知恵ある心

2024/7/14伊東教会説教(2)

「知恵ある心」

(詩90・1~12;ロマ6・10~11)

上田光正

 本日のわたしどもの礼拝に与えられました聖書の御言葉は、1節にありますように、伝統的に「神の人モーセの祈り」と呼ばれてきました。本当にモーセの作であるかどうかは学者の間に意見の違いもあるようですが、その比類のない気高さ、崇高さから、旧約を代表する神の人モーセの祈りだ、と言われるようになったようです。

モーセという人は、80歳の時に神からの召命を受け、イスラエル民族をエジプトから解放するという一大事業を成し遂げた人です。

本日はその中の、特に第12節の御言葉に集中して、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。

 知恵ある心を得ることが出来ますように」

と謳われています。

 ここで二つのことが祈られているようですが、内容的には一つです。「生涯の日を正しく数える」とは、人間の一生は限りがあり、いつか必ず死ぬということを、分からせてください、という意味です。そしてそれは、「知恵ある心を得るためだ」、と言っています。「知恵ある心」とは、いわゆる頭が良いということではありません。むしろ、「賢い」という日本語が少しだけ合っているでしょうか。ヘブライ人(ユダヤ人)は、理屈が立つとか、IQが高いとか、金儲けがうまく、出世が上手だ、といった種類の頭の良さを、あまり高く評価しません。むしろ、本当に人生を有意義に生きられるということ、毎日を神に感謝し、心は平安であり、死ぬ時も「神様、すばらしい一生をありがとうございました」と感謝して死ねる。そういう意味での、本当の意味で「賢く生きる」ことを大切にしました。これを「知恵ある心」と呼ぶのです。それは神に信頼し、神を大事にして生きることだ、と考えてきたのです(箴言1・7)。

 その意味でなら、12節の「生涯の日を正しく数えることを教えてください」という御言葉は、わたしどもでも何となく分かりそうな気がします。「正しく数える」とは、「自分が死ななければならないことを悟る」ことです。もう少し言い換えますと、「自分が死ななければならないことを深く考えさせてください」と言い換えることができましょう。

*  * *

 ところで皆さん、自分がいつか死ななければならないことを知ること。それは確かに全くその通りなのですが、しかし、それを深く考えることが、何か益のあることなのでしょうか。自分がいつか死ぬことぐらい、何も人に教わらなくたって誰だって知っている。そんなことが、人生を賢く生きることと、どう関係するのか、という疑問です。

 このような疑問は、大変もっともなのですが、この詩を丁寧に味わいますと、なるほどと納得がゆきます。神に信頼して自分の一生を神と共に生き、心に平安を得る。死ぬ時にも、慰められて死ねる。なぜなら、死は命の終わりではなく、単にこの世の命の終わりだと知って、神と共に生きる御国の命の望みを確信し、すべてを神に委ねて死ねるようになる。こういうことが、まことの「知恵ある心」だからです。

 そこで早速ですが、人間は誰でもいつか死ぬということは、教えてもらわなければ分からないことなのでしょうか。ただ浅く知ることだけなら、自分が死ぬことぐらい、誰でも知っています。しかし詩人は、「正しく知ることを、教えてください」と祈っています。「正しく知る」とは、その深い意味を悟ることです。でなければ、人生を本当の意味で、感謝して、十分に有意義に、満たされて生きるということは出来ない。そういう思いが、詩人にはあるのです。

この詩は、人の一生は短く、はかないと謳(うた)っています。「人生の年月は70年ほどのものです。/健やかな人が80年を数えても/得るところは労苦と災いに過ぎません。/瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(10節)と謳っています。人間は誰でも、歳をとり、だんだん身体が弱く不自由になり、嫌なことばかり続いて、最後に死にます。そんな短くてはかない人生を生きることに、どんな意味があるのか。

ですが、皆さまもご存知でしょう。テレビの広告にも出てきますが、ヨーロッパ中世の修道院では、「死を覚えよ」(メメント・モリ)という言葉が日常のあいさつ用語でした。死を考えることは、信仰と深い関係があるのです。また、わたしどもでも、秋の一日、お墓参りをしたついでに、かつて生きていて今は死んだ大勢の人々の墓石や十字架を見て、何とはなしにいつもとは違う、別の意味で一種のすがすがしい気分を味わえることがあるのではないでしょうか。

そのように考えて参りますと、わたしどもが今朝、聖書からお聞きすべき御言葉は、「どうせ誰でもみんな死ぬんだ」、というような、誰もが知っていることとは少し違うようです。わざわざそういう、誰もが知っていることを聴くために、わたしどもはここに集められたのではありません。なぜなら、本日の御言葉は、実際、少し違った風に語られているからです。「人生が限りあることを、深く分からせてください」、と祈っているのです。わたしどもが聴いたのは、祈りの言葉だったのです。人は普通、自分でできることを、神に祈ったりはしません。しかし、人が自分ではできない事柄というものが幾つかあるのであり、詩人が祈っているのもその一つです。つまり、死には、人間が幾ら考えてもなかなか分からない、しかし、大事なことが隠されている。これは、直接神に尋ねなければ絶対に知ることができない。またこれは、人間の自己責任で、分かる人は分かる、分からない人は分からないままでよい、ということでもない。これは、誰もが、神に祈って願い求めなければ分からないし、そうしなければ、人生を正しく生きることができない、という気持ちで詩人は祈っているのです。その祈りの中心の言葉が、この12節の御言葉、わたしどもの人生が限りあることの意味を教えてください、という祈りです。

その意味で、この祈りは人間の最も深い祈りであり、願いであり、全人類の共通の祈りです。バルトという神学者は、その意味で、このモーセの祈りは、旧約聖書という書物全体を代表する祈りだ、と言っています。そう言えるかもしれません。旧約聖書全体が、そのまま神への大きな祈りであるとすると、それを代表する祈りを祈っている、とも解釈できそうです。もちろん、旧約聖書は祈りだけではありません。他にもいろいろなことが書いてあります。モーセの十戒もあれば、イザヤやエレミヤの預言もあり、歴史書もあり、美しい信仰の詩編も沢山あります。しかし、この旧約聖書全体が、ひとつの祈りであると見ることもできましょう。人類の神への祈りです。そしてそうだとすると、それを要約すると、それは本日の12節の御言葉になる。つまり、旧約聖書の全体は、「わたしたちに、生涯の日を正しく数えることを教えてください」、という祈りになる、と言うこともできます。そういう意味からすると、この祈りが分かると、旧約聖書全体も分かるようになります。そして、旧約聖書が分かると、新約聖書の中心のメッセージが何であるかが分かるようになります。それほど、この祈りは崇高で、美しく、気高いのです。

詩編は全部で五巻からなっています。この詩編第90編はその第四巻の最初に置かれています。その直前の、第三巻の最後が「アーメン、アーメン」という言葉で終わっています。その次の第四巻の最初にこの詩が置かれています。そういう意味で、この詩編は全イスラエルと全人類の祈りの結集だ、という言い方も、必ずしも大げさではないと言えましょう。

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 ところで、この詩人の祈りは、果たして神さまに聞き届けられたのでしょうか。この祈りには、神さまからのお答えが与えられるのでしょうか。いくら神さまに祈っても、その答えが、結局は、「要するに、君、人間は死ぬってことなんだよ」という答えでしかないならば、祈ること自体が虚しいし、旧約聖書全体も虚しい、ということにしかなりません。もしもその答えが、死というものは、命あるものが必ず最後には行き着く場所で、それはちょうど、樹から一枚の葉がひらひらと舞い落ちて、大地に帰って最後には土に帰るのと同じことだ、という答えであれば、すべてがむなしいのです。

 ですが、この詩人の祈りは、神によって確実に聞き届けられたのです。答えが与えられたのです。それが新約聖書であり、イエス・キリストの御降誕と十字架です。わたしどもは旧約聖書を読んで、そのまま続いて新約聖書を読みますと、この詩人の祈りが、神によって全面的に聞き届けられていることが分かります。その答えを一言で申しますと、「わたしどもが死ななければならないことを深く考えるということは、すなわち、《イエス・キリストがわたしたちのために身代わりに死んで、三日目に甦ってくださった》ことを、深く考えることだ」、ということになるのです。わたしどもは、このお方を知ることが許されております。礼拝はそういう場です。また、知るようにならなければなりません。特に、このお方の十字架の死と三日目の御復活を深く考えなければなりません。そうすれば、わたしどもが死ぬ死、ちょうど一枚の葉がひらひらと落ちて死ぬようにしか見えない、実にはかないものにしか見えない生と死には、実は、測り知れないほど深い意味がある、ということを、分からせていただけるのです。

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 新約聖書は、その意味を、次のように述べています。どうぞ皆さん、新約聖書の方を開けてください。新共同訳聖書のうしろの方の、281頁です。そこにこう書いてあります。

  「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」

これが、先ほどの、旧約聖書を代表し、すべての人の祈りを代表する祈りに対する、神さまからのお答えです。これからわたしどもは、その意味をご一緒に考えたいと思います。

さて、主イエスの死とは何でしょうか。それは申すまでもなく、全人類のための身代わりの死です。主イエスは死にました。しかしそれは、わたしどものための身代わりの死です。

「身代わり」という考え方は、聖書の中にしかないわけではありません。世の中にも、例えば、母親がわが子を愛し、その子を助けるために、身代わりに死ぬ、という考え方は、また、そういう出来事は、たまに耳にすることがあります。聖書によれば、主イエスは、わたしどもの身代わりに、神の裁きを受けて死なれた、とはっきりと書かれています。わたしどもが、本来ならば――この方の身代わりがもしなかった場合には――、裁かれるべきであった、のです。わたしどもが、です。もっともそれは、わたしども自身のことではありません。とは言えそれは、わたしども自身と極めて関係の深い、極めて縁の深い或るもの、のことです。すなわち、わたしどもの中で騒々しくガンガンと騒いでいる、あの「古き人」とか、「古い人間」と呼ばれている、或るもののことです。イエス・キリストの身代わりの死において、すべての人間の中にあるこの「古い人」は――それは、頭のてっぺんから足のつま先まで、いつも己を主張する、高慢で、神を神とせず、感謝もささげず、罪にまみれていましたが――裁かれ、有罪判決を受け、死にました。今から2000年前の十字架の上で、主イエスがすべての「古い人」の身代わりとなって、非常に苦しい死を引き受けてくださったのです。

そのことについては、使徒パウロは、こう説明しています。「キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ人はほとんどいません。良い人のためになら、命を惜しまない人もいるかも知れません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されたのです」、とあります(ローマの信徒への手紙5・6-8)。「まだ罪人であった時」とは、神様の前で、何の値打ちもないばかりか、むしろ反対に、神を神として認めようとはしない、思い上がった、しょっちゅう御心に背いてばかりいた、このようなわたしのためにも、キリストは死んでくださった、ということです。

さて、その結果、どうなったのでしょうか。今や、わたしどもの死は、どの人の死も、このイエス・キリストの死と甦りの恵み深い力の中で、起こるのです。したがって、すべての人は、平安な死を死ねる、ということです。

しかし、本当にそうなのでしょうか。そういうことは、イエス・キリストの御愛を信じ、洗礼を受けた人にだけ、言えることではないのでしょうか。まだキリストを信じていない者には、全く何の関わりもないことではないでしょうか。そういう疑問を持たれる方もおられると思います。

更にまた、わたしどもは次のような疑問を持つかもしれません。すなわち、いったん信仰を与えられたわたしども自身であっても、もし何かの理由で全く不本意にも、信仰を失ってしまったとか、教会に来れなくなってしまったとか、あるいは――もっと現実性のある話ですが――、いつか認知症にでもかかって、神様のことも聖書のことも全く分からなくなってしまった場合には、どうなるのでしょうか。そのような場合には、主イエスの恵み深い死と甦りの力は、もうわたしどもには及ばなくなるのでしょうか。

まず、ただ今お話ししました、認知症の場合について先に考えてみましょう。この問題を考える時に、いちばん大切なことは、先ほどのローマの信徒への手紙の11節の御言葉です。

パウロは言うのです。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと、考えなさい」(ロマ6・11)、とあります。「考えなさい」、と言うのです。「考えなさい」とは、今は、そのような考え方を誰でもがするべきだ、ということです。どう考えるべきかと申しますと、あなたがたは、キリスト・イエスと結ばれているのだ、ということです。ここで大切なことは、わたしども一人ひとりは、キリストと結ばれている、ということです。そしてそれは、神さまがお決めになったことです。

そうでありますから、仮にわたしどもは、認知症にかかったとしても、それでキリストと結ばれている絆が切れてしまうわけではありません。なぜなら、わたしどもが神を選んだのではなく、神がわたしどもを選んでくださったからです。

アウグスティヌスという人が書いたある書物の中で、彼はこういう例を挙げています。その頃ちょうど、ローマに蛮族が押し入って、さんざん暴虐や略奪を繰り返すということが繰り返し起こりました。ある信仰深いキリスト者の婦人が蛮族に犯され、身を汚されてしまいました。では、その女性はもう、天国へは行けなくなったのでしょうか。当時は非常に深刻な問題でした。しかし、アウグスティヌスは明確に答えています。「いや、決してそのようなことはない。なぜなら、『神の賜物と招きとは取り消されないものなのです』(ロマ11・29)と書いてあるからだ」、と。「神の賜物と招きとは、取り消されることはない」のです。つまり、わたしどもと神とを結びつけたのは、わたしどもではなくて神の尊いご意志だったからです。それらの人をもすべて含めて、わたしども人間が死ぬ時には、キリストの偉大な力の中で死にます。わたしどもがそれを承認するとか、いや、わたしは結構ですと言って拒否するというようなことはもうありません。なぜなら、死ぬ時には自分の意志はもうないからです。むしろ、それをはるかに越えた、神の恵み深い力だけが働くのです。だからそこでも、わたしどもはキリスト・イエスと結ばれたままです。

そしてこのことは、わたしどもは、自分が選ばれたことについて、ほんの少しでも自分の信仰深さや心の純真さを誇ることは出来ない、ということを意味します。ただ、そのように神さまがわたしどもの罪を取り扱って下さったことに、感謝するのみなのです。そして、そのようなわたしどもに対して、「あなたがたは、『古い人』を脱ぎ捨てて、キリストから頂く、『新しい人』を着なさい」、と勧められているのです。

そうであるとするなら、同じ理屈は、まだ一度も教会に来たことのない人にも当てはまります。すなわち、神の恵み深い招きと呼びかけは、まだ洗礼を受けていない方々にも及ぶのです。わたしどもの愛するあの人やこの人の上にも及ぶのです。なぜなら、神はその憐れみ深い御心によって、まだ神のことを知らない方々一人ひとりの上にも目を注いでおられるからです。主イエスが、「あなたがたの天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)、と仰せられた通りです。それですから、まだ神を知っていない人々――わたしどもが愛するこの人やあの人――それら一人ひとりの生涯のことを、神は深く御心に留めておられます。そして、その恵み深い選びと御計画の中で、ある日ある時、教会へと招き、信仰を与えて下さるのが、神の選びです。それはわたしども自身も同じだったのです。わたしどもも皆、神の恵み深いまなざしの下、守られ導かれ、ある日ある時、教会へと招かれ、信仰を与えられました。先ほど引用したパウロの言葉にありましたように、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されたのです」(ローマ5・8)とある通りです。

それですから、誰も自分を誇ることは出来ません。そしてまた、そのような神の恵みの力がわたしども自身にも及ぶということを知らされることは、とても感謝と喜びに満ちたことではないでしょうか。それこそ、モーセが祈り求めた、「知恵ある心」ではないでしょうか。

それですからパウロは、「あなたがたはそのように考えなさい」、と勧めているのです。

*  * *

そのように考えて参りますと、わたしどもは次第にパウロの言葉を理解することができるようになって参りました。パウロが言っていることは、先ほどのモーセの祈りとの関連で申しますと、「知恵ある心」とは「信仰」のことです。そして信仰とは、わたしどもが「古い人」を脱ぎ捨てて、キリストから頂いた「新しい人」を着ること、すなわち、過去の自分をキリストに委ね、前に向かい、神に向かって生きるということです。もう一度パウロの言葉をお読みします。

 「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」

この御言葉は、二つのことを語っています。一つ目は、わたしどもの死は、決して単に、あらゆる生き物が結局最後には、樹から離れた一枚の葉がひらひらと舞い落ち、最後に土に帰るように消え失せてしまうのではない。わたしどもはイエス・キリストの恵み深い死のおかげで、キリストと結ばれて、平安と希望のある死を迎えることができる、ということです。わたしどもが自分の死を考えるとき、必ず主が共に居られることを一緒に考えるべきだ、ということになるのです。

そしてそれは、つまり、わたしどもはこの世に生きている時にも、すでに自分の死を自分の後ろにして、今日という与えられた一日を、前に向かって、力一杯生きることができる、ということです。

もちろん、わたしどもの生物学的な死は、まだ、わたしどもの前方にあります。時間的にはまだです。いつか将来、わたしどもは死にます。

しかし、聖書はこう言うのです。わたしどもは自分の死を、自分の後ろにあるもの、過去のものとして生きてよいのだ、と。なぜなら、わたしどもは既に、2000年前に、キリストと共に、もう既に「古き人」としては死んでいるからです。この「古き人」とは、あのわたしどもの中でガンガンと騒ぎ立て、いつも己を主張し、ただ虚しいものばかり追い求め、結局は何も得られずに死んでゆく人間のことです。この人は死にました。少なくとも、わたしどもが死ぬ時に働くのは、キリストの恵みの力で、この人はもう居ないのです。それゆえに、わたしどもは自分の死を後ろにして、また、老いや死の不安を、毎日の思い煩いや心配事を、すべて神に委ねて、今の命を、今日一日を、力一杯生きてよいのです。

そして、この一つ目のことから、直ちに二つ目のことが出て来ます。すなわち、わたしどもは、キリストの尊い甦りの力にあずかって、「古き人」を脱ぎ捨てて、「新しき人」を着てよいのだ、ということです。神に愛される神の子として、神を愛し、、隣人を愛し、新しい命、御国の命に生きてよいのです。聖書の別の言葉で言い換えますと、神と共にある「永遠の命」を、今既に、生きることができる、ということです。なぜなら、あのモーセの祈り、「わたしたちに知恵ある心を得させてください」という祈りに対する神さまの尊いお答えは、イエス・キリストのお命だったからです。わたしどもは、このキリストに自分を委ねてよいのです。そして、古い自分を捨て、新しい自分、神と共に、神に向かい、神を畏れ敬う本来の自分に生きてよいのです。感謝です。