2024/09/08 三位一体後第十五主日礼拝
「思い煩うな」(創世記2:4~9、マタイ6:25~34牧師 ミリアム・ヘヒラー(翻訳:上田彰)
親愛なる会衆の皆様!
今日は皆様のもとで説教をすることができ、大変嬉しく思います。上田彰牧師とは、彼がテュービンゲンで博士論文を書き始めてからの知り合いで、私も同じ指導教授のもとで学びました。それは2010年頃のことです。私たちをつなげているのは、どちらも博士論文を書くのに時間がかかることを好むという点かもしれません。
しかし、「良いものは時間がかかる」ということわざもあるくらいですので、お互いにまだ書き終えていません。私の方の論文のテーマは16世紀の日本です。日本に伝道に来たイエズス会修道士たちが、仏教者と行った宗教間対話について、特にイグナティウス・デ・ロヨラの精神に大きく影響されたものがあるので、それについて書いています。ちなみに、彰牧師も先週ロヨラに触れた説教をしました。
ところで、ザビエル神父と「忍室(にんじつ)」という名の僧侶との会話の中に、若い頃と老いてからの頃で、どちらを好むかというのを象徴する対話があります。「港から出て行くのがよいのか、それともすぐに港に入るのがよいのか」というやりとりです。ザビエルは答えて、「港に入る、つまり年をとる方がよい。つまり、人生の嵐に直面することが少なく、望んでいる港にまもなく到達できるほうがよい」と言っています。
彰牧師は、イグナティウスの言葉にあるように、「世界を炎で包み込むために弟子たちを送り出す霊」について語りました。聖霊は自由に吹き渡る霊であり、どこへでも流れることができるものです。
それに対してドイツでは、秩序、システム、しっかりした手順の重要性が見直されています。私たちは、予測できず計画にもない出来事が起こるという考えに、やや不安を感じます。だからこそ、今日は補足する意味で「秩序」についてお話ししたいと思います。
これもまたイグナティウスの教えに沿ったものです。自分の考えや感じ方を整理するためには秩序が必要です。例えば、祈りの中で神に何かをお願いし、その後にその祈りの時間を振り返って何が起こったのかを考える、これもまた秩序立てられたものです。
創世記、それからマタイ福音書の聖書箇所を朗読してもらいました。イエス様の言葉は、とても単純でありながら非常に難しいテーマについて語っています。それは、「思い悩まない」ということです。なぜなら、神様がお造りになったものを見れば明らかなように、神はすべてのことを心にかけ、すでに思い悩んでくださっているからです。空の鳥や野の花、ましてや私たち人間にも、同様に配慮をしてくださっています。創世記2章を見ると、すべてが人間を中心に展開されるよう、配慮(思い悩み)がなされているのです。つまり、まず人間が創られ、次に人間の周りに庭があるような仕方で世界が創られるという順番なのです。(創世記1章の物語では逆になっています)
イエスの言葉は、まるで霊的な訓練(ロヨラが『霊操』にあるように)を私達にしてくださっているかのようです。もし私たちがそれを実践したいのであれば、庭を散歩するつもりで、意識的に神様の配慮を感じるのがとても良いことです。一枚の葉はどれほど精巧か、私たちは葉を作り上げることすらできません。神の可能性が、たとえ一枚の葉においてもどれほど広がっているかがわかります。
これは私達が配慮しすぎて思い悩むことに対する助けになります。なぜなら、先程申したような思い巡らしを通じて、すべてのものを創った神が存在し、その神の美しさがユリの花に、大きくなった辛子だねの木に留まる鳥に、青い空に揺れる葉の動きに、反映されていることを認識できるからです。自然界の不思議さの中で、私たちは驚き、少しずつそれらを解き明かしていくことができ、そして、その芸術作品に深く入り込めば入り込むむほど、新たに謎や問いが現れるのです。
神様の作品へと目を向けることは、天へと目を向けることにもつながります。なぜなら、神が存在し、すべてを手の内においてくださっていることが意識されるからです。それを知ることはとても良いことです。すべての私の行動は神から考えられ、私は非常に複雑で美しい世界の中に立ち、驚き、神と人々を愛し、自分自身をも愛し、自分の人生をもって神に栄光をもたらす使命を帯びているのです。
神様はいらっしゃる。そのことを、私たちが今日にはあまり使わない、やや古めかしい言葉を使って言い表してみます:「謙虚さ」です。多くの場合、自分以外の誰かが「もう少し謙虚になるべきだ」という文脈で使われる言葉ですが、実際には謙虚さは自分に当てはめたときに、非常に貴重なものです。謙虚さとは、自分を位置付け、従うことを意味し、次の2つの簡単な認識に至ることができます。「神様は存在する。そして私は神ではない。」
ここで、「名刺」の話題をします。人というのが秩序の中にいるということを示す例です。ドイツでは名、姓、所属という順で自己紹介します。日本ではちょうど逆ですよね。創世記1章の物語は、まず世界が、そして環境が、最後に人間がという意味で、日本的で、今日読んだ2章の物語は、まず人間が、そして環境、最後に世界が、という意味で、ドイツ的です。どちらの場合にも、神様がおられるということが決定的です。この認識には、支配というものを批判する要素も含んでいます。すべての人間的権力者は最終的に、より高い権威の前で責任を負わなければなりません。そうです、政治や経済、教会においても、秩序の上に立つ者たち(政治家)の上には、彼らが責任を負うべきお方がいるのです。
私個人にとって、ではどうでしょうか?もしかすると、それは恐れを生むかもしれません。ドイツのことわざで、次のような脅しの文句があります。「親はすべてを見ているわけではないが、神様はすべてを見ているからね」。
私はむしろ、別の言い方が好きです。それはロシアの巡礼者の物語です。二人の石造りがいて、「何をしているのですか」と問うと、一人は「石を積み重ねています」と答え、もう一人は「私は神様を礼拝する神殿を建設しています」と答えます。二人目の人は、玉座の階段において、支配者である神様の前で、自分が信仰的な活動を行うことに誇りを持っています。たとえ彼がどんなに自分のしていることに没頭していても、彼の命を手のうちに収めているあの支配者であるお方を非常に強く感じているため、彼は一瞬たりとも「自分一人のためにこれをしている」とは考えないことでしょう。彼にとって石切場とは、特別な敬意、敬意、畏敬の念を追求する場でもあるのです。
神は存在し、私たちのために思い悩んでくださり、私たちはその神様に対して顔を向けています。そこで、もう一つのことについてお話します。「私は神ではない」、です。これは、自分がなしうることはあくまで限られており、その限度の中にとどまっているということを意味します。それは、日々世界の重荷を肩に担うのではなく、謙虚さの解放的な要素にもなります。私は多くの人々と関わっていますが、その中には、現在の「気候危機」を重視し、非常に大きな貢献をしている人たちがいます。彼らは気候問題の行き着く先を真剣に見つめています。彼らの中にはクリスチャンもおり、そこから希望や信仰について多くを学ぶことができます。そして、気候問題について思い悩むべきか、という問いを持っているなら、そこからの解放の鍵もここにあります。私は自分をこう位置付けます。私は神様ではありません。だから世界を救う必要はないのだ、と。
謙虚さとは、自らの限界を認識し、それを認めることを意味します。それは必要からだけでなく、すべての事柄と状況における神の働きを信頼してのことでもあります。
現在、ドイツの教会では非常に大きな絶望が広がっています。なぜなら、非常に多くの人々が教会を離れているため、現在、ドイツでは50%未満の人々しか教会に所属していないからです。私たちは少数で活動することに慣れなければなりません。そして、街の社会で、子供や青少年のセンターや学校など、善を行うパートナーを探し始めています。
私はしばしば、西千葉教会で2007年に行った教会実習や、教会施設の訪問で見たことを思い出します。少数であっても何かを成し遂げることができます。大規模な慈善団体を持たなくても、障害を持つ人々のために尽力することができます。電話相談の活動に参加することもできます。少数の人々でも神の意志に従い、愛を持ってその環境を変えることができます。それぞれの場所で、全体の中に位置付けられ、与えられた可能性を持って。たとえそれが少なくとも、それは何かです。アスファルトの割れ目から咲く花の種のように。
神様が私たちの中にこの勇気と大胆さを保ってくださいますように。アーメン。