救われたのは恵みによる

2024/09/22 伊東教会説教


「救われたのは恵みによる」

(エフェソ2・1~10)

上田光正

 先ほど司会者がお読みくださいました、エフェソの信徒への手紙2章5節には、「あなたがたが救われたのは、恵みによるのです」と書かれています。この御言葉は大変短く、誰でもすぐに覚えることができます。また、もしお望みであれば、心に刻み込むことも出来ます。本日わたしどもがここに集められましたのは、この御言葉をご一緒にお聴きするためです。そして神に感謝と讃美を捧げ、この場を散ずるためです。

なぜなら、この御言葉は、他のどこでも、絶対に聴くことが出来ません。聖書を通して、教会でだけしか、聴くことができません。テレビの人生教室や、偉い哲学者の講演会に行っても、聴くことは出来ません。またこのみ言葉は、人間が自分自身に対して語ることも出来ません。どんな人でも、この言葉だけは、自分に向かって語ることができません。なぜなら、この御言葉は、世界と全人類の創り主であられ、わたしどものからだと魂をおつくりになった、唯一のまことの神が、今日、わたしどもをこの場に呼び集めて、お語りになっておられる御言葉だからです。

では早速、その説き明しに入りましょう。

第1節をお読みします。



 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」



聖書はここで、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」と語りかけられたわたしどもの、過去と、現在とを比較しています。第1節から第3節までは、わたしどもがまだキリストを知らなかった、過去の状態です。「あなたがたは以前は」と書かれています。「あなたがた」とは、全世界の人々のことです。聖書は全世界の人々に向かって語りかけているからです。

ずいぶんと厳しい御言葉のようです。神様の御目からご覧になった場合、わたしども人間は、だれもが己のほしいままに生きている。だがそれは、実は死んでいたにも等しいのだ、と言っているのです。


大変面白いのは3節です。ここには、「わたしたちも皆」、となっていますね。1節は「あなたがたは」でしたが、3節は「わたしたちは皆」です。つまり、この中にパウロ自身も、すべてのキリスト者も、含まれている、と言うのです。3節は一番厳しいことを言っていますが、その時にパウロは、「わたしたちも皆」と、わざわざそれは自分たちも同じなのだ、と言っているのです。聖書は面白いですね。


さて、その一番厳しい御言葉が3節の最後の、「(わたしたちは)生まれながらに神の怒りを受けるべき者でした」という御言葉です。「神の怒りを受けるべき者」と書いてあります。ですが、原文では、「神の」という言葉はありません。単に「わたしたちは、生まれながらに怒りの子でした」となっています。新共同訳は、意味を汲んで、「神の」という言葉を付け足したのでありましょう。もちろ、「神の怒り」という訳も可能です。ただし、その場合に絶対に誤解をして頂きたくないのは、神はわたしどもに敵対し、わたしどもを滅ぼすためにお怒りになるのでは断じてなく、愛するゆえの怒りだ、ということです。ちょうど、自分の愛する子が何かスーパーで万引きでもしたとしたら、ほんとうにその子を愛している親なら激しく怒るはずです。それは正しい人に成長してほしいからです。本来の怒りはその子に対してではありません。全面的に罪に向けられています。だからこそ、聖書の神様は、わたしどもをそこから救い出すために、怒りと裁きをわたしども人類の上にではなく、御自身の愛する御独り子、イエス・キリストの上にくだされ、十字架の贖いを全うされたのです。


* * *


ただし、原語通り「怒りの子」と訳せば、「非常に怒りっぽい人」という意味になります。自分で自分の運命に決して満足も感謝もできない存在。絶えず怒りや不満を神や周囲の人々にぶちまけ、自分自身にも怒り、心が平安でおだやかであるのは、年に1日有るかないかです。


みなさんは、創世記4章にある、アベルとその兄弟カインの話をご存じでありましょう。カインは神様が弟アベルのささげ物だけを受け入れ、自分が献げたものを受け入れてくれないのを見て、弟アベルに狂おしいほどのねたみを起こし、いつか必ず殺そうと、すきをうかがっていました。カインは文字通り「怒りの子」です。自分の運命に決して満足できない人の典型です。とうとうある日、アベルを野原に連れ出し、一思いに殺してしまいました。しかしそのことはすぐに神さまに気づかれます。なぜなら、アベルの血が土の中から神に向かって叫んだからです。神様はカインに言われます。「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて呑み込んだ土よりもなお、お前は呪われる」。それ以来、カインは村から追放され、地上をさすらう者となった、と創世記に書いてあります(4・10~12)。


それ以来、世界の国々は互いに血で血を洗うような戦争を絶えず繰り広げるようになりました。今日の世界でも、悲しいことには、同じ状態が続いています。これが、「怒りの子」という意味です。そしてそれが、キリストを知らなかったわたしどもの姿です。もし、わたしどもがキリストと出会わず、キリストを知ることがなかったならば、わたしどもは今もきっと「怒りの子」であったに違いないのです。


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この旧約聖書の記事は、何か妙に現実感がございますね。救いはないのでしょうか。しかし、それに対する新約聖書の答えが、ヘブライ人への手紙12章24節にあります。こういう御言葉です。


 「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」


という御言葉です。これは、救い主イエス・キリストが十字架で流された血のことを言っています。今から2千年まえに十字架上で流された主イエスの血が、この地球に注がれることによって、アベルの血を打ち消し、もっと力強く語っている。アベルの血によって地球とわれわれの住む大地が受けた呪いの悲しみが、すべて洗い清められている。先ほどは「血で血を洗う」というお話でしたが、今度は「イエスの血がわたしどもの血を洗い清める」というお話です。


少し昔の映画ですが、みなさん方の中で、「ベン・ハー」の映画を御覧になった方もおられるかもしれません。あの最後の印象的な場面を憶えておられるでしょうか。主が十字架上で血を流して息を引き取られると、空が真っ暗になって激しい豪雨となり、イエスの血と雨水とが一緒になって川のように地上を流れます。そして、エルサレムのはずれにある、らい病人だけが隔離されてひっそりと住んでいるベン・ヒンノムの谷にも注がれるのです。するとその雨水を受けた谷底にいるらい病人たちが――その中に、主人公ベン・ハーの母親と妹がいます――皆浄められ、癒される、というシーンです。まさに「恵みの雨」です。そしてそれは、同時に、主人公ベン・ハー自身の、自分ではどうしても赦すことのできなかった母や妹の仇への復讐の思いが、同時に洗い清められる、というシーンです。


つまり、イエス・キリストの十字架で流された尊い血が、この地球に注がれると、わたしどもの呪いを受けた血、もう自分ではどうにもならない罪の血が、すっかり洗い清められ、過去のものとなって、新しい命が注がれた、ということを言っているのです。それと共に、この地上に和解の希望がもたらされた、ということを、聖書は語ろうとしています(和解のことは、本日のテキストの次の、11節以下に書かれていますが、本日のテキストは、そのもといとなる出来事について、語っています)。


*  * *


 そこでいよいよわたしどもは、本日の聖書の中心部分に到達することが出来ました。それが4節から7節までの御言葉です。4節から少しお読みしますので、どうぞお聞き下さい。


  「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし(わたしたちは、罪に死んでいたのに甦ったのです!)、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座につかせてくださいました」


この御言葉の最初にある、「しかし」という御言葉に、皆さまも是非とも御注目ください。これは、今までの罪が支配する過去に対して、「しかし」と言って、現在のことを語っています。そして、わたしどもが無視できませんのは、この「しかし」によって、罪が過去形で語られるようになった、ということです。人間の罪の世界全体が、過去のこととして、ずっと向こうへと押しやられてしまったのです。これは決して、わたしどもの罪の意識を弱めるためではありません。むしろ逆です。罪自体は決してあなどることのできない、恐ろしいものであるということが、この過去形によってかえって明らかとなっています。


しかし、皆さん、是非ともご注意願いたいことは、この過去の罪の世界が、今なお、どんなにわたしどもの現在とその生活を脅かし、わたしどもの中に侵入して来るとしても、やはり、無限に真実で、絶対に否定できないことは、神さまが圧倒的な力で、それをすでに久しく、過去の世界の中に、ほうり込んでしまわれた、ということです。しかも、完全に、そうしてしまわれた、ということです。罪はかつては、世界中で猛威を振るっておりました。しかし今は、キリストの十字架によって、過去のものとなりました。今は、キリストの十字架によって敗北し、キリストの足の下に踏みつけられ、完全に支配力を失ってしまったのです。


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本日最も注目すべき御言葉は、特に真ん中にある、5節の、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」という御言葉です。


この御言葉は、今なお混乱と争いの止まないこの世界のただ中で、真っ先に神からの救いを聞こうとして集められた、わたしどもに対して語られています。そしてこれからも、この世界の中に広められて行くでありましょう。


御覧のように、この御言葉は、まるで特注か何かのように、前とあとにダッシュが付いていて、たいへん目立つように書かれています。パウロはわざわざ特別大きな字で書きたかったのです。と申しますよりも、神様ご自身が、わたしどもに大声でこう呼びかけておられるのです。「あなたがたが救われたのは恵みによるのです!」、と。それですので、わたしどもは早速、このみ言葉の意味をご一緒に考えてみたいと思います。


先程私は、罪は過去へ追いやられた、と申しました。ですが、わたしどもは、キリストの救いをまだ知らないこの世の人々と一緒に暮らしております。そして、この世の人々は、4節の「しかし」を全く知りません。ですから、神の愛も十字架の救いも、受け入れていません。相変わらず「怒りの子」です。「怒りの子」はこう考えやすいのです。「あの人はわたしに対して敵意を抱いている。だからわたしも武装していないと殺されてしまう。殺される前に殺してしまいたい」、と。そのように考えやすいのです。そうすると、わたしどももそれにつられて、やはり武装をしなければならないのでしょうか。飛んでもないことです!そうすれば、もう一度過去の世界に逆戻りしてしまいます。そのように、いったん過去へと追いやられた罪が、わたしどもの現在を脅かすようにも見えも見えるのです。それはちょうど、水をかけて消したはずのたき火の後で、燃えさしが再び燃え上がるようなものです。

それでは、わたしどもはどのようにこの世で信仰を持ち続けたら良いのでしょうか。


そこでとても大切になって来るのが、本日の、「あなたがたが救われたのは、恵みによるのです」という御言葉なのです。いや、これこそが、唯一大事なことだ、と言っても決して言い過ぎではないでありましょう。「恵みによる」という御言葉は、「自分の力で」の反対の言葉です。だから、「当然だ」の反対です。わたしどもは、自分の力で生きていて、「生まれながらの怒りの子」でした。そしてそれは、罪のゆえに死んでいたのです。しかし神は、5節によりますと、「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」、と書いてあります。キリストのご復活にあずかって、生かされました。それは死んでいたわたしどもの力ではなく、ましてや、「怒りの子」としてのわたしどもの業によってではありません。純粋に神の恵みによるのだ、と聖書は言っています。それは、だれ一人として、誇ることがないためです。わたしどもが救われたのは、信仰を通してですが、その信仰そのものが、実は神様からの賜物です。ですから、まさしく100%、ただ恵みによるものだ、と言っているのです。


パウロは、罪の燃えさしが時に燃え上がり、信仰者をだめにすることは、よく知っていました。しかし、彼は一々、消防士のように火の消し残りを点検して回ることはしません。パウロが自分自身の中の罪と戦う場合にも、教会の内外になおくすぶっている罪の燃えさしと戦う場合にも、その戦い方はいつも、キリストの勝利を指さし、そしてこう言うのです。もう、アベルの血による悲しみや呪いは、過去のものとなった。もう、キリストの贖いは完成した。そしてこれは、恵みによるのだ。だから、古いわたしは、もう死んだのだ。そしてわたしは、新しい人として、甦ったのだ、と。それが、罪と戦う時の、パウロの戦い方です。

ですから、本日の御言葉が、わたしどもの助けとなりましょう。なぜならば、自分が救われたことがただ神の恵みによると考えることは、悲しいことに、人間がいちばん、何よりも絶対に、認めたくないことだからです。だから、そこを衝かないとだめです。


もし仮に、わたしどもが救われたのが、99%は神さまの恵みによるのだとしても、あとの1%は自分の熱心さや精進によってだとしたら、わたしどもはその1パーセントについて、きっと神に誇るに違いありません。そしてその時には、わたしどもは生まれながらにして肉の人ですから、あの、罪の燃えさしが再び燃え上がるのです。わたしどもは、すぐにその1パーセントについて、それを何倍にも、いや、何十倍にも自分の中で膨らませます。そして、とうとう、99%は自分の力により、後の1%だけが、神の恵みだと考えます。そして、神に対して己を誇るのです。ですが、神に誇った分だけ、わたしどもは神に感謝しません。たちまち、自分が救われているということも、何の喜びでも感謝でもなくなります。自分は当然救われるはずだと考えれば、感謝はないからです。わたしどもは、またもや、苦虫をかみつぶしたような顔をして、感謝のない、昔ながらの「怒りの子」に戻ってしまうに違いないのです。これが、「罪の燃えさし」が燃え上がる、ということです。ですから、神に対して己を誇ることほど、危険なことはないのです。


しかし、そのようなわたしは、もう死んだのだ。そして、キリストの恵みによって、新しくされたのだ。「恵みの雨」が降っている。だから、それを全身で受けて、新しく生きようではないか、と神は呼び掛けておられるのです。


反対に、自分が救われたのは100%神の恵みによるのだ、と知ることこそが、わたしどもに感謝や信仰の喜びというものを教えてくれるのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(1テサ5・16~18)という生活は、そこからこそ、生まれるのです。


ここで大変大切なことは、もし、わたしどもが、自分が救われたのは100%神の恵みと慈しみによるのだ、と固く信じているならば、その限り、罪の誘惑からは堅く守られている、ということです。サタンも罪の力も、わたしどもに近づくことも、それどころか、指一本触れることさえ、できません。もう、何者も、死も、命も、天使も、支配者も、現在のものも、将来のものも、力あるものも、運命も、老いも病も孤独も、いかなる不幸も災難も、わたしどもをキリストの愛から引き離すことは、絶対に出来ないのです。


そして、そのような信仰を持っている人は、決して自分を誇りません。むしろ、自分が救われたのはただ恵みによると知って、まだ救いを知らない人にも福音を伝えたいと願い、また、この世の、まだ神を知らない人々とも、ほんとうの意味で共に生き、隣人を愛する人となるでありましょう。


そのようになることが、本日、神がわたしどもに語って下さった、「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」という御言葉の内容です。


そこで、最後にわたしは、たいへん短い御言葉ですが、本日の御言葉の最後にあります、大変美しい御言葉を、皆さまとご一緒に読んで、説教を終えたいと思います。それは10節の御言葉です。これは、新共同訳よりも前の口語訳の方がずっと印象に残る言葉で訳されておりますので、そちらの方でお読みします。こういう御言葉です。


 「わたしたちは、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」


わたしども一人ひとりは、神の芸術作品である、と神さまは言われます。何という素晴らしい御言葉を、わたしどもは自分への御言葉として聞くことでしょうか。もちろん、わたしどもは誰でも、欠点や弱さや至らなさを持っています。しかしわたしどもは、まさにそのような弱さや欠けや至らなさのあるままに、神に愛されています。救いに入れられています。ですからわたしどもは、どのような困難や絶望しそうな出来事に出会った時でも、主のご復活と勝利を信じてよいのです。わたしどもは、隣り人を愛し、互いに罪を赦し合いながら、神の良い作品として与えられた人生を、生きることが許されているのであります。