インマヌエルの主

2025/01/12 公現節第一主日礼拝

「インマヌエルの主」

     創世記39章1~23節

説教 牧師 上田文

 

 

明日は成人の日です。成人というのは、どのような人の事を指すのだろうと思いインターネットで調べてみると、社会で自覚と責任をもって生きることが出来る人というような事が書かれてありました。自覚と責任をもって生きる。それは、成人した信仰者にも当然求められることのように思います。神さまと共に生きる者として自覚と責任をもって生きるということです。しかし、私たちは、なかなかその事が出来ないでいるように思います。このような私たちにパウロは、皮肉を込めて言います。「わたしはあなたがたには、霊の人にたいするように語る事ができない。相変わらず肉の人として歩んでいるからである」(Ⅰコリ3:1-3)。つまり、あなたたちはイエスさまとの関係が、乳飲み子のようである。自覚も責任もないと言うのです。

今日の聖書箇所は、兄たちに売られたヨセフが、自覚と責任をもった、神さまと共に生きる成人とされていく話です。ヨセフは、全ての民が神さまの救いに与るという神さまの御計画を受け継ぐ者と成長しました。そして、この神さまの祝福を受け継ぐ者として、私たちもまた、今新しい命を与えられています。そして、神さまの御前で責任と自覚を持った成人として、神さまと共に生きる者として成長する事が求められています。今日は、「神さまが共にいてくださる」ヨセフの変化を見ながら、神さまの御前で成人として成長する喜びとその恵みを共に味わい、私たちも霊的な成長をしたいと思います。

 

先日読んだ37章には、ヨセフが兄たちの嫉妬によって殺されそうになり、その結果、奴隷としてエジプトに連れ去られたことが書かれていました。そして、今日の聖書箇所が始まります。ヨセフ「エジプトに連れてこられ、イシュマエル人から、ファラオの宮廷の役人で侍従長のエジプト人ポティファルのものになった」。そして「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた」(1,2)と書かれています。「彼はうまく事を運んだ」と聞くと、彼がとても上手に生きて行く事の出来る人物であったかのように聞こえます。しかし、この言葉は「主がヨセフと共におられた故に、彼のする事はすべてうまく運んだ。」と言い換えることが出来る言葉です。奴隷として売られるヨセフに、主なる神さまが共にいてくださったということです。ヨセフは、愛する兄弟、信頼しているお兄さんたちに、暴行されて、売れてしまいました。彼の心は当然、深い傷が残っていたと思います。エジプトには助けてくれる家族はいません。しかも、奴隷されてしまっています。このような状況で人の事が信じられなくなり、自分を守るために、人々を攻撃することがあっても、おかしくないと思います。しかし、聖書は、ヨセフが人を気づ付けたり、暴行したりする事はなかったと語るのです。「主なる神さまが共におられたので、ヨセフのすることは全てうまく運んだ」そのように、聖書は書いています。きっと、彼は売られていく道中も、兄を信頼したように、そこで出会う人々を信頼していたように思います。そして、父や兄に親切にするように、出会う人々に親切に接していたのだと思います。それは、「主が共におられたから」だと、聖書は教えてくれるのです。

 

主が共におられたヨセフは、なぜ、人に不信感を抱いたり、攻撃したりする事が無かったのだろうかと思います。なぜ、人を信頼し続けることが出来たのだろうかと思います。

ヨセフは、エジプトに売られる旅路の中で、愛されていた家族の事を何度も思い出したと思います。その一つが、父ヤコブの祈りであったことでしょう。父ヤコブは、ヨセフを大切にして育て、長い裾の晴れ着をいつも着せていました。それは、ヨセフを通して、兄たちを含めた全て家族と全ての民族が神さまの救いの中に入れられるためでした。ヨセフの長い晴れ着には、父ヤコブの家族全てへの愛と祈りが含められていたのでした。その晴れ着を着せられたヨセフは、きっと父ヤコブから、ペヌエルでの話も聞いていました。ヤコブは、ペヌエルで神さまと格闘し、全てを神さまに委ねる信仰を与えられました。そして、神さまに従うイスラエルとされました(32章)。この父の信仰の話を、ヨセフはエジプトに送られる旅路の中で、思い出していたに違いありません。そして、少しずつ、自分がなぜ晴れ着を着せられていたのか、その意味を理解し始めていたのかもしれません。

 

父の祈りによって着せられた晴れ着のせいで、彼は、兄たちに嫉妬を買い売られてしまいました。なぜ、自分は、兄たちの気持ちも分からずに、晴れ着を着続けたのだろう?と、振り返って考える事があったかもしれません。しかし、その晴れ着が父ヤコブの祈りと繋がっていた事が理解できると、その問いはとても簡単に答えが出たのだと思います。父は、自分の事をこのうえなく愛してくれた。そして、自分のことを全て受け入れてくれた。何故なら、父は、自分ヨセフが神さまの祝福を受け継ぐ子として与えられたと信じていたからである。神さまの祝福、それは兄たちを含めた、全ての民を救うための祝福である。この神さまとの約束によって、自分ヨセフは、父から特別に愛されて、受け入れられて成長していたのだ。そのように理解できたのでした。エジプトに売られていく苦難の中で、その事を知ったヨセフは、初めて父の祈りによって、自分が生かされていた事を知りました。そして、父だけでなく、神さまも自分と共に生きてくださっていた事を実感したのだと思います。自分の全てを受け入れてくれていた父の姿がその父の祈りと合わさる時、ヨセフもまた、全ての事を神さまのものとして受け入れる準備が出来たのかもしれません。

 

父の祈りと神さまのビジョンを与えられ始めたヨセフは、見たこともない国と人々の中で、信仰を頼りに生きるようになりました。父が教えてくれた信仰、それは攻撃するのではなく、神さまを信頼し続けることでした。一人きりの、だれも頼りになる人がいない中にあって、彼は初めて父ではなく、神さまを信頼して頼りにして生きる事を知ったのかもしれません。このようなヨセフを、神さまは「上手く導いてくださった」のでした。そして、3,4節に語られている事が起こりました。「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけ身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」とあります。神さまを信頼することを通して、人を信頼する事が出来たヨセフは、エジプト人である主人ポティファルに、イスラエルの神さまの話をしたのかもしれません。それは、神さまの導きをそのまま受け入れる、ヨセフの強さでもありました。彼は、小さい時から、彼が知ってか知らずか神さまに与えられた話を素直に受け入れて、正直に話す人物であったことを私たちは今まで見てきました。きっと、ここでも、あの時と同じように話したのだと思います。自分の神さまをポティファルに伝え、自分がその「主」を信頼して生きている事を伝えたのだと思います。そして、その話を聞いたポティファルは、ヨセフの仕事ぶりを見ながら、ヨセフを信頼していったのでした。ヨセフは、神さまに仕えるように、主人に仕えたのでした。「キリストの愛が、私たちを駆り立てる」(Ⅱコリ5章14節)とパウロは語りました。何も知らない外国で、奴隷として働くのは不安があったと思います。しかし、そのような気持ちを全て捨てて、ヨセフは主人ポティファルに仕えたのでした。ヨセフは、全ては神さまが与えてくださるという父の信仰を思い出す時、この厳しい現実もまた与えられた物として受け取ることが出来たのでした。そして、そこに神さまが共にいてくださる事を知ったヨセフは、神さまから与えられた働きとして、真剣にポティファルに仕える事が出来たのでした。ヨセフの働きを見ていたポティファルは、神さまがヨセフと共におられる事を感じられたのだと思います。主人は、ヨセフに、家の管理と財産をすべて任せました。

 

ヨセフが家の管理や財産を任されるようになると、ポティファルの家は神さまの祝福を受けるようになりました。5節には、「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも、農地にも、すべての財産に及んだ」とあります。そのため、ポティファルのヨセフに対する信頼はますます深まり、「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなく」(6)なりました。神さまと共に生きるヨセフの日々は、裾の長い晴れ着を着せられていた者としての自覚と成長の日々であったと思います。裾の晴れ着に込められた祈り。それは、家族と全ての民族が神さまの救いに入れられるという祈りでした。そして、その祈りは、今ここにいる私たちにも受け継がれている祈りです。

 

 神さまは、神さまと共に生き、祈りを受け継ぐ信仰者の一人であるヨセフゆえに、エジプト人ポティファルの家の全体と農地や財産に至るまで祝福してくださいました。この家で、主なる神さまを信じているのは、ヨセフだけです。しかもヨセフは奴隷の一人に過ぎません。しかし、この一人の信仰者である奴隷のゆえに、神さまの祝福が、その家全体に財産にまで及びました。この事は、私たちの話でもあります。

私たちは、家族の中で、また仕事場の中で、仲良しグループの中で、自分一人が信仰者であるという場合が多くあるように思います。そして、そのような中で、信仰者として生きることはなかなか困難があるように思います。なぜなら、信仰者は、聖霊によって神さまのみ言葉をすべての中心にして生きるからです。そのため、理解してもらえない、協力してもらえない苦しみがあると思います。エジプトという国の中で、イスラエルの神を信じるヨセフはきっとそれ以上の苦しみがあったと思います。しかも、彼は奴隷として生きているのです。しかし、私たち信仰者が、そういう苦しみの中で、神さまの言葉を中心として生きることによって、神さまの祝福が私たちの家に、家族に、財産にまで及んでいくのです。神さまは、家族の中のたった一人の信仰者ゆえに、家庭を、そして、その家庭に繋がる全てのものを祝福して下さるのです。そのことを、ヨセフは、私たちに証明してくれるように思います。

また、ヨセフは、神さまに仕えるように、ポティファルに忠実に、熱心に仕えました。もし、ヨセフが自分の事ばかり考え、兄に捨てられた事を嘆きふてくされていたのならば、このことは出来なかったと思います。ヨセフは、神さまの御計画の一つとして、奴隷になるという変えることの出来ない現実を受け入れたのでした。売られて奴隷になる事もまた、神さまから与えられた事として受け入れていったのでした。そして、その神さまに与えられた事の中で、自分にできる精一杯のことをしたのです。このようなことがあったからこそ、主人ポティファルは、ヨセフを信頼する事が出来たのでした。「主が共におられたので」という言葉は、「ヨセフが主なる神さまを信頼し、主なる神さまの御計画の中を生きる事を受け入れたので」とも言い換えられるように思います。主なる神さまが共にいてくださり、その主なる神さまをいつも受け入れる事を自覚し実行したヨセフは、苦しみの中にあっても絶望することなく生きることが出来ました。この事こそ、神さまの与えてくださる恵みでした。この恵みは、いつも信仰者にあたえられている幸いです。

 

 ヨセフは、エジプト人ポティファルの家で、恵まれた地位を与えられて生活するようになりました。しかし、新たな苦しみが彼を襲います。ポティファルの妻が、ヨセフに言い寄ってきたのでした。6節には「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた」とありますので、彼女はそのようなヨセフに夢中になったのかもしれません。しかし、神さまと共に生きるヨセフは、「わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(9)と、ポティファルの妻の誘惑を退けます。ヨセフは主人に全ての物を委ねられ、全てを意のままに動かすことが出来ました。忙しくてかまってくれない夫に不満をもつ妻を慰めてあげるのだと言い訳することも出来たと思います。また、「自分の出世を棒に振ることは出来ない」だとか「主人が怖い」など、主なる神さまを知らないポティファルの妻が、分かるような言い訳も出来たと思います。しかし、自分のためでなく、神さまの御計画のために生き始めたヨセフには、きっと「神に罪を犯す事はできない」という言葉以外は見つからなかったのだと思います。ヨセフは、それほどリアルに、神さまと共に、神さまのみ言葉の前で生きていたのでした。そして、その主なる神さまに従いたいと願っていたのです。「主が共におられる」というのは、こういうことでもあるのかもしれません。

このようなヨセフの姿を見る時、私たちは、本当に自分勝手な信仰で、「主が共におられる」事を信じているという事に気づかされます。自分が困っている時は、神さまがきっと共にいてくださると信じようとします。そして、困ることもなく、自分の好きにしたい時は、共にいてくださる神さまなどすっかり忘れてしまったり、むしろ煩わしく感じたりするように思います。このような私たちに、詩編の記者はこのように促します。「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたのみ言葉どおりに道を保つことです」(詩編119・9)。神さまのものとされ、神さまの御計画の中を生きているあなたは、その計画どおりの道を保ちなさい。つまり、神さまはあなたの気分によって、共におられたり、そうでなかったりする方ではなく、あなたは神さまと共に生きるものとして造られているのである。あなたは、与えられている計画とみ言葉通りに行きなさい。あなたはその事によって成長するのだと教えてくれるのです。神さまは、私たちが神さまを乞(こ)う時も、そうでない時も、共にいてくださいます。何故なら、神さまはご自分が祝福を与える者を信頼してくださるからです。「主が共におられる」と信じる事は、神さまの御前から離れそうになり、つまずいてしまう自分を神さまが信頼してくださっている。そして、いつもご計画の中に引き戻してくださり、神さまと共に、神の国に向かおうと何時も歩んでくださっている。その事を信じて、私たちを信頼してくださる神さまの前で、自覚的に生きる事でもあるように思います。神さまと共に歩むヨセフの歩みは、絶えず神さまに立ち上がらせて頂き、成長させて頂く歩みであったのでした。この歩みは、私たちにも変わらずに与えられています。神さまから信頼していただく歩み、その歩みはさまざまな誘惑に襲われながらも、霊的な成長をする歩みです。

 

 しかし、ポティファルの妻は言葉による誘惑を越え、遂に行動にでます。12節には「彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『わたしの床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残したまま、逃げて外へ出た」とあります。当時のエジプト人が着ていた服は、一枚の寸胴のような服でした。さらに、ヨセフの着物は、主人が信頼するものに着せる高価な服であったと思います。彼は、その服をつかまれたので、とっさに頭からすっぽり脱いで逃げました。ヨセフは、服を置いて逃げたことによって今後どのような事態をもたらすか、もう簡単に予想できたと思います。彼は、また兄たちの時と同じように、服をはぎ取られて、穴に突き落とされ売られるような事になってしまうのです。しかし、今のヨセフは、神さまの祝福を受ける者として成長していました。彼は、兄たちにされたように、思うがままに服をはぎ取られ穴に落とされたヨセフとは違っていました。自覚的に、神さまの御前で生きるヨセフは、ハッキリと、自分の意志で、服を脱ぎ捨て、穴に跳び込むように、神さまの御もとに逃げたのです。ヨセフの取った、逃げるという方法は、ヨセフが伝える神さまを、その目で確認するように見始めた、ポティファルに、最後まで主を指し示すための方法であったのかもしれません。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ5:29)というみ言葉がありますが、ヨセフはまさにこれを実践したのでした。自分の周囲に起こった、嘘によってポティファルをつまずかせたくない。それならば、全ての誤解を背負って、主の下に逃げよう。ヨセフは、そのように決心して、自ら服を脱ぎ捨てたのかもしれません。ヨセフのとったみっともない行動を、神さまは受け入れてくださいました。ポティファルは、ヨセフを死刑にすることだって出来ましたが、彼はは、そうせずにヨセフを王の囚人をつなぐ監獄に入れました。神さまを指し示し続ける事を願ったヨセフの思いが、ポティファルに伝わっていたのかもしれません。主を指し示すために生きる。神さまと共に生きる信仰者の姿がここにも現れています。

 

 主と共に生きていたヨセフは、それにもかかわらず奴隷から更に囚人へと身を落とされてしまいました。神さまに従う行動をしたと思ったのにど、どうしてこのような事になったのだろうと考えたと思います。また、身に覚えのないことで主人の信頼を失い、牢獄につながれてしまったヨセフの悲しみと、怒りと絶望は想像に余りあります。ところが、聖書は、また、とても簡単に「しかし、主が共におられ、恵みを施され」と私たちに告げるのです。ヨセフは奴隷から囚人に落とされた、でも「主がヨセフと共におられた」と聖書は語るのです。つまり、それもまた神さまの御計画の中にあったことを知らせるのです。そして、神さまは、今度は、ヨセフが監守長の目に叶うように導かれました。そして、監守長に信頼されるようになり、囚人たちのことをすべてヨセフに委ねるようになりました。それは、彼に才覚があったからだと聖書は書いていません。先ほどとおなじように、「主が共におられ、主がうまく計られたからである」と告げるのです。

 

 今日読んだ、39章には「主が共におられ」という言葉が四回も出てきます。そして、その言葉の後に「うまく事が運んだ」とか「うまく計られた」という言葉がついています。ヨセフ物語を読む私たちには、ヨセフが上手くいっているようにはとても思えません。しかし、「主が上手く計られた」という言葉は、別の意味を持っているようです。この言葉はアブラハムがその僕を故郷に遣わして、息子イサクの妻を探しに行かせるもの物語に出てきます。アブラハムの僕はとても賢く、アブラハムに忠実な僕でした。けれども、彼は自分の力ではなく、「主が旅の目的をかなえてくださる」と信じ、そのことを信頼して歩むのです。つまり、「主が上手く計られた」というのは、「主がそのご計画を実現される」と読むことができるのです。ヨセフと共にいてくださる主なる神さまは、ヨセフと、このヨセフの物語を読み進める私たちをこの信仰に導いてくださるのです。私たちの旅の目的、それは、私たちを通じて、全ての民が神の国に入れられる事です。その目的が、私たちには上手くいっていないように見える時でも、神さまと共に自覚的に信仰を生きる時に、ご計画は前に進み続けているのだと聖書は教えてくれるのです。

 

 主が共にいてくださる。私たちは、その恵みを神さまの独り子であるイエス・キリストによって与えられています。イエスさまは「インマヌエル」と呼ばれました。それは「神は我々と共におられる」という意味です(マタイ1:23)。また預言者イザヤはこのインマヌエルであられる主の名をこのように語ります。「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ9:5)。主なるイエスさまが、永遠に私たちを導き、平和を作るために、私たちを歩ませ、そこで降り注ぐ、さまざまの問題に共に立ち向かってくださり、私たちが、父なる神さまと一つにされるために、罪を解決してくださると教えてくれるのです。私たちは、「主が共にいてくださる」と聞くと、何の問題もなく幸せに生きて行けるのだと思う事があります。しかし、神さまに救われ、全ての民が救われるために祝福を頂いている私たちは、主の導きを必要とする状況におかれ、主によってしか問題が解決できないような困難に置かれるということです。それは、多くの民が、私たちを通して、私たちの罪を解決してくださる主イエスを見上げ、主と共に生きる事になるためです。

 けれども、私たちは何も恐れることがありません。なぜなら、この主なるイエスさまは、誰よりも苦難の中におかれ、私たちの全ての罪を背負って十字架に架かってくださり、神さまは私たちの罪を赦してくださり、、復活して、私たちにも永遠の命の約束が与えてくださった方だからです。復活してくださったイエスさまは、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。その約束の中を私たちは生きているのです。それは、どんな状況にあっても、主の祝福を指し示し、主と共に生きることが赦されている恵みの中を生きているという事です。この主が共にいてくださるので、私たちもまた、ヨセフのように、ただひたすら主を信頼して、神さまが与えてくださるご計画の中を歩むことが出来るのです。

 

 主のご計画の中を生きることは、苦しみがない人生を歩むことではありません。パウロは、迫害と困難の現実の中で、福音を伝えるために精一杯生きていました。それが、主のご計画であったからです。そのパウロが言います。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Ⅰコリ15:10)。迫害と困難の中で、パウロは全く別の恵みの中を生きているのです。それは、その迫害と困難さえも、主の恵みのご計画の一部であり、その恵みの中を私は主と共に生きているという喜びの言葉として聞こえてきます。そして、働いているのは、わたしではなく共にいてくださる神であると証言します。イエスさまが共にいてくださり、私たちに生きる道を与えてくださるので、私たちは今を生きる事が出来ています。そして、この恵みによって、私たちは目の前の現実を、神さまの祝福に繋がる事実として受け止めて、ヨセフのように、力強く主と共に歩み続けることがゆるされています。主なる神さまは、ヨセフとだけおられるのではありません。「私たちと共にいてくださる」神さまなのです。勇気をだして、主なる神さまに与えられた道のりを、責任と自覚もって歩み続けたいと思います。