6月16日伊東教会礼拝説教「わたし自身が共に行く」
(出エジプト記33章12~17節)
上田光正
旧約聖書を初めてお読みになる方は、たいてい、創世記は面白いから読めますが、出エジプト記の20章をすぎると律法ばかり出てきて少し面倒くさくなります。
このあいだ実は、9歳になる孫の愛結実が自分の聖書を自分で読みたいというので一冊プレゼントしたら、一気にそのあたりまで読んだそうです。小さいのに感心しましたが、その先どこまで読んだかはまだ聞いておりません。
実は、その少し後の、32章から34章までの3章には、一度読んだら忘れられない記事が書いてあります。普通に「金の子牛事件」と呼ばれる事件のことです。イスラエルが荒野で大変な罪を犯し、神を捨てて、「金の子牛」の偶像を拝んだ、という記事です。せっかく、エジプトで奴隷の民であった彼らが神さまによって救われ、エジプトを脱出したばかりだったのに、砂漠の真ん中で大罪を犯し、そのまま滅んでしまうところです。
普通は、神を捨てて偶像を拝んだら、それは最も重い罪を犯したことになります。本日のわたしどもの礼拝に与えられた御言葉は、そのイスラエルの大ピンチが救われた、という記事です。御一緒に、筋を追いながら、この御言葉を通して主が今朝、わたしどもに何をお語りになるかに、静かに耳を傾けたいと思います。
話は今からおよそ3千3百年前のことです。イスラエルの民はエジプトで奴隷の民でした。毎日のように炎天下で鞭打たれながらレンガを造り、石を運んでいました。彼らが余りの辛さにうめき声をあげると、神は憐れに思ってモーセを遣わし、「出エジプト」という大事業を起こされたのです。女性や子供も入れると、全部で2百万人と言われるイスラエルの民が、40年かかってエジプトから脱出し、カナーン(現在のパレスティナ地方)に向かいます。古代で最大の民族大移動の一つです。
目的地のカナーンは、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれますように、非常に豊かな恵みに満ちた土地です。これは信仰的には、天の御国、永遠の命を象徴しています。40年というのは、昔は「人生40年」と申しましたから、ほぼ人間の一生です。ですから、この40年はよく、キリスト者の一生に譬えられます。それは天国を目指す旅路です。しかし、途中は荒野や砂漠ですから、様々な試練もあるのです。
イスラエルはその途中で、神を捨てた、と言うのですから、とんでもないことが起こりました。これは、一人の人の人生の道筋と考えてみましても、とても考えさせられます。また、一つの教会の話として読んでみても、存続の一大ピンチに遭った話として読むと、大変教えられるところの多い記事です。
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ことの発端は、イスラエルがエジプト軍の追跡を逃れてようやくシナイ山のふもとにまで辿りついたときに起こりました。ちょうど、指導者モーセがたった一人でシナイ山に登り、神から十戒を授かり、正式に神との契約を結ぶために神とお会いしている最中でした。わずか40日40夜の不在でしたが、帰りがあまりにも遅いと感じたイスラエルは、とうとうしびれを切らしました。「あのモーセはどうなったのか分からない。われわれを導くヤーウェの神様などあっさり捨ててしまい、みんなで新しい神さまを作ろうではないか」という群衆の声に押されて、祭司アロンは早速、「それなら、お前たちの内、金の飾り物を身につけている人は皆出しなさい」と言って出させます。それで金の子牛を鋳造し、「そら、これこそがあなたがたをエジプトから導き上った神さまだ」と言ってみんなでお祭り騒ぎをしていたのです。日本人なら狐か何かを作ったでしょうが、ずんぐりと足が太くて短い、同じく短い尻尾を振った金の子牛です。牛は生産力の象徴です。民族の経済力の象徴、商売繁盛、無病息災、家内安全。その子牛の像を拝んだのです。
主は直ちにモーセに下山を命じて言われました。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くそう」(32・9)と言われました。イスラエルでは偶像礼拝は姦淫や殺人と並ぶ大罪です。何しろその時、まさにシナイ山で本式に「十戒」を授かろうとしていた矢先でしたから、譬えて言えば、結婚式前夜に他の男と一緒に身を汚したのと同じです。果たしてモーセが山を下りて見ると、祭りもたけなわで、何やらいかがわしい異教の歌とみだらな踊りの最中です。モーセは激高し、手に持っていた契約の石の板二枚を粉々に打ち砕いてしまいました。それは今しがた、山の上で神さまが御自分の指で記した、「十戒」の板です。それを砕いたということは、事態がもはや取り返しがつかないほど重大であるということです。
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それでは、指導者モーセはどうしたでしょうか。本日の「金の子牛事件」で、もし彼が居なかったなら、イスラエルは滅んでしまったに違いありません。ですから、聖書の他の箇所とは違い、彼はここでは、イスラエルの罪の赦しを神にとりなす人、つまり、「仲保者」の役割を演じています。皆さんは「仲保者」と聞くと、すぐに新約聖書のイエス・キリストを考えるに違いありません。そうです、わたしどもにはイエス・キリストしか救い主はおりません。モーセはわたしどものために十字架にかかってはくれませんし、仮にかかってくれたとしても、それは罪のあるモーセが自分の罪のために死ぬだけの話で、われわれ他人の罪まで贖(あがな)うことはできません。ですが、モーセはここでは、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」(33・11)と書かれています。聖書では、人間は神の顔を見たら直ちに死ぬと言われているのはご存じと思いますが、モーセだけは、まるで父なる神の御ひとり子イエス・キリストのように、神と顔と顔とを合わせてお話をした、と書かれているのです。
モーセは謙遜の限りを尽くして祈りました。「神様、あなたのお怒りはまことにごもっともです。しかし神様、どうか堪え難きを堪え、忍び難きをお忍びください。どうしてエジプト人に、『あの神様はイスラエルを連れ出したが、結局荒野で全員殺してしまったではないか』と言わせてもよいでしょうか。どうか神様、あなたが昔、あなたの僕であるアブラハム、イサク、ヤコブと交わした尊いお約束を思い出してください。『わたしはあなたたちとあなたたちの子孫を天の星のように、海の真砂のように増やして祝福する』と仰ったではありませんか」。
そして彼は、次の日も、決死の覚悟で山に上って祈りました(32章30節以下)。「主よ、もしもあなたが彼らの罪をおゆるし下さるのであれば、どうかそうして下さい。しかしもし、それがかなわないのであれば、このわたしの名前をあなたの書(ふみ)の中から消し去ってください」。「神が書いたふみ」というのは、「命の書」とも呼ばれます(ヨハネの黙示録3・5)。誰が御国の救いにあずかるかが書かれています。その書から自分の名前を消して下さいというのは、イスラエルの罪が赦されるためなら、たといこの身が神から呪われて地獄に落とされてもかまわない、という意味です。昔、殿様に忠義を尽くす家来が、自分が打ち首になるか、切腹を命ぜられる覚悟で殿様をいさめますね。「どうかお怒りを忍んでください、あなたの初めからのお心は、イスラエルを命をかけてでも愛して救うということだったではありませんか」と、謙遜の限りを尽くして訴えたのです。
さて、主はどう為されたでしょうか。主はモーセの祈りをひとまずお聞き入れになりました。なぜなら、それは神様ご自身の最も深い御心を最も深く理解してくれる祈りだったからです。神様が元々イスラエルを深く憐れまれたのは、元々は、その愛する御独り子イエス・キリストのお命を与えてでも、彼らを御自身の祝福と永遠の命にあずからせるためです。その御心の深いところにある、悲しみや憤りももちろんですが、それだけでなく、更にその奥にある、最も深い慈しみの御心も、モーセは知っていたので、聞き入れられたのです。
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しかし、神さまのみ赦しはまだ完全には示されません。最初のお答えはこうです。《わたしは罪を犯したイスラエルを直ちに滅ぼすことはしない。あなたがたは引き続き、ここを出発して目的地である「乳と蜜の流れる地」、カナーンに上りなさい。わたしは約束通り、敵を追い払い、その地にあなたがたを入れて上げよう》。そうおっしゃいましたが、さらにこう言われました。《しかし、わたしはあなた方と一緒には上らない。なぜなら、途中でわたしはあなたがたを滅ぼしてしまうに違いないからだ。わたしの代わりに、わたしの使いを一緒に遣わそう》、というものでした(33・3)。《あなたがたを滅ぼしはしない。しかし、わたしは一緒には行かない》と仰るのです。
これを聞いてイスラエルは喜んだでしょうか。そうではなかったのですね。一斉に嘆き悲しみ、一人も飾り物を身につける者はいなかった、と書いてあります(33・4)。この御言葉にわたしは、ここを読むたびに、とても深く感動するのです。「わたしは一緒には行かない」という知らせを聞くと、喜ぶ人は一人もおらず、全員が嘆き悲しんだ。恐らく、神さまの昔の真実と、その尊い御愛の数々を思い出し、さめざめと涙を流す人も居たのではないかと思います。イスラエルの人々は、もう一度神さまを本気で信じたい、と思ったのでありましょう。そのために、本気で神さまのお裁きを受けて、赦していただきたい、と思ったのでありましょう。
イスラエルは身勝手と言えばまことに身勝手です。しかし、素直と言えば、まるで幼な子のように素直ではないでしょうか。何しろ、カナーンに上りなさい、と言われれば、普通は喜ぶところです。つまり、自分たちは普通の人並みに幸福を追い求める生き方をしてもよい。神様の窮屈な戒めは全部忘れてもよい。商売繁盛、無病息災、家内安全、何を求めてもよい。ついでに言えば、どんな宗教を信じてもよい。どんな神様か知らないが、その神様がお守りくださると信じても良いのです。しかし、もう、唯一のまことの神を父と呼ぶことも、礼拝も、教会の主にある兄弟姉妹の交わりも、どこにもない。キリスト教的な考え方はしてもよい。それで幸福なら勝手に自分の幸福を追求しなさい。しかし、言っておくが、それは全部偽物なのだよ、ということです。もちろん、「カナーン」はもはや、天国の象徴ではありません。なぜならそこにはもう、主はおられないから、ただの肥えた土地であるにすぎません。
そう言われて、イスラエルは深く悲しんだのです。
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これはどういうことなのでしょうか。
神などいなくてもよいとなると、何よりも、十字架への感謝が真っ先になくなりますね。わたしが聖書の中で一番好きな聖句は、ペトロ前書1章8節の御言葉です(新共同訳聖書428頁)。「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない。輝きに満ちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」(引用は口語訳聖書による)という聖句です。「見たことはないが、愛している」。言われてみれば、全くその通りです。わたしは一度も、イエス・キリストを見たことはありません。せめて夢の中ででもお会いしたいと思っても、まだお会いしたことがありません。しかし、一生の間、主を愛して生きてきました。牧師としては、余り大した仕事もできませんでしたが、主を愛して生きられるというこの喜びだけは、一度も失ったことがありません。もし、こういう喜びは、お前はもう、持ってはいけない。もし持ったとしても、それは偽物なのだよ、まがい物なのだよ、と言われたら、わたしはどうなってしまうのでしょうか。
現代の社会は、人間は神なしにも生きられる、と傲慢にも考え始めた時代です。18世紀までは、教会の中にしかなかった良いものが、今では世の中に満ちあふれています。例えば、ヒューマニズム、人道主義がそうです。みんな善い、心の優しい人になり、お互いに親切になって、弱い者を助けましょう。男女平等。自由と人権。これらはみんな、世の中が教会から学んだものです。みんな善い人になりさえすれば上手く行く。ただし、神様はもう要らない。教会ももう行かなくても良い。キリストの十字架なんか信じなくても、人間は仲良く生きて行けるのだ、という大変間違った考え方です。
つまり、キリスト教と非常によく似た考え方をしてもよい。キリスト教と全くよく似ていて、ほんの少しだけ、たった一ミリだけ違う――しかし実際には、キリストの十字架がありませんから、本当は全く似ても似つかないほど、天と地ほど違うのですが――そういう世界観、人生観、考え方で生きてもよい。しかし、本当は全部、偽物なのだよ、ということです。なにしろ、キリストの十字架がないわけですから。罪の赦しはない、主の十字架の真実な愛はもうないわけですから、まったく似ても似つかないものなのです。
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一つの例をお話しましょう。
現在のイスラエルの国のことです。隣人であるパレスティナ国家を絶滅させようとしていますね。そこには人道主義も隣人愛もあったものではありません。あの戦争の直接の原因は、パレスティナのハマスがイスラエルを攻撃したことへの仕返しです。と申しますのも、第二次大戦中に、ユダヤ人は大変な迫害に会いました。ヒットラーが、600万人のユダヤ人を皆殺しにしたことはご存じの通りです。今の日本の人口は1憶2千万人強ですが、その中の600万人が殺されたとしたら、東京都の半分の人が殺されたことになり、永遠に忘れられない事件となるでしょう。それですので、戦後にすぐ、みんながユダヤ人には大変申し訳ないことをしたと考えて、国連総会で、世界中に散らばったユダヤ人が自分たちの国をパレスティナに造れるようにして上げました。元々あったアラブ人の国を二分して、1948年に、イスラエル国家が誕生しました。シオニズム運動といいます。人類共通の願いとしては、イスラエルの国とアラブの国は共存共栄の平和な關係であってほしかったのです。しかしアラブ人は大不満です。何回も中東戦争を仕掛けました。イスラエルの方も自分たちの領土を広げたり、勝手に高い壁を作ったりしてきました。昨年はハマスが突然戦争を仕掛けて来て、イスラエルのネタニエフ首相の心中には、昔自分たちの民族全体がヒトラーに絶滅されそうになった時の悪夢がまざまざと甦ったことでしょうね。ハマスを全滅させようと決意しています。人間が善い人になれば良い、ではだめなのです。恐らく、ネタニエフ首相も、個人的には優しい一家の主人なのかもしれません。テレビで見ると悪人にも見えません。しかし彼は、今でも恐怖でいっぱいです。キリストの十字架が信じられなければ、人類の平和はどこにもないのです。
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しかし、何と幸いなことか、「わたしは共には行かない」というのは、神様の最後の答えではなかったのです。
神さまは「臨在の幕屋」というものを造って下さいました。そこへ行けば、神さまとお会いできる、という幕屋、テントです。モーセは何度も何度も神さまにお会いに行きました。その時の祈りが本日のテキストです。そしてこう祈りました。「神さま、あなたはわたしに、『わたしは彼らとは一緒に行かない。途中で滅ぼしてしまうからだ。その代わり、わたしの使いを遣わそう』と仰いました。しかし、いまだにその使いが誰であるかをお示し下さいません」。
それからこう祈ったのです。13節以下がその時の祈りです。こういう祈りは、何と形容したらよいのでしょうか。「不退転の祈り」とでも言うべきでしょうか。「不退転の=退かない祈り」です。神の前に額づいて、謙遜の限りを尽くす祈りです。しかもそれでいて、どんなことがあっても退かない。不退転です。お聴き届けいただかなければ引き下がることができない、そのために自分の命がすり減って、遂になくなってしまうまで捧げ続けるという祈りです。それがこういう言葉ですね。
「もしあなたが本当にわたしにお恵みを下さるのでしたら」。
これは、神さまに命がけで何かをお願いする時の決まり文句です。つまり、塵から作られ、塵に帰るべき卑しき存在でしかない人間が、神に祈るときの、へりくだりの限りを尽くした祈りです。
「もしあなたがまことにわたしにお恵みを下さるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」と祈りました。
「道」というのは、ただの道ではありません。この場合は、神さまの御心。その御決意。もっと言えば、「あなたご自身が、どのような道を歩まれるのか、その御決断をお示し下さい」という意味です。
これは何度も繰り返された祈りだったと思います。しかし、神様の御心は最初から決まっていたのだと思います。別にのモーセの熱心な祈りに動かされて、ようやく決心ができたのではありません。ですが、その神さまの決意を実行して砂漠を苦労して歩むのはモーセですから、モーセの決断を神さまがかためられた、とは言えます。そして、到頭最後に、主なる神がお答えになったのです。14節です。「わたしが自ら同行する」です。「わたし自身が、彼らの真ん中にいて、彼らとつらい旅路を共にする。わたしの使いがではない。わたし自身が、共に行こう、というお答えです。
昔の文語訳は直訳でしたからピンときます。「わが顔、行くべし」です。わたし自身の顔が、行くだろう。「顔」とは神御自身の全人格そのもの、いや、神のお命そのもの、と言った方が良いでしょう。神のお命が、神さまのお御足が、一緒に砂漠の土を踏み、一緒につらい旅をし、イスラエルが受ける試練を一緒に受け、最後に十字架で彼らの罪をあがなう。これが、その身から飾り物をすべて外して神の裁きを待ったイスラエルに対する、神さまの最終的なお答えだったのです。
このお約束は、実際に、今から2千年前に、皆さまよくご承知の通り、イエス・キリストの御降誕によって実現しました。神さまの御子は実際に一人の人となり、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれにならましたね。そして、何よりも大事なのは、最後の十字架において、罪をあがなわれたことです。あの十字架にお掛かりになったことが、本日の「わが顔、行くべし」の内容なのです。神の道なのです。それ以上でも、それ以下でもありません。「あなたの道をお示し下さい」というモーセの祈りへの答えです。神様がわたしども一人一人の人生を喜んでくださる。一人ひとりを文字通りお命をかけて愛して下さる。そして終わりの日に、御国へ入れてくださる、ということです。
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「わが顔行くべし」を信じて生きることが、わたしどもの信仰です。それを信じないで、自分が善い人になればよいという人生観――キリスト教とよく似た人道主義ですが、しかし、本当は全然違う人生観――を持って生きるのとは、天地雲泥の違いがあります。もしイスラエルのネタニエフ首相が、この「わが顔行くべし」を信じることさえできたなら、彼は戦争を今すぐ止めることができたでありましょう。しかし彼は、今でも恐怖でいっぱいです。人間は、もしも、主が十字架上でご自分のお命に代えてでもわたしどもをお守りくださるという十字架が信じられれば、どんなくるしいことでも耐えられるのです。
愛する教会員の皆様。「わたしたちは神様なしにも、ちゃんとやって行けます。お互いに愛し合えばよいのでしょう」という考え方に基づく生活は、真実ではありません。だから主は、どうか、教会を離れないで欲しい。教会を離れた人は、是非戻ってきてここに本当の教会を築いて欲しい、と言われるのです。
今の時代は、この世界がなかなか神の十字架が信じられなくなっています。神が人間の罪の贖いのために、人となって十字架にかかってくださったという信仰は、どんなにか、わたしどもにとって、信じがたいことでしょうか。それに非常に近いことなら、誰でもその気になれば信じられます。しかし、神様の十字架の救いだけは、人間の力では信じることができないのです。しかしそれを信じることができるのが、教会に連ならせていただく、ということなのです。わたしどもは、何と幸いなことか、神の尊い御霊の導きを受けて教会に呼び集められ、福音を信ずる信仰を与えられました。主を見ることはできないが、信じて、喜びの人生を歩む信仰を与えられました。
主は本日も、わたしどもの教会に対して、「わたしがあなたがたの真ん中にいる。だから、力を合わせ、互いに愛し合い、罪を赦し合い、一人も脱落しないで、てここにわたしの教会を立て、十字架の愛を世に証しする教会を立てなさい」、と語って下さるのです。この恵みをお受けするのです。