キリスト者の自由-感謝の応答としての奉仕

2024/08/25 三位一体後第13主日礼拝説教

                                      (能登チャリティー)

 キリスト者の自由-感謝の応答としての奉仕 

(ルカによる福音書10章25-37節)

 牧師 上田文

 

 先日、輪島教会の牧師と電話で話をしました。彼とは、彼が神学校に入る前に教会の奉仕を一緒にやったり、神学校に入ってからも、時々、自分たちの奉仕の仕方について相談をしたりする間柄でした。しかし、私は、能登地方で地震が起こり、彼が牧師として仕えている教会が全壊したと聞いても、なかなか、彼に直接電話をすることが出来ませんでした。困り果てているであろう彼に、何の話をしたら良いのか、また、彼の気持ちも分からずに失礼な事を言ってしまうのではないかと、自分の事を心配していたからです。 

しかし、先日、彼に電話をして、その心配はしなくても良いものであるという事が分かりました。何故なら、私は、彼と話をしていて逆に恵みを与えられたからです。被災地にあっても、慌てず、のんびりと、今与えられている物を数えるようにして生きている彼の話を聞きながら、私は、彼が輪島教会の牧師として招聘されたのは、本当に神さまの恵みであったのだと実感することが出来ました。そして、自分が、「何を話したらよいのか分からない。失礼なことを言ってしまうのではないか」と自らの弱さや都合を正当化するような言葉を並べ立てていた事に気づかされました。神さまが、本当に私たちが生まれる前から、そのご計画の中に私たちを置いてくださり、今、命を生かしてくださっているのに、言い訳をする事によって、恵みから離れてしまっていたのだという事に気づかされました。


 今日の聖書箇所は、「善きサマリア人のたとえ」と呼ばれる箇所です。イエスさまはこのたとえ話を使って、私たちが自分の弱さや都合を正当化しようとする罪に気づかせてくださいました。そして、神さまは、私たちに恵みを与え続けてくださり、その命を生かしてくださっているのだという事を教えてくださいました。その恵みの中には、今日、私たちが共に祈ろうとしている、能登地方の隣人たちも含まれています。この隣人を与えられる恵みについて、聖書を味わいたいと思います。

 


この譬話は、聖書の絵本や紙芝居には必ず出て来る有名な話です。しかし、この善きサマリア人の譬話の部分だけを読んでいては、分かりにくい所があるように思います。イエスさまは、「行って、あなたも同じようにしなさい」とおっしゃいました。しかし、何を同じようにすれば良いのか?隣人を助ければ良いのか?また、隣人を助けていれば、永遠の命を与えられるのかと誤解してしまうこともしばしばあるように思います。そこで、ただこの譬話を読むのではなく、その前の方から、文脈の流れをたどりながら、この「善きサマリア人の譬え」を読んで見ようと思います。


25節は、「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」と始まります。この律法の専門家は、突然現れたのではありません。この物語が書かれている10章の始めから、この譬話の前までには、イエスさまが72人の弟子たちを遣わし、喜びに溢れてその報告をする話が書かれています。何の力も、知恵も持たない幼子のような弟子たちが、伝道の旅から帰ってきてこのように言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17)。彼らは、神の国が到来している現実を体験したのでした。この言葉を聞いて、イエスさまはこのように神さまを讃美します。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(21)。神さまが、無学で無知で、幼子のような弟子たちを、神さまとの交わりの中に入れて下さっている。このように、イエスさまは、神さまに感謝し喜ばれたのでした。そして、この弟子とイエスさまのやり取りを、律法の専門家は聞いていたのでした。律法の専門家もまた、イエスさまの言葉に魅力を感じ、イエスさまを尊敬してイエスさまについて回っていました。


しかし、彼は、弟子のようにイエスさまに従うものではありませんでした。ただ、素晴らしい説教をする憧れの人としてついて回っていたのでした。しかし、そのイエスさまは、律法の専門家である自分よりも、無学で身分も低い弟子たちに向かって「幸いだ」と言われました。いつも律法を研究する専門家である自分に向かって、「あなたは幸いだ」とは言ってくれませんでした。律法の専門家が立ち上がったのは、その事に対する嫉妬や怒りの現れであったのでした。

 


 律法の専門家は立ち上がってこのように言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。これと同じような言葉が福音書の中には何度も登場します。金持ちの青年が、また議員がイエスさまに同じように質問をしました。そして、金持ちの青年も、議員も、律法の専門家も、この世では何の不足もなく生きている人々でした。また、良く聖書を知っていて、律法を守りながら生きており、知識人と言われ、神を知る者として民衆から尊敬されていた人たちでした。しかし、イエスさまは、今日の物語で、律法の専門家ではなく、無学で身分の低い弟子たちに「幸いだ」と言われました。律法の専門家と弟子たちの違いが、25節の言葉にそのまま表れています。


「先生、何をしたら」と律法の専門家はイエスさまに聞きました。しかし、弟子たちが経験した「幸い」は、彼らが何かをしたから、でも、彼らに力があったからでもありませんでした。だた、神さまが弟子たちに、御自分のことを知らせてくださった幸いでした。弟子たちは、幼子が親から与えられる物を受け取るように、神さまに与えられるものをただ受け取り、それによって、神さまがこの地で生きて働いておられる事を知る事が出来たのでした。神さまが与えてくださる「幸い」は、「何をしたら」ではなく、「何を受け取ったら」であるという事を、イエスさまは弟子たちを通して教えてくださったのでした。しかし、この事を知らない律法の専門家は、イエスさまが「幸いだ」と言って下さらないことに不足と苛立ちを感じたのでした。それは、いくら聖書を読んでも、そして律法を正しく守っても、誰かが誉めてくれないと喜びを感じられないという、物足りなさと苛立ちであったのかもしれません。彼は、ただ神さまから与えられた物を受け取る事によって生きる喜びを知らないでいたのでした。

 


 このような苛立ちの中で、律法の専門家は、「律法には何とかいてあるか。あなたはそれをどう読んでいるのか」というイエスさまの質問に対して、正しい答えをします。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と模範解答のような答えをしました。しかし、イエスさまは、ここでおしまいではないと教えられました。律法を知るだけでなく、「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました(28)。実行すると、この律法の意味が良く分かるからです。


 この律法の言葉は、私たちもまたよく耳にする言葉であると思います。しかし、自分の全てを尽くして神さまである主を愛する事が私たちに出来るかと言えば、不可能であると答えざるを得ません。私たちは、自分の都合によって、神さまを愛したり、他の物を愛したりといつも心が移り変わります。また、隣人を自分のように愛することも出来ないように思います。隣人を愛しているように思いながら、実は自分の事が一番大事なのが私たちなのではないでしょうか。イエスさまは、そのような私たち人間のことを良く知ってくださっていたからこそ、

「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。律法を実行することにより、自分にはこの律法を実行することは出来ない。神さまが与えてくださった、律法を実行することが出来ない自分は罪人である。自分は、律法にある良い行いよってでは、神さまと交わりが持てない者であると、気づくことが出来るからです。そのことに気づいた時、私たちに、本当に神さまを求める祈りが与えられます。


そして、神さまが与えてくださった十字架の贖いと、復活の命の恵みを受け取る事によって生きる体験する事ができます。このようにして、イエスさまは、律法の専門家が、真に律法の恵みを体験できるように導かれたのでした。「そうすれば命が得られる」というイエスさまの言葉には、律法の専門家が、真の神さまの恵みである十字架の贖いと、復活の命、そして聖霊の交わりを経験したら、きっとそこには生きる喜びが溢れるはずである。誰かと自分を比べなくても、生きている事自体が、神さまの恵みであると実感できるはずであるという、イエスさまの熱く、やさしい思いが込められていたのでした。

 


 この言葉を聞いて、律法の専門家は返す言葉を失ってしまいました。反論のしようがありません。それでも彼は、自分を正当化しようとして「隣人とは誰ですか」(29)と聞いたとあります。正当化しようとするとは、自分は正しいと主張することです。自分は義であると主張しようとすることです。この事自体が、もうすでに、律法を実行しなさい。その事により、神さまの恵みに気づき、神さまの恵みを受け取る事により命を与えられなさいとおっしゃったイエスさまの言葉からずれてしまっていると言っても良いかもしれません。律法の専門家は、自分は十分に律法を守っているし、隣人を愛していると思っていたのでした。だからこそ彼は、「隣人とは誰ですか」と、挑戦的な言葉をイエスさまに投げかけ、自分の正しさを証明しようとしたのでした。


律法の専門家は、律法を実行しているかという事を、人々と比較し、神さまの基準ではなく自分の基準で決めてしまっていました。そして、その基準を満たしている自分のことだけを愛するようになっていたのでした。神さまの恵みを受け取り喜ぶのではなく、自分の行いを自負するようになっていたのでした。イエスさまは、そのような律法の専門家の姿を見ておられました。そして、善いサマリア人の譬話をされたのです。つまり、律法の専門家に律法の最も根本的な要素である、律法を行うのではなく、律法を恵みとして受け取ることによって、神さまに与えられる命を生きるのだということを説くために、この話をされたのでした。


 

 31節には、「ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、(追いはぎに襲われ、倒れている人)を見ると、道の向こう側を通っていった」とあります。また、「レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった」とあります。祭司やレビ人はユダヤ人の宗教的な指導者であり、神殿の礼拝を司り、それに奉仕する人です。「律法の専門家」と、よく似た立場の人だと言えます。律法の専門家は、律法には「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとある」と言いました。


しかし、祭司やレビ人の行いを見ますと、「神さまを愛する」ために、「隣人を無視した」と言えるかもしれません。このような事は、私たちの生活の中にもよくある事のように思います。祭司やレビ人のように、「神さまにお献げするので、あなたにはあげられない」という事があるかもしれません。その逆もあるでしょう。「会社や家族に仕えるから、神さまとの時間は持てない」と、隣人ではなく、神さまのほうを捨ててしまう事もあるかもしれません。「神さまを愛すること」と「隣人を自分のように愛する」ことを分けて考えてしまい、そのどちらかを選ぼうとしてしまうのです。しかし、神さまは「あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という形で律法をお与えになりました。両方とも捨てる事は出来ないのです。そして、これを成就させるためには、神さまを求めることが何よりも必要になるという事を神さまは教えようとしてくださっているのです。その律法のどちらかを優先させようとするのは、神さまではなく、自分の都合を優先させようとする行いとなってしまうからです。やはり、自分の行いにより律法を成就させることは出来ないのです。


 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱しました(33,34)。サマリア人にだって、都合があったはずです。しかし、その都合を捨てて、彼は、追いはぎに襲われた人に近づいたのでした。また、追いはぎに襲われた人はユダヤ人であったと言われます。そして、祭司もレビ人も律法の専門家もユダヤ人でした。サマリア人とユダヤ人はとても仲が悪かったと言います。なぜなら、ユダヤ人はサマリア人のことを宗教的な純粋さを失った民として軽蔑し、差別し、またサマリア人もユダヤ人とエルサレムの神殿に対して対抗意識を強く持っていたからです。ユダヤ人とサマリア人の間にはそのような敵意がありましたが、彼はその事をも乗り越えて、ユダヤ人であるこの人を助けたのでした。


 私たちにも乗り越えなければいけない都合というものがあるように思います。私たちは、さまざまな弱さを抱えています。そして、その弱さがいつの間にか自分自身の思いとなっている事があるように思います。弱さを正当化して、「弱い私を理解して欲しい」とその弱さを生きる根拠としてしまうのです。つまり、自分の都合の良いように、弱さを正当化して別の物につくりかえてしまうのです。それは、同じように、神さまに従わない自分を正当化するときにも繰り返されます。自分の都合の方を優先させてしまい、祭司やレビ人のように追いはぎに襲われた同胞に近づこうとしなかったように、神さまに近づこうとはしないのです。


サマリア人の譬えを読むとき、私たちは、自分の都合を優先させて、神さまも隣人も愛する事がなくなっていることに気づかされるのです。御心を知りながら、従わない者となっている事に気づかされるのです。それは、律法を知っているという事に自負してしまい、律法の恵みを受け取れないでいる律法の専門家と同じ姿であると言えます。「幸い」は、何の力も知恵もない弟子たちが神さまから、ただ受け取ることによって与えられました。私たちも同じように、神さまの幸いの恵みを受け取りたいと思います。弱さや都合を自分を正当化する道具にするのではなく、神さまに結びつくための悔い改めの道具となれば、私たちはいつも神さまと交わりを持ちながら歩むことが出来るのだと、イエスさまは呼びかけてくれるように思います。だからこそ、イエスさまは、律法を神さまから与えられた恵みとして受け取りなさいと教えてくださるように思うのです。なぜなら、神さまの恵みによらないと律法を成就することは出来ないからです。

 


 この話をしたうえで、イエスさまは律法の専門家に「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。答えははっきりしています。律法の専門家は「その人を助けた人です」と答えました。律法の専門家の質問をもう一度読み直してみたいと思います。彼は29節で「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエスさまに質問しました。しかし、善きサマリア人の話をしたうえで、イエスさまは「だれが隣人になったと思うか」と律法の専門家に問われました。サマリア人は、自分の都合や、ユダヤ人との間の敵意やわだかまりを乗り越えて、倒れている人の隣人になったのでした。つまり、隣人とは誰かと探すようなものではなく、自分から隣人となるのであるとイエスさまは教えてくださるのです。


 けれども、では私が隣人となろうと言って、サマリア人のように倒れている人に近づく事が出来る人は、いったい何名いるのだろうと考えてしまいます。私ならば、やはり自分の弱さを理由に尻込みしてしまいます。「隣人を自分のように愛しなさい」という神さまから与えられた律法は、自分の力ではとても守る事が出来ないと思います。しかし、詩編の詩人は、このような私たちに教えてくれます。「あなたの僕のためにお計らいください。わたしは命を得て、み言葉を守ります。わたしの目の覆(おお)いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力にわたしは目を注ぎます」(詩119:17,18)。詩人は、私たちが律法を守る事が出来るのは、つまり「隣人を自分のように愛する」ことが出来るのは、神さまが私たちを大切にしてくださり、私たちに仕えてくださり、命を与えてくださるからである。そのように歌うのです。そして、この神さまの愛の恵みを受け取ることによって、私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」という律法に従うことが出来と教えてくれるのです。


 律法の専門家は、自分が神さまに仕えていると思っていました。だからこそ、神さまの事を良く知り、神さまに一番近い所にいると勘違いしていたのでした。つまり、神さまこそ自分に仕えてくださり、神さまがまず自分のことを愛してくださっているという事に気づかずにいました。しかし、詩人は教えてくれます。自分は、何の力もなく、罪によって瀕死の状態になっている。しかし、道端に倒れている自分をイエスさまが助けてくださった。神さまがこのような自分を大切にしてくださり命を与えてくださった。そのような経験だけが、神さまと人間が交わるための、律法の業をを成就する事に繋がる。「神さまは愛し、隣人を自分のように愛する」事へと繋がるというのです。だからこそ、イエスさまは、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」そして、「あなたも同じようにしなさい」とおっしゃったのでした。隣人とは誰か、誰を愛したらよいかと考えている間は、隣人を愛する事はできないように思います。


ましてや、見知らぬ人の隣人となる事は出来ないと思います。しかし、イエスさまは、人生の歩みの中で出会う人々を、神さまが私たちに恵みとして与えてくださっている人であると受け取るかどうかによって、私たちは、その人の隣人になることが出来ると教えてくださっているのではないか。そのように思うのです。隣人もまた、神さまの恵みとして与えられる。そのようにこの物語を読むときに、祭司とレビ人とサマリア人の誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったかという言葉は、誰が神さまからの恵みを受け取ったかと読むことが出来るように思います。また、「あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」という律法の言葉を、全身全霊をかけて神さまの恵みを受け取りなさい。そのことは、隣人を自分のように愛することにもなると読むことが出来るようになると思います。


また、イエスさまは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」。あなたも、神さまの恵みを精一杯受け取りなさい。恵みとして出会う隣人を受け取りなさい。神さまの恵みを無視するのではなく、恵みに応えなさい。そうすれば、永遠の命を得る事が出来る。そのように、私たちに教えてくれるのです。


 

私たちは、このたとえ話を読むときに、「自分はレビ人だな、祭司だな」と思う事があるでしょう。確かに、私たちは、隣人を限定し、敵を作り出し、その敵の命さえも無視してしまうことがあります。しかし、このような私たちこそ、罪という追いはぎに捕らわれ、襲われ命を失いかけている者であると言えるかも知れません。その姿は、幼子が目の前に与えられる物を喜んで受け取るような、信仰の喜びを持っていない不幸で憐れな人間の姿と言えるかもしれません。しかし、イエスさまはこのような不幸で憐れな人間に、近寄って来てくださり、傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をしてくださいました。放って置いたら、死んでしまうからです。イエスさまが、この譬話をされたのは、律法の専門家や私たちが、今どのような状態にあるのかを知って欲しいと願われたからだではないでしょうか。自分が罪という追いはぎに殺されかけているという事に気づいて欲しいからではないでしょうか。

 


十字架の上から、イエスさまが私たちを見つめてくださっています。その痛みの中で、私たちを憐れみを持って見つめてくださっています。この愛の恵みを受け入れ、信じる時に、私たちは、隣人をも受け入れ、隣人となることが出来ます。そして、この恵みである愛に応える時に、私たちは隣人を愛する力が与えられ、そこに永遠の命が与えられます。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」というイエスさまの言葉が実現するのです。

わたしたちは、今、能登地方の隣人を覚えて礼拝を捧げています。神さまが恵みとして与えてくださった隣人です。感謝と賛美をせずにはおれません。「主につくられたものはすべて、主をたたえよ。主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ」(詩編103:22)。祈ります。