義とされた者の生活と礼拝

2024/10/20

三位一体後第 21主日聖餐礼拝

「義とされた者の生活と礼拝」

創世記35章1〜15、29節

牧師 上田文



私は、実家に帰るときに、一つだけ大きな葛藤を覚えることがあります。以前にも話した事がありますが、私の実家は浄土真宗の寺です。そのため、家に入る時に寺の山門をくぐらなければなりません。寺の娘として育てられた私は、この山門をくぐるときに、本堂の方を向いて一礼することが習慣になっていました。しかし、私は今、イエスさまを言じ、教会の牧師となっています。寺の本堂の方を向いて一礼することは、主なる神さまではない方を礼拝することになってしまうように感じるのです。だからといって、一礼しないで、山門をくぐるのは、家族が大切にしている方を、無視し馬鹿にしているようにも感じるのです。

この心地悪さをきっかけに、私は、キリスト教の持つ「清き」について考える機会を与えられました。今日の聖書箇所で、ヤコブは「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい」と言いました。この言葉は聞くと、まるでキリスト教はとても排他的な宗教なのではないかと感じてしまうことがあります。キリスト教こそ清い宗教だと言っているようにも聞こえます。私のような、寺で育った人にとっては、実家の寺を無くしてしまえと聞こえる場合があるかもしれません。こんなことを言っているから、戦争が終わらないのだと思う人がいるかもしれません。

今日は、神さまが再びヤコブをベテルに招かれ、「イスラエルがあなたの名となる」と、二度目の約束をしてくださった話です。一度目の約束は、神さまと格闘したヤコブが右足を折られた時です。神さまは、右足を引きずるヤコブに、神さまと共に生きる者としての名前をお与えになりました。今日は、この神さまと共に生きるイスラエルがどのような生活をする者とされているのかを教えてくれる物語です。神さまが言われる、「清さ」、イエスさまを言じる私たちに与えられている「清さ」とはどのようなものなのか、そのことに共に耳を傾けたいと思います。




1節にはこのように書かれています。「神はヤコブに言われた。『さあ、ベテルに上(のぼり、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を作りなさい」」。神さまは、ベテルに帰るように命令されました。ベテルとは、兄と父から祝福を騙し取り、兄から命を狙われたヤコブが、故郷を逃れ、たった一人、荒野で野宿をしているときに、神さまと出会う夢を見た場所です。神さまは、夢の中でこのように言われました。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」(28:15)。神さまが、家族中を騙して逃亡するヤコブを何故か祝福の中に置いてくださったのでした。神さまが与えてくださる祝福、それは目に見える富の祝福でもありますが、何よりも、祖父であるアブラハムに与えられた祝福です。その祝福は、罪に落ちた人間を救い出す祝福であり、神さまの救いを借じる仰を与えられる祝福です。悔い改め、罪の赦しを乞い求める力と、赦しを与えられ、神の国を目指す者となる祝福です。しかし、ヤコブは、この祝福を理解しないままに、相変わらずずる賢く生きていました。そのようなヤコブに、神さまは、今度はヤボクで出会ってくださいました。自らの罪を理解出来ないまま、兄から命を狙われる事を生えるヤコブに、神さまの方からその御顔を近づけてくださったのでした。罪のために神さまの方を向くことが出来ないヤコブの顔を、神さまが追いかけるように、神さまがその顔を近づけて下さり、神さまの方からヤコブの罪を聞き出して下さり、神さまがヤコブの手を引くように、



その前に立たせてくださったのでした。そして、「イスラエル」という名前を与えてくださったのでした。「イスラエル」とは、神と競うとか、神が支配するという意味を持つ言葉です。神さまが、わざわざヤコブと闘ってくださり、ヤコブの顔を覗き込んでくださり、ヤコブの神さまとなってくださいました。ヤコブの主となってくださいました。「イスラエル」はその恵みを表した名前なのです。



ところがです、「イスラエル」という名前を与えられたヤコブは、その後「イスラエル」にふさわしい生き方をしていたかと言えばそうではありません。神さまを自らの主として生きているようにはとても思えないのです。そのことが、先日読んだ 34章には、色濃く表れていました。神さまの民は、婚前交渉を(けが)れとしていたのにもかかわらず、ヤコブの娘ディナは、他の神々をずる町の首長の息子に強姦されました。また、ヤコブの息子たちは、神さまの聖なる契約である割礼を町を略奪するための道具としてしまいました。そして、ヤコブはといえば、なんとそれを見ながら、沈黙し続けたのでした。そして、挙句の果てには、「困ったことをしてくれたものだ。わたしは、この土地の憎まれ者になってしまう。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、滅ぼされてしまう」と、無責任な事を口にするのです。ヤコブは、ここまできても、まだ自分が神さまから遠く離れてしまっていることに気づくことが出来ませんでした。イスラエルとして生きることが出来ていない自分に気づくことが出来ませんでした。また、この父の言葉を聞いた息子たちは、このように言います。「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」。自分たちのしたことは正しかった。自分たちのした事は、神さまのみ心に叶った、清いものである。正当なことであると言うのです。




けれども、自分は正しいと思い、相手から侮辱(ぶじょく)や辱(はずかし)めを受けたと感じ、生きるために、命を守るためにと言って、相手を痛めつけるという事は、どこに置いても起こる事のように思います。個人やグループ、そして国家レベルにおいて、このような争いが絶えず起きていると思います。そして、それが戦争に繋がっていると思います。自分は正しいと主張して、悪である相手を、正しく裁いていると勘違いし、自らも知らないうちに、悪に陥って行くのです。


なぜそのような事が起こってしまうのだろうと考えてみました。それは、私たち人間には、本当の正しさが分からないからかもしれません。そのために、私たちは正しさ自体を、都合よく作り上げてしまうのかもしれません。そのことは、神さまを借じる私たちにも、陥ってしまう間違えでもあるように思います。神さまの名を利用しながら、自分勝手に神さまの正しさを作り上げ、自分勝手に神さまを宿仰する、自称信仰者になっていまっている。そのようなことは、私たちにもあり得ることです。そのために、家庭において、地域において、そして、世界規模で争いが起こってしまうのだと思うのです。自分の力で正しさを作り上げようとする限り、争いは絶えないのです。


そのように、考えると、神さまをそっちのけにしていたヤコブの生き方は、私たち信仰者が、自分がどのように神さまを信仰しているのか、改めて考えることの出来る、鏡のような役割を果たしてくれます。彼も、私たちも、自分勝手に正しさや清さを追求しながら、また、自分勝手に自分は借仰者だと思い込みながら、知らず知らずのうちに、神さまから遠ざかってしまっているように思うのです。




しかし、神さまは、このような私たちの生き方に、左右されるような方ではありません。あくまでも自由にその壮大なみ心を実現させていかれます。そして、そのみ心は、罪に陥る私たちを救い出し、神の国を実現される、恵みのみ心なのです。


ヤコブはこのみ心に再び触れる機会が与えられました。シケムの町で困惑するヤコブに神さまは、言葉をかけてくださいました。神さまの民「イスラエル」となりきれないヤコブに、神さまが再び声を掛けてくださいました。そして言われます。

「さあ、ベテルに上(のぼり、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を作りなさい」(1)。


自分の欲望を抑えきれず、家族を騙し、兄に命を狙(ねら)われるようになったヤコブに言葉をかけてくださった、あの神さまが、再びヤコブの家族を捕えてくださったのでした。自分では、「イスラエル」となりきれないヤコブを、神さまが「イスラエル」とするために、導いてくださったのでした。そして、「ベテルに生き、祭壇を気づきなさい。礼拝を中心とした生活をしなさい。この世を見る生活ではなく、神さまを見る生活をしなさい」、と命令されたのでした。ヤコブはこのみ言葉により、我に帰ることが出来ました。混沌としていた彼の人生が、神さまの創造の恵みの中を生きる人生へと再び変えられたのでした。神さまは、このようにして「イスラエル」を実現するご計画を進められたのでした。



神さまのみ言葉を聞いたヤコブは、即座に立ち上がります。彼は、家族の者たちや、連れの者たちが身に着けている、さまざまなな神々を取り外すように命じます。彼らが身に着けていたピアスやネックレスには利益をもたらす、さまざまな神が刻まれていました。その神々を取り外しなさいとヤコブは命令したのでした。このヤコブ命令には、主なる神さまに再び「イスラエル」とされる、ヤコブの堅い決意と応答が現れていたのでした。また、ヤコブは、家族に「身を清めて衣服を着替えなさい」と言います。ヤコブは、主なる神さまがヤコブにご利益を与えるような方ではなく、罪を清めてくださる方である。新しい命の服を着せてくださる方であると、家族に宜言しているようにも聞こえます。「イスラエル」とされたのに、昔と全く変わらない、ずる賢いヤコブが、やっとイスラエルの名に恥じない者となったのでした。それは、混沌とした現実の中で、主なる神さまに与えられた恵みでした。息子たちが罪を犯す事を、ただ傍観し、沈黙していたヤコブに残されていた事、それは、怒(いか)る事でも、逃げる事でもありませんでした。そのような事をしても、どうしようもない事が彼には分かつたのだと思います。ヤコブに出来ること、それは、自分の思い込みや、偶像を全てはずして、神さまの御前で悔い改める事しかなかったのでした。しかし、神さまはこの「悔い改め」をも、恵みとしてヤコブに与えられたという事ができると思います。この恵みを頂いた彼は、「奈道を造る」ためにベテルに上(のぼ)ろうと、家族を導くことが出来たのでした。ヤコブは昔の古い服を脱ぎ捨てて、新しい霊によって神さまに仕える者とされていたのでした(ロマ 7:6)。

偶像を捨てて、真正面から自らの罪に向かい合うこととなったヤコブは、自分の正しさなどでは命を伸ばせないことを知りました。神さまの恵みの救いによってしか、自分の命は伸ばせないということをやっと知ったのでした。そして、家族の命のために、家族をこの神さまの御前に連れていく者へと変えられたのでした。

じるべきものは、富ではなく、石を枕にする逃亡者となり、奴隷となり、そして、家族をも巻き込む罪人となった自分と、ひと時も離れることなく共にいてくださった、このベテルの神さまであると、家族やまわりの人々に示す者とされたのでした。





しかし、このようなヤコブの行動を見ると、このような質問が出て来るようにも思うのです。ヤコブのやったことは、他の神さまを排除することに繋がらないか。それは、自分の神さまだけが、唯一真の神さまであると主張し、シケムの人々を襲ったヤコブの息子と何ら変わらないのではないか、主なる神さまもまた排他的な方なのではないかという質問です。



けれども、このような私たちの思いまで、神さまは知ってくださっていたのでしょうか。聖書は、「人々は、持っていた外国のすべての神々と、つけていた耳飾りをヤコブに渡した」(4)。また「こうして、一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった」(5)と教えてくれます。この言葉を聞く時、神さまは、ご自身がお造りになった人間一人一人を、とても愛して下さることが分かるように思います。なぜなら、人々は、自分で外国の神々と、耳飾りをヤコブに渡したと記されているからです。神さまは、私たちの思いをとても大切にしてくださるので、私たちを否定したり、私たちが大切にしているものを無理やり取り上げられたりはされないのです。それよりも、いつも私たちに語りかけてくださり、私たちがいつでも神さまの下(もと)に帰ることが出来るように、整えてくださっている方なのです。私たちは、この方の前に全てを置いて、あの帰って来た放蕩息子のように、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ 15:21)と、この方の御許(みもと)に帰るしかありません。神さまは、全ての偶像を下(お)ろす私たちを、喜んで迎え入れてくださり、そのみ言葉の中を生きさせてくださるのです。




また、「周囲の人々は、恐れた」とあります。「恐れた」という言葉は、手出しが出来なくなったと言い換えることが出来るかもしれません。偶像を捨て、主なる神さまを愛することは、それだけ強くされるという事です。この強さは、ただ、神さまのみを愛し、周りの人々を無視するような事ではなく、神さまと人を愛する強さに繋がるのだと聖書は教えてくれます。神さまを真剣に愛し、この神さまが造られた全ての物を愛するようになったヤコブに、人々は手出しが出来なくなったのでした。人々は、ヤコブのことを否定できなくなったのでした。そして、このような神さまに従うヤコブの姿は、偶像を捨てきれない多くの人々が神さまの祝福の中に入れられる道筋を示すことに繋がったのでした。イスラエルの神であられ、私たちの主なる神であってくださる方は、この方をまだ知らない隣人にも、このようにして御手を伸ばしてくださる方なのです。






6節からは、ヤコブがベテルに到着したときのことが記されています。「ヤコブは、そこに祭壇を築いて、その場所をエル・ベテルと名付けた。兄を避けて逃げて行った時、神がそこでヤコブに現れたからである」とあります。ヤコブは、故郷に帰ったような安堵感があったと思います。さまざまな回り道をしながら、ヤコブは、20年ぶりにベテルの地を踏みました。ヤコブにとってベテルは、兄エサウから逃げているヤコブに、神さまが初めて出会ってくださり、守り愛して下さった場所でした。そして、そこはヤコブが神さまの存在を感じ、安心して生きることのできる、故郷の家となったのでした。私たちにもこのような場所が与えられています。その場所から、私たちの仰生活が始まったと思います。そして、私たちは、相変わらずヤコブと同じように、迷い、回り道をして生きています。そのような私たちにもまた、神さまは、「ベテルに帰りなさい」「そこで礼拝捧げなさい」と語りかけてくださっています。神さまの存在を確認し、安心することの出来たあの場所に帰りなさいと言って下さるのです。道に迷ったならば、あの出発地点を思い出しなさいと言って下さるのです。そこが私たちのベテル、神の家であり、故郷だからです。

また、神さまは、ベテルに帰ることも出来なくなった私たちを、探し歩いて下さる神さまでもあります。迷ってしまった自らの羊を探し求め、ベテルの神の家に連れ帰ってくださる神さまでもあります。私たちのベテルは、どのような事があっても、帰る事が赦され、神さまの家族として過ごすために、神さまが待っていてくださる家なのです。この恵みを聖書は知らせてくれるのです。





このベテルに帰ってきたヤコブに神さまは、び「イスラエル」という名前を与えられました。再びというのは、ヤコブが32章のペヌエルの地で既に神さまから「イスラエル」という名前を与えられているからです。神さまは、「イスラエル」の生きかた、礼拝を中心する生き方は、ペヌエルでの出来事の中に表されていると示してくださったのでした。ペヌエルで神の人と格闘したヤコブは、神さまから右の太ももを打たれました。その事により、ヤコブは足を引きずりながら歩く者とされました。その折れた足を引きずりながら、杖を突き誰よりも低く歩ことになったヤコブは、神さまの顔も、兄の顔も見上げるものとなっていました。自らを誇るのではなく、兄エサウの顔にペヌエル、神の顔を見るまでに兄弟を尊(たっと)ぶ者として作り替えられていました。イスラエルは、神さまを大切にするように、兄弟を大切にする者である、神さまを見上げるように、全ての人を見上げ、尊敬し愛する者であるという事を神さまが教えてくださったのでした。そして、この神さまと兄弟を誰よりも愛するイスラエルの袋は、全ての像を遠ざける姿であり、すべての人々が、主なる神さまの祝福の中に入れられる事を喜ぶ者の姿であると示してくださるのです。隣人の顔に主なる神さまの顔を見る事、それは、主なる神さまを愛する者だけに与えられる恵みです。隣人の顔になる神さまを見るほどに、神さまを愛し続ける事が、イスラエルに求められている生き方なのだと聖書は教えてくれるのです。イスラエルとされる者は、他人を排除する者ではなく、神さまによって他者を生かしたい、隣人と共に生きたいと願う者だということです。





今日の聖書箇所の35章の最後には、父イサクが息を引き取り、「息子のエサウとヤコブが彼を葬った」と書かれています。イサクはやっとヤコブに神さまの祝福の恵みを継承することが出来たのでした。そして、この恵みを与えられたヤコブは、兄エサウと共に父を葬ることが出来ました。「イスラエル」とされる者は、隣人を愛し、隣人を生かすために生きるものとなるという事が、ここにも現れています。イサクに与えられた祝福が、ヤコブを生かしました。また、神さまの導きにより、兄弟は和解し、また、罪がぬぐい去られたのでした。

父イサクの死は、イスラエルとされたヤコブがどのような人生を歩んだ者であったかを私たちに思い出させてくれます。イスラエルとされた者は、自分の利益のために、平気で罪の穢(けが)れに手を汚すような者でした。自分で招いた苦しみに長い間悩まされる者でした。そして、神さまの顔も、兄弟の顔もまともに見ようとしない者でした。しかし、このようなイスラエルの神となられた神さまは、自分の欲望を追求するような弱い愚かな者を、大切にされ、自分の招いた苦しみに悩まされる者を導き続け、神さまの顔を見ようともしない者を、わざわざ捕えて、抱(か)えている罪の苦しみをぬぐい去ろうとしてくださる方でした。そして、足を引きずり、弱く力のないイスラエルが、隣人の顔に神さまの顔を見るほどに神さまと兄弟を尊び、たとえ神さまを知らい者であっても、それらの人々を招き入れ、神さまから与えられた人だと喜ぶ姿を、喜んでくださる神さまなのです。





私たちを喜んでくださる神さまが言われます。

「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」(エレミヤ4:2)。イスラエルに「立ち返れ」と言われる主のみ言葉です。

この神さまが、私たちが再びベテルに帰って来るのを待ってくださっています。私たちは、全てを置いて、ベテルに帰りたいと思います。そして、神の民「イスラエル」として、再び神の国を目指す者とされたいと願います。