後ろの橋を焼く

 2024/06/09 三位一体後第二主日  創世記3136-44節 「後ろの橋を焼く」 

                                              牧師 上田文

 

先日、教区総会のために信州の白樺湖まで行って行きました。そこのホテルの案内で、信州には東日本では最大、最古の積み石塚古墳がある事を知りました。写真をみると、とても大きい石塚です。遠くから見ても良く分かります。今日の聖書の物語には、石塚が出て来るのですが、私は、この聖書の石塚が水筒くらいの大きさの物として読んでいました。それくらいの大きさの石塚しか見た事がなかったからです。神さまが与えてくださった石塚は、きっと、この積み石塚古墳くらいあるのではないかと思います。なぜなら、聖書には、この石塚が境界線になり、また、そこに集まって交わりの食事が出来るくらいのものとして書かれているからです。

 石塚は、私たちにも与えられているものだと思います。私たちは、今もこの石塚に石を積み上げているように思います。今日は、神さまが与えてくださる石塚を通して、聖書から恵みを共に味わいたいと思います。

 

今日の話は、20年間共に生きてきたラバンとヤコブが、互いに契約を立てて離れる話です。ヤコブは、12人目の子どもであるヨセフが生まれた時に、ラバンに、独り立ちさせて欲しい、故郷に帰らせて欲しいと申し出ました(30:25)。しかし、ラバンはこの願いをすんなりとは聞いてくれません。なぜなら、ラバンはヤコブを貴重な労働力として利用していたからです。けれども、利用していたのは、ラバンだけだとは言えません。ヤコブもまた、ラバンによって富を増やそうとしたのでした。ヤコブは、彼の申し出を拒むラバンに、条件を持ち掛け、もう一度ラバンの家畜を飼い、その条件によって、自分の家畜もどんどんと増やします。なぜこのような事が出来たのか、聖書には詳しく書かれていません。ただ、ヤコブに有利なように、事が運んだのです。だからでしょうか、ラバンの息子たちは、やがてヤコブを妬(ねた)むようになり、「ヤコブは父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」(1)と言い始めたことが、今日の聖書箇所31章の始めに記されています。この時、主なる神さまがヤコブに現れて、告げられました。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(3)。

ヤコブは、ラバンの下で働き始め、恋したラバンの娘であるラケルと結婚するために、長い間働きました。その間には、ラバンによって先に結婚ことになった、姉レアのために働いた年数も含まれています。また、二人の妻と結婚した彼は、妻どうしの争いの中にも巻き込まれました。ヤコブは、ラバンのもとで自分の生活を整えることに必死になり、神さまの事を見上げるのが難しくなっていったのだと思います。そして、神さまと共に生きることから、知らず知らずのうちに遠ざかっていました。しかし、そのようなヤコブを神さまはずっと見ていてくださっていました。そのことが、ヤコブが二人の妻に自分がなぜラバンのところを去るのかを説明する言葉に表されています。「わたしは全力を尽くしてあなたがたのお父さんのもとで働いて来たのに、あなたがたの父ラバンは、わたしをだまして、報酬を十回も変えた。しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。」(6,7)「夢の中で神の御使いが、『ヤコブよ』と言われたので、『はい』と答えると、こう言われた。『目をあげてみなさい』。ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。わたしはベテルの神である。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」(11-13)

神さまは、苦労を重ねるヤコブを見ながら、彼に気づきを与えてくださいました。神さまは、「目をあげてみなさい」と言われました。目線を変えて、今の状況を神さまと共に歩んでいる状況として見てみなさいとおっしゃったのです。そして、神さまは、「あなたと共にいた私は、全て分かっている(12)」と言ってくださいました。ラバンのこともヤコブのことも、二人の妻のことも全て分かっている。だから、あなたが神さまによって養われていたあの故郷に帰りなさい。そして、あなたが初めて神であるわたしと出会い、石の柱に油を注いだあのベテルから新しく生きなおしなさいと告げられたのでした。

 

 そこで、ヤコブは子供たちと妻たちをラクダに乗せ、全ての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方に向かって出発します。21節には、「ヤコブはこうして、すべての財産をもって逃げ出した」とあります。ヤコブは、叔父ラバンに黙(だま)って、ひそかにラバンの所から逃亡(とうぼう)するのです。ヤコブは、彼の目の前にある財産も生活そのものも、創造主なる神さまが与えてくださっていることを忘れてしまっていました。ラバンとの生活の中で、いつの間にか、財産は神さまに与えられた物ではなく、ラバンとの取引によって得たものとなっていたのでした。そのため、彼は、すべての財産をもって、それをラバンに取り上げられないように逃げようとしたのでした。

目の前に広がる、神さまの業を人間的な財産としか見る事が出来ないでいる。それは、妻ラケルも同じでした。彼女は、ヤコブと一緒に逃亡するときに、自分の父の家の守り神の像を盗んだことが、19節に記されています。この守り神というのは、家族の全財産を扱う者の象徴でもありました。そして、財産を相続する時に、この守り神も相続されていました。つまり、実印のようなものであったと言えるかもしれません。彼女は、それを盗んだのでした。彼女は、この少し前で、「父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまった」「神さまが父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子どもたちのものです」と言っています。ラケルは神さまの財産と言いながら、その財産を父の物としか見ることが出来ないでいました。だから、彼女はその財産を父と同じような方法を使って奪い取ろうとします。妻ラケルも、ヤコブの神さまを信じて、主なる神さまと共に生きようとしていたと思います。しかし、神さまから遠く離れ、人間同士の経済活動を続けるヤコブとの生活では、創造主なる神さまがどのような方なのか、良く分からないままで生きていたのでした。

 

 創造主なる神さまを良く知らないで生きているのは、ラバンも同じです。ラバンの心にあるのは財産のことだけでした。それは、ラバンの家畜や財産の事だけではありません。ラバンは、ヤコブの育てた家畜や、ヤコブがラバンから得た報酬も全て自分の物だと思っています。また、そこには、娘であるレアやラケル、そして、ヤコブの家で働いていた召使いまで含まれています。43節でラバンはこのように言います。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみんなわたしのものだ」。この全てをヤコブは持って逃げたのでした。ラバンはヤコブが逃亡したことを知らされると、全てを取り返すために後を追ってきます。成り行き次第では、力づくでも連れ戻してやろうと考えていたかもしれません。

しかし、その夜、ラバンの夢の中で、神さまは、ラバンにも語りかけてくださいました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい」。ラバンは、家の守り神を拝む人でした。ラバンの神は、アブラハム、イサク、ヤコブの神さまではありません。しかし、夢の中で語りかけられた神さまが、神さまであるという事が分かり、その言葉に従う、信心というものを持っている人でした。ラバンは神さまの言葉に従い、ヤコブに「父の家が恋しくて去るなら、去ってもよい」(30)と言ったと書かれています。主なる神さまは、このようなやり方で、ヤコブを助けてくださったのでした。ラバンから逃亡するという不完全なやり方ではあるけれども、ヤコブが神さまの言葉に従ったのを見てくださっていたのでした。そして、いびつなやり方であるけれども、神さまに従うヤコブを、神さまの者としてくださったのでした。そして、この小さな信仰者に降り注ぐ災いを消してくださったのでした。

 また、神さまは、主なる神さまを知らないラバンにも、主なる神さまと共に生きる事を教えてくださいました。「ヤコブを一切非難せぬように」。この言葉は、ラバンだけでなく、神さまに従う私たちにも語られている言葉のように思います。人は、人を非難する時、必ず相手によって自分は傷つけられた。不利益なことをされたと主張します。しかし、すべてを創造された神さまの方向を見る時、人と人との間に起こる破(やぶ)れは、実は自分と神さまの関係の破れから起こっていることに気づかされます。創造主なる神さまによって生かされていることを忘れているから、人によって傷つけられた。不利益を被(こうむ)ったと叫んでしまう。神さまとの関係が破れているから、人との関係も破れてしまう。このことを、神さまは、教えてくれています。だからこそ、「一切非難せぬように」と、神さまと関係の中で生きる生き方を、神さまに従って生きる生き方を、前もって教えてくださったのです。それは、神さまの方を見ることが出来ない私たちが、必ず相手を非難し合う事を、神さまが知っていてくださったから教えてくださったことです。神さまに従うということ。それは、人間を見るのではなく、この世の全てを造ってくださった、創造主なる神さまの方を一番に見て生きることであると、神さまはラバンを通して、私たちに知らせてくれるのです。

 

 けれども、主なる神さまのみ言葉を聞いたとしても、まだまだ自分の財産を管理することが一番大切なラバンです。今度は、このように、ヤコブを責め立てます。「なぜわたしの守り神を盗んだのか」。ラバンの守り神は、ラバンの財産を管理するのに大切な役割を果たしていました。守り神という言葉は、テラフィムという言葉が使われています。このテラフィムは、メソポタミア地方で使われていた占いの神なのだそうです。ラバンはこの守り神であるテラフィムを使って占いをして、財産を管理していたのです。そのことを考えると、ラバンがヤコブを手放したくなかった理由も更によく分かります。この守り神の占いによって、自分がヤコブのおかげで神さまからの祝福を頂いることを、ラバンは知っていたのかもしれません。また、この守り神は、財産を受け継ぐ物のしるしです。ラバンにとっては、この守り神とヤコブ、そして財産を失うことは、彼の全てを失うことになるのでした。そのため、自分の生ける拠り所である、家の守り神を何としてでも取り戻したかったのです。

 

しかし、責め立てられたヤコブは、妻ラケルが自分の父の守り神を盗んでいることを知りません。そのため、ヤコブが生きていた時代の法に従って、ラバンにこのように言います。「もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしておきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください」(32)。ラバンは、彼らの天幕に入り、探し始めました。しかし、ラケルはすでに、自分の天幕から守り神の像を取って、ラクダの鞍の下に入れ、その上に座っていました(34)。結局、ラバンは、自分の娘に騙され、守り神の像を見つけることが出来ませんでした。

 ラバンが悪いのでしょうか。盗みを働いたラケルは、罪を問われないのでしょうか。そのことを知らないヤコブは関係ないのでしょうか。さまざまな事が複雑に絡み合っている状況にあると思います。しかし、この事が複雑に見える私たちもまた、気づかなければなりません。この出来事を、人間関係や、互いの財産の事として考えている限り、何も解決することが出来ないのです。私たちも、神さまの方向を向いて、この出来事を読まない限り、ごちゃごちゃになってしまいます。そのような、ごちゃごちゃになってしまう私たちに、神さまは教えてくださいます。「人も、財産もすべては、神さまのものなのである。神さまはすべての創造主なのである」と。だからこそ、神さまは、当時、財産とその権利の象徴とされていたラバンの守り神を、ラケルの尻の下に隠させたのでした。全てのものを支配しているのは、神である。そのことを、ラバンにもヤコブにもそして、私たちにも知らせるために、ラケルを使って、まがい物の財産と権利の象徴を尻の下に敷かせたのでした。

 

 ラバンの守り神が見つからないと分かると、今度はヤコブが、20年間のラバンの罪を並べ立てて、責め始めました。そして、「もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方が私の味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう」とまで、言いました。彼は、そこまでして自分の正しさを主張したかったのだと思います。確かに、神さまは20年間ヤコブと共に生きてくださいました。それは、ヤコブを悔い改めに導くためであったと思います。しかし、ヤコブは生活の忙しさの中で、この神さまの導きさえも見えなくなってしまったのでした。そして、悔い改めを知らないままでいるヤコブは、全ての事が神さまの祝福の中で起こっていることが、なかなか理解出来きません。良い事も悪い事も、神さまの恵みとして与えられているのだという事が分からないのです。ラバンの罪を責め始めてしまった理由もここにあると思います。けれども、このヤコブの姿は、私たちの姿でもあります。神さまは言われました。「一切非難せぬよう、よく心に留めて起きなさい」。悔い改めは、神さまとの関係に置いて起こされる恵みです。しかし、神さまの関係を破ってしまっている私たちは、悔い改める事がないために、人を非難することしか出来なくなってしまうのです。そのことを、神さまはヤコブの口を通して、改めて教えてくださるのです。

42節の終わりにはこのように書かれています。「神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭(さと)されたのです」。労苦したのは、ヤコブだけではありません。ラバンも同じです。神さまの方を向けないために、労苦を重ねるのです。それは私たちも同じです。神さまの方を向けないために、労苦を重ねて、それが苦しくて人を非難するのです。「神さまは、あなたを諭された」という言葉は、「神さまは、あなたを裁かれた」という言葉にもなります。裁かれたと聞くと、私たちは罰を与えられたというふうに理解してしまいます。神さまの方を向く事が出来ない私たちは、罰を与えられるのかと思ってしまいます。しかし、「諭された」「裁かれた」という言葉は、もっと深く読むと、「非難が不当であることを証明する」とか「嫌疑(けんぎ)を晴らす」という言葉になるそうです。神さまとの関係が破れているために、人間との関係をも破ってしまい、互いに非難する私たちのために、神さまが、互いの避難が不当であることを証明してくださる。そのように読むことが出来る言葉のように思います。神さまが、神さまの方を向かないでいる、私たちの交わりの中に、このように関わってくださる。私たちの罪に、罪とは全く関係のない主なる神さまがこのように関わってくださる。そして、私たちが神さまの方を向けるように、整えてくださる。これは、このうえもない恵みです。

 

 神さまの方向を見ることが出来ないために、互いを責め合うヤコブとラバン。悔い改めることが出来ないヤコブとラバンに神さまが用意されたこと。それは、互いの間で争いが起きないように契約を結ぶことでした。ヤコブとラバンは、互いの間に石塚を築き、今後この境を越えて、相手の土地に入らないことを約束しました。

ヤコブはこれから、神さまが帰りなさいと言われた地に向かわなくてはなりません。しかし、その地は、神さまが約束された土地でありながら、自分を殺そうとする兄の住む土地でもありました。ヤコブは、ラバンの住む土地に引き返したくなるかもしれません。ラバンにかくまって貰おうと考えるかもしれません。しかし、そこに引き返してしまうと、ヤコブはまた、神さまから遠く離れて生きているようになるかもしれません。家族と財産を管理し増やすために生きる、ラバンと同じように生きるかもしれません。けれども、石塚が築かれ、契約が結ばれました。ヤコブはもう、今までのような生き方をする事は出来なくなりました。前には、向かわなければならない神さまとの約束の土地があり、後ろには契約の石塚があるため、引き返せなくなりました。彼は、神さまと共に生きなければ、生き続けることが出来ない状況になったのでした。

 

 この石塚の契約は、私たち信仰者にも必要な契約です。それは、この世的な生き方をしない、境界線の契約です。ヤコブとラバンが建てた石塚は、神さまが互いを守ってくれる石塚でもありました。二人でいるとどうしても神さまの方を向けなくなる、ラバンとヤコブに、神さまが与えてくださった石塚です。

 

 聖書には、「彼らは石を取ってきて石塚を築き、その石塚の傍らで食事を共にした」(46)と書かれています。石塚は、彼らを離すだけでなく、和解をもたらすための物ともなりました。だから、彼らは、石塚で和解の食事をしたのでした。ラバンは、このように言います。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように」。ラバンは、ヤコブが信じる主なる神さまを知るようになりました。だからこそ、自分から離れていく娘たちのために、ヤコブと娘たちと共におられる神さまに、祈りを捧げたのでした。それは、互いに干渉し、利用し合うような関係から、互いが独立し、神さまの前で責任を担う一人と認め、祈り合う関係へと移された証しであったとも言えます。主なる神さまが、彼らの間に立ってくださって、見張ってくださっている。私とあなたの関係は、あなたの主である神さまを通してしか成り立たないのだと、ラバンは言ったのでした。

 石塚は、私たち信仰者にも与えられています。石塚は、私たちがこの世でどのように生き、また、神の国を目指すのかを示してくれるものでもあります。私たちが聖書を読み、祈り、礼拝を守る時に、石塚は積み上げられ、はっきりと見えてくるはずです。そして、この石塚は、私たちの見張りとなり、私たちが神さまと共に生き続けるために、誘惑から身を守る力強い境界線の柱となっていきます。

 

 最後に「ヤコブは、山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした」と書かれてあります。ヤコブは、ベテルで主なる神さまに出会って以降、礼拝を捧げたのは、これが初めてです。それは、ヤコブの家族が、主なる神さまに礼拝を捧げたのは初めてであったことを示しています。礼拝は、神さまが与えてくださった契約を確認し、神さまと共に生き、神さまが与えてくださる恵みの御業を受け取り、それを感謝する証です。つまり、神さまと繋がり続けている事の証でもあります。もし、一族がもっと早くこの礼拝を捧げることが出来ていたら、このような争いは起こらなかったかもしれません。なぜなら、神さまと繋がるとき、私たちは互いに自らの罪に気づき、悔い改めることが出来るからです。悔い改める時、私たちは初めて神さまとの関係を回復できます。礼拝とは、ただの儀式ではありません。礼拝は、神さまの方を向いて歩けなくなった私たち一人一人が、立ち止まり、目を閉じ、主なる神さまの御声を聞きたいと願うことから始まります。神さまは、礼拝を捧げる私たちを必ず導いてくださいます。

 

「主の道はことごとく正しく、御業は慈しみを示しています。主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいまし、」。詩編145編のみ言葉です。私たちは、何時でも、どこでも、何度でも、主を呼び、礼拝を捧げ、神さまに繋がり続けたいと願います。