2024/12/29 降誕節第一主日礼揮
「主イエスと共に見る夢」
説教牧師 上田文
創世記 37章12~36節
先日、夫と小さいときに揃れた友だちについて話をしました。私が確れた友だちは、良く学校を休んだり、包帯を巻いたりしている友だちでした。何だか、先生はそのような友だちを大切にしている。それに比べて、どこに居ても、充気でご機嫌な私は、気にもかけられてもらえていないのではないかと不満に思っていたのでした。そして、学校に包帯を巻いて行ったら、先生はきっと良くしてくれるのだと思い込んでいたのでした。
先生に良くされたい。それは、ヨセフの兄たちの気持ちにも通じるものがあるかもしれません。父に良くされたい。自分も、父に愛され、長い福の晴れ着を着せられたい。兄たちは、いろいろな事を考えたと思います。強くなり、立派な大人になろうと努力したと思います。しかし、父ヤコブは、見たちの努力とは裏腹に、何も出来ない弟ヨセフに晴れ着をきせ続けたのでした。何故、このような者を父は選ぶのか。見たちは分からなくなりました。それは、私たちも同じです。なぜ、あのような人間が牧師として召されたのか。なぜあの人が教会役員に選ばれたのか。なぜ、この人が奉仕の中心をになっているのか。私たちの基準では分からないことが、沢山起こるように思います。
今日の物語は、先日からのヨセフの夢の続きです。神さまは、父に疑問を抱き、父から遠くに離れてしまう見たちを救うために、ヨセフに夢を見させました。それは、神さまの恵みの御計画を進めるためです。そして、それは、さまざまな疑問を抱きながら、教会生活を送る、私たちにも重なってくる夢となります。なぜなら、神さまの御計画はまだ進められているからです。私たちは、ヨセフやその見たちと同じように、自分の努力では行き届かないような所で、神さまの恵みのご計画の中を今なお歩ませて頂いています。そして、私たちは気づいていないかもしれませんが、ヨセフと同じように、夢を見させていただいています。その恵みについて、今日は、聖書に聞いてみたいと思います。
今日の聖書箇所は、先日のヨセフの夢の続きです。
兄たちは、ヨセフに晴れ着を着せる父ヤコブの事が理解出来ませんでした。自分たち家族が全て救われるために、ヨセフが遣わされた、その事を見たちは理解出来ないままでいました。それは、父は、弟ヨセフのみを愛し、自分たちの事は構(かま)ってもくれないという、誤解に繋がっていったのでした。父にとって自分は何なのだろうかと、不安の苦しみの中にいたと思います。そして、この苦しみを、父に可愛がられているように見える弟ヨセフへとぶつけたのでした。苦しみの中で、その理由が分からず、自分以外の人に、苦しみの原因を押し付けてしまうという事が私たちにもまたあるように思います。目の前に次々と現れる辛さの中で、自分を願(かえり)みる事が出来なくなり、いつも私たちの内に生きてくださるイエスさまの事をすっかり忘れてしまうのです。そして、自分たちの不幸の責任を、ヨセフの兄たちのように、父や、他人や、ついには神さまにまで押し付けようとしてしまうのです。
そのような、息子たちの姿を父ヤコブは、見ていたのでしょう。父ヤコブはヨセフを、羊を放牧している兄たちの所へやって、その報告をさせようとしました。父ヤコブはこのように言います。「兄さんたちが元気でやっているか、羊の詳れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」(14)。兄さんたちが、神さまに守られて、平安の中でいるか、半も平安でいるか確かめて来てくれないかと、ヨさつに頼んだのでした。この言葉は、息子たちの平安を祈る父の愛のこもった言葉なのでした。しかし、兄たちは、そのことに気づくことが出来ません。ただ監視をされているようにしか受け取れないのでした。愛情を愛情として受け取ることが出来ない。父なる神さまの恵みを恵みとして受け取る事が出来ない。そのような事は私たちにもあるように思います。クリスマス期間中、私たちはさまざまな所で、隣人の為に祈り、神さまに与えられた愛の力による行為をしてきたと思います。また、その愛を受け取る機会も与えられていると思います。しかし、その主なる神の愛を愛として受け取れない。
むしろ、迷惑でおせっかいと受け取ってしまう。忙しいのに、またやる事を作られてしまったと思ってしまう。そのような事があったように思います。忙しさの中で、神さまの恵みの内に生かされている事を忘れてしまうのです。そして、目の前で起こる出来事だけに右往左往(うおうさおう)してしまうのです。その結果、父の選を選として受け取れない。父なる神さまの愛を選として受け取れない。ヨセフの見たちの状況は、私たちの状況でもあるように思います。私たちは、クリスマスの最中(さなか)にあっても、父なる神さまに目を向けることが出来ないでいるように思います。
しかし、それでも私たちが救われるのを願い、探し求めてくださる神さまのみが、ヨセフを通じて伝わってきます。ヨセフは、見たちが気にしているか、平安でいるかを確認するために、シケムに向かいます。しかし、シケムに見たちはいませんでした。すると、一人の人がヨセフに「何を探しているのかね」と尋ねました。ヨセフは「兄を探しているのです。どこで羊の群れをっているか教えてください」と言いました(15-16)。兄は、父から離れて、どんどん遠くへ行ってしまったのでした。それは、父なる神さまに目を向けることの出来ない私たちも同じように思います。私たちは、神さまに無関心であるとき、どんどんと神さまから離れて行くように思います。しかし、神さまの愛の中で愛し合うものは、違います。お互いに、近くに居たいと思い、神さまの近くにいる事を望むように思います。
神さまの方を見る事の出来ない見たちは、自分の心がどこにあるのかも分からないほどに、ヨセフに対する憎しみを深めていったのでした。飼い主を無くした羊のように、闇の中をさまようようになったのでした。しかし、神さまは、そのヨセフを通じて、どんどん自分から離れていくヨセフの兄たちを探し求めてくださいます。「兄を探しているのです」という、ヨセフの言葉は、「どこにいるのか」(3:9)と、非に落ちたアダムとエバを探してくださった神さまを思い起こさせます。また、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ 15:32)と語った、あの放蕩息子の父ように、神さまから離れて行く私たちを、探し、見つけて、喜んで下さる神さまを、再び確認できるように思います。
しかし、兄たちからは、既に神さまに向かう心や平安は無くなっていました。18節からは、「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるのか、見てやろう』」とあります。兄たちは、神さまの啓示であるヨセフの夢を、まだ(にく)んでいたのでした。ヨセフに頭を下げるという事が気に入らないのです。苛立(いらだ)ちの中で、ヨセフの夢がどういう事なのか、神さまに問い、祈ることの出来なくなった見たちは、神さまと隣人に対して無関心になっていきます。
ヨセフの命をとって、後で「野獣に食われたと言えばよい」と、神さまの与えられる命そのものに、無関心になり、「あれの夢がどうなるか、見てやろう」と、神さまの御計画に対しても、ただの傍観者となってしまうのです。傍観者になるということは、神さまの御恵みの外に自ら身を置くということにつながるのかもしれません。自分の気に入らないことを捨て、神さまのみ恵さえ捨ててしまう。そのような事が、私たちにもまたあるように思います。
しかし、長男であるルベンは、ヨセフの命をなんとか助けようとします。「命まで取るのはよそう」(21)
「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」(22)と言ったと聖書に記されています。ルベンは、優しくて、弟思いだったのでしょうか。また、自らの罪に気づく事が出来たのでしょうか。ルベンは、ヨセフを助けようとしたのだから、他の兄弟たちよりも、罪が浅いのかもしれないと私たちは、思うかもしれません。それは、ルベンの事だけではありません。隣人と自分を比べて、あの人に比べれば自分は大丈夫だとか、これくらいなら赦されるだろうと、自分勝手に罪の浅い深いの基準を決めてしまう事が私たちにはあるように思います。そして、ルベンのように、殺さないけれど、これくらいなら赦されると考え、罪を狙してしまうことがあるように思います。罪とは、「的外れ」という意味を持ちます。神さまのみ心から「外れて」、自分勝手に歩みを進めることです。
皆さんは、弓矢を装った事があるでしょうか。少しでも、ずれると、結果的に大きく的(まと)から外れてしまいます。罪も同じです、少しの的外れでも、罪は罪となります。罪に大きいも小さいもないのです。つまり、ルベンのように、後から弟を助ける事を考えながら処す罪は、罪だという事です。また、私たちは、このように考えるかもしれません。罪を犯したくないし、自分には分からないから、何もしないのが一番いいのかもしれない。これもまた、祈り、神さまのみを聞くを忘れた傍観者、「的から外れた人」となると聖書は教えてくれるのです。
では、神さまと共に生きるという事、罪を犯さないで生きるという事はどのような事なのだろうかと思います。そのような私たちに対して、パウロは、罪を犯さないという事は、愛することだと教えてくれます。ローマの信徒への手紙にはこのように書かれています。「どんな掟があっても「隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(13:9,10)。自分を愛するように隣人を愛していれば、その人を傷つけたり、明したり、殺したり、その人の物を盗んだりしたいとは思わないはずである。つまり、罪を犯さないということは、愛する事である。相手の事を思い、その人と共に生きてくださるイエスさまを思う事だ。そのようにパウロは教えてくれるのです。ルベンは、罪を犯すことをためらいましたが、愛するという事を実行できなかったのかもしれません。そして、ルベンの考える、少しの罪のはずであった「的外れ」が、彼も予想しなかった事を招いていくのです。
兄たちは、ヨセフがやって来ると、彼の着ていた、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕えて、穴に投げ込みました。裾の長い晴れ着、それは、見たちの腹立たしさの象徴であり、また、全ての家族を救いたいと願う、父の祈りの象徴でした。見たちは、それをはぎ取ってしまったのでした。これだけであるのなら、ルベンの計画は上手くいくはずでした。22節にあるように、ヨセフを兄弟たちの手から助け出して、父のもとへ帰したらそれで、一件落着すると思っていたのかもしれません。
ところが、
その計画は外れ、ヨセフは通りかかったイシュマエル人の隊商(たいしょう)に売られてしまいます。
長男ルベンの計画も的が外れ、ヨセフは結局、エジプトに奴隷として売られてしまいました。
31節には、そのような兄たちの行きつく先が示されています。「兄弟たちは、ヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊(おやぎ)を殺してその血に着物を浸した。それから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子のきものかどうか、お調べになってください』と言わせた」(31.32)とあります。父の祈りを見るのではなく、目の前の弟と衣服を見続けた見たちの行きつく先は、罪を隠し、ヨセフの服を装に使うという事なのでした。
聖書は、私たちに教えてくれます。「主に逆らう者は自分の悪の罠にかかり、自分の罪の網が彼を捕らえる」(箴言5:22)。私たちは、神さまのみ心に問う事を忘れてしまうと、的外れになる。私たちは、自らの力で罪から離れることは出来ない。だから、罪から遠く離れ、命を回復していただく必要があると教えてくれるのです。
全く、罪を持たない人が私たちの中にいるでしょうか。誰でも、人に言えない恥ずかしい罪を抱えているように思います。しかし、私たちは教会に集められました。罪を持ち続けて、それを隠して、罪に捕らわれ続けて生きるのではなく、イエス・キリストによって回復して頂くためです。教会は、罪を裁く所ではありません。イエスさまの御前で罪を明らかにされ、十字架によってその罪を取り除いて頂くところです。ヨセフの兄たちのように、自らの罪を隠すのであれば、数会は教会として機能しなくなってしまいます。聖霊の火はなくなってしまいます。互いのために祈り合い、一人一人が主の前で罪を明らかにされるとき、私たちの罪は、イエスさまの十字架によって赦され、命が回復されます。
そして、その一つ一つの行いこそ、数に真の命を満たす行いとなるのです。
ヨセフの兄たちの知らせを聞いたヤコブは、自分の衣を引き裂き、粗布(あらぬの)を腰にまとい、幾日もヨセフのために嘆き悲しみました。ヤコブは、イスラエルとなってから、家族の霊的な救いと、恵みを受け継ぐ民となるという神さまのみ心のために、祈り続けてきました。そして、それをヨセフに託すことを祈り続けていました。しかし、その望みが断たれてしまいました。全ての人に与えられるはずの、神さまの祝福の約束が断たれてしまった。そのようにヤコブは思ったのだと思います。ヤコブは、慰(なぐ)められるのを拒むほど悲しみ、絶望のどん底に突き落とされました。家族の不幸はここに極まったように思います。その不幸の原因は何か、誰が悪かったのかと問うならば、それを突き止めることは出来ないように思います。皆、それぞれ原因を持っており、また同情すべき事がありました。そして、それぞれが犯した、「的外れ」、つまり、傍観者になり、御心の内に生き続ける事が出来なくなってしまう。そのことが、神さまの平安を壊してしまい、それに繋がる、全ての人々が、苦しみ、嘆き、悲しみの中に陥(おちい)ってしまったのでした。このヤコブの話は、私たちの教会や家族にとって他人事とは言えないように思います。
では、ヤコブの家族は、これでおしまいになってしまうのでしょうか。そのようには思いません。神さまの祝福の約束は、人のもつ可能性ではなく、神さまの持たれる恵みの力によって成ることを、聖書は絶えず私たちに教えてくれています。神さまの恵みは、人の可能性により、あったりなかったりするようなものではなく、ずっとあるものなのです。その視福の前に、私たちはどのように立つのか、それが問われています。
父ヤコブは、衣を製き、嘆きむしんだとあります。泣いているのは、ヤコブだけなのだろうかと思います。きっと、神さまからどんどん離れていき、罪を狙し続ける私たちのために、父なる神さまは、次を流してくださっているように思います。イエスさまは、ゴルゴダの丘にひかれて行く途中に、私たちに言ってくださいました。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」(ルカ 23:28)。十字架に架かる私よりも、あなたたちの方が、もっと深い恐しみの中にあるはずである。父なる神さまの命を失ってしまっているあなたたちの方がもっと悲しみの中にあるはずだと、イエスさまは、私たちの罪を問い続け、教えてくださったのでした。そして、父なる神さまは、祈りの中で、十字架に付けられていくイエスさまの事を嘆かれるよりも、神さまの命を失ってしまっている私たちを見て嘆かれている。その神さまの愛を私たちに伝えてくれたのでした。衣を裂いて想しんだヤコブの映き、それは、ただヨセフを失った必きではなく、祝福に入れられる民を失う神さまの吸きを表していたに違いありません。神さまは、神さまから離れて生きる私たちのため、衣を裂いて嘆きしんでくださるのです。
私たちは、今、震えながらひれ伏し、問うしかないように思います。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」(便徒16:30)。神さまは、このような私たちにパウロを通して答えてくださっています。「主イエスを付じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(徒16:31)。神さまは、宿じる私たちにも、ヨセフと同じように夢を見せてくださいます。実際に、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と問い、神さまに救われたい、全ての人と共に救われ、祝福の中に入れられたいと願う、そのような夢を私たちは与えられています。その夢を見せてくださっているのは、私たちのために、涙をながされ、「彼らを赦してください」と十字架で祈ってくださった、イエスさまです。このイエスさまの祈りが、私たちの信仰の先達に夢を見させ、そして、私たちにも夢を見させ、夢は祈りに変わり、今ここで、一人一人が主の御前に立ち新しい命を頂く者となり、御国のために祈る力となっているのです。イエスさまに夢を与えられている私たちは、このイエスさまを信頼し、愛を実行する福音の証人(おかしびと)とならないわけにはいきません。私たちが何じるのは、私自身でも、周りの人でもありません。主イエスだけなのです。
主はヨエルを通して教えてくださいました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預管し、若者は幻(まぼろし)を見、老人は夢を見る。
わたしの後やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ、すると、彼らは予言する」(使徒2:17,18)。このことを、何じ、来年も主の御前で過ごしたいと願います。