2024/11/03 終末前々主日聖餐礼拝
使徒言行録説教第71回 (23:12~35)
『闇夜に輝く救いの光』
牧師 上田彰
*真のクリスマス
クリスマスのチラシを準備しながら、ふと思いました。私どもは、クリスマスを喜ぶときに、夜の闇に向かい合い、夜の闇の中に身を置いているだろうか、と。来月の今頃は、世界のいろいろなところでクリスマスツリーが飾られます。その中で最も豪華なツリーが飾られることで有名なのが、アラブ首長国連邦、ドバイの中心地に据えられるツリーで、一個数百万円のダイヤがいくつもツリーにぶら下がるのだそうです。イスラム教の国にクリスマスツリーが飾られる理屈はよくわかりませんが、少なくともそこに真のクリスマスの祝いの意義がないのは確かです。人工の飾り、人工の光によって作られるクリスマスがある一方で、聖書が示し教会がその伝統の中に生きてきた、真のクリスマスに思いを向けることは、意味のあることだと思います。クリスマス・イブを教会が祝うのは、人々の祝宴ムードに便乗しているというわけではなく、むしろそこに真のクリスマスがあることを示し続けるためだと思います。
*昼の力に依り頼む滑稽さ
24日の昼間の営みが終わり、日没と共に25日が始まる、その時に何が起こったのか。短くいいますと、私どもがいくら人工の光を点しても吸い込んでしまうような、深い夜の闇、そしてその深い闇に一筋の光が届いたということです。その光を私どもは「福音」と読んでいます。私どもの主、イエス・キリストが地上に誕生しました。
旧約聖書の伝統に生きるイスラエルの信仰者たちは、長く、「夜」の持つ意味と意義を理解して参りました。創造の物語を語るときに、「夜が来て、朝が来た」と語る。そのことからして多くを学べることでしょう。
先ほどお読みしたエルサレムでのできごと。前日を思い起こします。多くの敵意がぶつかり合いました。なぜサウロはユダヤ教の味方だったのに、パウロとなってキリスト教の伝道者になったのか。いやいやパウロはまだ我々ファリサイ派の仲間だ。彼は死人のよみがえりについて語った。擁護しないわけにはいかない。元々おまえたちサドカイ派と我々は犬猿の仲だったはずだ。様々な対立が噴き上がりました。イスラエルの中心である、神殿の丘に集まった最高法院の議員たちの間での争いは、真っ昼間のさなかに起こりました。収拾がつかないのを見て、ローマの兵士たちが間に割って入りました。
人間が力を振るう昼間の時間帯は、結局争いをする時間帯でしかないのでしょうか。パウロが引き裂かれないようにと、ローマ軍の兵士たちを率いる千人隊長がパウロを守るために、パウロを兵士たちの控えの場所に連れて行ったのでした。そこは簡単な作りの牢屋になっており、そこでパウロは一晩を明かすことになります。人を罰するはずの牢屋が、人を守るために使われる。歴史をひもときますと、実は牢屋の中が一番安全だということは時々あるようです。罰を受ける命が入れられるところで、また守られる命もある。このような皮肉な対比が起こるのが、人間界の定めです。人間が力と力をぶつかり合わせる昼がもたらす、滑稽な様子の一幕です。
こうしてパウロは、牢獄の中で一夜を明かすことになりました。どのような思いを持って枕に頭を乗せたのでしょうか。こんな争いになるなんて、と頭を抱えていたのか、あるいはいわれのない罪を着せられて、ボクシングの選手が殴りつけるサンドバッグのような状態になって疲労困憊しているのか、あるいは、もっとキリストを伝えたかったという思いがあったのか。いずれにせよ、頭をもたげてくるのは人間的な思いです。その頭をそれでも枕に乗せるのが夜、人間が眠る時間です。
草木も眠る丑三つ時、ではありませんが、人々が寝静まるとき、聞こえてくる声があります。
「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』。」
パウロは夢の中で自分の進路を示されるということを幾度となく経験しています。あるときにはマケドニア人から、「私たちを助けてください」と求められ、マケドニア伝道、つまりヨーロッパ伝道が始まります。またマケドニア州の町であるフィリピに入ったとき、悪霊払いをしたことが逆恨みを招き、捕まってしまうのですが、その時に、牢獄の中で仲間と共に讃美歌を歌っていたら扉が開いてしまい、牢の中の人がすべて逃げ出したと思い悲観して自殺を試みた看守を食い止め、洗礼に導いたのも、また夜中でした。
夜には不思議な力が働くのです。人間が昼に経験するのとは別種の力、といって良いでしょう。夜の幻として現れる主イエスは、コリントでは迷うパウロを励まし、またこのエルサレムでは疲労困憊するパウロを励ます。いずれもパウロはそれを夜に聞くのです。
夜の闇の深さをパウロはどのように受け止めていたのでしょうか。これは想像することしか出来ません。私どもは皆、夜の闇深さを何らかの意味で体験しているのではないでしょうか。
ある人はこれを、パウロは一種の不眠症に苦しめられていたのではないかと想像します。彼には持病があり、目を閉じて寝ているのに脳が働いて眠りが浅くなってしまう。夜に寝られないことのつらさを、私どもは誰でも多かれ少なかれ知っています。眠って良い時間帯なのに、眠ることが出来ない。眠ろうと思えば思うほど目がさえてしまう。そして周りの、普段なら気づかないような小さな物音が気になってしまう。いつの間にかその物音がだんだん大きくなってくるような気さえしてくる。そしてついに眠ったのか眠れなかったのかわからないままで朝を迎えてしまう。
そしてある人は、夜であるのに昼であるかのように考え、振る舞ってしまうところに、夜の闇の深さがあるのだと指摘します。パウロも活動的な人であったが故に、寝る間も惜しんでいろいろなことをしたかった人であるのかもしれません。その場合、活動的な人間の出る幕でない夜に、あたかも昼間であるかのように振る舞おうとしてしまう。人間がなすべきでないことに人間が挑戦することを、罪と呼びます。夜の闇に紛れて、人間の罪の深さにパウロが思い至るとするならば、今日の昼間に起こった様々な争いに闇深さがあることに真っ先に気づきます。そして同時にパウロは、自分が単にそれらの騒動の純粋な被害者というだけでなく、彼もまた一人の人間として闇深さを内側に抱えていることに気づくようになるかもしれません。暗闇の中で一人目が覚めているとき、誰か他人のせいに出来ない、暗闇に引きずり込まれそうになる。そのとき、パウロは助けてくださいと主に祈らざるを得ない。そんな思いをパウロが持ちながらその晩を過ごしたことを想像してみました。
クリスマスが夜に祝われることの意味を、改めて思い起こします。私どもは、すべての人工的な明かりを消して、主イエスの到来を待ち望んでもいいのではないでしょうか。暗闇の中で、主が一筋の光となってこの世においで下さる。祈る中でパウロが聞いたのです。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
パウロは、活動をする中で伝道計画の次の展開を示されるのではなく、夜に祈っているときに真の意味で伝道計画の次の展開を示されるというのは、私どもがよくよく心にとめねばならないことなのではないでしょうか。
そう考えて参りますと、伝道計画の究極の反対の言葉である殺害計画が昼に示されるというのは示唆的です。パウロがこのことを知るにいたったとき、一体何を思ったでしょうか。きっと昨晩のイエス様の呼びかけ、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」を思い出していたに相違ないのです。そして考えるのです。ローマに行くというのは、自分自身の願いなのか、それとも神様の願いなのか、ということです。これは伝道計画というものが、昼の思いを持って立案されるものなのか、夜の思いを持って立案されるものなのか、という問いにもなります。
過ぐる週は教団総会がありまして、池袋のホテルに三日間、400人の議員が缶詰になっていました。先ほど計算しますと、実際の審議時間だけで合計24時間になります。最高齢93歳の議員が参加するには少し大変です。本当はお茶の時間を設けたりして、お互いに知り合って挨拶が出来るような機会を設定するのが良いと思います。他教派の総会の話を聞きますと、テーマごとに分団協議の時間を設けて皆が発言することが出来るようにしたりしているところもあるようです。日本基督教団では、なかなかそうも行きません。純粋に時間が足りないというだけでなく、お互いの考え方に距離がありすぎて、わかり合うのに時間がかかるのです。いえわかり合って終われているわけではありません。互いに消化不良のままです。ホテルの照明は煌々と照り輝いているのに、闇が覆っているかのようです。
一人の尊敬する牧師は、これは洗礼に対する理解の違いが背景にある、と言います。ある教会では、洗礼がなぜか決意表明に変わってしまっている、というのです。決意表明。私はイエス様についていきます、という勇ましい宣言を洗礼志願者から聞きたいような気もします。しかしその尊敬する牧師は、そこに教会が引き込まれてしまう闇があるのだ、と教えてくださいました。神様が招いてくださるという事実がいつの間にか小さいものとなり、人間の思いが大きくなるとき、救いの光が見えなくなってしまう。そうやって、洗礼を受けたのは良いけれども、長続きしない信仰者が生まれてしまう、という訳です。その話を伺いながら、自分が30年前に受けた洗礼、信仰告白の中にそのような、自分が何かをやってやるという思いがなかったか、胸に手をやって考えざるを得ませんでした。そしておそらく、「洗礼を受けてからも、人は日々悔い改め続けねばならない」というルターが宗教改革の際に掲げた問題提起は、真実なのだろうと思わされます。昼間において見えてこない人間の力の限界を心に刻み続けねば、太陽や人工の照明が明るく輝いているのに、闇に引きずり込まれていく。昼の闇の明るさを思います。
片や決意表明と化した洗礼理解を持っていて、もう片方はきちんと主の恵みの洗礼を受け止めている。話はそんなに簡単ではありません。右と左が対立しているというような状態を早く終えて、皆が主の方を向き欠けた器を整えてもらわねばならないのです。そこまでの道のりは果てしなく遠いといわざるを得ない、そんな三日間でした。
*ユダヤ人たちを覆う滑稽な闇
パウロは問います。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。これは自分自身の願いなのか、それとも神様の願いなのか。自分自身でやりたいと思って証しをするという域にとどまっているのか、それとも神様に押し出されてローマに向かうのか。パウロは神様に問いながら、祈りのうちに朝を迎えます。
ここで今日の箇所が始まります。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」。
悔い改めの心を忘れたユダヤ人たちは、夜が明けたときに、引き返すことの出来ない地点に自分たちを追い込みます。それは、必殺パウロ、パウロを殺すまでは飲み食いをしないことを互いに誓い合うというのです。これは相当にやっかいです。多分誰かが言い出して、止められなくなって私も私もとなってしまったのでしょう。その数は40人以上に及ぶというのです。大体そのくらいの人数になってしまうと、正気に戻るすべを失ってしまいます。
洗礼が神様の導きによるものか、決意表明にとどまっているかというのは、やはり決定的です。決意表明に意図的にとどまろうとしている彼らは、その決意を、祭司長や長老たちに伝えるのです。おそらく、彼らをもまた決意表明の渦に巻き込もうというのでしょう。そして恐ろしい殺害計画を打ち明けるのです。
現在パウロの身柄はローマ帝国の兵営の中にある。まずはここからパウロを外に出さない限り、自分たちが思いを遂げてご飯を再び食べることは出来ない。そこでパウロを外に出す口実を探さねばならない。そこで最高法院のメンバーであるあなた方に一肌脱いでもらいたい。パウロを取り調べたいと言えば、牢獄を守っている兵士たちはパウロを連れ出して最高法院まで保護をつけて送ってくれるだろう。パウロが最高法院に入る直前のところで、パウロを彼らローマ兵士の護衛から拉致して、建物の陰で殺してしまおう。相手にすべき護衛は数名のはずだ。こちらは40名。一気に襲えば、まさかローマ兵は抵抗はしてこないに違いない。
昼間の人間の考えることはなんと恐ろしく、またなんと滑稽なことでしょうか。あえて申しますが、この殺害計画は滑稽です。総督の牢獄は守られています。また最高法院の中で殺害が起こることもまた許されません。しかしその途中で、偶然テロリストたちが乱入してパウロを殺すのなら、最高法院にも、ローマ兵士にも責任が及ばない。これが彼らの滑稽な浅知恵です。何が滑稽かと言えば、当初彼らの考えでは、パウロが死刑になるのは律法の側面から当然のことで、自分たちが手を下す必要など全く無いと考えていました。しかし、どうも旗色が悪い。パウロが生き延びる可能性がある。それなら自分たちが直接手を下すことにしよう、というわけです。法の裁きに任せておけと言っていたのが、法の裁きは完全ではないので、自分たちの手で完全なものにしてしまおう、というのは昼間の人間の浅知恵であると言わざるを得ません。
しかし私どもはしばしばそのようなことをやっているのかもしれません。現在世界の中で死刑を廃止し、また実質的に執行していない国は全体の7割を超えているのだそうです。ところが、死刑を廃止したはずの国において、銃を持って人質を取ったりする凶悪犯が警察によって射殺されることは、不思議なほどに多いのです。要するに、裁判で死刑になることはないので、警察が事件に向かい合っている最中にやむを得ず殺してしまった、ということにしているのです。結局その場合、その犯人がどのような経緯で犯行に及んだか、実はその犯人は家族を人質に取られて無理矢理犯行に及んでいるかもしれないのに、その背景がわからないままで容疑者死亡により送検見送りという結末になることは、結局大きな悪が暴かれないままになってしまうわけですから、大きな問題が残ってしまいます。それは現代社会が引きずっている、滑稽なテロリズム肯定論なのではないでしょうか。
さて、そのような滑稽なテロリズム肯定論に陥ったユダヤ人たちは、自然に声が大きくなっていました。そして聞いている人の一人にパウロの甥がいました。この青年が計画を偶然に聞きつけ、そして自分の叔父のいる兵営に入っていくのです。偶然の力も借りて、パウロに自身の殺害計画が伝わることになるのです。
*千人隊長たちを覆う滑稽な闇
パウロはここで、百人隊長、ついで千人隊長に話を持って行くことが出来ました。千人隊長の対応はこうでした。百人隊長を二人呼びつけ、総勢470名の護衛をつけて今晩中に身柄をこの地域のローマ総督のいるカイサリアに移してしまえ、という命令を下すのです。敵が40名だということなので、さすがにその10倍の兵士をつければ大丈夫だ、ということでしょう。(400人が一つの会議室に集まるとどういう風になるかということについて語ることが出来ますが、やめておきます。)
これは一つの賭けでした。なぜなら、おそらくこの400人の護衛というのは「はったり」だからです。その日の晩に急に出発するといって、通常数名の兵士が護衛に行くような護送を、400名以上に増員することなど不可能です。おそらく千人隊長は、無理だとわかっていながら、この命令を百人隊長にしたのです。想像ですが、大声で。
なにしろ、パウロの甥が勝手に兵営に入ってくることが出来るぐらいですから、兵営にユダヤ教側のスパイが忍び込むことは簡単にできます。ですから、この千人隊長の命令もすぐにユダヤ人の側に伝わることを計算に織り込んでいたのだと思います。ユダヤ人側のスパイが仲間に報告します。身柄は最高法院には来ず、カイサリアに今晩向かう。その際に手出しをしようにも相手が多すぎて手出しは出来ない。だめだ、諦めよう。そう彼らに思わせるために、はったりの命令を百人隊長にしたのではないか。この命令を下す千人隊長、聞く百人隊長の表情までなんとなく想像出来そうです。
さて実際には、極めて少人数の護衛のみで出発します。パウロと護衛は数頭の馬に乗って出発します。馬を急がせたとして、9時に出発して交代無しに行けるのは一晩では50kmが限界です。50km先にあるのはアンティパトリスという町でした。そこまでは起伏の多い道のりで見通しが悪く、暗殺者が身を隠すことがしやすい地形なのだそうです。従ってアンティパトリスまではとにかく早い馬で走り抜く必要がありました。そしてパウロをしっかり武装している騎兵たちに渡します。中間地点であるアンティパトリスからカイサリアまでは平らな地形で、人数と装備を調えることで敵に備える必要がある。そしてカイサリアまでなんとしてでもパウロを無事に護送する。これが千人隊長の作戦でした。
このようにしてパウロを守った理由は何でしょうか。千人隊長は、優しい人だからそうしたのでも、パウロの主張に共感を覚えたからでもなく、実はパウロを守る側、またパウロを殺す側の両方から賄賂をもらえるような立ち位置を作りたかったからだ、と言う人がいます。それはかなり正しいと思われます。もう一言付け加えるならば、千人隊長は、更にカイサリアに無事に送ることが出来れば総督からも褒められて出世が出来るだろう、そう考えたと思われます。
そのようにして朝を迎え、いよいよパウロは単身で総督のところに向かいます。
*信仰者を照らす細い光
パウロはユダヤ人たちの暗い闇からは逃れましたが、ローマ人たちの暗い闇からは逃れきっていません。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」イエス様の言葉は、闇から闇へと逃れきることの出来ない闇を、それでも逃れねばならないという、運命を告げるような言葉です。
私どももまた同じように、自分に襲いかかってくる闇のうちのある種のものについては見えやすい。しかし他のものについては抵抗出来ないというようなことが、よくあります。またその中でも究極のものは自分の中に忍び寄る闇、なのではないでしょうか。
パウロは主の言葉を神様の御心と信じ、従います。その命令の重さをずっしりと肩で受け止めながら、暗い闇の中を歩み続けます。暗い闇の中に差し込む一筋の光を、彼は知っているからです。
私どもは今日、聖餐の食卓に与ります。主イエスが一筋の光として私どものただ中においで下さったことを、共に味わいたいと願います。
†