和解の源、ここにあり――宣教師とともに歩んだ教会

2024/07/28 三位一体後第9主日礼拝

和解の源、ここにあり――宣教師とともに歩んだ教会 

使徒言行録説教第六十七回 21:27~40

説教 牧師 上田彰

今日の説教前に聞いた讃美歌は、つい最近生まれた讃美歌です。説教後に歌う讃美歌は19世紀の讃美歌です。19世紀と21世紀。全く違うという印象を持つ方も、いやいや同じことを歌っていると思う方もおられることでしょう。どちらも正しいのだと思います。私どもが歌い慣れている讃美歌は、ずいぶん古風なものが多いのです。しかし温故知新という言葉もあるくらいで、古風な讃美歌の長所を知っていれば、私どもの信仰が日々新たにされるということが起こります。何が違っているのか。そして何がつながっているのか。その両方がわかることによって、大げさに言えば、19世紀と21世紀は対立しなくて済むのです。和解出来る、とも言えるのです。何によってつながっているのか。それは、イエス・キリストへの信仰です。ずいぶんモダンな讃美歌による奉唱を聞いた後、私どもは2000年間変わらない信仰の出発点を共有したいと思います。

2000年間変わらない信仰、それをペトロは次のようにまとめています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)

 

 私どもは一体何を伝道するのかといえば、究極的には「救い主の名前」である、というのです。確かにキリスト教と他の宗教には、共通点もあります。隣人愛とか、節制や勤勉など、探せばそれぞれの宗教にとって大事な教えでありながら、キリスト教とも共通のものがいくらでも出て参ります。しかし、イエス・キリストを救い主と信じる宗教は、キリスト教以外にはありません。聖書はイエス・キリストを指し示していて、私どもがキリストの御名にたどり着くように書かれている。そして、イエス・キリストという名前をもう少し詳しく見て行くと、今度は信仰告白になる。そういう関係にあるのです。イエス・キリストという名前にたどり着かない聖書の読み方は誤っているし、イエス・キリストの名前から出発していない信仰告白もまたむなしいものであると言えます。

しかしだからこそ、私どもはイエス・キリストを信じる純粋な信仰を重んじなければなりません。そしてそこには戦いがあるのです。その戦いとは、私ども自身の心の中にある壁を乗り越える戦いです。隣人と、近いようでいて、同じものを見ているようでいて、全く違うものがそれぞれの心の目には映っている、そんなことを私どもはよく経験します。壁をそのままにしておくと「とげ」になることもある。「とげ」が他人を傷つけることもあるし、自分を傷つけることもある。不幸であるのはいうまでもありません。いわゆる偏見というものをそのままにしておかないための戦いというのは、あちこちにあるのです。

 

 少しドイツの教会の歴史を振り返るならば、戦時中に「ドイツ・キリスト者運動」というものがありました。その運動が狙っていたのは、キリスト教を完全にドイツの宗教とするということでした。イエス様は中東の人ですが、目を青くして金髪のアングロサクソン民族風に描く。そのくらいならまだいい方で、「実はイエスはユダヤ人ではなかった」という説が彼らの間でまことしやかにささやかれ始めたと聞けば、話が変わってきます。ユダヤ人といえば戦時中のドイツでは劣った民族とされていました。ですからイエス様がユダヤ人だというのは彼らにとって都合が悪いのです。アーリア人というのが優れた民族だという偏見から当時のドイツ人は抜け出せなかったのです。

 

 人の振り見て我が振り直せ、ではありませんが、そういう偏見から私どもは完全に自由であると言えるでしょうか。今日はパウロが久しぶりに訪れたイスラエルで、パウロ自身が被った、偏見による被害について見てみましょう。次のような偏見がパウロを取り囲んでいます。

 

・パウロは異邦人に対して、割礼を受けないままで洗礼を受けることを勧めている。これは律法を軽んじている証拠であり、彼は律法を守る私たちユダヤ人の敵ではないか。

パウロは、見た目からしてギリシャ語を話せる人物ではなさそうである。ということは最近反乱を起こしたエジプト人の仲間に違いない。

・パウロには、異邦人の仲間が大勢いるようだ。どうせきっと何かよからぬことを企んでいるに違いない。

 

 どれもひどい偏見だといわざるを得ません。しかし今日の箇所を見てみますと、その偏見によって、パウロは死の間際まで追い詰められ、ローマの兵士に助けられる格好になっていますが、要するに逮捕されてしまいます。

当時エルサレムにいたユダヤ人にインタビューをしたら、どんな反応が返ってくるのか、いろいろ想像しました。

 インタビュアー:パウロさんは今、偏見故に袋だたきに遭って、死にそうになっています。ひどい話だと思いませんか。

 インタビュイー:偏見はよくない。偏見はなくさないといけない。でもユダヤ人と非ユダヤ人の違いというのは、偏見ではなくて本当にある違いだからしょうがない。律法を与えられた民族とそうでない民族に違いがあるというのは当然のことだ。それにつけてもパウロは、律法が与えられていながらそれを重んじていない。実にけしからん。

 

 なかなか話が進まなさそうなので、少し現代風に考えてみたいと思います。遺伝子診断というものがあります。血液を採って調べてもらうと、その人にどのような病気にかかりやすいかの傾向がわかり、予防や治療に役立つ、とされている技術です。100年ほど前にそのアイディアは考えつかれていましたが、検査キットを買うということが出来るようになったのはここ20年くらいの話です。まだまだ技術は発展途上で、違う会社の検査キットを使うと正反対の診断結果が出るということもまだまだ起こっているようです。また、特定の病気になる傾向を持っている人を、企業の就職試験の時に排除するというような使い方も考えられ、問題があるといわれています。元々は遺伝子レベルで病気の傾向がわかっても、それを克服出来るように頑張ればいいのです。私のおなかの肉が出ているのは遺伝なのかどうか…。不摂生が理由だと言われれば私の場合は個人的には納得しますが、実は父方の親族が皆似たような体型で、父だけは割と努力をしていてそうでもないのですが、その遺伝子が娘にも伝わっているのではないかという疑惑があるとかないとか…。

 その場合、私の娘は、我が家に産まれたことを悲しんでいるかといえば、そうではなくて、牧師の娘であるということを含めていろいろ楽しんでいるようにも思います。要するに、私の娘の場合でいえば、「上田愛結実」という、生まれたときにつけられた名前を背負って9年目の人生を歩いているわけですが、その生まれや育ちにまつわるいろいろなことを、良いことも悪いことも含めてまずは一旦引き受けなければならないのです。長所を伸ばし、短所を克服するのは、それからの話です。遺伝子診断を引き受ける勇気よりもずっと大事なものが、自分の名前を背負うという勇気です。

 例えばパウロ。エルサレムの外にあるタルソスで生まれたユダヤ人。ローマの市民権を生まれつき持っていた。律法を学ぶ学校で頭角を現す明晰な頭脳。ここら辺までは、まあエリートっぽい話です。その一方で、もって生まれた体質との戦いを彼はしなければなりませんでした。視力については、老化とともに衰えが早く、またおそらくなんらかの発作を起こす病気を抱えていた。かつて律法によって救われると信じていたパウロは、自分の病気が律法を守ることによって取り去られると信じて頑張っていた可能性がある。生まれつきの何かを克服するために頑張ることそのものが、悪いわけは当然ありません。しかし後のパウロはこう書いています。

(私パウロが)思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、[...]わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」、と。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章)

 

 ユダヤ教とキリスト教の一番大きな違いは、救い主の名前がはっきりしているかどうか、であると思います。ユダヤ教だって、それぞれの心の中にあるとげ、容易には取り去ることの出来ない偏見、また体の病について知らないわけではありません。そしてそれらを克服するために律法を守る生活を心がける。そのようにしてとげによって他人や自分が傷つけられることがないように努力してきた信仰の先達がユダヤ教社会にも大勢います。模範とすべき人の名前を数え上げることは出来るのです。しかし救い主の名前は与えられていません。

 それに対してキリスト教は、自分の生まれや育ち、それらを引き受けよいところを伸ばし悪いところを減らすという努力を、つまり自分の名前を引き受ける覚悟を、ただ一人で行わなくてもよい、と教える宗教です。一人一人が自分の名前を背負って生きていく際に、それを自分一人で担うのではなく、一人の方が共に担って下さるのです。

 その方は、「ナザレのイエス」という固有名詞を引き受けることを選択するために人となられた、私どもの主なる神です。

 先ほどインタビューに答えてくれたユダヤ人からもう少し話を聞いてみましょう。彼らはこう言うのです。

 

ナザレから良いものが生まれるはずがない。そんなことは律法のどこを探しても出てこない。ましてや彼は父なる神を冒涜するような形で、罪の赦しを宣言している。信仰は心の中の出来事のはずなのに、公の場所で病気の人をいやしながら、罪の赦しを宣言するというのは、父なる神の冒涜に他ならない。固有名詞を抱えている人に、自分の分際を越えた、罪の赦しを宣言する資格はない。そんな大それたことをする馬鹿げた人間が十字架にかかるのは当たり前であって、その名前は「救いの名前」などではなく「呪われた罪人の名前」であるはずだ。それなのに、我々ファリサイ派の元仲間であったタルソスのパウロは、「イエス・キリストの名の他に救いはない」などと言っているらしい。固有名詞を持った救い主など、おかしな話だ。

 

 人間が偏見を持つ。ユダヤ人だから。ユダヤ人ではないから。白人だから。黒人だから。アジア人だから。男性だから。女性だから。理由にならない理由によって起こる偏見と差別は悲しいことです。しかしそれ以上に、イエス・キリストを信じることによって偏見と差別がなくなることを願うことを諦め、主の名によって祈ることをやめてしまうことは、もっと悲しい。

 

 伊東教会には、そのような「希望することを諦めない信仰者の群像」があります。今日はその中で宣教師の話をします。

本来は紹介すべき人は少なくとも三人います。しかし時間の都合で、一人目の宣教師であるアンナ・セットランド(1891年独身で来日、日本人男性と結婚し日本で逝去。東京・大島での活動のあと、伊東教会での活動は1907 年まで)については今回割愛せざるを得ません。しかしここではっきり証言しなければならないのは、彼女は、女性は按手礼を受けることが出来ないという偏見がまかり通っていた時代に、按手礼を受けた男性日本人牧師以上にめざましい働きをしたということです。そのような歴史の積み重ねによって、女性の按手は実現したのです。(近代社会における初めての女性按手はイギリスで1850年代に行われていますが、例えばドイツ教会では1970年代になるまで女性牧師はいませんでした。日本は1932年に実現し、またそのころ按手を受けた植村環のように、極めて大きな働きをする女性教職が生まれるのも、セットランドがなしたような働きの積み重ねであることは、明言しておきたいと思います。)

順番でいうと次は本来マッソンを紹介するところですが、ここでは後回しにしまして、先にカールソン宣教師(1913年来日、伊東での働きは1927年までで、下田での活動を経て戦後再来日)について話します。

 1945年の敗戦を迎えてから、日本にキリスト教ブームがやってきました。戦時中は、ゴザで窓を覆ってごく少数で献げるために用いられていた礼拝堂が、人があふれるほどになったのです。しかしカールソンは、この時期の日本の教会がどこに向かうのか、非常に重要なアドバイスをすることになります。人が増えたといって浮き足立ちがちな当時の教会において、30年間日本の教会を愛し、観察し続けてきたカールソンのしたアドバイスというのは、「日本の教会の伝道は、日本人自身の手で」というものでした。

 少し詳しく話します。戦後のカールソン再来日の前後に、もう一人別のピーチという宣教師も来日しました。彼はスカンジナビアアライアンス、つまり北ヨーロッパのちょっとゆっくりした雰囲気を知らず、アメリカ的に、ビジネスライクに物事を進めようとして、大失敗をしてしまいます。彼の目的は、日本基督教団から同盟協会は離脱し、独自に教団を作る、という使命を果たすことでした。そのこと自身はあり得ない話ではありません。同盟協会の精神は、一つの場所にとどまることなく、あらゆる所にキリストの御名を伝えるところにあります。日本基督教団にとどまらなければならないというわけではなかった、新しい教団を作ることも考えられたのです。

 しかし、やり方がひどすぎた。彼はこう言って回ったのです。「戦時中、日本基督教団は日本軍と日本政府に協力して、礼拝前に皇居の方を向かってお辞儀をすることを行った。宮城遙拝は、神ならぬもの、すなわち天皇を、神として仰ぐことに他ならない。偶像崇拝を行う教団に残るいわれはない。君たちが本当の信仰者であるなら、新しい同盟協会だけで作る教団に参画すべきである。そしてアメリカ本国の同盟本部は潤沢な資金で諸君の伝道を援助する。条件は日本基督教団からの離脱だ。」

 その有無を言わせぬやり方に反発をした若い伝道者がいました。相沢良一といって、松本廣の秘蔵っ子であり、海外留学の準備中でした。彼は同盟協会の次の世代のリーダーであり、ピーチ宣教師としては、必ず相沢を新しい同盟教団に引っ張らないとならないと考え、何度も説得をしたようです。しかし、余りに強引なやり方に、相沢や松本とピーチとの間に大きな亀裂が生じるのです。

 そしてあの1948年5月11日、横浜菊名教会での年会の際に激論が起こってしまうのです。松本、そしてカールソンはピーチに攻撃される相沢を擁護していた。その議論に横浜菊名教会のランゲ宣教師が加わる。彼は本来信仰的にはピーチに近かったのに、「アライアンスの精神はどっちのサイドに着くということではなく、協力出来るのだ」という立場を表明した。それはピーチからすると、日本基督教団に残る同盟協会があっていいのだという、裏切りの発言に聞こえた。おまえはどっちサイドでものを言っているのだとランゲを攻撃し始めるのです。歴史的にいえば、この日が、同盟協会としての最後の年会になりました。戦前から伝道をしていた同盟加盟の教会は文字通り真っ二つに分かれ、教団に残った方のグループが日本基督教団マケドニア会となります。

 (マケドニア会は日本基督教団の中で、文書伝道を盛んに行い一目置かれるようになります。相沢の独自の機関紙である「黒潮」、そして「信徒の友」も石井錦一というランゲ宣教師から洗礼を受けた伝道者が編集長をしているときまでは日本基督教団の金字塔と言われておりました。「こころのとも」による伝道を忘れることも出来ません。)

 もう一度、亀裂が決定的となった最後の年会の話に戻ります。ピーチ宣教師が言っていることは、言葉としては間違っていないのです。要するに彼は、キリストの名前を信じる信仰には、混ぜ物があってはならない、と言っているわけです。混ぜ物のキリスト教を作ることを、分派行為といいます。日本的なものがキリスト教の福音の教えの中に入っている。キリストの名前だけを純粋に伝えるのが伝道だ。

 しかしその説明について、日本人は別の見方をしていたようです。ここでは松本廣の言葉を引用します。「日本基督教団は、真空状態の中で出来た、日本人の手によって建てられた教会である」。これは一度聞いただけだとにわかには意味がわからないと思うのですが、私も何度も思い返して、やっとなんとかわかりました。ようするに、宣教師ピーチは常日頃、次のように言っていたのです。「日本基督教団は、国家によって無理矢理教派合同をさせられた教会であって、本物の教会ではない。私たちアメリカ人の教会が本当の教会だから、こちらに参加しなさい」。それに対して松本は、「日本基督教団という教会もまた真実の教会であって、分派などではない、今までずっとアメリカにおんぶに抱っこだった私たちが、これから独立を図ろうとしている。日本の教会とアメリカの教会は対等であるはずだ」、そう答えたことになります。松本側にもかなりの数の仲間がいるはずなのに、一人の宣教師に対して相当しどろもどろになりながら、必死で対応していることがわかります。

 彼らの頭の中には、ピーチ宣教師に対する一つの疑念があったのです。それは、これだけキリストの名前を純粋に伝える教団を作る、といっているが、背景には戦勝国のおごりがあるのではないか。そしてお金の力にものを言わせて教団離脱を求めている。それこそ「混ぜ物の信仰」なのではないか。

 伊東教会第三代宣教師カールソンは、アメリカの教会には確かに驕(おご)る性格があるが、本物の教会だ。しかし日本にもまた本物の教会が生まれようとしている。日本人の手によって生まれる教会が育つのを、見守らなければならない。いろいろな違いはある。それを認めた上で、同じ点も見つけねばならない。それは、「真にイエス・キリストの名によってだけ立つ教会」という幻を持っている、ということである。

 

 日本基督教団は、戦時中には国家神道と戦わねばならなかったように、戦後にも様々なものと戦わねばなりませんでした。今でもまだ戦いは続いています。何らかのイデオロギー的なものやヒューマニズム的なもの、あるいは人数やお金といった、数字に対する不必要なまでのこだわり、そういったものがふとした弾みに全体を覆うということは、大きな規模だと教団総会から、小さな規模だと教会役員会に至るまで、常に危機の中にあります。私どもが、聖書を通じて神様の御心を聞き続けているか、改めて問われねばならないということを、この戦後のやりとりは私どもに教えています。

 

 やっとマッソン宣教師の話になります。Now I speak about Rev. Matson finally!

引用から始めます。

 彼は新渡戸稲造、そして内村鑑三が、「理想的な宣教師を見たかったら、伊東へ行くが良い」と述べた宣教師である。彼の生活は貧しく、空き缶をコップ代わりにし、メリケン粉の唐袋で家族のシャツを作るなどして貧しさと闘った。彼の子どもたちは和服で伊東小学校に通った。清貧で熱心であった。しかし彼の日本語はうまくなかった。後年、伊東教会の役員が「マッソン宣教師は日本語が十分語れない。そのため説教も何を言っているのか私たちには全然わからないということが多かった。でもマッソンは時に涙を流して説教壇から十字架、十字架と絶叫していた。彼の涙ながらの説教、絶叫に多くの人々は引きつけられ、わからないままにイエスを信じていった。この私もその一人です」と証言した。(『日本同盟基督協会略史』)

 

 この証言を、次の証言と照らし合わせてみたいと思います。

 

 マッソンは伊東に来る前、大島で伝道をしていました。その時にはマッソンの伝道を邪魔してやろうと思った近隣の人が、集会にやってきてマッソンの話を聞く人たちがいたので、彼らが脱いだ草履や靴を隠してしまい、マッソン一家が生活のために貯めてあった水槽の中に入れてしまうことがあった。それで大島での伝道はうまくいかなかった。(同)

 

 この証言と、最初の証言にあった「説教が言葉の問題で全くわからなかった」ということを組み合わせて考えると、一つの面白いことに気づかされます。マッソンは、伊東に来る前ですからもっと日本語が下手だった。普通に考えたら、それは下手な説教のはずなのです。そして下手な説教であれば、キリスト教嫌いの人が普通に考えれば、わざわざ嫌がらせはせず、腕組みをして放っておけば良い、ということになるはずなのです。どうせ人など集まらないだろう、と。ところが大島の批判者は、放っておくとまずいと思った。この説教を野放しにしていたら、大島がキリスト教の島になってしまうと危機感を感じて、必死に妨害工作を行った。

 「わかりにくい説教」ではないのです。「わからない説教」と断言されてしまうくらいなのです。にもかかわらず、大島時代にも、伊東時代にも、マッソン宣教師の説教は、聞いている人の心をつかんだ。新渡戸稲造と内村鑑三をして、「理想的な宣教師を見たかったら伊東に行け」と言わしめてしまう。日本語がうまい宣教師を探すのなら、横浜にいたジェームス・ヘボンという、医師であり、聖書を日本語訳し、辞書を編纂し、またヘボン式ローマ字を広め、フェリス・明治学院・横浜指路教会の設立者であった宣教師がいます。しかし、新渡戸と内村は、理想的な宣教師を見たかったら横浜に行けとはいわなかった。マッソンの中に「本物」を見つけてしまったからです。

 日本語が下手な宣教師というのは今でも時々いますが、特に宣教師の場合、それは余り問題にならないことがある。先ほど名前を挙げたランゲ宣教師ですが、彼から洗礼を受けた信仰者の中で、後に牧師となった方は石井先生以外にもおられて、東京神学大学で説教学を教えるようになった方もあります。その方の10年ほど前の定年前の大きな講演の時に、次のように語っておられました。

 

 私に洗礼を施したドイツ人宣教師は、日本語がお世辞にも上手とは言えませんでした。説教もまたわかりやすいとは言えませんでした。しかし、なぜか響いてくるものがあるのです。「何か」が私に呼びかけてくるのです。私は説教において、この「呼びかけられる」ということが決定的に重要である、それはなんなのか、ということを何十年と説教学の研究者として、また牧師として、追い求めて参りました。その体験の原点は、下手な日本語で本物の福音を語る、あの宣教師の説教にあったのです。(2014年東京神学大学教職セミナー基調講演・山口隆康教授)

 

 わかりにくい説教というのとまた別に、説教について好みを振りかざす人がいます。東海教区では、「説教が気に入らない」という声は聞いたことがありません。(遡れば20年ほど前に、二人の牧師が後任候補になって、密かにその二人の現在の教会における説教テープを取り寄せて、聞き比べて後任を決めたという教会があって、そのことは悪い評判として留学中の私の耳にまで入ってきました。それぐらいのことです。)「説教が気に入らない」というのは小さくてもじっくりと育つ教会では聞かない言葉です。しかし都市部で、大きいけれども大雑把な教会では、聞くことがないわけではない。もしそのような声を聞いたら、次のように言ってやりたいと思います。「理想的な宣教師が、百年前の伊東にいた。彼は日本語という壁を突き破るほどに福音を語り切っていた」。マッソン宣教師の、キリストの十字架による和解を信じ抜く信仰は、日本人相手に伝道をするならきちんとした日本語で説教をしなければならないという考えを、それは偏見なのではないか、要するにキリストの名が心に届けばよいのではないか、という強いメッセージになっていることに気づかされます。

 

 あれから100年が経ちました。私どもの教会は、礼拝出席で言えば当時と変わらない20名から30名の教会です。日本自身もいろいろな壁にぶち当たっている中で、私どもが十分に伝道出来ているかどうか、怪しい状況です。いろいろな偏見が、心の中の壁が、本当の意味の和解を妨げている現状があります。

しかし、私どもは、純粋にキリストの名前だけを伝える伝道を志し、伊豆伝道の火を消さないために、教会を立ち上げ続けています。主イエス・キリストが真の和解をもたらしてくださる。私どもは希望を捨てることがありません。

                                                                                                                                †


2024/07/28 9th Sunday after Trinity

The Source of Reconciliation Is Here - The Church that Walked with the Missionaries

67th Sermon on the Acts of the Apostles 21:27-40

Preacher: Pastor Akira Ueda

 

The hymn we listened to before today’s sermon is a recently composed hymn. The hymn we will sing after the sermon is from the 19th century. The 19th century and the 21st century—some may feel they are entirely different, while others might think they are singing about the same thing. Both perspectives are correct. Many of the hymns we are familiar with are quite old-fashioned. However, as the saying "learn from the past" goes, understanding the merits of old-fashioned hymns can renew our faith daily. By recognizing both the differences and the connections, we can avoid the conflict between the 19th and 21st centuries. We can say they can be reconciled. What connects them is faith in Jesus Christ. After listening to the modern hymn, we would like to share the unchanging starting point of faith that has been constant for 2000 years.

 

Peter summarizes this unchanging faith over 2000 years as follows: "There is salvation in no one else, for there is no other name under heaven given among mortals by which we must be saved." (Acts 4:12)

 

Ultimately, what do we preach? It is the "name of the Savior." Certainly, Christianity shares some commonalities with other religions. Love for one's neighbor, temperance, diligence—these are teachings important in many religions and common to Christianity. However, no other religion believes in Jesus Christ as the Savior. The Bible points to Jesus Christ, written so that we may reach the name of Christ. When we delve deeper into the name of Jesus Christ, it becomes a confession of faith. Reading the Bible without reaching the name of Jesus Christ is a mistake, and a confession of faith not starting from the name of Jesus Christ is also empty.

 

Therefore, we must value pure faith in Jesus Christ. And there is a battle involved. This battle is overcoming the walls within our own hearts. We often experience situations where we see the same thing as our neighbor, yet our hearts perceive completely different images. Leaving the wall as it is can become a "thorn" that hurts others and ourselves. This kind of unhappiness, often due to prejudice, must be actively battled.

 

Looking back at the history of the German church, during wartime, there was the "German Christian Movement" which aimed to make Christianity entirely a German religion. Jesus, a Middle Eastern person, was depicted with blue eyes and blond hair, and some even started whispering that "Jesus was not actually Jewish," as Jews were considered an inferior race in wartime Germany. The prejudice that Aryans were superior couldn't be overcome at that time.

 

Can we truly say we are completely free from such prejudice? Today, let's look at Paul, who suffered prejudice when he visited Israel after a long time. The following prejudices surrounded Paul:

 

Paul encouraged Gentiles to be baptized without circumcision, which was seen as a disregard for the law, making him an enemy of the Jews who kept the law.

Paul, from his appearance, did not seem capable of speaking Greek, making him suspect as a member of the recent Egyptian rebellion.

Paul seemed to have many Gentile companions, implying he was likely plotting something nefarious.

These prejudices almost led to Paul's death, but he was saved by Roman soldiers, essentially being arrested. If we interviewed Jews in Jerusalem at that time, what reactions might we expect?

 

Interviewer: Paul is now being beaten to death due to prejudice. Isn't this terrible?

Interviewee: Prejudice is bad and must be eliminated. But the difference between Jews and non-Jews is not prejudice; it’s a real difference because we are the people given the law. And Paul, who disregards the law given to us, is indeed disgraceful.

 

The conversation wouldn't progress much, so let's consider it in a modern context. Genetic testing can reveal tendencies towards certain diseases, aiding in prevention and treatment. Although developed over the past 20 years, this technology still has flaws, sometimes giving opposite results from different companies. Also, there are concerns about using it to discriminate in employment. Despite understanding genetic tendencies, overcoming them requires effort. My abdominal weight might be hereditary, but considering my poor habits, it might just be a personal issue. Similarly, my daughter enjoys being part of our family and the daughter of a pastor, accepting both good and bad aspects.

 

Paul, a Jew born in Tarsus with Roman citizenship, excelled in law studies but battled physical ailments and possibly seizures. Initially believing the law could heal him, Paul later wrote:

 

"To keep me from becoming conceited, a thorn was given me in the flesh, a messenger of Satan to harass me. I asked the Lord three times to remove it, but He said, 'My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.' Therefore, I will boast all the more gladly of my weaknesses, so that the power of Christ may rest upon me." (2 Corinthians 12)

 

The biggest difference between Judaism and Christianity is the clear name of the Savior. While Judaism acknowledges thorns and prejudices, striving to live by the law to prevent harm, it does not have the name of the Savior. Christianity teaches us to accept our birth and upbringing and to carry our name not alone but with someone who shares the burden: our Lord, who became man to bear the name "Jesus of Nazareth."

 

Let's hear more from the Jews interviewed earlier. They might say:

 

"Nothing good comes from Nazareth. He blasphemed by declaring forgiveness of sins in public, despite being an ordinary man. Such a person, bearing the name 'cursed sinner,' was crucified, not a 'name of salvation.' Yet Paul claims 'no other name under heaven given among mortals by which we must be saved.'"

 

Human prejudice—because someone is Jewish, non-Jewish, white, black, Asian, male, female—creates sadness. But it is even sadder to give up hope for the elimination of prejudice through faith in Jesus Christ.

 

At Ito Church, we have a history of believers who did not give up hope. Today, I will speak about the missionaries.

 

I must mention at least three missionaries. Due to time constraints, I will omit Anna Settland (arrived in Japan in 1891 as a single woman, married a Japanese man, died in Japan), who worked in Tokyo and Ito until 1907. Despite the prejudice that women could not be ordained, her remarkable work led to the eventual ordination of women.

 

Next, I will introduce Missionary Carlson (arrived in Japan in 1913, worked in Ito until 1927, returned post-war). After Japan's defeat in 1945, Christianity boomed, and previously small chapels overflowed with people. Carlson, who loved and observed the Japanese church for 30 years, advised: "Evangelism in Japan must be done by Japanese themselves."

 

In contrast, Missionary Pieach, who came before Carlson's return, failed by pushing an American, business-like approach. His goal was to create a new alliance church independent of the United Church of Christ in Japan (UCCJ). While this was feasible, his method was too harsh: he pressured Japanese Christians to leave UCCJ, promising American funding, but causing backlash and division, notably with the young evangelist Ryoichi Aizawa.

 

The pivotal moment came at the 1948 annual meeting in Yokohama. Pieach’s aggressive stance caused a split, leading to the creation of the Macedonia Group within UCCJ, focusing on presse-mission, whose impact war so big.

 

Returning once again to the topic of the decisive rift at the final annual meeting, what missionary Pieach was saying was not incorrect in terms of words. Essentially, he was arguing that the faith in the name of Christ should be pure and without any mixtures. Creating a Christianity with mixed elements is considered an act of schism. Japanese elements are included within the teachings of the Gospel. True evangelism is to purely convey the name of Christ.

 

However, the Japanese seemed to have a different perspective on this explanation. Here, I will quote the words of Hiroshi Matsumoto: “The United Church of Christ in Japan is a church built by the hands of Japanese people, created in a vacuum.” This might not be immediately understandable upon first hearing, but after reflecting on it numerous times, I finally grasped its meaning. Essentially, missionary Pieach was consistently saying the following: “The United Church of Christ in Japan is a church forcibly merged by the state, and it is not a true church. Our American church is the true church, so you should join us.” In response, Matsumoto asserted, “The United Church of Christ in Japan is also a true church and not a schism. We, who have been dependent on America until now, are striving for independence. The Japanese church and the American church should be equal.” Although Matsumoto had a considerable number of allies, he was seen to be desperately trying to deal with a single missionary, often becoming quite flustered.

 

In their minds, there was one suspicion about missionary Pieach. They wondered if, despite his claim to create a church that purely conveys the name of Christ, there was an arrogance stemming from being from a victorious country. They suspected that he was using financial power to demand separation from the church. They questioned if that itself was not “a faith mixed with impurities.”

 

Carlson, the third missionary at Ito Church, acknowledged that the American church indeed had an arrogant nature but was a genuine church. However, he also recognized that a true church was being born in Japan. He emphasized the importance of watching over the growth of a church born by Japanese hands. Despite various differences, he urged the recognition of similarities, particularly the vision of a “church that truly stands only in the name of Jesus Christ.”

 

The United Church of Christ in Japan had to fight various battles, much like it had to contend with State Shinto during the war. These battles continue even today. Whether it’s certain ideological influences, humanism, or an unnecessary obsession with numbers like attendance or finances, there’s always a risk of these factors overshadowing the core, from the General Assembly to the church council. This post-war exchange teaches us to continuously ask ourselves if we are truly listening to God's will through the Bible.

 

Finally, we come to missionary Matson. Now I speak about Rev. Matson finally!

 

He was a missionary whom Inazo Nitobe and Kanzo Uchimura said, “If you want to see an ideal missionary, go to Ito.” He lived in poverty, using empty cans as cups and making shirts for his family from flour sacks. His children attended Ito Elementary School in Japanese clothing. He was both austere and passionate. However, his Japanese was not good. Later, a church officer at Ito Church testified, “Missionary Matson could not speak Japanese adequately. Often, we could not understand his sermons at all. But sometimes Matson would cry from the pulpit, shouting ‘the cross, the cross.’ Many people were moved by his tearful preaching and came to believe in Jesus without fully understanding. I am one of them”

(from "A Brief History of the Japan Alliance Christian Church").

 

I want to juxtapose this testimony with the following one.

 

Before coming to Ito, Matson was evangelizing in Oshima. At that time, those who wanted to disrupt his evangelism hid the shoes and sandals of those who came to hear his sermons and threw them into the tank where the Matson family stored water for their daily needs. Thus, his evangelism in Oshima did not go well.                                                                                 (ibid)

 

Combining this testimony with the earlier one about not understanding his sermons due to the language barrier, we realize something interesting. Matson's Japanese was even worse before coming to Ito. Normally, such poor preaching should be ignored by those who dislike Christianity, thinking it would not attract people. However, Matson’s critics in Oshima felt threatened, believing that if left unchecked, Matson’s sermons could turn Oshima into a Christian island, prompting them to desperately interfere.

 

It wasn’t just “hard-to-understand sermons” but “unintelligible sermons.” Despite this, Matson’s preaching touched people's hearts in both Oshima and Ito. Nitobe and Uchimura recommended seeing him as an ideal missionary. If one were to look for a missionary with excellent Japanese, there was James Hepburn in Yokohama, a doctor who translated the Bible into Japanese, compiled dictionaries, promoted the Hepburn Romanization, and founded Ferris University, Meiji Gakuin, and Yokohama Shiloh Church. However, Nitobe and Uchimura did not say to go to Yokohama to see an ideal missionary. They found the “real thing” in Matson.

 

There are still missionaries today whose Japanese isn’t very good, but this often doesn’t pose a problem. As mentioned earlier, among those baptized by missionary Lange, another individual besides Reverend Ishii became a pastor and later taught homiletics at Tokyo Theological Seminary. About a decade ago, during a major lecture before retirement, he said:

 

“The German missionary who baptized me was not good at Japanese, and his sermons were not easy to understand. However, something resonated with me. I felt a ‘calling.’ For decades, as a homiletics researcher and pastor, I pursued what this ‘calling’ meant. The origin of this experience was in the sermons of that missionary who conveyed the true Gospel in broken Japanese” (Professor Takayasu Yamaguchi, keynote lecture at the 2014 Tokyo Theological Seminary faculty seminar).

 

In addition to “hard-to-understand sermons,” some people express their preferences in preaching. In the Tokai district, I have never heard complaints about disliking a sermon. Dislike of sermons is not heard in small, well-nurtured churches. However, in large, urban, but somewhat rough churches, it’s not unheard of. If I ever hear such complaints, I’d say, “An ideal missionary was in Ito a hundred years ago. He preached the Gospel so powerfully that he broke through the language barrier.” Matson’s unwavering faith in the reconciliation brought by Christ’s cross challenges the prejudice that preaching to Japanese must be done in perfect Japanese; it’s the message of Christ that matters.

 

A century has passed since then. Our church, with 20 to 30 attendees at worship, remains the same size as back then. While Japan faces various challenges, it’s uncertain if we are truly evangelizing effectively. Various prejudices and barriers in our hearts hinder true reconciliation. However, we continue to strive to purely convey the name of Christ and keep the flame of evangelism burning in Izu. The Lord Jesus Christ brings true reconciliation. We never lose hope.