2024/10/06 三位一体後第18主日聖餐礼拝
「御傷が癒やす」
使徒言行録説教第70回
(23:1~11、イザヤ書53:5)
牧師 上田彰
*一人の教師の逝去、教会を巡る二つの現実
一昨日のことでしたが、富山まで葬儀の参列で行って参りました。同僚から信頼を置かれる寡黙な方でした。私自身との関係で申しますと、神学生の二学年先輩になります。同じ教会で実習をしておりましたので、いわば兄弟子として尊敬をしておりました。非常におおらかな方でしたが、一方でこだわりを持ち、教会奉仕を緊張感をもって行うことを先輩の背中から学びました。あるときに教会の青年たちが聖餐卓の上に荷物を置いて作業をしていて、その近くに私がいたのに何も言わなかったのを見とがめて、私に対して、ああいうときには注意をすべきだ、と叱られたことを覚えています。
教会に仕えるということは、楽しいことばかりではないかもしれません。教会で間違ったことが行われることだってあるからです。しかしそれでも教会のことを愛してやまない。そんな姿勢を示し通した、一人の先輩牧師を覚える一日となりました。
今日の聖書からも、教会を愛し続けた一人の信仰者の姿を、私どもは目にしています。使徒パウロはいくつもの教会を建て、また支え、導きました。彼はまた、手紙を通じて教会に呼びかける際、一方で「聖なる教会」と呼び、他の教会を「主に結ばれた忠実な教会」と呼んで、教会を愛するが故に用いる言葉で語りかけました。他方で、パウロはそれらの教会が主の教えに背き、人間同士の不和をむしろ加速させていることを知っていて、それについてたしなめています。これもまた、教会を愛するが故に語る言葉です。
一方で「聖なる、主に忠実な教会よ」と呼びかけ、他方では「このままではいけない」と語る。
教会への愛故にそう語るパウロには、二つの現実が見えておりました。一方には破れた教会、他方には主によってきよめられた教会。どちらもが現実です。そして、それらの現実をつなぎ合わせ、一つの事実として受け止めるために、信仰者はある地点に立たねばならない。破れの現実と祝福された現実の両方が見える地点に、指導者パウロばかりでなく、すべての信仰者が立つ。
この地点に立った者に語りかけられる、一人の旧約聖書の預言者の言葉をお聞き下さい。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
旧約聖書において、最も謎に満ちた聖書箇所です。
傷が癒やす。
この言葉を理解し、受け入れることが、二つに裂かれた現実を、再び一つの事実にするために必要です。
一人の人が受けた傷によって、信仰者たちが癒やされる。
この傷を受けたのが誰であるのか、イザヤは名指しで書き記すことをしませんでした。それ故に解釈が分かれます。そして、解釈の分かれは、キリスト教とユダヤ教の分かれにも通じるような、深く大きな分かれ方をいたします。いってみれば、イザヤ書53章の読み方で、その人の信仰がわかるのです。
前6世紀にあったバビロン捕囚の出来事がイザヤの念頭にあるのは間違いありません。そこである人は、捕囚の民の中で、英雄的な信仰者が傷を受けたのではないか、あるいは、捕囚に連れて行かれたイスラエルの集団を指しているのではないか、そう解釈します。指導者かもしれないし、捕囚のイスラエルの民全体かもしれない。バビロンからの脱出を指導して死刑にあった指導者がいるのだそうです。家族がちりぢりになった者達もいます。みな、深い傷を負っています。傷を負った主の僕、この表現を捕囚の憂き目に遭った信仰者に当てはめることは、ある地点までは納得出来るのです。
しかし、最後のピースがかみ合わない。それは、「主の僕が受けた傷によって、癒やされた」、この一言です。イスラエルの人々が傷を追うという所まではわかるが、ではその受けた、まさにその傷によって、他の人々が癒やされる…そこまで言えるのか。言えないのではないか。イスラエルの民と苦難が結びついていることは明らかですが、彼らの受けた傷が人々の癒やしになるのか、これは破れた現実と祝福の現実、二つの現実の狭間に身を置いてイザヤ書53章を開く者すべてが突き当たる問いです。
*エチオピアの宦官の場合
この、「傷が癒やす」という御言葉を真剣に受け止めようとしたのが、エチオピアにおいて女王に直接仕える一人の役人でした。使徒言行録8章に出て参ります。宦官とも呼ばれていました。彼は高い身分についておりながら、なお一つのことがわからず、そのことにこだわり、考え続けておりました。
(注: 宦官:生殖機能をつぶすことを自ら選択して出世の道を志した人という意味なのか、それとも彼自身は家庭ある身分の人(「昔『宦官』が就いていた職の人」)なのかは不明。)
それは、イザヤ書53章にある、苦難のしもべとは一体誰のことか、ということです。彼はこのことについて一生こだわり続けるつもりで、馬車の中で巻物になっているイザヤ書を朗読していた。このこだわりと悩みを受け止め、共に馬車の中で聖書を開き、聖書を解き明かしたのがフィリポという一人の伝道者であった、と使徒言行録8章は語ります。
そのときの教会の状況はどういうことであったかと申しますと、イスラエルがバビロンやペルシャによって弾圧されたというのと少し重なります。今回、弾圧の直接的な相手はイスラエルの民です。7章において、教会で執事を務めていたステファノが演説をする。その内容は、イエス・キリストを十字架にかけたユダヤ教は、元々は神様の宗教であったのに、人間が作った宗教と化してしまった、という告発でした。
その告発を全力で拒否するイスラエル人たち。彼ら反対者たちによって、ステファノは石投げの刑にあって殺されてしまうのです。そこに立ち会っていたのがタルソス出身のサウロ、後のパウロでした。まだ若かったサウロは、この石投げには参加しなかったものの、参加するユダヤ人が、返り血を浴びないようにということで脱ぐことになっていた上着を預かって管理する立場に立つことを志願しました。死刑執行のためのお手伝いをした、ということになります。
イザヤ書53章にある苦難のしもべとは自分たちのことだ、そう言っていたイスラエル人たちが、時と場所が変われば何かの口実を見つけて他人に石を投げる。これが現実です。
この現実、エルサレム教会への迫害の開始にあたり、教会のメンバーはユダヤとサマリアにちりぢりになって逃亡することを決断します。そしてサウロの役割は、そのキリスト者を見つけ出して捕まえ、エルサレムに送り返すということでした。
一方でサウロも加わる形でユダヤ人たちによる迫害運動が起こっておりましたが、他方でキリスト者たちによって、異邦人伝道が始まろうとしていました。エジプトの国境で伝道しておりましたフィリポは、一人のエチオピア人に出会うのです。
馬車の中でイザヤ書53章を解き明かすのはフィリポです。魂の伝道者の心中を想像しました。先ほど申しましたように、53章に出てくる「苦難の僕」というのは、捕囚で苦しむイスラエルの民だというのは本当なのか。自分たちキリスト者は今、エルサレムにとどまれなくなった。ディアスポラ、散らされた民になりかかっている。
自分たちこそが、「苦難の僕」なのではないか。そういう思いを持つキリスト者がいてもおかしくないところです。
しかしフィリポは、苦難の僕とは自分たちのことではなく、ましてや500年前にバビロン捕囚で苦しみを受けたイスラエル人でもなく、十字架についたイエス・キリストである。そう確信し、宦官に伝えるのです。フィリポは、自分たちが今受けている迫害の大きさと、主イエスが受けた十字架の苦しみの大きさを見比べて、比較出来ないほどに後者が大きいことを知っていた。だから彼の伝えたいことはこうです。苦難の僕は、イエス・キリストなのだ。
フィリポは馬車の中でなした説得は、最後に次の言葉にたどり着きます。それは「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という、あの一言です。そのお方が受けた傷によって私どもが癒やされる。それほどに大きな出来事が起こるとしたら、そのお方は神の御子以外にはあり得ない。
フィリポはこのとき、苦難のしもべとはただの人間ではあり得ない。人間集団でもない。イエス・キリスト以外にはあり得ない。このことに気づいた時、自分はユダヤ教にとどまれなくなった。苦難の僕をイエス・キリストと証しする、新たな宗教、いえ、本来の宗教がこの気づきから生まれたといえるのです。
この説き証しを聞いているのは宦官です。真剣な一人の求道者の心の中をも、また想像してみたいと思います。彼は女王の片腕とも目される位置にまで出世していた。しかし、出世したが故に窮屈な思いも持っていました。いろいろ想像するならば、彼は訳あってエチオピア国内では自由に外国の書物を読むことが出来なかったのかもしれません。馬車の中であれば、信頼出来る御者以外に人はおりませんから、本来の読み方である音読で書物を読むことが出来た。書物すら自由に読めない身分だったのです。なにがしかの屈折した思いを抱えながら、ユダヤ人たちの聖書を移動のために馬車の中にしのばせてあったのです。そして朗読をしている中で突き当たったのがイザヤ書53章の問いだったというわけです。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
この53章の中で際立っているのは、苦難の僕には、誰も同情していない、ということです。完全な実力主義の世界が広がっているのでしょうか、悪いことをしたら苦しみ、良いことをしたら祝福される。良いことと悪いこと、祝福と破れは完全に別の次元のことがらであって、つなぎ合わされることはない。そのような状況で、僕が受けている苦難の理由が自分たちにあるかもしれないということには、考えが至りません。祝福と破れが重なり合わないところでは、あのお方の苦しみと私たちの罪とが重なり合わないのです。
しかしイザヤは気づく。「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。そのお方の傷は、そのお方自身の問題ではなく、それどころかそのお方の傷によって私たちに平和と癒やしがもたらされる。
力なく弱い、傷つけられ、同情さえされないお方。このお方が力をもたらす。破れの現実と、祝福の現実が見えてきたときに、フィリポの解き明かしの声が聞こえます。イエス・キリストが、それらを重ね合わせて下さる。このお方が、破れと祝福を抱えて、救いの事実をもたらして下さる。
馬車はオアシスの近くを通りがかります。もはや宦官に出来ることは他にありません。フィリポに願うことだけです。このオアシスの水によって、洗礼を私に施して下さい、と。なぜなら洗礼だけが、破れと祝福を結び合わせてくれることを宦官は知ったからです。洗礼、悔い改めと祝福の印を身に帯びたい、と。
*パウロの場合
あれから四半世紀が経ちました。フィリポが経験したのと同じ立ち位置に今いるのが、かつてサウロと呼ばれた一人の人です。彼もまた、エジプトとの国境ではありませんが、古い宗教と新しい宗教の境目に立っています。
怒りと混乱の渦の中にいるイスラエルの民は、憎しみの思いと、主なる神への思いを、つなげることが出来るのでしょうか。パウロが見る二つの現実は、イスラエルの民の前ではかみ合わないままなのでしょうか。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
パウロは、この聖句によって、今エルサレムの神殿を取り囲んでいる状況を次のように理解しているはずです。
1.
ここで見えている憎悪や混乱は、他人事ではない。彼らの病、彼らの痛みと呼ぶのではなく、私たちの病、私たちの痛みと呼ばねばならない。
今の混乱を、誰か特定の人が引き起こした問題だと言いなすことは簡単です。さらに言うなら、「私たちが引き起こした問題」だと認めることは、非常に難しい。しかしパウロは、この混乱の原因が誰か特定の人に帰されれば良いとは考えてはならない。自分の問題でもあり、ひいては人間全体の問題でもある、そう考えています。
2.
ここで傷つけられているのは、イエス・キリストである。
人間は、自分の傷には目が行きます。傷を負っているのは、混乱と怒号の中で、目の前の人々が上着を脱ぎ捨て石を握って迫ってくる、そんなパウロであり、深刻な分裂を抱えた最高法院であり、また一人の人を正義の名の下に殺すことをいとわなくなった人々でもあり、そしてそれらを遠巻きに眺めている群衆でもあります。皆、自分たちは一番深い傷を負っていると思っている。
しかし53章において、パウロは「私の、あるいは私たちの傷」については見ていません。彼自身が現実に引き裂かれそうになっているのに、自らのことは視野に入っていません。パウロは、「あのお方、イエス・キリストの傷」についてだけ見ているのです。
3.
そしてもう一つ、もっと重要なのが、「彼の傷によって、私たちは癒やされた」という言葉です。癒やされるべきなのは、パウロであり、石を持って迫る者であり、またそれらを遠巻きに眺める者達です。つまりすべてのイエス・キリストの傷を知っている人々が、癒やされるのです。
パウロが、破れを抱えた教会を聖なる教会と呼んでこよなく愛したように、十字架上で傷を負ったイエス・キリストが、破れを抱えた人類を愛して下さる。かつて傷つき、それ故に他人をも傷つけて良いと考えた人たちが、十字架にかかって死に追いやられたお方の傷を知るに至り、その傷によって癒やされる。
深い謎は、なお残ります。しかしはっきりしていることもある。それは、十字架に私どもの救いの事実がある、ということです。
私どもは、粛然とした思いを持ってこれからもたれる聖餐礼典に臨みたいと思います。ここには破れがあり、祝福がある。すべてを主イエス・キリストが整えて下さる。ここにしか私どもが支えられる望みはありません。