2024/12/01
待降節第二主日聖餐礼拝 使徒言行録第72回(24章) 「内なる戦いの終わり」
説教 牧師 上田彰
*内戦の根源
一番最近「内なる戦い」という言葉を目にしたのは、この説教題を二週間前に週報で掲げたあとのことでしたが、国際政治のニュースの一節でした。大国アメリカにおける社会の分断ということを、内戦と結びつけて論じている記事を目にしたのです。内戦という言葉にはいろいろな響きがあって、特にアメリカ人にとって、150年前に奴隷解放の是非で国内が分断したことは、大きなトラウマになっているのだと思います。ここではアメリカのその後の歴史を滔々と語ることはしませんが、自分が大統領選に敗れたら国会を襲撃することを自分の支持者達に呼びかけた、その候補者が今回の再挑戦では当選しました。
その前には選挙戦が繰り広げられました。ここにも「戦争」という言い方がされていますが、選挙に関しての戦争で例えるなら、終戦日が本来は決まっています。それが投票日です。そこで出た結果を民意と見なし、それまでの争いは水に流して、ノーサイドとも言いますが、各会派に挨拶回りにいって、一度握手をし、終戦とする、というのが民主主義国家における選挙のルールです。
あの選挙には不正があるというようなことがいろいろなレベルで言われるようになってしまうと、選挙戦ではなく内戦になってしまいます。それは悲しいことです。選挙を通じて、本当は一つの国家として、一つの国民であるはずなのに、一つの思いになれない。
そういった動向が起こる理由の一つに、インターネットのソーシャルネットワークの発達があると言われています。お互いの価値観のズレが固定化し、増幅するような状況を加速させているのがインターネットだというのは、30年前のインターネットの民間普及の最初を知っている者としては、隔世の感があります。インターネットによって世界中の人とつながることが出来る。世界の裏側の情報を知ることが出来るようになる。今まで国境や言語という壁があったのが、その壁を取り払える時代が来たのだ。しかしそれから10年経ち20年経つとわかってきたのが、余りにも情報が増えてしまい、取捨選択をするようになった。そのとき、よほど自覚していないと、自分の見たい情報ばかりを引き寄せてしまうようになる。
その結果、インターネットが新たな壁を生んでしまったのです。オーストラリアでは、ソーシャルネットワークの使用を16歳未満に対しては一律で禁じる法律が国会で可決しました。子どもたちの成長に不健全な影響を与える、というのが理由です。子どもの自殺件数は日本でも急増していますが、そこにLINEの普及が関係しているということは明らかです。
では、私たちの社会においてもインターネットは悪だ、ソーシャルネットワークを禁止すべきだ、という風にすぐになるでしょうか。ここで見つめなければならないのは、インターネットがデマを拡散する仕組みについてではなく、むしろ内なる戦いを加速しているその根本にある、人間の心の持ち方です。ある人はインターネット上の情報が持っている嘘、いわゆるフェイクニュースにすぐに気がつき、他方で別の人はそのニュースを真に受けて他の人に伝えてしまう。お互いにわかり合おうと努力することが大事だと考え実践している人には、インターネットは必ずしも害悪にはならないのかもしれません。国全体を揺るがす内戦とか分断よりも、それらを助長するインターネットよりも、むしろそういったことに踊らされている私どもそれぞれの内側にある戦いに目を向けなければなりません。
その時に参考になる聖書箇所の一つが、今日の箇所です。国を包む内なる戦いと自らの内なる戦いとは、何らかの意味で結びついている、そのことを示しているからです。現代における内戦は、一世紀のイスラエルでも形を変えて起こっていました。そしてそのことの信仰的意味を理解することは、私どもの時代における、あるいは私ども一人一人の内側における、内なる戦いへの対処の仕方への道しるべになると思います。
*第二幕第一場
今日の所に出て参ります内戦の話は二つあって、ユダヤ人対パウロという、フェリクス総督の官邸で行われた尋問の場面が第一幕です。これは「見える内戦」を巡る話と呼べるのではないかと思います。それに対してもう一つ、第二幕は、総督フェリクスの執務室が舞台です。そこにパウロを呼び出し、パウロとやりとりをするのです。といっても、対立がパウロとフェリクスの間で起こっているわけではありません。むしろ、フェリクス内面で何らかの対立が起こっているのです。
権力者が真の伝道者を前にしたときに、尊敬してその人の伝える言葉を信じて受け入れたいという思いと、宗教界において一世を風靡しているこの人物を使って、自分の出世や金儲けが出来ないかという思いが対立するのです。今回は話の都合上、まずこの二つ目の方から見ておきたいと思います。
あとから解説します第一幕においては、ユダヤ人側とパウロ側からそれぞれの主張を聞きました。フェリクスは妻がユダヤ人ということもあってか、このあたりの事情は知らないわけではなく、それぞれの言い分を聞いた後、パウロを自分の手元に置くために軟禁をすることになりました。ある程度の自由がある拘束状態です。フェリクスの総督官邸があるのはカイサリアでした。その近くの民家を借り上げて、そこをパウロの住まいとする。出口には兵士がいて逃げ出すことは出来ませんが、家の中では自由にしてよいし、訪問客を受け入れ、手紙を出すことも出来ました。身柄の安全が保証されたのです。エルサレムにいるときは、議会に行く途中のパウロをユダヤ人達が捕まえ、亡き者とするという計画があったほどに危険があったのとは大違いです。この計画がパウロ側に漏れた際、パウロを助けたのがローマ軍の千人隊長でした。彼は一計を案じ、400人の護衛をつけると大見得を張ってユダヤ人側を動揺させたあと、少数の護衛だけをつけて夜中にカイサリアに向かわせるという奇策を講じ、カイサリアに護送することに成功したという経緯がありました。そしてフェリクスは今日の箇所で、裁判を延期せざるを得ない、なぜならあの千人隊長の言い分も聞かないといけないはずだ、と宣告しています。よく考えるとわからない理屈によって、結果的にパウロは二年間カイサリアに抑留されることになるのです。
そしてその間幾度となく、フェリクスはパウロを呼び出し、話をしたのでした。その中には、フェリクスが自分の妻を同席させるものもありました。これはいわゆる尋問ではなく、パウロの説教を聞きたいという趣旨の呼び出しです。フェリクスは、噂に聞いていた伝道者の演説を聴き、じっくり聞いてみたいという思いに駆られたのでした。
元々パウロは、ローマ皇帝に対してキリストの福音を伝道したい、皇帝に会うために自ら捕まりにいったという側面がありますから、フェリクス相手に説教をさせてもらえるというのは、日本でいえば首相相手の説教までは行き着かないが、県知事相手に説教をするという意味合いがありますから、張り合いがあります。そしてフェリクスも、パウロの説教に関心を持っていました。そこで第二幕の第一場は、パウロの説教をフェリクスと妻ドルシラが聞くという場面から始まります。しかし、やがて夫妻で説教を喜んで聞くという期間が終わってしまいます。この夫妻は歴史的に実在する人物ですから、聖書以外にも資料があり、そこから推理すると、妻はユダヤ人ではあったもののそれほど熱心に宗教に関わりたいというタイプではなく、先に妻が関心を失い、次に夫フェリクスは、パウロが語ってくれる福音の説教の中で、個人的に気に入らない教えがいくつかあって、心が離れたようです。一つは正義、一つは節制、それから来たるべき裁きであった、と聖書は説明します。政治家として耳を塞ぎたいような話題であったのでしょう。しかし彼はあるときまでは説教を聞き続けた。
*ヘロデについて
丁度思い出すのは、小説『サロメ』で有名な、洗礼者ヨハネの最期です。洗礼者ヨハネは、当時の領主ヘロデに対して、ある警告をしていました。その警告は、自分の兄弟から妻を奪うというのは律法で許されていない、という警告でした。しかしその背景にあった問題は、ヘロデが前の妻と離婚をしたということにありました。ただの結婚ではありません。領主ですから政治的指導者です。政治的指導者の結婚は、プライベートなことがらではなく、国家の運命を左右させます。ヘロデの最初の妻は近隣国の王女でした。この政略結婚に自ら終止符を打ち、近隣国の王様の激怒を買っていたヘロデは、自分の弟から奥さんを奪っている暇などないだろう、そんなことにうつつを抜かしている間に、激怒した近隣国が攻め入るという噂がある、家庭内問題どころか国際問題に展開していますよ、というのが当時の民衆の率直な思いでした。そしてその思いを代弁する形で、洗礼者ヨハネが警告の声を上げた。そこでヘロデはヨハネを捕まえはするのですが、殺してはいけないだろうと思い、牢獄に入れておいた。そして時々は個人的に彼の説教を聞きにいってもいたようです。しかしヘロデの新しい妻であったヘロディアは、自分の存在を批難されていると思い込み、ヨハネを恨んでいた。そこで娘を使って公の場所でヘロデがヨハネを殺すことを約束させてしまう、というのが『サロメ』にも出てくる話です。実は今日の箇所で使徒言行録の著者は、いくつかの言葉遣いでこのヨハネ斬首事件に出てくるヘロデ・ヘロディアとフェリクス・ドルシラを結びつけているのです。つまり、フェリクスの中には、パウロが語る正義や節制、裁きといったことがらは、政治的指導者である自分に対する批難や勧告のようにもとれる所があるが、それでも聞き続けないといけないものがある、ということを、ヘロデと同様政治家としての直感で本能的にはわかっていました。そして、25節によればフェリクスは恐ろしくなった、といいます。これはルカの言葉遣いとしては、洗礼志願の一歩手前ということになります。
*第二幕第二場
しかしフェリクスはここで足踏みをし、洗礼志願の申し出を行わないままで第二幕の第一場は終わります。フェリクス夫婦が洗礼を受けてキリスト者になることはなく、またフェリクスの推薦でパウロがローマ帝国から説教者として公式に呼ばれるようになったということもありません。第二幕の第二場は、全く同じ呼び出しの場面で始まりますが、中身が全く違います。それは、パウロを使って金儲けや出世が出来ないか、ということをフェリクスが企む場面です。あとからお話しします第一幕で、パウロがエルサレム教会へ義援金を持参してきたと述べる場面がありました。それならパウロはお金を持っているのではないか。あるいは、パウロを助けるためにといってお金が集まり、パウロの代理人が賄賂として自分にくれるのではないか。そう思ったというのです。これは実はルカの単なる推測に過ぎないのではないか、という説もありますが、そのあとにあります、ユダヤ人の支持を得るためにパウロの軟禁を解除しなかった、というのは真実であると思われます。いずれにせよ、第二場は、フェリクスがパウロを時々呼び出しては話している、しかしその話はもはや信仰の話ではなく、世間話になっていた。そんな描写が出来そうです。
要するに、フェリクスがパウロを抑留し続けているのは、一方では信仰的な理由で、他方では打算的な理由であった、というのです。どちらかが本当のフェリクスだというのではなく、両方が本当のフェリクスなのではないでしょうか。フェリクス自身がどこまで意識しているかはわかりませんが、フェリクスの中には二人のフェリクスがいて、一方でパウロを伝道者として遇したいという思い、他方ではパウロを使って何か自分に都合の良い展開が起きないかという思い。本来矛盾するものをフェリクスは抱えています。そしてそれは内なる戦いと呼ぶことが出来るのです。
私どももまた、そのような内なる争いをそれぞれの生活の中で常に経験しているのではないでしょうか。ですから、自分たちに重ねる形で今の話を考えるならば、私どももまた相異なる二つの率直な感想を持つのではないでしょうか。つまり一方では、フェリクスが信仰の方を明確に選び取ってくれれば、という思いが生まれます。その一方で、自分たちはそこで伝道者としてのパウロの言葉を受け入れる方に堅く立つ、というのが難しいことを知っています。私自身説教者として、「信仰が日常生活の中で曖昧になっていないか自己点検をしましょう、曖昧になっていたら信仰に立ち戻りましょう」、という話にとどめておく方がやりやすい気もしています。しかしそこでとどめておくのなら、つまり今申し上げた第二幕の話だけで終えてしまうなら、牧師としての責任を果たせないように思うのです。牧師は、信徒の方に、日曜日だけはお行儀よくしましょうと言えばいいわけではないからです。日曜日は聖書を開きましょうと伝えても、帰ったら聖書をパタンと閉じられ、内なる戦いについてはめいめい努力してください、というのでは、却って皆さんが困られるのではと思うのです。ですから、今日の箇所で、パウロから福音を聞いたフェリクスが、かなり関心を示すものの、やはり旧来の生活に戻ってしまった、そのことについて聖書は率直に証言している、そして一人の政治家の中で起こっている内戦は、私を含めてここにいるすべての人は課題として引き受けているのではないか、そんなことを、思います。まずは自分自身の課題としてこのことを心に刻んでおきたいと思います。
*第一幕
ここで第一幕、一つ目の争いの話に入りたいと思います。今日お読みした箇所の前半にあたりますが、この冒頭に出てくるユダヤ人側の弁護士テルティロの弁論は、正直気持ち悪いです。彼は、ローマの総督に対して必要以上におべっかを使い、そして最後にこう主張するのです。パウロはユダヤ教側の人間でして、疫病神のような存在ですが、どうか私たちの方でパウロを処分させてください。身柄を引き渡してくだされば、ユダヤ人議会で裁判を行います。ローマ帝国様にはご迷惑をおかけしません。そう言っているのです。それに対してパウロは、エルサレムにいた二週間で自分を疫病神に仕立て上げるのは無理がある、私にはローマ帝国の市民権があるから、ローマ帝国側の裁判に従います、と言っています。ユダヤ教の内輪もめであるとしたい勢力と、ここにローマ帝国が介入する余地が存在する、という勢力との争い、ということになります。裁判をする権利はユダヤ人側にあるのかローマ帝国側にあるのかという、裁判権を巡る争いというのが第一幕の内容です。そのやりとりの詳細を演劇風に語ることも出来ますが、ここでは割愛します。
(説教では割愛する部分、始まり)
一方にありますのは、大祭司アナニアと長老、それに弁護士です。彼らは総督フェリクスのところに出向き、次のように申し出るのです。「私たちは、ローマ帝国様のおかげで、平和のうちに過ごしております。私どもにあっては総督フェリクス様のお力が大きく、これからのご尽力にも期待しています。ですからこれから申しますことは本来お耳には入れたくないのですが、実は恥ずかしい話、内輪もめをしておりまして、それもこれもパウロという疫病神が原因です。私たちユダヤ教は元々どのグループのものであっても仲良く暮らしておりましたが、こいつが来てから騒ぎが大きくなり、ローマ帝国様がもたらした平和という名のご威光に傷がついてしまうのではないかと心配しております。私たちが神殿を重んじていることはご存じの通りなのですが、なんとこの男、神殿で粗相をしてしまいました。そこで身内のことですので内々に処理をしようと思っておりましたら、総督様の配下にある千人隊長が無理矢理総督様のところに連れて行ってしまいまして、ご迷惑をおかけしております。どうかすぐにパウロを引き取らせていただければご迷惑はおかけしません」。
パウロの主張は次の通りです。「私はまだエルサレムに来て二週間もたっておらず、ここで疫病神呼ばわりをされるほどのことなど時間的にいっても出来るはずがありません。また神殿での粗相と騒いでおりますが、神殿に一度上った際に何か迷惑なことをしたのか、もしそうならむしろその場にいた者達が訴えるべきではないでしょうか。私は伝統的な信仰を私なりの仕方で守って来ただけであり、今回エルサレムに来たのも地方の教会からエルサレム教会への義援金を届けるためなのです。もし私が訴えられるとしたら、私が死者の復活を信じていると公言した、そのことだけではないかと思います。その場合、私はこれから反対するユダヤ人の手に引き渡されるべきなのでしょうか。むしろこの状況を的確に判断して下さるのはあなた、フェリクス総督なのではないでしょうか」。
フェリクス総督には、この二人の言い分を聞いた上で、裁判権をローマ帝国側でとどめておいてもよいし、ユダヤ人議会にボールを投げ返してもよいという状況でした。
(説教では割愛する部分、終わり)
フェリクスはある程度聡明な人物だったようで、裁判権をローマ側にとどめるかユダヤ人側に戻すかということについて判断するのを控え、裁判を延期することを決定しました。後に洗礼を受けたいという申し出をすることを延期した人物は、ここでは政治的裁判に決断を下すことをもまた延期するのです。
*第一幕の舞台裏
フェリクスは気がついていたのです。パウロはユダヤ教の疫病神というよりも、むしろ、ある意味でユダヤ教そのものなのではないか、そう考えました。そして、むしろユダヤ人議会を取り仕切っている、今回同行した大祭司アナニアの方が、ユダヤ教にとっての疫病神なのではないか、と。もちろんフェリクスはそう口にはしません。しかし、事態はそのように考えられるということにフェリクスは気づいてしまった。
パウロ自身の説明では、彼は今でも忠実なファリサイ派の信仰を保っており、例えば律法を守っているし、復活も信じている、と言います。これは自分が忠実なユダヤ教の信仰者である証しだというのです。パウロが今信じて皆に伝えていることは、いわゆる普通のユダヤ教の教えとは強調点が異なります。律法を守れば正義と節制を実現出来、終わりの日に復活出来るというファリサイ派の教えとは異なります。私どもが律法によっても制御することの出来ない拭いがたい二つの側面を抱えていて、だからこそキリストの復活を信じ、それにあやかりたいという、キリストの根ざした福音の教えをパウロは語ります。
フェリクスは、彼らの主張のどちらかに軍配を揚げるつもりはありませんでしたが、一つ興味深いことに気づきました。そしてそのことに気づいたからこそ第二幕になって、パウロの説教を進んで聞きたいと思うようになったのではないでしょうか。
一方のユダヤ人達は、パウロはユダヤ教の信仰の周りをうろうろ歩き回っているだけで、本当のユダヤ教ではないし、また別の宗教を始めようなどという大それた話でもない、と言っているのです。それに対してパウロは、ユダヤ教の信仰を貫けばキリスト教になるはずだ、と言っていることになるのです。この構造にフェリクスは気づき、パウロを自称ユダヤ人達に渡すわけには行かない、と思ったのではないでしょうか。
*「白鳥の書簡」の執筆現場での聖餐
醜いアヒルの子という童話があります。アヒルにしてはうまく鳴けないし水の上を進むのも遅い。みんなと違うといっていじめられていた醜いアヒルの子が、やがて白鳥となって湖の上を飛び回りながら、歌声を響かせます。ユダヤ教に忠実であることによって、やがてユダヤ教を越えた新しい宗教が生まれる。白鳥とアヒルは元々違うのではないかという向きもあるかもしれません。それなら、さなぎが脱皮して蝶になる、皮を脱いだ時に、新しい宗教が生まれるということをパウロは体現しているのではないか。弁護士テルティロは自分におべっかを使うときに、自分を改革者だと持ち上げていた。しかし本当の改革というものは、パウロがそうしているように、真の伝統に忠実であることによって、伝統に忠実と自称している者達が考えていなかった姿へと伝統の水準を押し上げる、そして新しい宗教に至ってしまう、パウロのような伝道者こそが改革者なのではないか。
フェリクスは実は、解放奴隷という経歴を持っていました。つまり、市民権を持った自由人ではなく、奴隷として生まれたのです。しかし、当時の奴隷は仕事をしてお金を貯めれば市民権を買うことが出来ました。知恵を使ってパウロをカイサリアに連れてきた千人隊長もまた、元奴隷、つまり奴隷の身分から解放された自由人でした。千人隊長も総督も、まあ今風にいうと生まれつきのエリートではなくたたき上げとして、ローマ帝国でのし上がってきた人物だったのです。だから彼らは、教会において自由人と奴隷との対立が起きないものなのか、傍から興味を持っていた。パウロは生まれながらの自由人です。奴隷のように解放されない息苦しさを知る人物ではありませんでした。また、解放奴隷のように。解放されたという喜びも政治的には知ってはいませんでした。しかし彼は信仰的には、キリストを信じることによる解放の喜びを知っています。その喜びの人パウロの弁明をフェリクスは目の当たりにする。ガリラヤ地方の政治を改革するよりももっと難しい、自分の姿を神様の言葉によって変えていただくということが、パウロにおいて起こっていることを知る。
この物語に、勝手に第三幕を付け加えたいと思います。第三幕は、やがてフェリクスが話を聞きたいと呼び出してくれなくなり、しかしパウロの仲間がパウロが抑留されているところに来て、獄中から諸教会とやりとりをするようになり、にわかに獄中が賑やかになって来た場面です。獄中で記した書簡がいくつか聖書に収められていますが、その一つがフィリピ書簡でした。パウロは、この書簡で喜びということを強調します。そんなフィリピ書簡を記すパウロを、人は白鳥の歌声の書簡と呼びます。獄中にいながら喜びの歌を歌うパウロ。
私どもは今日の聖餐を、パウロが抑留されているカイサリアの建物を訪れたつもりで、パウロと共に聖餐の食卓を囲む思いで守りたいと思います。ここには、内なる戦いから離れる自由があります。喜びがあります。新しい宗教の目覚めは、新しい自分の目覚めでもあるからです。 †