2024/08/18 三位一体後第12主日
(召天者記念礼拝)礼拝説教
憐れみによって生かされる信仰者の群像
(マタイによる福音書5章7節)
牧師 上田彰
*ただキリストの憐れみによってのみ救われる
今から約10年前に、一人の人がヨーロッパで逝去し、葬儀が営まれました。その一場面を紹介することで今日の説教を始めたいと思います。
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彼、オットー・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンは99歳の齢を数えつつ2011年に逝去し、その葬儀はウィーンの町中で荘厳な式として営まれた。その後、遺体を墓地に運ぶことになっていた。墓地は教会の修道院が管理をしていて、修道院に遺体を運ぶ手はずになっていたのである。
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修道院の門の前で、遺体を運ぶ者達が門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この方は、ヨーロッパ中に王や王妃を輩出した名門ハプスブルク家の出身で、EU統合や様々な外交場面で活躍をしたお方である」、と答える。すると中から修道士が答える。「私たちはそのような者に心当たりはない」。そこでもう一度遺体を担ぐ者が門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この方は、ヨーロッパの様々なところに大きな土地を持ち、大きな資産を持っている者である」。すると中から修道士が答える。「私たちはそのような者に心当たりはない」。もう一度門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この者は一人の罪人で、ただキリストの憐れみによってのみ救われる信仰者である」。中からの答え。「私はその者を知っている。中に入れさせなさい」。
(2023年11月、特別伝道礼拝説教より引用)
私どもは今日、この「キリストの憐れみによって生きる」ということについて考えて参りたいと思います。その際にないがしろに出来ないのが、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という、マタイによる福音書で二回出てくる言い回しへのまなざしです。これはイエス様が口にしておられる言葉で、元々は旧約聖書(ホセア書6章6節)の引用です。先ほどお読みした聖書箇所自身は短いものですが、その背後にある、「憐れみ」という言葉には、「キリスト教とはこれだ」と言える、信仰の中心を言い表す思想が含まれています。聖書が伝える真理は ユダヤ教からキリスト教へと受け継がれているわけですが、この聖書宗教が当時の周辺の宗教と一線を画していたのは、この「いけにえが大事なのではなく、憐れみが大事なのだ」というメッセージであったともいえるのです。
*他者をいけにえとしない生き方
具体的に、この二箇所それぞれを見て参りたいと思います。
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まず最初の箇所は、9章13節にございます。その直背を見てみますと、イエス様がお弟子さんをとったという画面が出て参ります。マタイという名の徴税人が収税所に座っていました。ザアカイのような厳しい取り立てをする極悪徴税人と違い、通行税を取るために収税所に座っているだけの人物です。イエス様が彼を見つめ、そして彼に声をかけます。「私に従いなさい」、と。
初対面だったのか、何度も通っていて顔見知りだったのか。またマタイの方ではそれまで従うことなど一度も考えたことがなくて突然仕事を辞めてついていったのか、それとも考え尽くした上で主に従おうと思って立ち上がったのか。なにもわからないのですが、 ただ一つはっきりしているのは、「私に従いなさい」、この言葉によってマタイは立ち上がった、ということです。もう少し遡るならば、主イエスが彼をまなざしの中に入れた。その時にすでにマタイの弟子への招きは始まっていたとも考えることが出来るのです。
(AIイラスト:福音書記者マタイを弟子として召すために、収税所にいる彼を見つめ、声をかけるイエス)
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そして徴税人から足を洗って弟子になるために、昔の仲間といわば送別の食事会をしていたのでしょう。うれしそうな会食参加者と、その様子を苦々しく見ている傍観者、という構図が思い当たります。(AIイラスト:ペトロの自宅?にてイエス、弟子たち、新弟子マタイ、その元同僚たちが食事をしている。ザアカイもいたかもしれない。当時の食事をする部屋は開放されていて通りがかりの人が入ってくることもあった。立って見ているのは律法学者・ファリサイ派と思われる。)イエス様はその食事会に、傍観者ではなく招きを受けた人として加わっていました。食事を共にするということは、境遇や運命や社会的地位、その他いろいろなものを共有する、という意味合いがありました。ファリサイ派は徴税人を毛嫌いしていてそういった食事の席にイエス様が着くことを疑問に思っていた。そしてこれ見よがしにイエス様を指さして、また周りの人たちを指さして、イエス様の弟子に問うのです。あなたの先生とやらは、徴税人、つまり罪人と食事をするのか。
徴税人を十把一絡げに「罪人」と呼ぶことは、少しアンフェアです。確かに徴税人は、ザアカイのように厳しい取り立てを出来る部署に就く者もいた。なんでもお金を出してそういう地位を買うのだそうです。そして地位に就いたら、出した元手の何倍も稼ぐような人も、確かにいました。しかしローマ帝国に仕える地位に準じた職業である徴税人を、「あいつは徴税人だ、罪人だ」と言い立てる人がいたようで、そしてそのような人たちが集まった食事会に一緒に参加しているイエス様に対して、あしざまに言うということもわからないわけではありません。とにかくイエス様の弟子たちは、言いがかりをつけてきた人たちから、「あなた方の先生とやらは、罪人と食事をしている。そんな人に弟子としてついていていいのか」と言われたのです。
その様子を見たイエス様が、弟子たちを擁護して次のように言います。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
かなり昔のおぼろげな記憶で申し訳ないのですが、小学校の頃に読んだ漫画を思い出しました。話を単純化して申しますと、小学生の姉妹が住んでいる町に、名門の学習塾がやってくることになった。それで、二人でそこに入れるように勉強をするのだが、自信がなかった妹の方だけ入れてしまう。それでどうしたのかと塾の先生に聞いてみると、「塾なんだから勉強が出来ない人を入れるのは当たり前でしょ」と言われ、ずっこけてしまう、というストーリーです。
私どもは、そのストーリーをギャグ漫画としてしか受け入れることが出来ない現実の中に住んでいます。勉強が出来る人は、もっと勉強出来る環境に身を置くことが出来る。これが現実です。さらに話を進めるなら、お金がある家庭の子どもだけがもっと勉強出来る環境へと進むことが出来る。そんな現実さえあるのかもしれません。
同じように、医者を必要としているのは病人だというのも、実は私どもが目にしている現実とはかけ離れているのかもしれません。医者を求めているのは、今の自分に不満を持っていて、元気な体に戻るためにはお金を積めば治ると考えている人、なのではないでしょうか。特に医療保険などがなかった当時、医者にかかることが出来るのはまさにお金持ちだけでした。
しかし主はお金を持つか持たないかにかかわらず、一人の人をまなざしの中に置き、そして声をかける。ここには、病人か健康な人かという視点もありません。病気か健康かという問いは、むしろファリサイ派の人たちが持つ視点です。ファリサイという言葉には、元々分けるという意味合いがあるらしく、こちら側には律法を守る人々、向こう側には律法を守らない人々、というように分けてしまうのです。ファリサイ派というのは、旧約聖書、律法を守るということに命をかけている人たちです。それそのものは良いとして、問題は、自分たちの立ち位置だけを正当化し、自分たちの立場以外の者は律法を守ることに命をかけていない、そう言って、自分と自分たち以外を分けてしまっていたのです。
主はそこでおっしゃる。「主なる神が求めるのは、憐れみであっていけにえではない」。「いけにえ」というのにはいくつかの意味合いがあって、一番狭い意味では、礼拝の際に捧げ物の動物を焼いていたので、礼拝の中心はこの捧げ物に違いない、と考える人がいたのです。しかしもう少し広く考えるならば、聖書が書かれた当時、周囲の宗教では動物を献げる代わりに人間、おそらくは幼い子どもや若い女性を献げる宗教があったようです。気まぐれな神々の怒りが村全体に影響を及ぼす前に、ご機嫌を取るために人間を献げる。そのような宗教と明確に一線を画する意味で、聖書の宗教は人間を捧げ物にすることを禁止する決まりを設けていました。つまり、求めているのは憐れみであっていけにえではない、のです。単純に礼拝の中でいけにえを献げる場面を挟むか挟まないか、という問いへの立場表明という風にも取れますが、実はもっと根が深い問いです。他人を犠牲にする生き方を肯定するかどうか、ということを含む、という訳です。
(AIイラスト:イエスご自身が犠牲となる礼拝)
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犠牲になるのが負けた人、といえば戦い、戦争を思い起こします。戦争が悲劇の中の悲劇たるゆえんは、勝った者と負けた者という超えられない区別を生み出してしまう、ということです。そこに表面的な喜びと、さらには深い悲しみがある。さらによく考えてみるなら、武器を持たない戦争というものもあります。先ほどは塾の話をしましたが、世間には受験戦争というものがあります。先ほどは、勉強が出来ない子どもを優先して入れるという、冗談のように良心的な塾があるという話でしたが、最近の過熱する受験戦争に一石を投じる塾が東京では生まれたというニュースを聞きました。比較的新しく出来た塾で、勉強を教えるだけでなくその子にあった勉強の仕方を教えるという少人数制の塾です。そしてその塾の売りの一つは、申し込み順に入塾を受付、定員になると締め切る、つまりその子がある水準に達しているから入塾を許可するというのではない、という仕組みなのだそうです。その塾が極めて高い進学実績を示しているので話題だというのですが、一方で私が個人的に思ったのは、こういった新しい塾が、受験戦争そのものをなくすわけではない、ということです。
そして福音書の時代に主イエスが問題提起しているのは、いつの間にか宗教にも、そのような敗者と勝者の区別を持ち込まれているのではないか、ということでもあるのです。「主なる神が求めているのはいけにえではない」という、主イエスの旧約聖書の引用には、深い意味があると気づかされます。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸福な生活というものがあっていいのか、という問いは、受験戦争という小さな問題だけでなく、また日本人にとって特別の意味がある8月という月以外の問題としても、常に問われ続けなければならないでしょう。他人を顧みない幸福というものが、もし存在するとするならば、それは他人をいけにえにしています。主が求めておられるのはいけにえではなく憐れみである。その言葉の意味は深いと思います。
*自分をいけにえとしない生き方
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さて、マタイ福音書では実はもう一箇所、主イエスがこの言葉を旧約聖書から引用する画面があります。12章なのですが、次のような話の展開になっています。
それはある安息日のことでした。イエス様と弟子たちとが、麦畑のそばを通りました。弟子たちは空腹であったので、麦の葉を摘んで、自分で手ですることで籾殻を落として麦を口にしたのです。そうしたところ、ファリサイ派の人たちがまたそれを目撃し、今度はイエス様に向かって、あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている、と言いがかりをつけたのです。
それに対して、イエス様は一つの故事を取り上げるなどして弟子たちを擁護するのですが、その論争を締めくくる意味で次のようにおっしゃいます。「人の子は安息日の主なのである」。これは、ファリサイ派が安息日の定めそのものを重んじ、何も労働をしないということそのものを絶対的な決まりとして守ろうとし、小腹が空いた分の食事を整えることも律法違反であると言い立てている場面なのですが、主は、律法を重んじることそのものが最終目的ではなく、主なる神の愛を知ることが安息日律法の元々の由来だ、そうおっしゃるのです。
元々安息日律法というのは、確かに食料をため込む競争が出エジプトの最中にイスラエル民族の間で起こりかけて、それに対して神様が、ため込んだ食料を片っ端からだめにしていった、一日で食べるべき分以上の収穫は許さなかった。ところが安息日の前の日の収穫だけは二日分とって良いことになっていた、そこで安息日はただ主なる神の恵みだけを思い、礼拝だけをする日として守られるようになった、そこから生まれた律法です。確かに、そういった律法がなかったら、能力のある人は多く集めて豊かになり、ない人は飢えに陥ってしまう、ということが起こる可能性がありました。そういったことにならないように、何もしない日を七日間のうちで一日だけ設ける、という側面はあります。ファリサイ派の人たちもそれ故に弟子たちの振る舞いを見とがめたのでしょう。しかし、主イエスは、それだけだと本末転倒になってしまう、安息日のそもそもの成り立ちからして、主なる神のことだけを祈りを通じて思う日、そういう由来が大事なのではないか、とおっしゃるのです。そして弟子たちは今主イエスと共にいる。毎日が安息日なのであって、今日だけが安息日なのではない。安息日律法を守ることを喜ぶのではなく、主とともにいることを喜ぶべきだ。
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安息日、あるいは安息ということを知らない社会が息の詰まる社会である。このことは、なんとなくわかります。そのことと関連して、最近娘が参加した、他教会の教会学校キャンプで、新しいことをいろいろ学んで帰りました。そのうちの一つが、私どもがよく知っている讃美歌、「主われを愛す」という歌の由来です。あの歌は、日本のプロテスタント教会で最初に日本語に翻訳された讃美歌だ、ということは、私も気づきませんでした。歌が作られたのは1859年、まだ明治になる前です。その歌が日本語に訳されたのは明治5年でした。歌詞も歌ってくれました。「エスワレヲアイシマス ソウ聖書ハモウシマス」(イラストはAI描画による)。宣教師が異国の地からやってきて、日本の状況を自分の目と足で確かめ、そしてこの歌から日本伝道を始める必要があると考えたのではないでしょうか。どういう現実を彼らは捉えたのでしょうか。当時の日本にはそれは、日曜日を休みの日とする習慣がありませんでした。それが定められたのはこの讃美歌から更に四年が必要でした。特に使用人の立場にある人たちは、盆と暮れしかまともな休みがないという生活をしていました。主人に仕えるためには休み無しに一生懸命働くのが当たり前という時代は長く続いたのです。先ほどは、他人をいけにえにすることはよくないという話をしましたが、実は日本において大がかりに起こっていたのは、自分をいけにえとする生活だったのです。
そのような中で、宣教師は何を伝えなければならないのか。主が私を愛して下さる、そのことではないか、と思った。「過労死」は英語の辞書にもその形で載っている、日本独特の現象なのだそうです。週に二日休めない、夕方5時に仕事を終えられない現実は、実は今でも続いているのではないでしょうか。「主われを愛す」という歌を歌い直す必要が、私どもの社会には続いているのではないでしょうか。
*まず主の愛がある
日本で自分をいけにえとする考え方が宗教的なルーツを持つといえるのかどうか、はっきりはわかりません。しかし、もう少し広く見るならば、例えばカミカゼと呼ばれる特攻隊の存在などは一種のいけにえ思想だとも言えるかもしれません。命をかけて主人を愛さなければならないという思想はヨーロッパにもあるのですが、主人が「私は白いカラスを見た」と言ったら僕が「ご主人、あそこにも白いカラスが一羽いますよ」と言って出世するという話は聞きません。また出世するならまだしも、おべっかを使ったと言って処刑されてしまうという話もあります。つまり主君のご機嫌次第で一つの振る舞いが出世の種になったり、処刑の理由になったりする。実に不合理です。しかしその悲劇的不合理を黙々と受け入れる所に日本人の美徳がある。そういう考えの中に、実は「自らをいけにえとする」という、根深い思想があるのではないでしょうか。
だからこそ宣教師は、Jesus loves me, this I knowという讃美歌を翻訳することから、日本語伝道を始めたのです。キリスト教は、あなたが犠牲になることを求める宗教ではない。そうではなくて、主イエス・キリストが十字架にかかることによって私どもの犠牲になって下さる宗教である。主が求めておられるのはいけにえではなく憐れみである。つまり、主が私どもを愛して下さる。
この一年の間、伊東教会には、実に様々なことがありました。その中で特筆すべきことは、私どもが伝統の再発見へと導かれている、ということです。先ほどの「主われを愛す」を含む、日本でのプロテスタント教会の伝道が始まった19世紀は、伊東教会の伝道開始とも重なります。多くの出会いや学びの中で、伊東教会の立ち位置というものを教えられました。私どもの教会が覚える389名の召天会員もまた、そのような生き様を共有した兄弟姉妹です。その一人一人が、主の憐れみによって地上の生涯を生き、そして天の御国へと召されました。慣例に基づき、新たに名簿に加えられた方々のみ、お名前を読み上げることといたします。高見千代子姉妹。堀江信喜兄弟。
王であっても、不条理ないけにえ信仰によって召される者であっても、私どもは皆主の憐れみによって天の御国に入れられます。そして、皆主の憐れみによって生かされるのです。憐れみを垂れる主を覚えたいと思います。 †
(AI描画:天上の礼拝と地上の礼拝が重なり合う。黙示録4章のイメージ)
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