われわれの承諾のあるなしによって中身が変わってしまうような、貧弱な愛であるはずはないのです。
主は最後に、何とおっしゃって息を引き取られましたか。ご承知のように、主は最後に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか」と天に向かって絶叫して死なれました(マルコ福音書15・34)。これは文字通り、わたしども全人類の罪の重荷と苦しみの全部を背負って、身代わりに、父なる神から捨てられて死ぬ死を死なれたのです。ガラテヤ書の3章13節に、「木にかけられた者は皆呪われている」とあり、主が本来、わたしどもが神の呪いを受けて死ぬべき運命を身代わりに死なれた、と書いてあります。わたしどもが本来、その「呪いの死」を受けるべき立場にあったのに、主が身代わりに死なれた。それほどに、主イエスはわたしどもを愛してくださったのです。これは、並やたいていの決断ではありません。
それですので、わたしどもはこの主の最後の叫びによって、あらゆる恐れや不安から、まさに「鉄壁の守り」によって、守られているのです。鉄の壁、鋼鉄の壁です。すべての不安や恐れからも、人生の虚しさや孤独や死の恐れからも、守られているのです。なぜなら、復活の主が共にいて下さるからです。
この十字架の御最後は、永遠にほめたたえられるべきものです。ですから、その一部始終を天からご覧になっておられた父なる神は、主をお喜びになり、三日後に主を墓の中から甦らせ、主は凱旋して、人間の罪に勝利して、天に帰られたのです。そして終わりの日に再び来られて、わたしども一人ひとりを、わたしどもの良き港であり、まことの故郷であり、永遠の父の家である神の御許にまで引き上げて下さるのです。このキリストの十字架の愛を、パウロは本日のところで、いつまでも賛美して止まないのです。
それと較べますと、わたしどもはそういう神さまの深い愛を知らず、相変わらず無知蒙昧なまま、心では善い人生を願いながら、実際には悪の道を選び、破壊と悲惨の道を歩んでいます。しかし、もう一度、先程のローマの哲学者セネカの言葉を思い出してください。「人間は悪徳を愛する心と、それを憎む心の両方を持っている。だから、人類が最も必要としているものは、人類を高く引き上げてくれる《手》である」、と言いました。わたしどもが必要としているものも、この神の手、わたしどもを高く引き上げてくださる神様の御手です。それが、キリストの十字架なのです。
どうかわたしどもは、どんなことがあっても、この神の選びの御意志を無にすることなく、生涯、キリストの御体なる教会の生活を大事にしたい、と思うのです。そして、いつか、キリストとお会いする日を大切にしたい、と思うのです。