くじけた心の向かうところ

2024/06/30 三位一体後第5主日礼拝 

くじけた心の向かうところ 

使徒言行録説教第65回 21:7-17                            

    牧師 上田彰

 

*もやっとした思い

 

 先ほど、一つの詩編を交読という形でともに祈りました。詩編51編の背景にあるのは、ダビデという一人の信仰者の、魂の向かう先です。

 権力の絶頂期にあったダビデが、ある日犯してしまった過ちについて、旧約聖書を読む者は、詩編51編の見出しの言葉から改めて思い起こします。ああ、権力者というのは、いえ人間というのは、なんと罪深い者なのだろう、と。

王として、戦の名手であったダビデは、敵を相手に連戦連勝を重ねていました。ある日ダビデは王宮の屋上から下々の町を眺めておりました。すると一人の女性が水浴びをしているのが目にとまったのです。ダビデは人を使わして彼女を床へと呼び寄せます。過ちを犯したあと、子どもを宿したと聞きます。そこでこの既成事実を夫であったウリヤのものとしようと、一旦は戦地から呼び戻します。いろいろ画策をしますが、うまくいきません。そこで今度は彼を戦いの最前線である激戦地に送り、意図的に戦死させます。こうしてやもめとなったバト・シェバを、ダビデは自分の妻として迎え入れてしまうのです。

 この、歴史的にも余り他に例のない、姦通罪と職権乱用と部下殺しのあわさった重大犯罪が起こったことは、当然臣下ばかりでなく国中に知れ渡ります。人々はしかし口を閉ざします。今あのダビデ王様は他に代わりのいない英雄的将軍なのだから。そもそも王様の悪口を言おうものならどこに内通者がいて話が漏れるかわからない。もやもやした思いを人々は抱えながら、そのもやっとした思いをどうしたらよいのか、どうしようもないままで耐えている。古代の人は本当に、そういう社会の矛盾、権力者による権力の私物化に耐え続けて、歴史が作られてきました。

 現代ではどうでしょうか。私どもは、すべての人が一票を持っていて、政治家に投票をすることで社会が作られている。3000年前の人が聞いたら、いえそれが極端だとしても、100年前の人が聞いたら信じられないほどに「民主的な」社会に住んでいます。あの政治家が不正を行ったと聞けば、次の選挙での勝ち目はない。しかしそれを批判する別の政治家が、次の選挙の直前になってなぜかそのタイミングで別の不正が明らかにされ、そうやって次々と人が変わっていく。確かに私どもは、おかしいと思ったら、クーデターを起こさなくてもやがてなんらかの成敗が下るという仕組みを一応持った社会に住んでいます。しかしでは、私どもは現代において、もやっとした思いをきちんと解決させて歴史を進めていると言えるでしょうか。誰もが本当の正しさにたどり着いていると言えるでしょうか。どうも、民主選挙のシステムを持っているということと、本当の正しさが政治によって実現していることとの間にはかなりの距離がありそうです。そしてこれは日本だけの問題ではなく、例えば欧米諸国を見ても同じで、政治的不安を抱えていない国など現在どこにもないのではないか、と思わせるくらいです。

 現代における問題はとりあえず措いておくとして、3000年前の話をするならば、ダビデは王である前に宗教者でした。彼は宗教的指導者ではありませんが、本当の宗教者でした。本当の宗教者とは、宗教の名において他人を支配する人ではなく、自分自身が御言葉に聞き従う人のことです。いろいろ間違ったことをした王様でしたが、彼は幸いにして宗教者であったのです。彼の前に現れたのは、預言者ナタンでした。ダビデはナタンの言葉には、ナタンが取り次ぐ神様の言葉には、耳を傾けました。その時に生まれたのが、先ほどお読みした詩編です。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(19)

 この詩編の歌い手は、ダビデが罪を犯した時のことを思い起こしたときに、まず関心を持つのが、悔い改めた心は一体どこに行くのか、という問いだというのです。もしその砕かれた心がたどり着く場所、収まる場所がないのであれば、一体どういうことになってしまうのでしょうか。人間の魂はどこに向かうのか。そして砕かれた人間の魂は神によって受け入れられる。人間の迷いと神への信頼を祈りの歌にしたのが詩編51編だとするならば、今日の聖書箇所もまた似たようなことを物語っているのではないでしょうか。

 

*カイサリアにて

エフェソでの暴動以来、福音伝道に対する風当たりの強さを伝道者たちは感じていました。その中でもパウロは、わざわざ一人で移動する時間を作るほどに祈りを必要としていました。ミレトスで会ったエフェソの長老たちにも、別れを告げます。このときに悲しんだのは送り出すエフェソの人たちで、送り出されるパウロ側の人たち、ルカも含む人たちが悲しんだことはいわれていません。しかしそこからエルサレムに近づくにつれ、船の中の雰囲気が重苦しくなってきていたのではないでしょうか。

 船はティルスとプトレマイオスを経由してカイサリアに着きます。これらの町には伝道者たちの古い知り合いが住んでいました。その中でも特に今はカイサリアに住むフィリポの一家での滞在は思い出深いものだったようです。フィリポといえば、エチオピアの宦官との出会いを思い出します。思えば、使徒たちの伝道が異邦人の方に向く一つのきっかけになったような出来事です。洗礼を施したのは、かつて執事と呼ばれていた七人の中の一

人であるフィリポなのですが、その後フィリポはカイサリアに定住しており、結婚して四人の娘がいました。彼女たちは預言者として活動をしていたというのです。使徒言行録7章からは20年以上経っていると思われます。パウロたちの一行にはフィリポと文字通り同じ釜の飯を食った仲間がいましたから、再会にあたっては懐かしさもひとしおだったことでしょう。

 しかし考えてみますと、フィリポがエルサレムで執事として教会に仕えていたときに、サウロであったパウロは教会の敵対者でした。もちろん今はパウロは完全に仲間でしたが、フィリポと一緒になって教会で活動をしていた時期はありません。パウロだけは同窓会気分に浸ることは出来ませんでした。

そしてもう一人、預言者アガボがカイサリアの町中、おそらくはフィリポが開いていた教会にやってきます。彼も一説では彼はルカ福音書10章に出てくる、72人の弟子の一人であったそうです。12弟子と違い、72人の弟子については名前も消息もわかっていません。最後は殉教を遂げたという伝説もあるようですが、パウロからすると余り面識もない人物でした。他の周りの人、例えばルカなどは知っていた可能性があります。つまり、ここに出てくる五人の預言者の話は、パウロからするとアウェー、つまりよそ者という感覚を与えていた可能性があります。自分以外の人々はお互いに懐かしいねと言い合っているのに、一人だけぽつんとしているのは、何か所在なげになってしまいます。

ところが突然、輪の外にいたはずのパウロが、輪の中心になってしまう。アガボがパウロに近づき、パウロの帯を取って自分の手足に巻き付けて言ったのです。「聖霊が告げている。ユダヤ人たちがエルサレムであなたをこのように縛って異邦人の手に渡す」。これを言葉による預言ではなく行為による預言といい、今で言えば宗教的パフォーマンスに付き合う形で、パウロが注目されたのです。するとルカたち同行者がパウロの周りにやってきます。そして、今までいいたかったけれどもいえなかったことを言い始めるのです。

わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ」(12)

今まで、ルカたち同行者は必死にこの思いを抑えてきました。エフェソの長老たちが涙を流して別れを告げた際にも、ルカたちは泣いていません。しかし今は、彼らが引き留めるのです。エフェソからカイサリアに着くまでの間に、心境の変化があったのかもしれません。

 

*「私たち」の迷い

 

 実は今日の箇所は、「私たち資料」といって、使徒言行録の中で地の文に「私たち」が現れる箇所で、ルカが日記のような文体で伝道の記録をつけた箇所だとも言われています。ルカは使徒言行録を編集するにあたって、人づてに聞いた資料をいくつも集めました。推測ですがルカがパウロと行動を共にし始めるのは、使徒会議が15章であって、その後パウロにぴったりくっついていたバルナバとパウロがけんかをして、別々に行動を始めることになって、バルナバのグループはキプロス島に、パウロのグループはマケドニア、つまりヨーロッパ伝道に入るというところで、ルカがパウロと合流をしています。そこから時々私たち資料が出てくるのですが、エフェソからカイサリアに行く途中で、キプロス島が見えるのです。パウロは一度もキプロス島に上陸したという記録がなく、バルナバのことはかなり意識をしていたようにも思います。

そしてカイサリアに着く数週間前、パウロと一緒に船に乗っていたルカは、キプロス島のそばを通ったとわざわざ記していることから、ルカもまたパウロとバルナバの離別のことを思っていたのかもしれません。カイサリアにおいてアガボの宗教的パフォーマンスを見て、彼がその仕草をした意味は全く別にあることはわかっていたルカでしたが、しかし、今こそ自分の思いを伝えるべきだと思った。その思いというのが、「エルサレムには上らないように」というものだったのです。アガボの宗教的パフォーマンスについて申しますと、旧約聖書に、「神がこうお告げになっている」と預言者に言い、預言者が自分の務めが神様によって託されたものだと再認識するというシーンが何カ所か出て参りますが、その場面の再現だと考えられます(イザヤ20、エレミヤ13など)。つまり、エルサレムに上ることは逮捕を意味する、そのことをわかっておきなさいと言うのがアガボが伝えたかったことで、それを見たルカたちは、「逮捕されてはならないからエルサレムには上京しないでほしい」と言い始めたのです。

 パウロはアガボに対してではなく、アガボの預言に乗じた形で自分の思いを伝えたルカたちをいさめ始めます。

「パウロは答えた:泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです」(13)

 よく読むと、この箇所は、パウロの覚悟のほどをただ強調している箇所ではなく、このエルサレム上京は主イエスの命令であるということをパウロが確認し、宣言をしている箇所なのです。アガボは聖霊が告げていると言い、パウロはこれは主イエスの命令なのだと言う。

「空中戦」という言葉を思い出しました。今都知事選の演説が真っ盛りで、ウクライナには航空機が届いたとも報じられています。「空中戦」という言葉をよく耳にします。選挙の時には有名人が演説をするというので人々が大挙して集まる、これが空中戦で、その反対である戸別訪問は地上戦という所なのでしょうか。以前に松本牧師の元旦礼拝の説教を聞いておりましたら、大挙伝道ではなく一人一人を捉える伝道が大事だということを盛んに強調しておりました。伝道に空中戦と地上戦があるというわけです。同じように、戦争にもそういった区別があり、空中戦の反対は地上戦であり情報戦なのでしょう。一番華やかなのが空中戦だが、地味な戦いを忘れてはならない、というわけです。パウロには、そしておそらくはアガボにも、空中戦の支えとなる地道な信仰と祈りの積み重ねがあります。ただ「神様がそうお望みだから」と口先だけで言って動いているのではないのです。

 ですからパウロの方としては、ルカたちの懇願を蹴散らすことも出来たはずです。「ここまでの祈りの積み重ねがあって上京するという決断をしているのだから、今さら決意を換えることはない、これは不退転の決意だ」と言い切ることもあり得たのかもしれません。しかし、パウロは、こう言うのです。「泣いて私の心をくじくのは一体どういうことか」。パウロは、自分が動揺していることを率直に告白しています。人並みに動揺している、という風に言ってもいいのかもしれません。彼もまた動揺するのです。それを隠そうとしないのです。

 ちょうど、バルナバとの離別の時を思い起こさせます(使徒言行録16章)。その時にも、一種の見解の相違というものがありました。見解が違う場合、人々は別々に行動しないとならないのでしょうか。言い換えれば、これだけ信仰の一致、聖霊による一致ということを言っている使徒言行録において、一番大事なところで離別が起こっている。あのバルナバとの間で離別が起こったように、今日の所でも離別が起こってもおかしくありません。このカイサリアの町で、パウロが先を行こうとし、泣いて止めるルカたちと別れるということもあり得たのです。ルカたちが「それではここまでの旅のご同行、大変感謝いたします。ここからは別々の行動になりますが、お達者でお過ごしください」と言ってしまえば、使徒言行録16章の場面が再現されます。しかし彼らはそうは言わなかった。そういう言葉はのどの所まで出かけていたようにも思いますが、ぐっと飲み込んで、旅を共に続けます。

 

*造り直される魂

 

 この出来事は、彼らの心の中に深く印象づけられたようです。だからこそパウロが心くじけ、ルカたちが泣いた様子が赤裸々に残されているのです。もし使徒言行録というものが、パウロやペトロの英雄的な伝道の様子を記す英雄物語などであれば、今日のような記述は削除してしまうことでしょう。

 ルカはしかし、この涙は記録され、記憶されなければならないと考えました。なぜか。それは、ルカの涙とパウロの動揺は、いずれも聖霊のわざであると考えたからです。なかったことには出来ないと考えたのです。一見するとマイナスの出来事です。まだ少数派であるキリスト教の内部に人間的対立があったというのは不名誉な話だと考える向きがあっても不思議はないのに、この一見すると対立にも見える動揺は、聖霊のわざだから、ありのままを書き残しておこうと考えた。歴史として記録にとどめておくべきだと判断した。


ここに出てくる人たちは、パウロにせよルカ側の人たちにせよ、聖霊のわざをストレートに疑問を差し挟むことなく受け入れているというわけではありません。むしろそのような過酷な運命をなぜ伝道者たちに神様が課すのか、深く考え、祈っています。ここでは強い言葉でルカたちの涙を込めた要請を却下していますが、パウロ自身がより慎重に考えるようになったのは間違いありません。戦争における空中戦は、終わったあとに人々の傷だけが残ります。しかし聖霊が告げたこと、主の聖名によってなされる伝道命令であることが確認された空中戦のあと、皆が祈りを深めるようになります。神様の示す道を深く考えるようになった。パウロたちのくじけた心は、詩編の言葉で言うならば悔い改めた打ち砕かれた心となる。

 

 その詩編51編は、「くじけた心の行方はどこにあるか」という問いに対して、次のように答えています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」(12)。

 くじけた心は、主なる神によって創造され直す。そして新しく確かな霊を授けてくださることによって再出発することが出来る。

 

 現代においても、心がくじけ、もやっとした思いを抱えることはあることでしょう。しかし、主なる神がくじけた心を受け止めてくださり、整えてくださることによって、私どもには深い祈りが与えられることになります。迷いは残るかもしれません。しかしそれ以上に主なる神がその迷いを、くじけた心を、造りかえてくださり、確かな霊を授けてくださる。ここに慰めがある。だから私どもは信仰者として歩み続けます。

 

(イラストの著作権:christiancliparts.net、map.google、leonard.aiならびにpicfinderによるAI描画)