2024/09/15
三位一体後第十六主日礼拝
創世記34:1~31
「神に招かれ、言じ証する礼拝」
牧師上田文
7月に新幹線に乗って、娘と一緒に奈良の実家に帰って来ました。しかし、最近、娘を連れて電車に長時間乗るのは怖いと感じる事があります。次のような報道に恐怖を感じるのは、親だからかもしれません。通り魔殺人が起きた。「誰でもよかった。人を殺したかった」と犯人が供述(きょうじゅつ)
していたというのです。しかし、恐れてばかりもいられませんので、思い巡らしを深かめて見たいと思います。このような事をする人は、生まれた時からそうであったとは言えないはずです。きっと、成長するなかで、自分ではどうすることも出来ない憎(にく)しみや悲しみがあり、それを誰にも聞いてもらえず、心の中にため込み、絶望した結果なのでしょう。希望が見えなくなった結果だと思うのです。
この事は、決して新聞やテレビのニュースの話だけではありません。私たちの事を考えてみても同じように思います。大きな事件を起こさないだけで、神さまの御前で恥ずべき事をして、希望が持てなくなることがあります。人を殺すまでにはならなくても、どのように前に進んだら良いのか分からなくなる事があります。何をしなければならないのだろうか。どうしたらよいのだろうか。と、いつまでも答えのでない問いに悩んでしまいます。それが、憎しみや悲しみと繋がっていると、更に深い苦しみを感じるのかもしれません。そして、そのような中で、自分にも、社会にも、隣人にも希望が持てなくなってしまうのです。今日の聖書箇所は、そのような私たちに与えられている、礼拝の恵みを考える事の出来る物語です。ヤコブの家族と町の人々に、答えの出ない事件が起こりました。しかし、神さまは、いつも礼拝を通して、答えの出ない問いを持ち続ける私たちを励まし、聖くしてくださり、神さまの国を目指す者としてくださいます。その恵みを味わいたいと思います。
今日の聖書の物語は 34章から読み始めると、なかなか分かりにくいように思います。そこで、少し前の33章の途中から、もう一度振り返って見たいと思います。
ヤコブは、兄エサウとの再会を果たしました。ヤコブは、エサウに会う前までは彼との再会をとても恐れていましたが、とても友好的な関係を結ぶことができました。けれども、再会を果たした見エサウが「さあ、一緒に出掛けよう」と誘うのをヤコブは断って、「ゆっくり進み、エサウのもとに参ります」と約束しました。ところが、ヤコブは、エサウのもとには行かず、シケムの町に行き、町のそばに宿営し、天幕を張り、土地の一部を買ったことが、聖書に書かれていました。つまり、ヤコブは「あなたの故郷に向かいなさい」という神さまの言葉にも従わず、また、兄エサウに、その気もないのに適当な事を言って、また、自分勝手な行動を始めたのでした。この事の続きとして、今日のシケムでの出来事があるのです。
1節には、「レアとヤコブとの間に生まれた娘のディナが土地の娘たちに会いに出かけた」とあります。ディナは、ヤコブのたった一人の娘です。彼女は、町でその土地の娘たちを見物し、また土地の衣装の流行などを楽しむために出かけて行きました。彼女は、14歳から16歳であったと言われています。それくらいの時に、自分は何をしていただろうと考えてみました。多感な時期でもあります。
本を読んだり、友だちと遊んだり、施行を追いかけたりしていたと思いに買わたっとディナもそうであったのでしょう。何か自分の中に確かな物や基準が欲しいと願い、町に見物に行ったのではないでしょうか。そして、そのように町見物を楽しんでいたディナを、ハモルトラキグトが見かけて揃らえ、共に終て感(はずかしめたのでした。何も知らない、素直で初々(ういういしい娘に心を奪われるという事は、若い背年にありがちの事のように思います。後のシケムの行動を見ても分かりますが、彼は誰かれなしに女性に条行を働くような男ではなかったようです。「ハモル家の中では、最も尊数されていた」(19)とあります。彼は、度々、町で見物を楽しむディナを見ていたのでした。そして、アイに心を奪われ彼女を捕らえて罪を加してしまったのでした。この物請を目にし、また耳にする者は誰でもこのように思うでしょう。「ああ、心が奪われるだけに留めて置けば良かったのに。彼が手を出さなければ、青春の物語のニコマで終わったのに」。しかし、ハモル家で最も尊敬されていた着者には、わずかな慢心(まんしん)もあったのかもしれません。わずかにおごりたかぶった心によって、ディナに対して暴力的なことに及んでしまう。
このような事が、教会で礼拝を捧げる私たちの家族に、直接起こっているということを私たちは想像もしません。しかし、まったく起こっていないかといえば、目に見えない形で本当は充分に起こり得ることだと思うのです。ヤコブは、何か確かな物を求めて、見知らぬ街に出かけて行く娘ディナの事を見ていたと思います。しかし、このような娘になかなか声をかけてやれなかったのかも知れません。あなたには、確かな物がきちんとある。神さまの顔の前で生きる事が、あなたには恵みとして与えられている。そのように、ヤコブはなかなか言えなかったのだと思うのです。なぜなら、自分がなかなかそのように生きる事が出来ていないからです。ヤコブが、ここに滞在しているのは、既に神さまのみ心に従うよりも、自分の家族や家畜をいかに養うかという事を考えた結果でした。そのような、生き方をしている自分に、神さまの御顔の前で生きるということを教えることは出来ないと、彼は思ったのでした。そのような思いは、私たちも持つ事があるように思います。確かな物を求めて、さまよう隣人や家族に、なかなか神さまの事を伝えられない。自分には、そのような資格がないように感じてしまうことがあるように思います。このような事を続けているうちに、ヤコブの娘ディナに、あの日の悲劇が起こってしまったのでした。
5節には、ヤコブが、娘のディナが汚された事を聞いた時の事が記されています。「ヤコブは、娘ディナが汚されたことを聞いたが、息子たちは家畜を連れて野に出ていたので、彼らが帰るまで黙っていた」とあります。娘の事を考えると、苦しくなったと思います。直ぐにでも、ハモルに襲い掛かりたかったかもしれません。しかし、自分と神さまの関係を考える時、ハモルやシケム、また自分の娘にさえ、何も言えなくなったのでした。私たちは、このような時、どうするでしょうか。貝、「祈ります」としか言えなくなる自分を思います。「祈ります」と言いながら、自分では何とも出来ない出来事の傍観者になってしまうという事があるように思います。ヤコブは、尚更(なおさら)そうであったことでしょう。なぜなら、ヤコブは、この土地にいかに定住するかを考えていたのでした。一族で田畑を買って、なりわいを作ろうと考えていました。そのため、ハモルの息子シケムの地位や身分を考えると何も出来なかったのでした。そして、神さまの顔の前で生きようとしていない自分を振り返ると、彼はもう傍観者でしかいられなくなったのかも知れません。神さまとの関係が崩れているヤコブや私たちは、目の前で困り果てている若者や家族に、何もしてやれない。ただ黙って見ている傍観者にしかなれない。「祈っている」と言葉だけはかけるかもしれません。しかし、その言葉を発する者自身が、少しでも楽しさを感じることがあるのなら、ヤコブの行動は、私たちの行動と同じなのです。
7節には、「ヤコブの息子たちが野から帰って来てこの事を聞き、皆、互いに嘆(なげ)きまた教し
<情(いきどお)った」とあります。
この物語には「冷された」という言葉が何度も出てきますが、「汚す」という言葉はとても宗数的な言葉です。「清らか」と反対の言葉としての感覚があります。どのような宗教にも、行為や物質に対して清いか、汚れているかを重要視する感覚があると思います。ヤコブの家族、つまりイスラエルの民にとって、ディナが辱(はずかし)められたのは、受け入れることが出来ない汚れで、また恥ずべき事なのでした。「シケムはヤコブの民と寝て、イスラエルに対して恥ずべきことを行った」(7)とあるのは、そのためです。
しかし、町の人々は、別のことを考えていました。「間違いが起こってしまった。しかし、この間違いをなかったことにする方法が一つある。それは二人が結婚してしまうことだ」。ハモルの息子のシケムもまた、ディナとの結婚を真剣に考えていました。彼は、父に頼んで正式に結婚を申し出ました。
そして、結婚によって互いの部族が繋がり、平和に暮らす事を提案しました。
私は、この物語をもう何回も聞いて来ましたが、以前は、この部分を読むと、このように感じていました。主なる神さまをじる人々は、そうでない人々よりも了見が狭いのではないか。寛大さに欠けるのではないか。主なる神さまをじる人は、とても考え方が狭いのではないか。そのように感じたのでした。しかし、教会で共に礼拝を捧げる生活を送るうちにその考えは変えられて行きました。なぜなら、教会で礼拝を捧げる私たちは、ただそれだけで家族となっていくからです。私たちは、ただ神さまの御前にあるという事だけで、生き方も、考えも、血縁も違う人たちが家族となります。しかし、そのことが出来ない場合、私たちは、知識や気持ちや、国家や血縁など、礼拝のように宿仰的な繋がりとは別の、様々な繋がりを求めるように思います。私たちは、ついつい世間の常識や、寛大さに気が取られてしまうことがあるように思います。しかし、そのような時に、立ち止まってみたいと思うのです。この命は主なる神さまに頂いた命であり、その前に暮らす喜びを覚える時、私たちは誰よりも大きな家族となって行く事ができます。これは、政略結婚のようなものとは全く違う、本当の広がりになるはずです。
けれども、ヤコブの息子たちは、礼拝における繋がりの次ではなく、人間的なやり取りの次元に留まり続けます。シケムとその父ハモルをだましてこのように答えました。「割礼を受けていない男に、妹を妻として与えることはできません。ただ、条件がかなえられれば、あなたたちに同意しましょう。
それは、あなたたちの男性が皆、割礼を受けて我々と同じようになることです」(14,15)。兄たちもまた、ディナと同じように主なる神さまの顔の前で生きる、確かな基準を知る事が出来ないでいました。両親から教えられていなかったのでした。見たちは、父を見て、また自分たちの事を見て、割礼の事を知っていたと思います。しかし、その印が、何を意味しているのかという事を教えてもらう機会がないままで、成長したのでした。神さまとの厳(おごそ)かな契約の印である事を知らないままでいたのでした。そして、神さまと共に生きることを教えられていない見たちは、妹の復讐(ふくしゅう)を全て、残酷な策略を立て、神さまとの大切な契約を意味する割礼を、自分たちの利害のために用いようとしたのでした。
自分たちの利害のため、という考えは、シケムたちも同じです。ハモルとその息チシケムは、ディナの見たちが出した条件を受け入れました。そして、町の門のところへ行き、町の人々にこのように言ったとあります。「彼らをここに住まわせ、この土地を自由に使ってもらっことにしょう。土地は十分広いから大丈夫だ。そして、彼らの娘たちを嫁として迎え、我々の娘たちを彼らに与えようではないか。だた次の条件がかなえられなければならない。それは、彼らが割礼を受けているように、我々も男性は皆、割礼を受ける事だ。そうすれば、彼らの家畜の群れも財産も、動物たちもみな、我々のものになるではないか」。シケムは、割礼の意味など、どうでも良かったと思います。ただ自分が好きになった女性と結婚するために、自分の都合のために割礼を受けようとしました。それは、シケムの父ハモルも同じです。息子と違い、政略結婚という程度の高い志を持っていました。そう自分で思い込み、胸を張って良い事をしているのだと思っていました。彼は、ヤコブー家の財産がすべて町の物になるからと、人々に割礼を勧めました。結局、真の割礼の意味を知らない、デイナの見たちも、そしてシケムとその父も、自分の欲徳や利害のために、神さまが与えられた大切な儀式である割礼を、乱用して冒涜(ぼうとく)するようになってしまったのでした。祈りによる、ヤコブの沈黙は、家族や隣人を大事件に引っ張り込む事に繋がっていったのでした。
このような事は、教会で礼拝を捧げる私たちにも、目に見えない形で、簡単に起こり得(え)ることのように思います。「多少、まだ心が神さまの方に向いていなくても、洗礼さえ受ければ良い」と言って、安易(あんい)に洗礼を勧める時、ひそかに私たちも悲劇に巻き込まれはじめてしまうのです。
教会は、神さまから伝道の業を担っています。私たちは、家族が、そして、共に生きる隣人が神さまに繋がって欲しいといつも祈っています。しかし、もし神さまが与えてくださった伝道の業の意味が分からないままに、それを行ってしまうとどうなるでしょうか。私たちは直ぐに、教勢の拡大や、名誉や、自分の利害を考えてしまうように思います。神さまの業を乱用し冒涜することに繋がってしまいます。
また、教会には、聖餐式や洗礼式といった、目に見える神さまの印があります。伝道もそしてこの礼拝もそうです。その一つ一つは、神さまが私たちを、その愛において動かし、そして、まだ見ぬ兄弟姉妹を動かしてくださる業です。私たちは、その業に本当にお仕えすることが出来る時に、きっと神さまの愛が働いてくださり、相手を動かしてくださるのです。ペトロの話を聞いた人々は、このように言ったと聖書には書かれています。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいですか」(便徒2:37)。
この言葉は、イエスさまの事を知らないと言い続け、十字架に架かられるイエスさまを傍観しつづけたペトロが、復活のイエスさまに会い、イエスさまに何度も質問した言葉です。神さまの愛に触れたペトロは、「わたしはどうしたらよいですか」と、イエスさまに問わずにはいられなかったのでした。神さまの愛は、人間をその中心から動かしこの質問をさせるように思います。そして、傍観者であったペトロは、イエスさまの愛を語る者へと変えられ、自分の語る言葉を聞いていた人々に「悔い改めなさい。立ち返りなさい」と導くものになりました。教会に仕え、祈り、しかし傍観者となってしまう私たちにも、イエス様がいつもその御顔を向けてくださっています。わたしたちは、この方に、「わたしたちはどうしたらよいですか」と聞き、まだイエスさまと繋がっていない家族や隣人に「悔い改めなさい。
立ち返りなさい」とイエスさまのみ心を語りたいと思います。そのたびに私たちは、自らも悔い改め、新しい命を与えられる恵みを頂きますし、神さまに繋がっていなかった人は、洗礼の恵みを与えられるのです。神さまの業は、いつもこの事から始まっていくとペトロは教えてくれます。
この神さまの愛の業を知るとき、愛のない業として、デイナの兄やシケムたちが勧めた割礼がなんの意味も持たないものであったという事が良く分かります。「わたしはどうしたらよいですか」という問いには繋がりませんでした。この割礼の事件は、私たちに、神さまの愛の意味を知らないままに行われる、教会の業がどれほど神さまを冒流することに繋がるのかを伝えてくれます。
また、シケムはディナと結婚したいために、割礼の意味が分からないままに、それを受けようとしました。このような事は、現在の教会においてもいくらでもある事です。愛する女性と結婚するために、また、教会で仲間を作るために、クリスチャンの家族の財産を引き継ぐために、キリスト教施設や学校で働くために洗礼を受けるという話は、少ないわけではありません。しかし、洗礼は、神さまが造られた人間一人一人が、主なる神さまに繋がるためにイエスさまが与えてくださった楽です。イエスさまを、我が主と告自した人が洗礼を与えられ、教会の共同体に入れられて行きます。しかし、もし教会に集まる一人一人が、シケムのようであったらどうなるでしょうか。イエスさまと神さまに繋がらず、主なる神さまに従うことを知らないままでいたらどうなるでしょうか。きっと、シケムのように、外観を同じようにすることが家族であり、共同体であるという錯覚に陥ってしまうかもしれません。教会の、目に見える外側の要素である奉仕をするだけで、霊的な交わりの中にいると、勘違いしてしまうという事があるかもしれません。イスラエルに割礼が与えられたのは、一人一人が神さまと交わりを持っためです。教会で洗礼を与えられるのは、神さまに名前を呼ばれた一人一人が再び神さまに繋がるためです。神さまはこのようにして、神さまを借じる共同体を作り上げてくださるのです。「イエスさまと私」の関係が出来て、そして、「私とイエスさま。そして、イエスさまに繋がるあなた」と関係が広げられていきます。「イエスさまと私の関係」が全ての出発となって神の国が広がっていくのです。シケムとその父が、ヤコブの家族と同じように割礼を受けることにより、共同体を大きくしようとした事には、初めから無理があるのでした。意味のない洗礼が、どれほど神さまの共同体を崩していくのか、聖書は私たちに語りかけてくれるように思います。
結局、町の人々は、ハモルとその息子の提案を受け入れ、男性は全て割礼を受けました。そして、
25節には、「三日目になって、男たちがまだ傷の痛みに苦しんでいたとき、ヤコブの二人の息子、つまりディナの兄のシメオンとレビはめいめい剣(つるぎ)を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺した」とあります。割礼は、神さまに与えられた恵みであったはずなのに、デイナの見たちは、殺人の手段として用いました。町の人々は、どれほど神さまの名を呪い、割礼を受けた事を後悔し、ののしって苦しんだかと思います。また、ヤコブの息子たちは、倒れている者たちに襲い掛かり、更に町中を略奪(りゃくだつ)し(27)ました。神さまを基準として生きる喜びを教えられていなかったヤコブの息子たちは、シケムの財産を奪いました。羊や馬やろばなど、町の中にあるものはみな奪い、女も子どももすべて捕虜としたのでした。それが、彼らの喜びとなっていったのでした。このようにして、建前だけの信仰を重んじた共同体に、ひそかに入り込んでいた悲劇は、目に見える形で、爆発してしまったのでした。
傍観者となり、ただ祈り、事の次第を黙って見ていたヤコブは、今日の物話の最後でこのように言います。
「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか」。この言葉に、深い恐れを感じてしまいます。この30節のヤコブの言葉には、原文では「私」という言葉が7回も出てきます。また、「困ったこと」という言葉は、「災いをもたらす」とも訳される言葉です。そもそも、この事件は、ヤコブが兄エサウに嘘までついて、定住を始めたことがきっかけとなり起こった事でした。アブラハムの時から、この一族は神さまに従う寄留者として生きて来たのに、彼はそれを止めてしまったのでした。そして、彼は定住して、よその町の人々が羨むほどの財産を持つ者となっていたのでした。しかし、その暮らしは、いつも神さまの顔色を伺わなければいけないような暮らしであったように思います。自分は今、神さまの御前に立つことが出来ていない。その後ろめたさから、ヤコブは、真の神さまの御前に立つ事が出来ず、ただ儀式のようなことだけをしていたのではないでしょうか。私たちも、このヤコブの気持ちが分かるように思います。自分の生活や家族の事を思うと、教会で礼拝を捧げて、まともに神さまの御前に立つ事など出来ないと思う事があります。神さまの御前で生きる喜びを、家族や隣人に伝えることが出来ないほど、「わたし、わたし」と自分の命や利益の事を考えて生きている自分自身の事を思います。
「災いをもたらす」きっかけを作ったのは、「私」かもしれません。
しかし、そのような私たちに、神さまはヤコブを通して知らされてくださいます。私たちと同じように、傍観者となり「災いをもたらす」きっかけをつくってしまうヤコブを通して、伝えてくれるのです。神さまは、祝福を誇る者ではなく、悔い改め、折れた足を引きずって謙(へりくだる者に祝福を与え、イスラエルとしてくださる。今日のヤコブの物語を通して、神さまはまた、私たちに「立ち返れ」と呼びかけてくださるのです。
長老ヨハネはこのように言いました。「『神を愛している』と言いながら、兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事ができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが神から受けた掟です」(ヨハネの手紙 14:20,21)。イエスさまが、私たちを愛して、赦してくださり、神の国に招き入れてくださいました。このイエスさまを礼拝する私たちは、目の前の家族や隣人を愛して、また赦してイエスさまの前に招き入れる事が出来なければ、イエスさまを愛しているとは言えません。私たちは、自分だけの清さを誇って礼拝を捧げることは、出来ないからです。また、そうではなく、私たちは、聖くないと考えるからこそ、過ちをす隣人や家族の傍観者とならざるを得ない事があるように思います。祈る事しか出来ないと考えることがあります。しかし、私たちが今、捧げている礼拝は、何よりイエスさまが私たちに「立ち帰りなさい」と呼びかけてくださり、招き入れてくださった礼拝です。イエスさまが、ヤョブのように、ペトロのように傍観者となってしまう私たちの代わりに十字架に架かってくださって、罪を贖ってくださり、命を与えてくださり、招き入れてくださった礼拝です。そうであるのならば、私たちは、まだイエスさまと繋がれていない隣人や家族が、イエスさまを知り、神さまのみ心を知り、十字架の愛を知り、復活の新しい命に満たされて生きる事出来るように、イエスさまをじる事が出来るように、とりなし、導き、祈り続けなければなりません。ペトロのように、神さまのみ心を伝え、「悔い改めなさい、立ち返りなさい」と自らの仰を語る者となりたいのです。そのとき、私たちは、隣人や家族を生かすことが出来るときます。そして、多くの人々と共に神さまに真の礼拝を捧げる者とされ、イエスさまに招かれた真の家族として、この家族と共に、神の国を目指す者とされるのです。この恵みの中を共に生きたいのです。