永遠の生命

2024/11/27伊東教会説教

「永遠の生命」

(1コリ15・50~55)

上田光正

本日は待降節第一主日の礼拝です。早速、アドヴェントの讃美歌が声高く歌われました。待降節とは、主がお生まれになるクリスマス前の4週間のことを申します。その4回の日曜日は、主の御降誕を待ち望む礼拝が捧げられます。と同時に、待降節は、世の終わりと救いの完成を待ち望む時でもあります。すなわち、十字架の救いを成し遂げられ、天に昇られた復活の主イエス・キリストが、世の終わりに、もう一度天からおいでになって、その時、古い天と古い地は消滅し、新しい天と新しい地が現れます。そして、死人は皆墓の中から呼び出され、「使徒信条」の最後にありますように、「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」を与えられるのです。そして、神さまの救いのご計画がすべて完成します。待降節は、主の御降誕を待ち望む時であると同時に、主の再臨と救いの完成を待ち望む時でもあるのです。

その意味で、本日は「復活の章」とも呼ばれる、コリントの信徒への手紙一の15章をご一緒にお読みします。

初めに、先ほどご一緒にお読みしました50節からもう一度お読みしましょう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」

意味はすぐにはつかみにくいですが、大変力強い御言葉です。「終わりの日のラッパ」というのは、昔の軍隊などの、勝利の凱旋ラッパを意味します。そのラッパの響きと共に、主が再臨されます。すると、「朽ちる者」は朽ちない者に一瞬にして変えられる、と言うのです。「朽ちる者」という言葉はお分かりになろうかと思います。人間は必ず死ぬと墓の中に入り、朽ち果てて跡形もなくなります。しかし、ここに書いてありますように、わたしたちは皆、「必ず」、神の大能の力によって、一瞬にして新しく創り変えられる、と言うのです。ちょうど、神が天地万物を無からお創りになられた時のように、です。「必ず」という言葉も、「変えられる」という言葉も、非常に意味の強い言葉です。「必ず」という御言葉は、「神的必然」を現わすとされます。「神様が絶対に、必ずそうなさる」という意味です。もう一つの、「変えられる」という御言葉が、本日わたしどもが注目したい、中心となる聖句です。わたしどもは、死人の中から甦り、新しく創りかえられるのです。

わたしの大学時代の友人で、医学者でキリスト者となった人がいます。非常に有能な人で、基礎医学を専攻していましたから、人間のあらゆる細胞は、全て生れた時から死へと向かっている、と堅く確信していました。これは自然科学の法則であり、一旦死んだ細胞が再び甦るということは決してあり得ないのです。ところがその彼が、死人の甦りを信じるようになりました。そして、わたしにこう説明してくれるのです。「われわれのこの地上の命は、言わば母親の胎内に宿る胎児のようなものだ。その中で安全に生きているが、やがて誰もが、母親のお腹から外に押し出される。言わば、胎児としては死である。しかし、お腹の中よりも遥かに素晴らしい、明るく広い世界に出て、新しい命を呼吸することが出来るようになるのだ」、と。この場合、母体に宿る胎児は、外の世界がどんなにすばらしいかは全く分かりません。同じように、わたしどもにも永遠の命が何であるかは全く分かりません。しかし、もしそれが何であるかが分かるようになれば、わたしどもはきっと、その永遠の命を切に待ち望むようになるのではないか。

この知人は、自分の医学的知識が全てだと思っていたが、それは傲慢であった、と言っています。

 つまり、聖書によれば、この世の馳せ場を走り終えたわたしどもは、地上の重荷を下ろして眠りに就きます。しかし、決して永遠に眠り続けるのではありません。神のこの世に関する御計画が全て成就するまで、墓の中で待機しているだけです。そして、終わりの日が来たとき、一大変化が起こり、古い天と古い地は消え去り、新しい天と新しい地が現れます。その時、すでに死んでしまった人たちは、どんなに大昔に死んでいて、その骨がとうの昔に朽ち果てた人であっても、「朽ちるものから朽ちないものへと、変えられる」、と言っているのです。一瞬にして、死者が常世の朝に再び目覚める日が来る、と言っているのです。

これをこの手紙の著者パウロは、「神秘」と呼んでいます。「神秘」とは、日本語ではむしろ「奥義」に近い意味です。決して摩訶不思議な、理屈に反したこと、という意味ではありません。確かに、信仰をお持ちでない方から御覧になれば、想像すらできないことかも知れません。しかし、主イエスの御復活を信ずる人であれば、教会生活を続けて行く内に、やがて次第に理性でも納得がゆくものです。「奥義」とはそういうものです。つまり、理性に反したことではないのです。それどころか、聖書はやがて必ず起きるべきこの一大変化を、わたしどもの人生の最大の希望として語っているのです。本日は、改めてこのことを、聖書の御言葉からご一緒に学びたいと思います。

* * *

ところで、この手紙の宛先であるコリント教会には、クリスチャンでありながら、死人の甦りなど到底信じられない、という人が何人もいたようです。イエス様は神様ですから、その御復活までは信じられても、われわれ人間が復活するなど、とても信じることが出来ない。第一、もし死人が甦る時には、どんな体をしてくるのか。復活など、人間の希望的観測に過ぎないのではないか。「人間、死んだらおしまいだ」、と言っていたのです。そういう人たちに対して、パウロはその考えの足りなさを指摘したのが、このコリント前書一五章、「復活の章」と呼ばれる偉大な章です。先ほどご一緒にお読みしたところは、その結論の部分です。

復活が信じられないのは、何も、昔のギリシア人だけではありません。わたしども日本人もまた、特に死後の世界に関しては、非常に曖昧模糊としており、だれもが一抹の不安を抱いています。死んだどうなるかが皆不安なのです。たいていの日本人は、死んだら人はその人を愛した人や知人・友人の記憶の中では生き続けている、と考えます。だからお墓参りにも行きます。しかし、その人たちがすべて死ねば、その人自身はもうどこにも存在しなくなる、と考えているようです。また、先般の東日本大震災の時の津波のように、一瞬のうちに愛する人を奪われてしまったような場合、例えば「風の電話ボックス」のように、どんな手段でもよい、たった一言でもよい、その人とお話をしたい、という強い願望を持つようになります。教会でご葬儀をした場合でも、まだ復活の信仰をお持ちになっておられないご遺族の方は、心の中で愛する者の死という、重い事実をずっと引きずっておられるのではないかと思います。

本日は、わたしども自身の死、そして愛する者や親しい者の死という、全ての人が避けて通ることのできない問いに対して、聖書がどのような慰めと希望を語っているかについて、ご一緒に耳を傾けたいと思います。

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さて、死は確かに、この世の命の終わりなのです。21世紀の現代では、誰もわたしどもの生物学的な生命、この地上の命が、死後もまだ地下のどこかで生きているとは考えません。もちろん、クリスチャンとて考えません。人間は死ねば、いつか墓の中で朽ち果てます。

ところで、なぜ人間は死ななければならないのでしょうか。その理由は、明確にのべられています。50節に「肉と血は神の国を受け継ぐことができないからだ」、とあります。「肉と血」という表現は、聖書独特の言い方ですが、要するに、わたしどもは誰よりも自分を一番愛し、自分の思いのままに生きたいと願う「肉」に過ぎない、ということです。サルトルという無神論の哲学者がおりましたが、彼は、人間はお互いに出会うと最初の瞬間に素早く視線を交わし合い、どちらが上で、どちらが下であるかを一瞬にして決めてしまう、と言っています。つまり、どちらがどちらを支配するかを決めてしまうのです。これが「肉」です。ですから、ホッブスという別の哲学者は、このわれわれの生きている地球では、人間が神に背いた結果、「万人の、万人に対する戦い」が始まった、と言っています。その通りでありましょう。これが「肉」、あるいは、「肉と血」です。「血気盛ん」という言葉もあります。しかし、どんなに勢いのある、血気盛んな若者でも、神さまからご覧になれば「肉」に過ぎません。そして、肉は必ずいつか老い、死に、死ねば朽ち果てます。聖書では、人間は皆、この世に生きている間は、「肉と血」で、必ず朽ち果てる、と言っているのです。

そして、そう考えている人のうそ偽らざる気持ちを、実に見事に代弁したパウロの言葉があります。この15章の32節後半(前ページ)の御言葉です。

「もし、死者が復活しないとしたら、

『食べたり飲んだりしようではないか。

どうせ明日は死ぬ身ではないか』」

これは「復活などない」、と言っている人の言葉です。「どうせいつか死んで灰となるのなら、全てのことは何と虚しいことではないか。真面目に苦労して生きてもどうせ死ぬのなら虚しい。いっそ、食べたり飲んだりして、面白おかしく過ごそうではないか」、と言っているのです。確かに、死で全てが終わりであるということは、人生をまじめに、真剣に生きる意味を失わせます。これはわたしどもの人格の根幹を揺るがすような重要な問題ではないでしょうか。もし復活がないのなら、そうなりましょう。若者がですね、こうしてガーっと、オートバイを二百キロの速度で飛ばして、あのスリル感が味わえるなら死んでも良い、という気持ちですね。わたしはそのようにして、通行人を避けるために急カーブをしてコンクリートの壁にぶつかって即死したという若者の話しを聞いたことがあります。大人はそういう無茶はしないと言って、本当にこれを笑うことができるでしょうか。そういう疑問が、死への不安や恐怖といつも隣り合わせで、わたしどもの意識を時々襲ってくるように思うのです。

* * *

それに対して、聖書が言っていることは、死はわれわれのこの地上の命の終わりではあっても、われわれ自身の存在の終わりではない、われわれはいつか、変えられるのだ、ということです。例えば、目の不自由なクリスチャンはこの聖句について、自分たちは神の国では目が見えるようになる、と信じているようです。これを聖書は、「神秘」と言っています。「信仰の奥義」ですから、これ以上詳しいご説明は致しません。ただ、聖書が言っていることは、決して不合理やあり得ないことやまやかし事ではなくて、理性を持ったわたしどもが、信仰が深まるならば、いつか必ずあの「神的必然」をも含めて、全くそうだ、と理解でき、だからそう信じてよいことなのです。

ただし、何故死ななければいけないのかということは、先ほども申しましたように、神秘でも何でもありません。わたしどもは生きている限り「肉」であり、罪を犯すからです。だから、「肉と血は神の国を受け継ぐこと」ができないのです。わたしどもはただ、イエス・キリストがその十字架によってわれわれの罪を贖い、十字架の愛を信ずるようにわれわれの心の中に御霊を注いでくださった。だから人間は、死んで墓の中で朽ち果てますが、終わりの日に再び新しく創造され、「この朽ちるべきものが必ず朽ちないものを」着て、死なないものに変えられる、と告げているのです。

どのように造り変えられるかはまさしく神の「秘義」ですが、結果としてどうなるかと申せば、聖書には「霊の体として甦る」と、少し前の44節に、明確に述べられています。「霊の体」というのは、完全に神の御霊によって支配された体(=わたしども自身)、という意味です。したがって、もはや罪を犯すことのできないわたしどもへと、創り変えられるのです。少し前の、37節からお読みします。「あなたがたが蒔くのは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」。少し飛んで、42節以下です。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものであっても、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」とあります。

つまり、神さまには、人間の罪を赦すだけでなく、その人を甦らせる力があります。どんな人でも、終わりの日には、一瞬にしてこの体も心ももはや罪を犯し得ない、「霊の体」に「変えられる」のです。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになる」のです(53節)。聖書はそのことを語り、二千年間教会はそのことを信じ続け、生きることにはとても深い意味があるのだ。だから、一生懸命、神を信じ、望みを持って生きようではないか、と語り続けてきたのです。

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さて、以上のことは「神秘」ですから、ただ今は説明は致しません。わたしどもは、これを信ずることによって、理解できるものです。

それですので、本日はわたしはむしろ、甦りの命とはどのようなものなのか、ということについて、皆さまとご一緒に、御言葉から学びたいと思います。それは、神さまの命にあずかることですが、それは、どのような命なのでしょうか。

初めに、わたしがあるキリスト者の方からお聴きして、深い感銘を受けたお話をご紹介します。彼はある時、夢を見たそうです。その夢によれば、終わりの日のラッパが高らかに鳴り響くと、死んだ者が一斉に墓の中から呼び出され、さんさんと降り注ぐ光の輝く新しい天と地に生き返らされるのです。見ると、どの人もちょうど心臓のあたりが、このように、まるまる透けて見えていて、中がお互いによく見えるそうです。そして、復活した人々は降り注ぐ光の中で、皆せわしく誰かを捜しまわっているそうです。それは、自分が地上にいる間に傷つけ、その幸福を奪ってしまった人を大急ぎで捜し、見つけたら心からお詫びをして赦しを請うためだそうです。夫は妻を、姑は嫁を捜し、見つけたら、お互いに手を取り合って涙を流し、心の底から赦しを乞い合う、というのです。「あの時、あなたにそのような深いお考えがあるとは露知らず、大変理不尽なことをしてしました」「いいえ、わたしの方こそ、あなたがそんなお気持ちであったとは露知らず、自分のことばかり考え、いやな別れ方をしてしまいました。本当に申し訳ないことをしてしまいました」と言い合って、お互いに手を取り合って真心から赦しを乞い合い、抱擁し合うのだそうです。何しろ、心が透けて見えますから、お互いに相手の本心がその奥の奥まで手に取るようによく見えるのです。天国とは、そのような所だ、とその人は言うのです。

地上に居る間、わたしども人間の交わりはいつも誤解や、すれ違いの連続でした。赦せないまま苦しんだでありましょう。そのために、いつも不満をぶつけ合い、憎み合い、いがみ合いを繰り返しています。そのために、人間の命は虚しいものだ、と思ってしまうのです。ですから、この世は万人の、万人に対する戦いである、ということになるのです。しかし、神の御国では全く違う、というのが聖書が言っているところです。御国では、神による罪の赦しと御霊の聖化を受けて、皆がお互いに赦しを乞い合い、愛し合う、とその人は言うのです。それから人々は、濃い御霊の光の中で次第に一つに、固く固く結び合わされ、全天全地が神を賛美する壮大なシンフォニーとなるのだそうです。人間の声がソプラノ、アルト、テノール、バスと別れているように造られているのも、神を賛美するためだと教会で言われて来たとおりです。

とにかくわたしは、その人のお話を聞いて深い感銘を受けました。なぜなら、「使徒信条」にある「罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず」とはこのことだ、と思ったからです。そう言えば、ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という小説の中でも、ロシア教会の大長老であり、あらゆる人から尊敬され、慕われていたゾシマ長老が死ぬ間際に、周囲の人々一人ひとりに自分の罪の赦しを乞い、すべての人に赦しを乞うてから死んでゆくという、大変心に残る場面があります。ゾシマ長老は、「万人の、万人に対する戦い」と「万人の、万人に対する罪」という、人生の実相をよく知り抜いていた人です。そして同時に、この終わりの日に起こるべきキリストの赦し、そして、「万人の万人に対する赦し合い」のことも知っていたのです。ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』という小説は、ある年のアンケートによりますと、東京大学の教授たちが新入生に第一に読ませたいと考えていた書物であった、と聞いております。それは聖書の信仰そのものだと思うのです。

仏教にも「一期一会」という美しい言葉がありますね。わたしも好きな言葉です。今生の出会いは、どの出会いも、永劫の中でただの一回だけ(「一会」)であると思って、それを大切にしなさい、という教えです。しかし、聖書の「隣人愛」の教えは、それ以上の教えです。わたしどもの地上の命は「肉と血」に過ぎず、罪を犯してしまう悲しさがあります。隣人を十分には愛せない悲しみがあります。しかし、キリストの赦しを受けるならば、赦し合うことが出来ます。そして、終わりの日にはこのままではない。自分たちは一瞬にして「変えられ」る。主の十字架を信ずる者は、そのことを大きな希望として、この地上を生きてよいのであります。教会の中だけでなく、外でも、この地上にいる間、すべての出会いが尊い神からの贈り物であると信じ、隣人に対してできるだけ真心を尽くし、お互いの罪を赦し合って生きてよいのです。主はその意味で、「互いに愛し合いなさい」と教えられたのです。このことは、主の十字架の深い意味が分かると、必ず分かってくるようになるのです。

* * *

最後に、そのことがどのような意味を持っているかが、58節に書いてありますので、そこをお読みして、わたしの説教を終えたいと思います。

 「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」

わたしどもはこの福音を自らも堅く信じ、教会を建て、この世の人々に宣べ伝える伝道の苦労が、決してむだに終わることはない、と知っているのです。わたしどもは、今はまだ地上の貧しい教会に属し、この教会を建てることにも時々は困難を覚え、失望や落胆もしないわけではありません。しかし、キリストの罪の赦しの福音は、現在の世界が最も必要としているものです。そして、主は必ず勝利されるのです。

どうか、わたしどももそれぞれ、残された生涯を、ここで教会形成と伝道に励み、終わりの日には、主イエスから、「善い、忠実な僕よ、よくやった」というお言葉をいただけるような歩みをしたい、と切に願わされます。