2024/11/9 終末前主日礼拝
「イエス・キリストのみを誇る」
創世記36章1~8節
牧師 上田文
先日、お風呂で娘がこのような質問をしました。「ねえねえ、高見さんは閻魔大王様に会ったのかな?」。どうやら、学校で読んだ本に人は死んだら閻魔大王様によって天国に行くか地獄に行くか振り分けられるという話を読んだようです。そこで、私はこのように応えました。「きっと、高見さんは閻魔大王様にお会いする前に、イエスさまと一緒に天国に行ったんだよ。だって、洗礼を受ける時に名前を読んで貰って、天に名前が記されるからね。きっとイエスさまが、うちの国の人ですと言って、閻魔大王様にも合わずに天国に連れて行ってくれるだよ」。すると、また娘が尋ねました。「え!じゃあ、洗礼を受けてない人はやっぱり閻魔大王様に会うの?」。私は、かなり困りながらこのように応えました。「それは分からない。聖書には、洗礼を受けた人の事は書いてあるけど、そうでない人の事は書かれていないんだよ」。娘は、なんとも言えない顔をして黙ってしまいました。きっと、教会に来ていないお友だちはどうなるのだろうと心配になったのだと思います。このような思いは、大人である私たちであっても同じように抱く問題だと思います。
今日の聖書箇所は、ヤコブの物語の最後に書かれている物です。ヤコブの物語の最後と聞くと、私たちは、ヤコブがカナンの国の王さまとなって、豊かになり、神さまに愛されながら生涯を全うした話を期待すると思います。しかし、不思議な事にヤコブの物語の最後には、エサウの子孫について記された、エドムの系図が記されています。それは、このヤコブの物語を読んでいる私たちに、聖書がどうしても伝えたい事があったからのように思います。何か、私たちに問うべき事があったからだと思います。ヤコブの物語を読んでいるあなた方は、神さまの約束を与えられたヤコブの事だけを読んでいないか。アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた祝福の約束が、自分たちにも与えられている。そのことの恵みだけを読み取っていないかという問いです。そして、神さまの祝福は、もっと大きく豊かなものであると、教えてくれるのです。聖書はそのことを私たちに知らせるために、エサウに目を向けさせるのです。まだ信仰を与えられていない人々にまで広がる、神さまの思いを教えようとしてくれるのです。今日の物語は、信仰を与えられた私たちが、これからどのように神さまにお仕えし、また、信仰を与えられていない隣人に仕えればよいのか、そのことにより、祝福がどのように広げられていくかを教えてくれる物語です。
36章の1節にはこのように書かれています。「エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである」。エサウはヤコブの双子の兄です。彼らは、生まれる前から母の胎内で争い合っていました。そして、長子の権利と神さまの祝福を奪い合い、対立状態になり弟ヤコブは二十年以上も兄から逃亡することになりました。そいういう兄弟が、自分たちの父イサクが死んだ時に、その父を共に葬り、和解したのでした。そして、36章は、ヤコブの物語の締めくくりとなります。そこに兄エサウの系図が記されているという事は、この系図を正しく読み取らなければ、ヤコブ物語を理解する事が出来ないという事を暗示しているように思います。
36章の最後の節である42節には「エサウは、エドム人の祖先である」とあります。エサウは、エドム人の先祖になったのでした。それだけではありません。エドム人の先祖となるエサウの系図はとても立派なものである事が分かります。それは、まず5節にある「これらは、カナン地方で生まれたエサウの息子である」という言葉から分かります。カナンは神さまが「この土地を与える」と約束して下さった地でした。その土地で、エサウの子たちは産まれるのです。この前の章の35章26節を見ると、「これらは、パダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである」とありますので、ヤコブの子どもたちは約束の地カナン生まれではない事が分かります。このことを考えると、約束の地カナンに早くから定住していたのはエサウの方で、約束の地カナンの本家本元はエサウ家であったと言えるかもしれません。また、15節には、「エサウの子孫である首長は次のとおりである」とあり、エサウの血筋から、数多くの首長が起きていることが分かります。首長は多くの部族を束ねる役割をします。そのことを考えるとエサウの子孫は数えきれないほどに反映していたことが分かります。そして、31節には、「イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、エドム地方を治めていた王たちは次の通りである」とあるのです。イスラエルが王政を導入する前に、エサウの子孫はすでに王国を形成し、エサウの子孫から多くの王が起こされていたのでした。このようなエサウの系図を見る時、私たちは、アブラハムになされた神さまの約束を思い出すのではないでしょうか。神さまはアブラハムに言われました。「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」。アブラハムは、三人の女性との間に八人の子を与えられました。アブラハムに与えられた約束や使命を受け継ぐのは、本妻であるサラの産んだ独り息子イサクですが、しかし、ハガルが産んだイシュマエルもまたアブラハムの子でしたので、神さまに祝福され、12人の子が与えられ、一つの部族を作る事になります。また側近のケトラは、財産を与えられてアラビア半島のほうで、部族を形成したことが25章に書かれています。アブラハムの子孫は、神さまの約束どおり、世界に散らばって生きていたのでした。そのアブラハムの子孫の中でも、特にヤコブの兄弟エサウに対して、聖書はとても強い関心をしめしているように思います。それは、アブラハムの子孫に与えられる神さまの約束の御計画が、ヤコブとその子孫に受け継がれていると共に、そのもう片方で、やはりアブラハムの子孫であるエサウとその子孫であるエドムにも及んでいる。そのことを、イスラエルとそれに繋げられている私たちが、はっきりと知る必要があると、聖書は述べているのです。
けれども、その聖書が記すエサウの系図を見る時、私たちは、困惑してしまうように思います。まるで、エサウがアブラハムの祝福を継承した者のように感じるからです。私たちは今まで、ヤコブが神さまを信じ、神さまに助けられて生きて来た姿を見て来きました。そして、エサウが神さまの祝福を軽んじたことも、知っています。そのためでしょうか。私たちは、知らず知らずの内に、神さまを信じるヤコブこそ立派で、学ぶべき人であり、神さまを信じない、その場の感情だけ生きているようなエサウの事はまるで切り捨ててしまうかのように関心を持たなくなっているように思います。そのような私たちに向かって、聖書は敢えて、エサウの系図を読むように勧めるのです。それは、私たちが、ヤコブにのみ関心をよせ、エサウに対して無関心になっている事をで知らせるためなのかもしれません。
聖書を読むと、私たちが抱いていたエサウへの思いは、間違っているように感じます。6-7節には、このように書かれています。「エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである」。この事を読むと、アブラハムが甥のロトに土地を譲った時の事を思い出します。エサウはアブラハムのように、ヤコブとその子供たちに、肥えた良い土地であるカナンを譲ったのです。また、エサウは、ヤコブを赦しました。それだけでなく、豊かになって行くヤコブのために、自分の居住地をも譲ったのでした。彼が、気が短く、考えの浅い人であるとはとても言えないように思います。エサウは、優しさと配慮に満ちた人なのでした。また、エサウは神さまからの祝福を受けたと言えるほどに繁栄していました。つまり、聖書は、ヤコブが優れていて、エサウが劣っているということは全くなかった事を私たちに教えてくれるのです。エサウは立派な人物なのでした。ただ、神さまはエサウを祝福の基として「選ばなかった」ただそれだけのことなのでした。それは、「選ばれた」ヤコブについても同じです。彼自身に、選ばれた理由など無いという事です。
また、私たちは、「選ばれなかった」者であるエサウに対して無関心となっていましたが、神さまはそうではありません。聖書には、神さまがエサウとその子孫をいつも気にかけておられる事が記されています。申命記2章には、神さまはヤコブの子孫であるイスラエルがエジプトを脱出し、四十年間、荒野を放浪してカナンの地に入る直前にモーセを通じて言われた言葉が記されています。「あなたは民にこう命じなさい。あなたたちはこれから、セイルに住む親族エサウの子孫の領内を通る。…彼らに戦いを挑んではならない。彼らの土地は、足の裏で踏めるほどのものでもあなたたちには与えない。セイルの山地は既にエサウの領地として与えた」(申2:4,5)。イスラエルの神さまは、イスラエルにだけ関心があるわけではないのです。神さまは、アブラハムの子孫であるエサウの子孫に、いつも目を向けておられ、ヤコブとその子孫であるイスラエルにカナンの地を与えると約束されたように、エサウとその子孫にセイルの山地を与えられたのです。
また、神さまはこのようにも言われます。「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である。エジプト人をいとってはならない。あなたはその国に寄留したからである。彼らに生まれる三代目の子孫は主の会衆に加わることができる」(申命記23:8)。神さまは、エドム人もエジプト人も神さまの祝福が及ぶ民として、そのご計画の中にいれてくださり、気にかけてくださっていることがここから良く分かるように思います。
それにも関わらず、ヤコブの物語を読む私たちはどうでしょうか。イスラエルとされたヤコブとそれに続く者とされた自分たちの救いにだけ関心を向け、エサウやサラ以外から生まれたアブラハムの子たちについては、無関心であるように思います。このことを思う時、私は、娘との会話を思い出します。「洗礼を受けてない人は、閻魔大王様に会うの?」と、不安を抱く娘に対して、私はこのように答えました。「聖書には、洗礼を受けた人の事は書いているけれども、そうでない人の事は書かれていない。だから、分からない」。もし、イスラエル以外の民族をも、神さまが気をかけておられる事を、私も大切にしていたとしたら、このような答えをしなかったように思います。「イエスさまは、洗礼を与えられた私たちの事を天国に連れて行ってくれるのだから、きっと、まだ洗礼を与えられてない人の事は、もっと心に留めてくださるよ」と答える事が出来たのではないかと思うのです。神さまに洗礼を与えられ、自分が何者かになったように高ぶっていたのかもしれません。この事がヤコブ物語を読み続ける中で、同じような現象として現れていたように思うのです。知らないうちにヤコブの方を優位に立たせ、そのヤコブにだけ目を向け、自分はヤコブに続く者だと高ぶり、神さまがエサウを切り捨ててしまわれたと勘違いし、自分もエサウを切り捨ててしまっていたように思います。そして、それは、私だけでなく、多くの信仰者がやってしまう事だと思うのです。そして、その事が実際に信仰者ではない隣人の救いに無関心になってしまうという形で現れるようになる。エサウの系図は、そのことに気づかせてくれる系図です。
そもそも、私たちは何故、洗礼に導かれ、救いの恵みを与えられたのでしょうか。また、ヤコブは何故、神さまの祝福を受け継ぐ者とされたのでしょうか。私たちは、それについて良く分からないとしか、答えられないと思います。実は、洗礼を受け信仰者となったことを高ぶる理由など、何もないのです。それは、ヤコブも同じです、彼が優れていて、兄エサウが無価値な男だからではありませんでした。むしろ、エサウはヤコブよりも立派な人間であることを、神さまは知っておられたと思います。ヤコブのほうが、嘘をつき、盗みを働き、家を追われるような人物なのでした。神さまは、ヤコブ自身がどういう人物かというよりも、ヤコブを通して、神さまの御計画を実現するためにヤコブを選ばれたのでした。神さまの御計画。それは、全ての人々が神の国に入れられるご計画です。神さまは、誰がどう見ても祝福を与えられないようなヤコブの姿を通して、それでも神さまはこのような小さなものでも愛し祝福の中に入れたいと願ってくださるという事を伝えるために、ヤコブとその子孫であるイスラエルを選ばれたのでした。
そのことは、ヤコブの祖父であり、私たちが「信仰の父」とするアブラハムによって、もっとはっきりと表されています。パウロは、アブラハムについてこのように述べました。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇っても良いが、神の前ではそれができません。聖書には何と書いてありまりますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります」(ロマ4:3)。アブラハムは、神さまを信じたことによって義と認められた。つまり、神さまの前に正しいと認められ、救いを与えられたと教えるのです。ただ信仰によって、神さまの祝福が与えられたのだと語ろうとしているのです。そして、その恵みは、自分の正しさや、善い行いによっては正しいと認められない罪人である私たちが、ただ、神さまによって、そして、神さまが私たちに送ってくださったイエス・キリストの十字架の死による贖いを信じる信仰によって、無償で、罪の赦しを与えられ、救われ、永遠の命を与えらえる祝福の恵みです。私たちが洗礼に導かれ、祝福の中に入れられ、またヤコブが祝福を継承したのは、ただ、神さまの恵みによって、そしてそれを信じる信仰によって与えられたのだと教えてくれるのです。ヤコブが、そして私たちが何か正しいことをしたから、祝福の恵みが与えられたのではないのです。私たちが、ただ、神さまを信じて生きる中で、神さまが自らの祝福と救いの御計画を明らかにするために、まず私たちに祝福を与えられ、私たちをお使いくださるのです。私たちが信仰によって義とされるのは、その神さまの御計画を信じる信仰が行いとして現れる、その行いによるのだと言うのです。
しかし、ヤコブとエサウ、その子孫たちの関係がそうであったように、私たちに与えられている人間関係というのはとても微妙な関係のように思います。この世の中で、信仰によって生き続けることはとても難しいと思います。
エドム人はイスラエルを恐れていた事が聖書に書かれています。しかし、イスラエルもまたエドム人を避けていました。また、イスラエルはダビデの時代にエドム人を打ち殺した事がサムエル記に記されています。エドムとイスラエルは、戦う事があったのです。とても一筋縄ではいかなかったことが分かります。それは、私たちに与えられている状況が、ヤコブとエサウのように一筋縄ではいかない事を、神さまは良く知ってくださっているという事でもあります。だからこそ、神さまは、パウロの口を通して言われたのでした。「それは、だれ一人、神の前でほこることができないようにするためです」(Ⅰコリ1:29)。それは、神さまの前でほこることが出来ない人こそ、神さまは救おうとしてくださるという事なのかもしれません。つまり、信仰を誇ったとしても、また優れた能力や豊かさを誇ったとしても、神さまは喜ばれない。それは、結局、自分自身の力を誇ることである。誇る者がないと認める者こそ神さまは、喜んでその救いに入れてくださると教えてくれるのです。
イエスさまは、何を誇る事も無く十字架で死んでくださいました。私たちを罪から救うためです。イエスさまが、お生まれになり、十字架に架かってくださったのは、私たちが自分たちでは、イスラエルの民としてあたえられた使命、多くの民を神の国に入れるように導く使命を果たす事が出来なくなり、罪に支配されているからです。
だから、イエスさまは、わたしたちに向かって「悔い改めよ」と言われるのでした。そして、信仰者ではない異邦人の女性の信仰を見て、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われ、異邦人の信仰に対して祝福をお与えになったのでした。神さまは、誇るのではなく、従う人を祝福の中に入れられる方であることを私たちに示すためです。豊かさや知識のあるなしが、人を罪から救うのではない。ただ恵みによって与えられた信仰こそが、全ての人を救うのだと教えてくれるのです。
私たちはこの恵みによって信仰という賜物を与えられました。しかし、それは誇るようなものではなく、今日このように神さまを礼拝して、イエスさまが今日も生きて私たちを救いの道へと導いて下さっていることを証するために与えられているものです。わたしたちは、私たちを救い続けてくださるイエスさまを誇る時にのみ、隣人を無視するのではなく、愛する者へと変えられます。慈しむことが出来る者へと変えられます。ただ救いの神、主イエスのみを誇り、隣人を尊び、兄弟姉妹をキリストの救いに招き入れる、神さまの御計画を実現する者とされるのです。
パウロは教えてくれます。「誇る者は主を誇れ」。私たちは、主を誇り、兄弟姉妹たちを愛し、神の国へと招く働きをしたいのです。