目を上げるとそこに光が

2024/12/22 降誕祭主日聖餐礼拝 


 「目を上げるとそこに光が」


使徒言行録説教第75回 26章12~18節 

説教 牧師 上田彰

 

*クリスマス前日の思い出

 

 昨晩、日付が変わった直後ぐらいのことでしょうか、二階の牧師執務室で説教準備をしているときに、一人の訪問客がやってきました。扉を開く音が響きましたので、階段を降りました。「こんばんは」と声をかけてみます。扉の内側に入っておられるのであれば、誰だろう。泥棒さんが居直り強盗になる確率はゼロではありません。自然と声が大きくなります。すると、扉の外から、すみませ~んという声がしました。聞けば地元の方で、一杯引っかけて歩いていたら教会の中にクリスマスツリーの明かりが見える。それで開いているのかどうか試そうとドアを開けたら開いてしまい、びっくりしたので離れたら、今度は私の声が中からするので、「すみませ~ん」と返した、ということでした。伊東教会には小さい頃、ガールスカウトか何かで来たことがある、という方です。そこで礼拝堂を案内し、クリスマスの飾りについて説明をするひとときが与えられました。

 

 時々不思議な訪問者がやってくるといえば、こんな忘れられない訪問者がいます。一年前のクリスマス礼拝の前日ですから、全く同じ日の訪問者です。それは早朝のことでしたが、CSクリスマスの会のために用意していたお菓子がごっそりなくなってしまったのです。実はそれは一度きりのことではなく、二回目でした。酔っ払いがうっかり入ってきてうっかり持ち出したというような事案ではなく、泥棒さんに近いのではないか、と考えました。そうだったとしても、その取り主の素性が少しわからないと次のアクションが打てません。

 

 一年前のクリスマス礼拝の前日といえば、教会に役員が何人かが会議のために集まることになっていました。このお菓子紛失事件をどう捉えるべきか、早速相談したいと思いました。結局そのことを相談出来たのは会議のあとの話になってしまいましたが、次のようなことが確認されました。

 

・お菓子は箱ごと持ち去られ、その外側の箱は、近くの川に捨てられていた。

・引き上げると、種類ごとに、なくなってしまったお菓子袋と、手つかずの袋に分かれていた。

・手つかずなのはラムネやキャンディーなど、腹の足しにはならないものであるのに対して、なくなったお菓子は、いわゆる腹の足しになるものばかりであった。

・教会で夕礼拝に以前時々来ていた人が持って行った可能性が高い。

・そうであるならば、おなかの空いた人が、以前にかよっていたところに迷い込んで食べるものを見つけたので持って行ってしまったという、福祉事案ということになる。刑事事件として警察に届け出ることはしない。

・教会として、しばらくの間今インフォスタンドがあるあたりに、平日はレトルトカレーとご飯を置くことにする。食材は週報で告知して募集する。置く机は「どうぞの机」と名付ける。子ども向けの有名な絵本にちなんだ名前である。

 

 その後数ヶ月様子を見ておりました。食事がなくなったのは結局一回だけでした。その後、その心当たりのあった人は、少し元気になり、町ですれ違うときに声をかけても返答があるようになりました。今はロビーの様子を整えるために一旦どうぞの机は引っ込めましたが、また検討課題として良いと思っています。

 

 クリスマスの祝い。それは祈りを必要としている者達が集まるところです。今年も昨年も、クリスマスの前日に不思議な形で訪問者がやってきました。そのことによって、祈りを必要としている人が集まるのが教会であることを教えられました。祈りを必要としている人、そして祈りを受け止める人によって、教会は成り立っています。

 

 この時期に、献金依頼が送られてきます。様々な施設、また関わってきた教会や同僚達で援助を必要としているところに献金を送ると共に、まだ支えが必要なところがないか、と思い巡らします。自分にはどれだけ祈りによる支えが可能だろうか、そう自己点検する機会にもなります。

 そのような自己点検をする中で今回気づかされたことがあります。それは、まだ祈りが向けられる必要なところがあるのではないか、自分自身に対して誰かが祈って下さる必要があるのではないか、ということです。自分自身が祈りを必要としているということに気づくときに、本当の意味でクリスマスが到来するのではないか。そのような思いを深められます。

 

 

*「共に恵みに与(あずか)る」ために

 

 今日の聖書箇所の最後の18節から見て参りたいと思いますが、パウロは、迫害者であったサウロから伝道者パウロへの転換のきっかけとなるダマスコ途上の体験を語り直す中で、次のように自分の回心の出来事を言い現しています。パウロは、イエス様が次のように語った、とユダヤの王アグリッパに説明するのです。

「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである」。

 強い光によって倒れた後、ゆっくりと目を開けたときに気がつくことがある。それは、倒れる前と後で、世界が大きく変わった、ということではないか。あえて表現するとすれば、今まで自分は闇の中を歩いてきた。しかし今や光の中を歩くことが出来る。光の中を歩くというのは、イエス・キリストを主と信じ仰ぐ者達皆で、主の恵みを分かち合うことである。かつて闇の中を歩いていたときには、相手を蹴落として自分が生き残る努力をしてきたが、今はもう競争によって生きるのではなく、分かち合いによって生きることが出来る。

 

 今日はこのあとに入会式があり、そして聖餐式が持たれます。入会式を持つということは、支え、支えられる関係が一つ増えるということです。洗礼においても入会においても、いつも思うことがあります。教会が一人を受け入れるというのは、心強く思える一面と、覚悟を決めなければならないという一面の、両方がある、ということです。

 今日の聖餐式で、特に味わいたい言葉は、「感謝を持ってこれを受け、信仰を持ってキリストを味わう」という言葉です。元々はこれに「心の内に」という言葉が加わっていて、「感謝を持ってこれを受け、信仰を持って心の内にキリストを味わう」となっていました。「味わう」というのですから、「私たちの内側」で味わうということは明らかです。私たちの内側でキリストを味わうというのは、私一人がキリストを味わえば良いという意味ではありません。皆の内側でキリストを味わう、それは勇気が与えられ、また覚悟が必要なことでもあります。

 

*「共に倒れ」、共に立ち上がる

 

 そこで気づかされるのは、パウロが、ダマスコ途上の体験を語り直すときに、この出来事は自分一人ではなく、複数形で、皆で味わっている、と語っているということです。

 

 どういう状況だったかをもう一度使徒言行録9章の記事とも合わせて思いだしてみますと、まだサウロであった一人のファリサイ派ユダヤ人が、右手には荒縄、左手には逮捕状を持って教会に押し入り、キリスト教会にいる者を片っ端から捕まえてエルサレムに送っていました。サウロはこの方面でユダヤ教側から高い評価を得ていました。その日はダマスコにある教会を迫害するべく仲間と共に向かっていたところ、突然強い光が降ってきて、倒れます。

 実はこのところで、9章と今日の26章には大きな違いがあり、9章では光を見たのはサウロだけで、周りの者は声以外は聞こえなかった、となっています。しかし今日の所では、光によってその場にいた者がすべて倒れた、とパウロが証言しているのです。

 本来のパウロが経験した出来事は、パウロだけに見える光によってパウロが倒れた、となっていたのです。周りの人はパウロのことを心配することしか出来なかった。しかし語り直されるパウロの経験談によれば、その光によって皆その場にいた者が倒れ伏した、というのです。

 皆が倒れたというのと、パウロ一人が倒れたというのは大きな違いだ、どちらなのかはっきりさせてほしい、そんな意見も尤もです。しかし一方で思うのです。あれパウロ先生、あのとき光が見え、倒れたのはあなたお一人だったでしょう、私たちは心配する側であって、倒れて心配される側ではないはずです、…そのように言おうとしたときに、パウロの真意に気づくのです。パウロはこう言いたいのです。倒れた人を見守る側だと思っているあなたもまた、私パウロと共に倒れたのだ、と。

 もしこの私が、古いサウロと共に主の栄光を見、かの迫害者と共に倒れたというのであれば、その後立ち上がった伝道者パウロと共に、この私もまた立ち上がるのではないか。闇の世界においては一人一人が分断され、倒れるのも立ち上がるのもひとりぼっちであるけれども、光の世界においてはつながりが生まれ、倒れるのも皆であれば、また立ち上がるのも皆だということになるのではないか。

 クリスマス、それは主がお生まれになったことを祝う日ですが、その主が私のためにお生まれになったことを祝う日です。私の内にキリストがおいでになった、それゆえにクリスマスを祝うのです。パウロは実際に、今日の少し後ですが26節で、「このことは、どこかの片隅で起こったのではありません」とわざわざ強調しています。「あの人が主の光によって倒れた、心配していたのだが元気になって良かった」という立ち位置でものを見ている間は、その人にはまだ本当の意味ではクリスマスはやってきていない。まだ世界の片隅で何かが起こっているに過ぎないのです。しかし、私もまた倒れ、祈られていたということに気づいたときに、クリスマスは私の中のど真ん中で起こるのです。「心の内に、キリストを味わうべきである」という、古い方の式文の一節が、豊かに私どもに響いて参ります。

 

*共に倒れ、「共に立ち上がる」

 

 さらに丁寧に回心の体験の記事を追って参りますと、パウロがダマスコ途上の体験で重んじたのは、「立ち上がる」という出来事であったことに気づかされます。9章の方では、「立って町に入れ」と主は命じます。光によって倒された彼は立ち上がり、アナニアに洗礼を施してもらうためにダマスコに向かいます。26章においては、この「立て」というのはただ倒れた人が、倒れる前と同じような体裁で再び立ったというだけではなく、伝道者として立ち上がった、という風にパウロによって受け止められています。

「起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである」(16節)

 

 私どもは、クリスマスに読まれ、祈られる詩編として、毎年クリスマスに交読をしている97編以外に、96編が有名です。先ほどはそれを意識して、讃美歌21の145番を歌いました。詩編96と97がクリスマスを歌うのにふさわしい讃美歌であるというのは、新しい世界が来た、なぜなら新しい王がこの世界に来たからだ、と高らかに告白しているからです。この世界にやってきた王が、世界のみならず私の王にもなって下さる、そのことに気づいたときにおのずから口に出るのが「新しい歌」である、と私どもの讃美歌は歌い上げます。

 古い世界は、分裂に満ちていました。いくつもの王国があり、それぞれの王国においては、王の価値観が領土を支配していました。しかしそれらの王が、それらの国民が、新しい光によって倒され、新しい歌を歌いながら再び立ち上がる。

 

 パウロは続けて17節で、そのような私どもの新しさを記す、少し不思議な主イエスの言葉をユダヤ王に伝えています。

「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」。

 パウロには和解の使命が与えられています。ユダヤ人と異邦人が争っている時代でした。捕まったパウロをそのどちらが裁くのかでも争っており、またユダヤ王国の支配権を巡っても争いが起こっていました。結局は、世界を支配するのは誰かという争いによって分断しているのが古い闇の世界です。

 しかし、パウロが新しい光の世界の使者として使わされるのと同じように、教会が和解の使者として用いられる。祈られることが必要な私が、祈るために用いられるという神の不思議、それこそはキリストが私のうちにおいでになったということなのではないでしょうか。

 

 今日は久しぶりに祝会を愛餐会の形で持ちますが、自分たち身内のために祝う祝会であってはならないと思います。そこで、一つの祈りの課題が示されていますので、それをご紹介して説教を締めくくります。

 

 今年の1月1日に、能登で大きな震災がありました。日本基督教団では、能登にある三つの教会を支える呼びかけを始めました。それぞれの教区ごとに支えるプランがあり、今も続いています。ある教区では、教会で焼いたクッキーをそれぞれの地域の教会関係のパン屋などで売ってもらい、その収益を能登に送るということです。もちろん献金をする教区もあります。私たちの教会も、8月のチャリティー礼拝の献金を能登の教会支援のために献げました。

 そして東海教区からは次のような呼びかけがありました。能登のために祈るプロジェクトを組もう。伊東教会の割り当ては12月に七尾教会を覚えて祈る、ということになっています。日本基督教団の教区は全部で17ありますが、すべての教区が災害を覚えてアクションを始めた中で、「祈る」ということに絞ってアクションを取ったのは東海教区だけなのだそうです。

 この呼びかけに応えて昨日用意した寄せ書きに次のような言葉を牧師として記しました。

 

 「教会全体で七尾教会のために祈る時を持たせていただきます。この一年間、能登は日本の象徴になりました。苦悩し、祈りを必要とし、立ち上がるのが能登から学ぶ姿であり、2025年の日本の先取りです。」

 

 私どももまた、苦悩し、祈りを必要とし、そして立ち上がる者です。