宗教改革の意義

2024年10月27日伊東教会説教


「宗教改革の意義」

(創12・1~3;ロマ1・16~17)


上田光正


 本日は10月27日です。

実は、今月の31日は、教団の暦では「宗教改革記念日」となっています。わたしどもの教会が、プロテスタント教会と呼ばれていることは、みなさまもよくご存じだと思います。それは、今から約5百年前の、西暦1517年のことです。宗教改革者のマルティン・ルターという人が、自分の教会(ヴィッテンベルクの城教会)の扉に、95箇条の声明文を書いた張り紙をしたのがきっかけです。それが二週間もしない内にたちまちドイツの国中に広まり、瞬く間に全ヨーロッパに、まるで大地震が起こったような大衝撃を与えて、宗教改革が起こりました。それがこの日でしたので、この日が宗教改革記念日となります。それを機会に、全世界の歴史が大きく変わったのです。わたしどもの教会は、その尊い伝統を受け継いでいます。


 なぜこの日が重要かと申しますと、宗教改革とは、人間はどのようにしたら救われるか、という、わたしどもの信仰の根幹に関わる問題だからです。それは、人間はただ信仰のみによって救われる、他に何かその人がこの世で立派な良い行いをしたとか、人格が立派だから天国へ行けるとか、そういったことは一切なしに、ただ神の恵みのみによって救われる、ということがはっきりしたからです。しかもそれでいて、ではそういう人は、救われたから平気で悪いことをするのかと言えば、そのようなことは全くありません。むしろ、本当に感謝と平安に満たされた人生を歩むようになる、というのが、わたしどもの信仰です。本日は、一年に一度、そういうわたしどもの信仰の原点を確かめる礼拝を、皆さまとご一緒にお捧げしたいと思ます。


 なお、一言だけ事の起こりをご説明しますと、みなさんは高校の教科書で既に学んでご存知と思いますが、「免罪符」がきっかけでした。当時のカトリック教会はかなり堕落しておりました(今のカトリック教会ではありません、5百年前のカトリック教会の話ですから、誤解しないでください)。ローマのヴァティカン宮殿に礼拝堂を建設するために、莫大な費用が必要だというので、「免罪符」を発行したのです。その宣伝文句が、「あなたのお金がこの箱に入ってチャリンと音がすると、今地獄で苦しんでいるあなたの親戚の魂がポンと一つ天国に入る」というものです。まさに「地獄の沙汰も金次第」で、そんなことは聖書のどこにも書いてありませんから、多くの人が「おかしい」と思ったのです。いちばん「変だ」と思ったのが、当時まだカトリックの修道士であったマルティン・ルターでした。早速あの「95箇条」を教会の扉に張り付け、国中が大騒ぎとなったのです。


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さて、歴史的なことはそれまでとします。本日わたしは、そのルターをしてそれほどの思いにさせた中心の聖句が何であったか、その聖句を、皆さまとご一緒に味わいたいと思います。先ほどご一緒にお読みしました、ロマ書1章17節の御言葉です。もう一度、17節だけお読みします。


 「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」


と書いてあります。ほんの短い文章です。「福音には、神の義が啓示されている」。日本語で言うと、たった15字です。そのたった15字の中に――決して大げさでなく――、キリスト教の奥義中の奥義が示されている、と言われたら、誰でも驚くと思いますが、本当にそうなのです。


「福音」というのは、読んで字のごとく、文字通り、「よろこびのおとずれ」ですね。では、その「喜びの音信」の内容は何か。それは、「神の義」が示されていることだ、と言うのです。「義」とは「正しさ」ですから、神の正しさが示されている、ということになります。


これを聴いて、恐らく大部分の方は、「何だ、がっかりだ」「もっとすごいことが書いてあるかと思った」と思われる方も多いのではないかと思うのであります。福音は人を救う力を持っている。どんな人をも救う力がある。そういう話なら分かる。ところが、その内容を聴くと、期待が外れてしまった、と思うのではないかと思うのであります。わたしどもは、この御言葉が、普通には、期待外れであることを、忘れているのではないでしょうか。ある宗教学者が、宗教というのは、お金が儲かるか、病気が治るか、どちらかがないと売れない、と言いました。しかし、神の義では、早い話、腹の足しにもならないのであります。


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しかし、ルターは違っていました。彼は、このみ言葉を読んで、「激しく憎んだ」、と言っています。このみ言葉がいやでいやでたまらなかったのです。なぜなら、もし神が御自分の正しさで人間を裁かれたら人間はみな滅びるのではないか、と考えたからです。


ただし、普通の人はこの聖句を読んで必ずしもそのようには感じません。と申しますのも、普通の人は、お裁きの日に裁かれても、まあ自分は大丈夫だ、殺人も姦淫もしたことはないし、悪いことも少しはしたかもしれないが、善いこともしている。だから、天国へ行けるだろう、ぐらいに高をくくっていました。ましてや、ルターのように、せっかくの出世コースを捨てて修道院にまで入って、毎日お祈りと精進に励んでいる人なら、さぞかし神さまに近いから、自分だけでなく、親兄弟や親戚まで天国へ連れて行けるに違いない、ぐらいに普通は考えられていたのです。


しかし、ルターはそうは考えませんでした。彼は聖書をよく読む人ですから、神さまは人間の外側ではなく、一人ひとりの心の内側にあるものを御覧になることをよく知っていました。また、決して自分をごまかさない人でしたから、自分の罪もよく分かっていたのです。わたしどもも、もし自分の心の内側をよく見てみるなら、決してきれいごとばかりではない、自分のことしか考えない、決して人には誇れない気持ちもいっぱいあるのではないでしょうか。みなさんは、旧約聖書のノアの洪水の話をよくご存じでありましょう。全世界で、神の前に正しいとされた人はほんの一家族だけで、後はみんな滅ぼされてしまったのです。


もしその神さまが、ただしくご自分の正しさや聖さに従って世界をお裁きになるとしたら、だれが神さまの裁きに耐えることが出来るでしょうか。


先程わたしどもは、讃美歌の258番を歌いました。これはルターが作った讃美歌の一つです。「わたしは深い淵から、あなたに呼ばわる」と謳われています。これは、ほんとうに心の深い底の底からひたすら神さまの助けを求める、ほんとうに敬虔な、ただ神さまだけがわたしの助けであり、慰めだ、というルターの信仰をうたっています。わたしの好きな讃美歌の一つです。しかしルターは、時には、神の「正しさ」という先程の聖句が怖くなることもあったのです。もし神様が御自分のまことの正しさに従って裁かれるなら、自分はどうなるだろうと、深い畏れの念を抱いていました。


ルターはある時、こういう体験をしたそうです。彼は当時、修道院に居て神学生たちの宿舎の舎監を務めていました。ある時、宿舎の欄干に手を置いてじっと目をつぶってこの聖句を黙想していたのです。そして、終わりの日の裁きの時に無限に聖く、正しさそのものであられる神さまの裁きの前に自分が立たされる時を想像しました。するとたちまち、自分の手の骨も足の骨も背骨もろっ骨も、骨の髄まで焼き滅ぼされて灰になってしまうような恐ろしさを実感した、と言っています。


ただし、誤解のないように申し上げますが、彼はその頃、まだこの聖句の本当の意味を知らなかったのです。そのことはこの後すぐお話しします。それともう一つ、ルターはもちろん、決して身勝手な、不真面目で不誠実な人間ではありません。むしろ反対です。信仰も深く、行いも正しい、模範的な信仰の修道士でした。それですから、ただ神の憐れみのみが、自分の救いであることをよく知っていたのです。


* * *


彼は聖書を一生懸命読みました。そしてある日、到頭、本日の聖句の本当の意味が分かるときがやって来ました。


それはこういう出来事でした。普通にこれは、ルターの「塔の体験」と呼ばれるものです。彼の居た修道院には一本の高い塔が建っていました。ルターの部屋はその塔の上の、図書室の隣にあったそうです。彼はその日も、あの聖句の「神の義」とは何だろう、と一生懸命考えながら、塔の階段を一歩一歩昇って行きました。すると、暗い階段の上の方から、あたかも一条の光のようなものが射してきた気がして――まさに、聖霊のお導きです――、忽然とあの聖句の意味がひらめいたのです。それは、神の正しさとは、人間を裁く正しさではなかったのです。むしろ反対に、神が人間に、御自分の正しさを与える義であったのです。人間を裁く神様の正しさなら、誰でも裁かれれば滅びます。当時のカトリック教会の教えでは、この《義》という言葉は、神の裁く正しさだという教えでした。しかし、それは間違いです。むしろ本当の意味は、神が罪びとを憐れむ「憐れみ」です。それが福音の中に啓示されている、という意味です。神が人間に――頭のてっぺんから足のつま先まで罪びとであり、救われるはずのない人間に、そのまま御自分の正しさを恵みとして与えて救ってくださる。ですから、意味はまるで逆です。ほんとうの意味は、福音の中には、実に深い神の憐れみが啓示されている、という意味です。それが分かると、たちまちルターにとって、この聖句は蜜よりも甘い、まさに喜びに満ちたおとずれそのものとなりました。そして、あの偉大な宗教改革が起こったのです。


ですからみなさん、ルターはほんの一介の修道僧に過ぎません。その一介の修道僧に過ぎない者が、聖書のたった一句、いや、たった一つの単語の意味を正しく解明することによって、カトリック教会を堕落から救い、全世界の歴史が救われるような大変大きな出来事が起こったのです。ですから聖書はすごいと思います。


* * *


 それですので、みなさん、とても短い聖句ですが、御一緒に、この聖句の意味をもっと深く知ろうではありませんか。

 この《義》という言葉は、ただ「正しい」と訳してしまうと、例えば「あの人は正しい人だ」という風に、その人の性質になりますね。「正直な人」、「正義の人」、「悪を決して寄せつけない人」。どちらかというと、冷たい人、という印象さえあります。つまり、「神の義」という言葉は、ただ神が持っているご性質として理解すると、神が人を裁く正しさとなってしまいます。これではないのです。本当は、神が人間に与えてくださる義と考えなければなりません。

聖書では、「義」の本当の意味は、「契約を守る正しさ」という意味です。「契約」とは「ちぎり」、「固い、固い約束」です。結婚も契約ですね。しかも、一生続く、命と命の約束です。それによって、神さまはどんなことがあってもアブラハムとその子孫を守り、救うお約束をされました。アブラハムもその神の恵みにお応えして、生涯神と共に歩む約束をしました。

わたしども日本人には、この契約というものがなかなか分かりにくいので、これは少しだけ、ご説明が必要です。


 昔、イスラエルの民は羊を飼う遊牧の民でした。遊牧の民にとって、最も重要なものが契約だったのです。なぜならこれは、人と人とを結ぶ唯一の「きずな」だったからです。と申しますのも、遊牧の民は「村」というものを作れません。今日はここにテントを張って居ても、明日はずっと遠くに移動してしまうからです。ですから、日本とは全然違います。日本人は農耕民族ですから、いつも同じ場所に住んでいて、みんなで「村」を作れます。「村」で一緒に稲刈りもお祭りも出来ます。その代り、「村」の掟を破ったら「村八分」にされます。イスラエルは遊牧民ですから、人と人との結びつきは、人と人、氏族と氏族が、「契約」を結ぶのです。それは、もし一方が危険や助けが必要となったら、他方はたといどんなに遠くに居ても、すぐに飛んできて必ず助ける、という約束です。結婚と同じく、一生続く約束です。


そういう大切な約束ですから、契約を結ぶ時には非常に厳かな儀式をします。必ず動物を犠牲にし、流された「血」で証しとします。その動物(牛や羊や鳥)を二つに切り裂き、契約を結ぶ者同士がその切り裂かれた動物のからだのあいだを、通り過ぎる、という儀式です(創世記15・9以下参照)。それは、もしこの契約を破ったら、この動物のように二つに裂かれて殺されても文句は言わない、という意味なのです。


神さまと人間も契約を結びました。これは「永遠の契約」と申します。神様は、全人類の中からアブラハム、その子イサク、その子ヤコブとその子孫とを選んで、「永遠の契約」を結ばれました。


 ただし、神さまはイスラエルをえこひいきするために選ばれたのではありません。むしろ反対です。神様の御計画は、このイスラエルを仲立ちとして、全世界の人々を憐れみ、祝福するために、最初にイスラエルを選ばれたのです。そして、イスラエルからイエス・キリストを生まれさせ、キリストを通して全世界をお救いになるというのが、神さまの御計画です。ですから、わたしどももその中に入って来るのです。このことは、とても大切ですので、先ほどご一緒に読んだ聖書をどうぞもう一度お開け下さい。創世記12章2節以下です(旧約聖書15頁)。開けられなかった方は、わたしがゆっくりお読みしますので、お聞き下さい。神さはアブラハムにこう語られました。


  「わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  あなたは祝福の源となるように。


・ ・ ・


  地上の士族はすべて

  あなたによって祝福に入る」

 ここに、「あなたは祝福の源となりなさい」と書いてありますね。「地上の人々はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。わたしどももその中に入るのです。


簡単に申しますと、こういうことです。神様は、アブラハムとその子孫であるイスラエルを祝福します。彼らをしてこの世で神の祝福にあずかる民族とします。それが「あなたを大いなる国民にする」です。その代り、イスラエルはモーセの律法を守り、神に祝福された「祭司の国」(ペトロの第一の手紙2・9)として、他の、全世界の人々に神の存在とその救いを知らせ、彼らの罪をあがなうのです。それが、「あなたは祝福の《源》となりなさい」という御言葉です。だから、イスラエルを通して全世界が神の祝福を受けられるように御計画されたのです。わたしども日本民族も、その救いの中に入っています。今から4千年も前に、神さまはそのために、アブラハムと契約を結ばれたのです。


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そのあとのことは、皆さまもよくご存じですね。

神さまはアブラハムの子孫であるイスラエルを本当に祝福し、守られました。彼らが奴隷としてエジプトで苦しんでいた時には助け出し、モーセを通してカナーンの地まで導き、その土地に住まわせられました。つまり、神さまは常にイスラエルに対して真実で、正しく、誠実を尽くされたのです。ところがイスラエルはそうではなかった。神に対して常に不真実・不誠実で、自分は選ばれた「選民」であると誇って周囲の民族を軽蔑しながら、偶像を礼拝し、社会は不正義と腐敗に乱れ、戦争に戦争を重ねていました。つまり、神に対して《罪》を犯し続けて来ました。契約を守るのが《義》です。それを破るのが《罪》です。


これは本当に残念なことですが、現在のイスラエルも、少しも変わっていません。自分たちが生き残るために、周囲の民族を滅ぼそうとしています。これはしかし、何もイスラエルだけではないのです。もしわたしどもが、神を神として崇めず、感謝もせず、自分を中心に生きている限り、必ずそういう非人間的な生き方しか出来なくなってしまうのです。


もちろん、神さまはイスラエルを裁くことも出来ました。夫を裏切り続けた姦淫の妻ですから、八つ裂きにされても仕方がありません。しかし、神はそうなさらなかったのです。むしろ、イスラエルが契約を破っても、神さまの方では破らず、どこまでもそれを守り、イスラエルに対して真実を尽くし、誠実であられました。その真実が、今から2千年前に、御独り子であられる、イエスを遣わされて、全イスラエルの罪を十字架であがなわれた、という出来事です。


いや、単に全イスラエルの罪だけではないのです。本来イスラエルが救うべきであった全人類の罪をも――ですから、わたしども一人ひとりの罪をも――キリストが背負われて、《身代わりに》裂かれるという形で罪をあがない、「永遠の契約」を貫き通されたのです。まさにご自分の命をかけて契約を守り切られたのです。


主イエスはお亡くなりになる前の晩、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」と仰られました(ヨハネ15・13)。「友」というのは、文字通り、わたしども一人ひとりのことをおっしゃっておられるのです。2千年後に生きているわたしども一人ひとりをも――主は神であられますから、2千年後に生まれるわたしどものことをも生まれる前からご存じですから――わたしどもを御自分の「友」の中に数えておられます。わたしやあなたも、主イエスは御自分の「友」として数えておられるのです。日本人もアメリカ人も、富んだ人も貧しい人もです。そして、本来、自分の罪で死ぬべきわたしどもの最も大きな危機、最大の災いから、わたしどもを救うために、主は死なれたのです。


主イエスの十字架上の最後のお言葉は、皆さまもご存じですね。「わが神、わが神、どうしてわたしを、お見捨てになったのですか」(マルコ15・34)です。「見捨てる」とは、「崖から突き落とす」という、とても意味の強い言葉です。ですがこれは、決して絶望や断末魔の叫びではありません。わたしどもの身代わりに罪を背負い、本当に契約通り、身代わりに裁かれて、最愛の父なる神から本当に陰府に捨てられるという、罪の呪いを受けて死ぬ死を死なれた、という意味です。

神はそのようにして、ご自分には罪の責任を、わたしどもには御自分の《義》を与え、わたしどもを「義」として下さいました。そして、本当は何の資格も値打ちもない罪びとであるわたしどもに、神を神とし、「正しい人」として生きることが出来るような人生を与えて下さったのです。そしてわたしどもを、今日も明日も、とこしえまでも、「お前はわたしの子なのだ」「わたしはお前の罪をあがなったから、お前は正しく生きることが出来る」「お前はわたしの愛する子として、わたしの愛の中で生きなさい」と仰ってくださるのです。


* * *


そのことを述べているのが、さきほどの17節後半の御言葉です。本日は、もう時間が余りありませんが、これこそはわたしども一人ひとりと関係がありますので、わたしはこの17節後半の御言葉だけは、しっかりと皆さまにお伝えして説教を終えたいと思います。こう書いてありますね。


 「それは、初めから終わりまで、信仰を通して実現されるのです」、と。


この聖句は、あまりにも短いので、どう解釈したらよいか、昔から解釈は何通りもありました。しかし、主イエスの十字架の出来事について、それが「初めから終わりまで、信仰を通して実現した」、と言っていることは明らかです。前の口語訳はもっと分かりやすい訳となっています。


「それは、信仰に始まり、信仰に至らせる」

と訳されていました。前の訳で御説明します。まず、それは「信仰に始まった」と言っています。これは、神様の信仰に始まった、ということですが、神さまの場合には、この字は「信仰」とは訳さないで、神の「真実」とか、「誠実」と訳されます。つまり、神様がどこまでも契約の相手であるわたしども一人ひとりに対して、真実を尽くされた。限りない憐れみと慈しみを示された。キリストの救いの出来事は、その神の真実から始まっている、という意味です。

それに対して後の方の「信仰に至らせる」は、文字通り、わたしども人間の信仰です。十字架の出来事は、わたしども人間の「信仰」を目指している、という意味になります。神の十字架の愛に対する、わたしども人間の、ただ一つの正しい態度は、これを信じることしかありません。なぜならそれは、信仰をもって受け取ることしかできないからです。なぜなら、神は限りない真実をもってわたしどもに御自分の独り子の命をお与え下さいました。それも、ご自分の身を限りなく低くして、腰をかがめて、わたしどもに真実の限りを尽くされました。


だとしたら、人間の唯ひとつの神に対する真実、正しい態度とは何でしょう。それはやはり、十字架の主の前に心からひざまずき、悔い改め、感謝をもって、自分のすべての信頼と服従を捧げて神の愛を受け取ることしかないのではないでしょうか。他の受け取り方はあり得ないし、絶対におかしいのです。ただ、無条件の悔い改めと、心からの信頼以外に、どんな態度があるでしょうか。それが、「信仰」なのです。

ご一緒に、神さまから、一人ひとりがその信仰がいただけるよう、祈りましょう。お祈りします。