忍耐と慰めの源なる神

2024/08/11

伊東教会礼拝説教

「忍耐と慰めの源なる神」(ロマ15・1~6)

上田光正


ただ今ご一緒に読みしましたローマの信徒への手紙15章は、この手紙の実質上の最後の章に当たります。これを書くに当たって、著者パウロの胸中を去来していた思いとは、いったい何だったのでありましょうか。それは、キリストの福音がユダヤ人と異邦人との対立を乗り越えて、世界の果てにまで広められることでした。わたしどもお互いの中にも、この伊東の地で福音がもっと進展し、教会がもっと盛んになってほしい、という共通の願いがあります。しかし、そのような願いと共に、パウロの心に掛かっていた小さな心配事がありました。それは、教会の一致の問題でした。それが、この手紙の宛先教会である、ローマ教会にもあった問題だったからです。もし教会の中に不協和音があったなら、たとい人数が多く、捧げものも多く、礼拝や音楽が華やかであっても、その教会の将来は明るい、と言えるでしょうか。そうは言えないと思うのです。このような問題は、どこの社会でも、およそ人間が集まっているところでは、非常に基本的な、そして重要な事柄として存在します。本日は、そのような問題に対して、どなたでもが心から納得できる答えを聖書が与えてくれていると思いますので、早速、聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。

パウロはその問題で、既に14章全体を使って論じて来ました。14章は特殊な問題でしたが、15章はそれをもっと一般化しております。それが、1節の御言葉です。お聞きください。


 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」


どこの世界でも、強い者と弱い者がいて、一緒に協力し合って、家なら家、店なら店、社会なら社会、教会なら教会を作っています。そして時々不協和音が生じます。ローマ教会でも、強い者が弱い者をいじめていたようです。とにかく弱い者が大変居心地が悪かったようなのです。


そこでパウロは、「わたしたち強い者は」、と語り始めました。最初の呼びかけの相手は「強い者」です。「わたしたち強い者は」と言っていますから、パウロは自分も強い者に数えています。パウロが自分のことを強いと言っていることに反対する人は、多分居ないと思います。信仰も意志も強い人だからです。しかし、「われわれ強い者は」と、複数になっているのは、他にどんな人のことを言っているのでしょうか。

ここは14章の続きですから、「強い者」というのは、信仰生活において、何を食べてはいけないとか、何を飲んではいけない、ということには全くこだわらない人たちです。自分たちは福音を信じて救われた自由と本当の喜びを知っているのだから、たとい偶像に捧げられた肉であっても食べて構わない、と考える人たちです。ですから、簡単に言えば、信仰が強いとも言えます。ところが彼らは、そういうことに一々こだわる人たちを、信仰の未熟な人として、時にはよってたかってからかっていたのです。決してほめられたことではありません。


 人間同士が一緒に生活していて、上手く行かない時には、強い者と弱い者とでは、どちらに多く問題があるのでしょうか。普通は弱い者の方に問題があると思いがちです。しかし聖書は、強い者の方が問題を感じなければいけない、と言うのです。確かに、弱い者が自分の弱さを武器にして自分を愛や憐れみの対象にすることにも、問題がないとは言えません。あるいは、以前の教会でしてが、弱い者同士が手を組んで、例えば、地元の人間同士がグループを組んで取り仕切り、なかなか外から来た人を受け入れたがらないこともありました。グループを組むというのは、弱い者の悪い癖です。そのようにして、力を手に入れるのです。そして、「あいつは弱い奴だ」と分かると、皆で寄ってたかっていじめます。これは、人間だれしもが、権力を握りたい、また、自分はそういう方のグループに属したい、という人間の弱点なのです。決してほめられたことではありません。第一、そういう社会は将来性がありません。


要するに、人間は皆、強い者の立場に立ちたがるのです。その方が居心地がよいからです。しかし、教会は、強い者も弱い者も一緒に生きていかなければならないところです。そしてそのためには、強い者が、あるいは、強い立場に立っている者が、弱い者の重荷を負うということは、極めて当然のことです。普通の世間でもしていることです。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とある通りです。



*   * *



 本当は、強い者は、福音による自由を知っているのです。それだけ信仰のことがよく分かっているはずです。それなら、弱い人に対して、誰よりも多くの愛や思いやりの心を持つことが出来るのでなければならないのではないでしょうか。

このことについて過ちをおかさないようにする道はたった一つしかありません。それは、自分を満足させないようにすることです。そしてそれは、次の2節では、もっと積極的に述べています。「各々善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」、と。強い者が弱い者の弱さを担うという時、しばしば強い者の自己満足に陥ります。あるいは、相手に感謝を求めたり、相手の弱点をからかったりします。それがもっと高まってしまうと、自分の独り善がりな親切をただ押し付けるだけになってしまうのです。そうならないためには、隣人を喜ばせなさい、と言うのです。

自分を喜ばせない生活は、何もしないのではなくて、隣人と共に生きることを喜ぶ生活です。人間は、誰かが幸福になることを望みます。ですから、自分を喜ばすか、隣人を喜ばすかで、中間はないのです。隣人を喜ばすということは、本気で隣人の幸福を心から願い、神にもそのことを祈る生活です。隣人が少しでも幸福になれば、自分も幸福を感ずるのです。強い者にはそれができるはずなのです。


更にここにはもう一つ、「互いの向上に努めるべきです」と書いてあります。これは、わたしどもが互いに仕え合うことには、一つの目標がある、ということです。それは、本当に相手の幸福を願うということは、その人の信仰の成長を願うことだ、ということです。昔は「互いの徳を高める」と訳されていました。相手が「人間として(建物のように)土台から立派に建築されてゆく」という意味の特別の言葉が使われています。パウロがこの言葉を使った場合は、意味が決まっています。この言葉は、相手が神さま、イエスさまをますます信頼して、信仰という土台がしっかり与えられて、教会生活が本当の喜びとなるようになってゆく、ということです。ですからこれは、最後には神に祈ることしかできません。自分の信仰を押し付けることはできませんし、押し付けても意味がありません。もともと、さきほどの相手の幸福を本当に願うことも、最後には祈ることしかできないのです。いずれの場合にも、わたしどもができることは、最後には祈ることだけです。



*   * *



なお、2節のはじめは、「おのおのは」、と書いてあります。口語訳では、「わたしたちひとりびとりは」と、丁寧に訳されていました。1節の初めは、「わたしたち強い者は」でした。パウロは初めは、強い者に対して語りかけていたのです。ところが2節では、「わたしたちひとりびとりは」と、強い者とか弱い者とかいう区別なしに、むしろ、教会員全員に呼びかけています。話は、自分の教会のことなのです。どうしたら、自分たちの教会が、お互いに愛と思いやりのある、慰め豊かなものとなり、弱い者が弱い者として安心して過ごすことのできるものとなることが出来るか。したがってまた、将来への発展性に富んだものとなって行くのか。それは――これはもはや、強い者だけの問題ではないのです。一人ひとりの課題です。そしてこれは、教会員全員が参加するようにと招かれている、とても喜ばしい課題である、と言えるのではないでしょうか。聖書はわたしども全員に対して、呼び掛けているのです。


この目標について、聖書には、大変便利な言葉がありますね。「僕(しもべ)となる」、という言葉です。自分は僕となるのですから、隣人は自分の主人となります。相手が幸せになるように願い、かつ、相手が信仰という土台からしっかり建てられて、教会生活に励む者となる。例えば、山登りで譬えますと、本当のベテランの山登りは、全員の先頭を行くのではなくて、むしろしんがりを務めますね。

一番弱い者と一緒に、そして、誰ひとりとして脱落しないようにと心を配りながら登ります。これが「僕となる」ということです。


宗教改革者のマルティン・ルターという人は、『キリスト者の自由』という本を書きました。その第一頁に、二つの文章を書きました。その最初の文章は、「キリスト者は最も自由な君主であって、誰の奴隷でもない」という文章です。二番目の文章は、「キリスト者は、すべての者の僕であって、すべての人に仕える」という文章です。まるで正反対のことを言っているようですが、わたしどもは弱い者でありますが、キリストによって強くされております。心の中では誰の奴隷でもない、君主です。しかし、それだからこそ、すべての人の僕となる自由があるし、それが出来ることを、ルターは言おうとしているのです。



*   * *



 それですので、聖書は告げています。どうしたら、聖書が言っている意味での「僕」となることが出来るのか。今までの話は一般社会でも通用しそうな話でしたが、主イエス・キリストが登場して、初めて話が信仰の本筋に入るのです。

 3節の御言葉をお聴きください。「キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした」とあります。

 キリストが本当の意味で一番強いお方であることには、誰も異存はないでありましょう。キリストと較べたら、人間は全員が、弱い者で、自分の幸福しか追求できないつまらない者でしかありません。しかし、弱い者であっても、キリストによって本当の意味で強くされて、隣人の幸福を心から祈りかつ願い、隣人を愛して生きる人になることが出来ることを、聖書は告げているのです。


 イエス・キリストだけは、御自身を喜ばせることはなさらなかった。キリストのご生涯は、御自身を喜ばせることをせず、わたしどもに仕える「僕」としての御生涯でした。そしてわたしどもは、一人ひとりは弱い者でありましたが、主の尊い御愛を受けたので限りなく強くされ、生きる喜びを知らされたのです。クリスマスの時によく読まれる聖句です。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリントの信徒への第二の手紙8・9)。主は、神の御独り子であられ、父なる神の御許にあって限りなく富んでおられたにもかかわらず、限りなく貧しくなられ、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになりました。わたしどもの僕の中の僕としてわたしどもに仕えてくださいました。それは、限りない天上の豊かさを、わたしども一人びとりに送り届けて下さるためだったのです。



* * *



 さて、その主イエスをお与え下さったのは誰なのでしょうか。父なる神です。

わたしが本日、今日のテキストを選んで、是非皆様と御一緒にお聴きしたいと願いましたことは、すべての善きことの源であられるのは、父なる神であられる、ということです。わたしどもに主イエスを下さったのも、父なる神です。このローマの信徒への手紙15章には、「源である神」という御言葉が、全部で3回出てきます。最初に5節に、「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせて(くださいますように)」とあります。次に、少し飛びますが、13節に、「希望の源である神」とあります。そして最後に、次のページの33節ですが、「平和の源である神」という御言葉があります。忍耐と、慰めと、希望と、平和の源なる神です。


もう一か所実は、ヤコブの手紙にも、同じように「源なる神」という言葉が書かれています。こういう御言葉です。「良い贈り物、完全な賜物は、上から、光の源である御父から来るのです」とあります(ヤコブ1・17)。パウロがこのロマ書を閉じるに当たって、その胸中に去来していた思いとは、ローマ教会が、そして引いてはわたしどもの伊東教会も、この神を共に仰ぎ、共に讃美する教会となるように、ということです。ことに、わたしどもにとりましては、教会の困難な時にこそ、共に助けを仰ぐべきお方は、すべての善きことの源なる神なのです。



* * *



そこでまず、目に留めたいのが、4節の御言葉です。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とあります。「かつて書かれた事柄」とは、旧約聖書のことです。その次にある「聖書」という言葉も、この当時は旧約聖書しかありませんから、旧約聖書のことです。口語訳聖書では、ここは、「聖書の与える忍耐と慰め」となっています。つまり、「聖書が与えてくれる忍耐と慰め」という意味の言葉です。聖書を読んでわたしどもが出会う神は、忍耐と慰めの源なる神である、とパウロは言おうとしているのです。

ここに、彼の伝道者として立ち上がる秘訣が書かれています。伝道者パウロは、様々な艱難や諸教会の悩み事で自分までが意気阻喪し、失望落胆してしまいそうな時に、聖書を開き、その度に深い慰めを与えられてきました。彼は、どんなことがあってもへこたれない、鉄人のような人物だったのでしょうか。そうではなかったと思います。心が折れて、つぶれそうになったことは何度もありました。「苦労し骨折って、しばしば眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(二コリント11・26以下)。人知れず涙を流したことも数知れずであったでありましょう。そのような時に、もう一度立ち上がれたのは、必ずしも休んだら力が湧いてきたからではありません。「聖書から忍耐と慰めを学んで、希望を持ち続けることができる」、と書いてあります。初めに忍耐です。彼にとっては、他人の非難が一番つらかったと思います。そう言えば主イエスについても「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」とあります。


キリストはののしられてもののしり返さず、かえって相手を祝福しましたそれは、旧約の神さまがそうだったからです。だから旧約聖書を読んで、慰めを得た。詩編などを読むと、慰められます。そして、神からの慰めを得ると、やがて希望が見えて来ます。希望はまったく思わぬ方向から見えてくるのです。だからパウロは、いつももう一度立ち上がれたのです。彼自身の力ではありません。「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける音ができる。彼の伝道者としての秘訣だったのです。わたしどももまた、自分たちが失望落胆しそうな時に、手を合わせて忍耐と慰めの源なる神を求めるのです。それは聖書を読むことによって、与えられます。それは、聖書の神ご自身が、忍耐と慰めの神であるからに他なりません。


パウロは「忍耐と慰めの源なる神」と言っています。彼は必ずしも、「愛の神」という言い方はしていないのです。わたしども人間は、どのような神を神として求めているでしょうか。人間は、どんな神を必要としているでしょうか。また、神からどのような賜物を一番与えられたいと願っているでしょうか。勇気と力を与えてくださる神を求める人は、少なくありません。愛を求める人もおられましょう。しかし、現実の暗さの中を生きる力という話しになれば、忍耐と慰めの神ほど欲しいと思う神は居ないのではないでしょうか。勇気だけでは十分には戦えません。愛だけでも、愛においてすぐにくじけてしまいがちなわたしどもです。ですが、この愚かで、失敗に失敗を重ね、絶えず失望や落胆の淵をさまよい続けるわたしどもにとりまして、一番欲しいのは、忍耐と慰めの神です。何度でも失敗を許し、わたしどもを最後まで耐え忍んでくださる神こそ、わたしどもが安心してこの身を委ね、もう一度立ち上がる勇気と力を与えて下さる神だからです。


神はわたしどもの教会をも、その大いなる愛と忍耐によって堅く支えておられます。キリストをお与えくださった神は、忍耐の神です。神は旧約時代の2千年間、忍耐に忍耐を重ねて来られました。そしてその忍耐の末、最後に堪忍袋の緒を切られたのではなく、最後の最後に、今から2千年前ですが、独り子のお命を下さいました。


またこの神は、「希望の源なる神」でもあり、また、「平和の源なる神」でもあります。神は忍耐の末に、最後に勝利なさり、わたしどもに平安と完全な救いを与えられる神に他ならないからであります。

これを人間の方から申せば、神が忍耐をして、最後にはわたしどもを勝利に導いてくださるのですから、わたしどもの努力と忍耐と、教会の平和や世界の平和を求める祈りには希望がある、ということになるのではないでしょうか。もしわたしどもが聖書を通して、忍耐と慰めの源なる神といつも出会い、その神に祈り続けるならば――、わたしどもは自分たちが愛する教会、愛する日本や世界の現在とは全く違った姿を、必ず望み見るようになるのであります。そして神は、この困難な状況から逃れる道をも備えていてくださるのであります。



*   * *



そこで最後に、5節と6節をご一緒に読んで、わたしの説教を終えたいと思います。


「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」


とあります。

最後に出て来るのは、心を合わせ、一つ声となって神を賛美することです。そしてそれは、将来、万事がうまくいったときに、初めてそうするのではありません。今既に、神の勝利を確信して、今既に、神を讃美してよいのです。明るい気持ちになってよいのであります。祈りは祈ったときに、既に、神の大いなるご計画の中に入れられているからです。

この「心を合わせ」と訳されている言葉、「ホモテュマドン」というギリシア語は、パウロはたった一回、ここでしか使っていない言葉ですが、使徒言行録では全部で10回も使われています。ただ単に、考え方や志において一つであるだけでなく、熱き想いにおいて一つである、という言葉です。皆様の伊東教会の牧師、上田彰が大好きな言葉です。恐らく、上田牧師はそのような、皆が心を合わせて一つとなる教会を、そして、互いに善を行って隣人を喜ばせ、多くの人と一緒に主を讃美する教会を、皆様とご一緒にこの伊東の地に作りたくて、ただ今使徒言行録の連続講解説教を続けておられるのではないかと思います。お互いに異なる意見が語り合われ、聴き合われることは、決して悪いことではありません。ただし最後には、心を合わせ声をそろえて神への賛美が出て来ることこそ、教会にふさわしいことです。ですから礼拝の最後には、教会では昔から2千年の間、あの頌栄が歌われてきたのです。本日も頌栄541番が歌われます。


「父、み子、みたまの

おおみかみに、

ときわにたえせず

みさかえあれ

みさかえあれ」


そのような教会は、神しかお造りになれません。すべての善きことは、上から、光の源なる御父から来るからです。ここまでくると、もう祈り以外には言葉がなくなるのであります。信仰の生活は、神しか整えてくださることが出来ません。お互いの真実な愛も、神しかお与えになれません。ですからわたしどもは、すべての善きことの源なる神を仰ぎ見て、心を合わせて祈ることが必要なのであります。

祈ります。