2024/06/16 三位一体後第四主日 創世記32章23-33節 「いのりの戦い」
牧師 上田文
大学生の時のことです。ピアノの連弾の練習のために、下宿をしている友だちの家に行きました。友だちの家には、お母さんの写真が飾られていました。遊びに来たお母さんが、面白がって置いて行ったそうです。しかし、そのお母さんの写真が入った写真立ては、埃(ほこり)まみれになっていました。お母さんの顔も、良く見ないと見えません。私は、友だちに写真立てを拭いたらどうかと提案しました。しかし、その友だちは笑いながら、それくらいの方が良いのだ、はっきり母の顔を見るのは、何かと疲れると笑いながら教えてくれました。
そばに居て欲しいという思いはあるけれど、はっきりと顔を出されると何かと都合が悪い。このようなことは、ひょっとすると、私たちと神さまの関係にでも言える事かもしれません。今日の聖書の物語に出て来るヤコブもそうでした。神さまと共に生きたいと願いながら、神さまの顔をはっきりと見る事を拒んでいる人でした。しかし、神さまは、そのようなヤコブに出会ってくださり、ヤコブの顔を覗き込んでくださいました。顔を覗き込んで、あなたは誰なのだと聞いてくださいました。そして、ヤコブはそのことにより祝福の中を生きる者へと変えられていきました。このことは、私たちにも言えることです。神さまは、私たちの顔を覗き込んで、私たちを捉(とら)えてくださいます。今日は、その恵みについて、聖書のみ言葉に聞いてみたいと思います。
ヤコブは、兄エサウから長子の権利も神さまの祝福も奪い取ってしまいました。そのため、兄エサウから恨みを買い、命を狙われるようになり、叔父ラバンの所に逃げなければならなくなりました。そして、その逃亡の途中の夜、ヤコブは初めて神さまに出会います。神さまは、命を狙われ一人で旅を続けるヤコブに、み使いを通してこのように約束してくださいました。「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、地上の氏族すべてが、あなたの子孫によって祝福に入る。わたしは、あなたと共におり、あなたがどこに行っても、守り、必ずこの土地に連れ帰る」(28:13-15)。この約束を頼りにヤコブは、ラバンの下で20年間すごします。そして、その間に二人の妻と十一人の息子、そして多くの家畜を持つ者となりました。この20年間でヤコブが知ったこと。それは、全ての物は創造主である神さまの物であるということ。人も家畜も、そして毎日の生活さえも神さまによって与えられている。神さまが共にいてくださらなければ命を伸ばすことも出来ないという事でした。そのことを、ヤコブはラバンとの生活の中で経験してラバンの下を離れ、今度は、自分の事を恨み、命を狙っている兄エサウの待つ故郷、カナンに向かうのです。なぜなら、神さまが「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい」と言われたからです。
故郷をめざす旅を続けていると、今日の聖書箇所32章の始め、1節には「突然、神のみ使いたちが現れた」とあります。エサウのもとから逃げ、故郷を離れる旅を始めた時に出会ってくださった、あの神さまのみ使いが、故郷へ向かう旅の時にも出会ってくださったのでした。神さまは、今もなおヤコブと共にいてくださる。そのしるしを、ヤコブの見せてくださったのでした。
ヤコブは、祈ります。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖をたよりにこのヨルダン川を渡しましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです」(11,12)。ヤコブは、今、自分が持っている陣営は、神さまが造られたものである。もし、神さまが共に居てくださらなかったのならば、この陣営もないし。自分は、兄エサウに殺されていたであろう。自分はただ、神さまによって生かされている、ただそれだけの人間であると告白したのでした。そして、自分を殺そうとしている兄エサウとの再会を前にして、自分が出来ることは神さまにお頼りする事のみである。そう思ったからこそ、神さまが、かつてしてくださった約束を、ヤコブはもう一度繰り返すのです。「わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする」と神さまが約束してくださった、その約束のみに希望を置きますとヤコブは願い求めたのでした。
しかし、このような祈りを神さまが聞いて下さるかどうか、ヤコブは不安であったと思います。何故なら、ヤコブは、自分がやっている事に後ろめたさがあったように思うのです。エサウは、神さまの事を軽んじて、レンズ豆のスープと引き換えに長子の権利をヤコブに渡してしまいました。ヤコブは、エサウが神さまの事を軽んじているのは良くないと考えました。そして、それならば神さまに与えられる長子の権利を自分が貰っても構わないと思ったのです。だからこそ、神さまよりレンズ豆のスープを選ぶようなエサウから、とても簡単に長子の権利を奪いました。祝福も同じです。神さまの祝福を求めて生きることは、良い事だと、ヤコブは父を見て知っていたと思います。兄エサウはそれを軽んじました。だからこそ、その祝福を奪っても良いと考えたかもしれません。しかし、祝福の約束を手にしたヤコブには、不安がありました。兄や父を騙したという後ろめたさがありました。だからこそ、兄エサウに会うと命を奪われてしまう。命を奪われるような罪を自分は犯してしまっている。そう思い、不安になったのでした。ヤコブは、神さまにお会いしたいという気持ちと、正直に神さまの前には立てない、はっきりと神さまの顔を見る事は、恥ずかしくて、とても出来ないという気持ちの中で葛藤を抱えていたのでした。
そこで、ヤコブはエサウに使いの者を送ります。すると、エサウの所に出した使いの者が帰って来て、エサウが四百の人を連れてこちらに向かっていると報告したと聖書に書かれています。ひょっとすると、ヤコブを殺すためにこちらに向かっているのかもしれません。ヤコブは、直ぐにでも引き返して逃げたかったと思います。しかし、何よりも欲しかった祝福の実現が目の前のカナンの地にはあるのです。そして、その祝福さえ実現されれば、自分の恐れは何とかなるのではないかと考えたのでした。なぜなら、神さまは、共にいてくださると約束してくださっているからです。彼は、とにかく前に進もうとしました。
ヤコブは、エサウとの再会に向けて準備を始めます。ヤコブは、550頭もの羊や山羊、らくだ、牛などの家畜をエサウへの贈り物として用意し、それを幾つかの群れに分けて、自分の前を歩かせました。そして、エサウに出会ったら、「これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と言うようにと、群れの責任者に告げました。ヤコブはエサウの僕である、ヤコブはエサウと和解をしたい。そのことを、熱心にエサウに告げ、ご機嫌伺いをしようとしたのでした。
この長い家畜の行列は、エサウへの贈り物ですが、もしエサウが襲い掛かって来た時に逃げるための時間稼ぎが出来る道具ともなっていました。聖書は、ヤコブの思いをこのように説明しています。「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」(21)。「なだめる」という言葉は、覆うと訳すことが出来る言葉です。ヤコブは、贈り物で兄の顔を覆ってしまおう。そうしたら、自分は怒った兄の顔を見なくて済むかもしれない。その時に、自分は兄と顔を合わせて、話が出来るかもしれない。つまり、今まで自分がやってきた事がごまかせるかもしれないと思ったのでした。ヤコブは、エサウときちんと向き合おうとはしていなかったのでした。それは、そのまま神さまに対するヤコブの接し方を表していたのかもしれません。ヤコブは、知ってか、知らずか兄と同じように、神さまの御顔の前にたたなくても、祝福を頂けるような、何かごまかしたような生き方を今までしてきたのでした。神さまときちんと向き合うことをせずに、今まで生きて来たのでした。エサウへのヤコブの贈り物は、神さまとエサウへのヤコブのごまかしの象徴であったのでした。
しかし、それでは自分の犯してきた罪は、そのまま残ってしまいます。兄エサウがいい顔をしてくれたとしても、いつか殺されるのではないかと、いつも不安の中を生きなければなりません。それは、祝福の約束を与えられながら、神さまの前に立ち、その御顔を見る事を拒むヤコブの姿そのものでした。だからでしょうか、ヤコブはいつものように、恐れながら、ヤボクの渡しを渡ることになったのでした。
ヤボクの渡しとは、ヨルダン川の支流であるヤボク川にかかる渡しのことです。この川を渡れば、いよいよ兄エサウの住むカナンの地に入る事になります。ヤコブは、夜のうちに二人の妻と二人の側女、それに十一人の子どもを連れてヤボクの橋を渡りました。そして、皆に川を渡らせると、自分は後に残りました。きっと彼は、独りになって、恐れと不安の中で祈りをささげたのだと思います。兄を騙し、その兄から命を狙われるような自分は、祝福を受けるのにふさわしくないはずである。しかし、その祝福を与えられなければ、自分は生きる事が出来ない。自分のやってきたことを考えれば、全く希望は無い。ただ神さまの約束のみに希望を置くしかない。しかし、自分は神さまの前に立てるような者ではない。神さまの前に立ち、その御顔を見る事が怖い。そのような状態で、ヤコブは祈りつづけ、自らの内から起こって来る不安や、思い出されるあらゆる罪と、神さまのみ言葉によって与えられた希望が、頭の中でごちゃ混ぜになったのでした。祈りの中で、自らに突き付けられる罪と神さまの祝福のみ言葉とが格闘(かくとう)し続けたのでした。神さまにお会いしたという気持ちと、このままでは神さまに顔を向ける事さえ恥ずかしいという思いが次々に湧き上がってきたのでした。
聖書には、「そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」と書かれています。祈りを続けるヤコブに、何者かが襲い掛かってきたのでしょうか。この何者かは、人間では考えられないような大きな力を持った人のように思います。ところが、この人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節をはずしたとあります。ヤコブの腿の関節を簡単に外すような力を持っている人が、なぜ、ヤコブには勝てないと思ったか。そのことは、次のヤコブの言葉で分かります。「祝福してくださるまでは離しません」(27)。ヤコブは、自分が戦っている相手が神さまだという事が分かったのでした。そして、もし自分がこの手を、この方から離してしまったら、罪のある自分には、もう命も祝福も与えられないと思ったのでした。そして、この何者かの上に覆いかぶさるように、官寺(がんじ)ガラ目にして、動けないようにしたのだと思います。ヤコブは、神さまを前にしても、祝福を得る手段を択ばなかったのでした。何がなんでも、祝福を受けるために、死にもの狂いにその人にしがみ付いたのでした。しかし、それは神さまがご計画してくださったことであったかもしれません。神さまの祝福を与えられたい、そのヤコブの強い思いを神さまは、知ってくださったのでしょう。結局、この「何者か」は、彼を祝福することになりました。
聖書には、「『お前の名は何というのか』とその人が尋(たず)ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘(たたか)って勝ったからだ』」(29)とその人が言ったと書かれています。この人は、あなたは何ものですかと聞きました。ヤコブは、『ヤコブです』と答えました。ヤコブという名前は、アケブ「かかと」という言葉から来ていました。彼は、母のお腹から兄のかかとをつかんで出て来たからです。また、兄を欺(あざむ)いて、その地位を騙し取る者となることが、「かかと」という名前に表されていたのかもしれません。また、古代の人々にとって名前というのは、その人の全存在を表すものであったと言います。そのため、相手に自分の名前を教えるというのは、相手に自分の全てをさらけ出し委ねるという意味も持っていたそうです。ヤコブが、『ヤコブです』と答えたというのは、自分は兄のかかとを持って生まれてきたような者で、その兄を欺き、地位まで騙し取るような男ですと言ったことになります。ヤコブは、この何者かの前で、自分は罪にまみれた人間ですと、自らの罪を認め、告白し、悔い改め、罪の赦しを願い求めたのでした。川のほとりで、ヤコブと格闘したこの「何者か」は、ヤコブの顔を覗き込むような形で、ヤコブを神さまの御前に引きずりだし、神さまとの関係をうやむやにしながら、生きようとするヤコブを捉えてくれたのでした。「何者か」である神さまに、顔を覗き込まれたヤコブは、今まで生きてきた人生のことを告白することができました。自分の罪を認識し、その罪を本当に赦して欲しい、神さまに赦されたいと願い出る事が赦されました。神さまの御前で、今まで背負っていた罪の重荷を降ろす事が出来ました。
「何者か」である、神さまはヤコブに新しい名前を与えました。新しい名前を与えるというのは、その人を新しくすることに繋がります。新しい名前は「イスラエル」という名前でした。「イスラエル」というのは、「神と闘って勝った」という意味であると聖書に書かれています。しかし、その名前を与えられたヤコブは、どのような姿をしていたであろうかと思います。堂々とした勝利者の姿ではなかったと思います。むしろ、腿の関節が外れ、這いつくばって歩く、敗者のように見えたかもしれません。しかし、このヤコブの姿こそが、新しく生きることになった「イスラエル」の姿なのでした。兄を騙し、力づくででも祝福を自分の物にしようとながら、不安の中を歩むヤコブの姿は、足を引きずりながら、神さまを見上げ、平安の中を生きる、神さまの僕(しもべ)「イスラエル」の姿へと変えられたのでした。人を引きずり落とし、自らが支配者のように生きようとしたヤコブは今、神さまの支配を受け、神さまを見上げるイスラエルとされる、そのような祝福の中に入れられたのでした。ヤコブは、今、神さまに赦され、不安も恐れもなく、神さまの前に真っすぐに立って生きる、自由なイスラエルとされていたのでした。
祝福の中を生きるイスラエルの事を、ヤコブはこのように言っています。「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(30)。そして、その場所をペヌエル、神の顔と名付けました。神さまの顔を見る事を恐れていたヤコブでした。祝福の約束は手に入れたけれども、自分の犯した罪を神さまが知ったらどのようになるのだろうと、不安を抱いて、神さまの顔を見る事を拒(こば)んできたヤコブでした。けれども、ヤコブは「神を見たのに生きている」と言いました。神さまの方から、ヤコブの顔を覗き込んでくださり、神さまが顔を見る事を赦してくださったのです。自らの汚さのために、神さまに顔向けできないヤコブの罪を、神さまがわざわざ聞きに来てくださり、罪を告白させてくださり、救いを与えてくださったのでした。ヤコブが、エサウに与えた傷を神さまの前で悔い改めなければ、「神を見たのに生きている」ことはなかったように思います。ヤコブが自分の罪を思い知らされて、神さまに赦しを求めなければ、きっとヤコブはずっと神さまの顔も兄の顔も見る事が出来ず、不安を抱え、様々な事をごまかしながら生きるヤコブのままであったと思います。しかし、神さまはヤコブの顔を覗き込んで、ヤコブを捉(とら)えてくださり、イスラエルとして生かしてくださいました。それは、ヤコブを生かしてくださる神さまが、何よりもヤコブを大切にしてくださったからです。このように、神さまとの関係を回復してくださった神さまは、エサウの関係を回復することをヤコブに求められます。神さまがヤコブを大切にされ、命を与えられたように、ヤコブが、エサウを大切にして生きる事を、求められたのです。イスラエルとされたヤコブは、もう隣人のかかとをつかんで、隣人を陥(おとしい)れて祝福を手に入れる必要はありません。神さまの顔を見て、罪を告白し、祝福を求めることが許される者となりました。そして、神さまがしてくださったように、隣人の顔を覗き込み、隣人を愛することが出来る者とされました。そして、彼がヤコブではなく、イスラエルとして生きる時に、神さまによって与えられる新しい命を、増やす事が出来る者となったのでした。これが、神さまの祝福を受けた者、イスラエルの生き方であると、聖書は私たちに教えてくれるのです。
イエスさまを信じる私たちもまた、イスラエルと呼ばれる民です。神さまの御顔を見て、生きる事が赦されている者です。それは、自分の罪を、恐れを持って知り、本当に悔い改めたいと願い、真剣に赦しを求めて、神さまの慈しみとまことの故に義とされた人々であるということです。また、罪の赦しと新しい命という祝福のみを求めて、死にもの狂いの祈りを捧げている人といっても良いかもしれません。私たちは、そういうイスラエルとされており、イスラエルになることを求められているのです。
私たちは、今日もこのように礼拝に招かれました。それは、罪のない神さまの独り子であるイエスさまが、私たちの罪の赦しのために、十字架の上で血を流してくださり、死んで復活され、私たちを新しく生かしてくださる。そのことを私たちが、いつも確認し、「私は主のみ言葉に従います」と何度も何度も約束するためです。イエスさまによって、イスラエルとして生かせていただくためです。
今日も、イエスさまは私たちの顔を覗き込んで、問うてくださいます。「あなたの名は何というのか」。「あなたは誰なのか。どういう人間なのか」と問うてくださいます。私たちは、「私は罪人です。あなたの祝福がなければ、命を繋ぐことも出来ない罪人です。あなたの祝福がなければ、神の子として生きて行くことは出来ません。どうぞ祝福を与えてください。罪を赦してください。あなたこそが、私の救い主です」と告白したいと思います。そのとき、イエスさまは、慈しみとまことを持って、私たちの罪を赦し、全く新しいイスラエルの命を与えてくださいます。
「わたしたちは、今、鏡におぼろげに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知る事になる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」(1コリ13:12-13)。パウロの言葉です。
祝福とは、神さまが私たちの顔を見てくださっているという事です。私たちは、イエスさまを通して、私たちを見てくださり、共にいてくださる神さまの御顔をおぼろげに見る事が、今、赦されています。イエスさまを通して示された、私たちへの神さまの愛。私たちの罪を、わざわざ聞いてくださり、その罪から救い出してくださる愛。この愛は、いつか私たちが神さまの御顔をはっきりと見る時へと導いてくれます。
イエスさまは、いつも罪を犯し、神さまに顔を向けることの出来ない私たちの顔を覗き込み、何度も私たちの過(あやま)ちを赦してくださいます。いつもいつも、新しい命を与え、新しいイスラエルとして、神さまの国を待ち望む者としてくださいます。捧げもので兄エサウの顔を覆い、神さまにもエサウにもごまかして生きようとしたヤコブが、エサウの顔を覗き込み、兄を愛して生きるイスラエルとされました。私たちも同じです。私たちも、イスラエルとされています。イスラエルの生き方は、神さまとイエスさまが私たちの顔を覗き込み名前を聞いて下さったように、隣人の顔を覗き込むことから始まります。そこに、わたしたちに与えられたイエスさまへの信仰があり、希望があり、愛があります。イスラエルの命があります。イスラエルとされている私たちは、足を引きずり、誰よりも低い位置から、隣人の中にある神さまの顔を見て、喜びと平安の祝福の中を歩みたいと思います。そして、いつか全く新しい、想像もできないような神さまの国で、薄曇りの神さまの顔が映る鏡を覗き込むのではなく、はっきりと、神さまの御前に立たせて頂きたいと願います。