罪の赦し

2024・05・26伊東教会説教

「罪の赦し」(ヨハネ7・53~8・11)

上田光正

 本日の御言葉は、余りにも有名な所です。また、誰でも一度読んだら忘れられません。内村鑑三は、本日の御言葉について、「我々は、この物語の上に我々の信仰の基礎を置くことが出来る。そこから魂のまことの平安を得ることが出来る」と言っております。

この箇所は実は、わたしが24歳で牧師となり、生まれて初めて説教壇に立って説教をした時のテキストです。その時どんな説教をしたかはよく覚えておりません。ただ、本日の箇所で主がこの罪の女に対してお語りになった、「わたしもあなたを罪に定めない」とはどのような意味であるか、それを知ろうとして、わたしは一生の間聖書を読み続けてきた、と申すことはできます。実は一昨日、わたしはもう82歳になったので、58年間ご奉仕してきた教団本部に教師隠退の届け出を出していたのですが、承認するという書類を受け取りました。ですから、この説教を作りながら、隠退教師の身分に移ります。つまり、このテキストは、わたしが教師になってした最初の説教であり、最後の説教でもあるということになります。わたしの牧師としての総まとめになります。それを皆様に本日お話しできることは、大変感謝です。

さて、本日の、姦淫の罪を犯した女性ですが、この女性のその後のことが、いろいろと推測されます。彼女がここで主イエスとの本当の出会いを経験したということは間違いないと思いますので、きっと彼女はその後、主の御足の後に従う群れに加わって信者となったに違いありません。それですので、後世の人々は彼女は主から七つの悪霊を追い出してもらったマグダラのマリアではないか、と考えたりします。マグダラのマリアという女性は、主イエスに最後までお仕えし、十字架の主を見届け、復活の主に最初にお会いした女性です。また他の人は、彼女はルカ伝7章に登場する、主がベタニヤで食事の席についておられた時、入ってきて後ろから主の足もとに近づき、泣きながらその足を泪で濡らし、自分の髪の毛で拭い、それから非常に高価なナルドの香油を主の御足に塗った、あの「罪の女」と呼ばれる女性なのではないか、と考える人もおります(ルカによる福音書7章36節以下参照)。

もちろん、このような勝手な想像をすることは、聖書を自分勝手に読んでしまうことですから相当に危険なことです。なぜそれが危険かと申しますと、わたしどもがある箇所を自分勝手に解釈すると、それと違うことを言っている聖書の箇所が全然受け入れられなくなってしまうからです。しかし、このテキストに関しては、多少事情が違います。それは、皆さまの聖書にもそのように書いてあります通り、この物語全体は括弧〔 〕で囲まれています。それは、この物語は古代の聖書の重要な写本には、欠けているからです。この箇所が聖書の一部として現われて来るのは少し遅くなってからです。また、必ずしもこの箇所にはなくて、時にはルカ伝21章38節の後に挿入されたり、また、ヨハネ伝の一番最後や、その他の場所に入れられたりします。それはこの物語が信用の出来ない作り話だからでは全くありません。この話しを読めば、これは現場で実際に目撃した人の報告であることは間違いがありません。ただ、聖書の中で特に感銘の深いこの箇所がどうしてそのような扱いを受けて来たかと申しますと、これは、アウグスティヌスという神学者の説明ですが、この物語には、信仰の弱い人をつまずかせるような危険なものがあるからだろう、という推測です。つまり、この姦淫の罪を犯した女性に対して主が余りにも寛大であるが、姦淫の罪を軽く見ることにつながりかねない、と聖書を編纂した人々が恐れたのかもしれない、という説明です。あるいはそうかもしれません。

しかし、私はむしろ、この箇所はある意味では、聖書のどの箇所に入れても様になりそうな、そういう普遍的な価値を持っているのではないか、と思うのです。つまり、ここには、罪を犯したわれわれ人間が主と出会い、主から罪の赦しをいただいて新しく生きる、そういう出会いが描かれているから、聖書のどの記事と一緒に読んでもおかしくないのです。もちろん、この時主はまだ十字架にはお掛かりになっておられません。しかし、彼女の罪を赦す主イエスは、彼女の罪を御自分の十字架で背負う御覚悟で、最後のお言葉、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語っておられます。主が罪をいい加減になさることはないからです。つまり、わたしどもが信仰の目をもって読めば、この物語のずっと向こうには、主の十字架と復活が立っている、そういう物語なのです。その意味で、内村鑑三が申しましたように、「我々は、この物語の上に我々の信仰の基礎を置くことが出来る。そこから魂のまことの平安を得ることが出来る」と言えるのです。

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 それでは早速、聖書に入りましょう。主イエスはこの時、いつものように神殿に座って人々を教えて居られました。するとそこへ、姦淫の現場を押さえられた女性が引っ張られてきて、イエスの前に突き出されたのです。突き出したのは律法学者やファリサイ人たちです。たちまち、イエスと女を取り囲む群衆の大きな輪が出来ました。学者・ファリサイ人たちは、イエスに対して、「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」、と問うたのです。姦淫は当時、殺人や偶像礼拝と同じく、最も重い罪の一つで、直ちに石で撃ち殺されなければならない、とレビ記などで定められています。

しかし、ここには実は、学者・ファリサイびとたちが仕組んだ実に巧妙な罠が仕掛けられていたのです。と申しますのも、彼らの思惑では、主の普段の言動から考えて、きっと「殺してはならない」と仰るに違いない。しかし、それは明白に、モーセの律法に対する重大な違反です。そうすれば、民衆が主に向かって憤り、石を投げるかもしれない。あるいは少なくとも、学者・ファリサイびとたちはそれを材料に主を訴えることができます。しかし、万が一、主が予想に反して、「よろしい、打ち殺しなさい」と言えば、どうでしょうか。その場合には、それは普段のイエスの御国の福音や神の愛の御教えとは全く正反対のものとなります。イエスの名声はたちまち地に落ち、人々から見捨てられるでありましょう。実に巧妙な罠です。彼らは得意満面となり、腕組みでもして、主が何とお答えになられるか、その答えを待っていたに違いありません。また、そういう罠を含んだ問であることは、イエス御自身も、その場にいたすべての人々にも、すぐに察しがついたのです。たちまち息の詰まるような、極度に緊迫した空気が流れたに違いありません。

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 ところが、6節の後半以下を読みますと、思い掛けない展開となります。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」、と言うのです。主のこの不思議な行動は、どういう意味を持っていたのでしょうか。極度に緊張した空気なのであります。大きく描かれた円の真ん中に、主イエスと彼女の二人だけです。彼女は姦淫の現場からそのまま引っ張られてきましたから、多分下着姿で、その着物も泥まみれのまま、まるで群衆の晒し物です。彼女にしてみれば、恥ずかしさの極みであったに違いありません。ですからわたしは、この主の行動は、彼女を群衆や学者・ファリサイびとたちの刺すような視線からしばらくでもかばってあげるための、精いっぱいの行動だったのではないか、と考えます。そして彼女にも、それが分かったのではないでしょうか。考えるまでもなく、彼女は今、罪を犯したという自責の念に激しく責め立てられ、しかも、着の身着のままで連行されて、恥辱の限りです。その上、殺されるかもしれないという恐怖感でいっぱい。しかも、周囲はすべて敵です。だれ一人として味方のいない、完全な孤独です。その中で、ただこの主イエスだけは、不思議にも、自分に味方をしてくれる。かばってくれる。守ろうとしてくれる。一瞬彼女は、このお方は心の優しい人だな、と感じたに違いありません。わたしどもにも、彼女の心境はある程度想像できます。わたしどもも皆、いつか必ず死にます。死ぬ時にはこの女性同様、だれ一人として一緒ではなく、完全にひとりで死にます。そして、終わりの日の裁きの日が来ます。その時、わたしどもは皆、神の前で自分が生きている間に犯したすべての罪の申し開きをしなければなりません。ですから、今の彼女とそっくり同じ立場になります。自分は罪を犯したという自責の念。周囲には誰一人として味方をする人が居ないという完全な孤独。その時に、ただ一人、わたしどもの傍らに立ち、わたしどもをかばい、味方をしてくれる主イエス・キリストがおられるという、そういう彼女と同じ立場に、わたしどももいつか立つのです。そのことを、考えながら読んでみたいのです。

しかし、休めることができたのはほんのつかの間です。ファリサイびとたちのしつこい問がいつまでも続くからです。主は、彼らがいつまでも問い続けるので、再び身を起こします。そして、辺りを見回してから、凛としたお声でたった一言、短い言葉を発せられます。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。そしてまた身をかがめ、地面に書き続けられました。しかし、そのたったひと声で、――イエスを大声で問い詰めていた学者・ファリサイびとたちは驚いて目を見合わせ、何も言わなくなりました。それまで口汚く彼女の罪をののしっていた人たちが、何も言えなくなったのです。やがてしばらくすると、年寄りから始めて、一人去り、二人去りという風に、その場を去っていった、と言うのです。

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このイエスの御言葉は、余りにも有名です。多分、一度も教会に来たことのない方でも、何かの機会に聞いたことがあるでありましょう。ある牧師さんは、この言葉は、人々の視線を自分自身の内側に向けさせる働きをしている、と言っています。その通りと思います。先ほどわたしは、主は人々の視線を彼女から御自分の方に向けさせるために、しゃがんで字を書き始めた、と申しました。だとすると、この主のお言葉は、今度は人々の視線を自分自身の内側に向けさせるものです。それまでは、人々は彼女の惨めな姿をじろじろと無遠慮に眺めまわし、イエスが何を言われるかに固唾を飲んで待っていました。人間は、他人を裁いている間は、自分のことは全く棚に上げています。しかし、この御言葉は、そのような学者・ファリサイびとたちや群衆の視線を、自分自身の内側に向けさせる働きがあります。こう言われて、年寄りから始めて、一人一人その場を立ち去り始めました。若い人はいざ知らず、ご老人は人生の齢を重ね、己れの罪も弱さもよく知っていますから、悟るのも早かったのです。

わたしは長い間、カール・バルトという神学者を通して(もちろん、聖書が一番ですが!)信仰を学んで来ました。そのバルトの言葉に、罪とは何か、という説明で、どの人でも必ず犯している大きな罪がある、それは人間が犯す最大の罪であるが、他人を裁く罪だ、と言っています。人が人を裁く時――ことに、自分が傷つけられた時には、相当心根の優しい人でも――我を忘れて相手を裁きます。自分のことを忘れているからです。その良い例が、パレスティナのハマスを全滅させようとしているイスラエルです。初めは攻撃を仕掛けたハマスの方が悪かったに違いありません。しかし、そのハマスに報復する時、イスラエルは「自分は正しく、相手は悪い」としか考えていません。そしてどんどんエスカレートします。今ではどうでしょうか。お互いに自分の罪は認めず、相手の罪を裁くだけです。これが、わたしども人間が毎日していることなのです。自分たちが何をしているのか、分からないのです。

なぜ、他人を裁くことが罪なのでしょうか。それは、神さまだけが、裁くことができる、ただ一人のお方だからです。

人間が人間を裁くことができない最大の理由は、罪なくしてわたしどもの罪を背負って十字架に掛かられた神の御一人子によって、わたしどもに罪の赦しが与えられ、わたしどもが滅びから救われたからです。主イエスだけが、世界でただ一人、人を裁くことの出来る御方です。そのことを忘れてわたしどもが他人を裁くことは、自分を神とするから罪なのです。それによって、この世は誰もがお互いに裁き合い、憎み合い、殺し合う世の中となりました。皆さまが良くご存じのとおりです。

それですので、もし私どもがこの物語を読んで、単に、姦淫の最中に捕らえられたか弱い女性に同情の涙を流し、ファリサイ人たちのいやらしい狡猾さに憤りを感じ、彼らをたった一言で追い払ったイエスの御言葉に拍手喝采して感激するだけで終わると致しますならば、つまり、この物語を全くの第三者、見物人のような態度で読むと致しますならば、わたしどもはまだ、この物語を何一つ理解していないことになるのです。

なぜかと申しますと、この物語が告げている一番大切なことは、罪ということに関しては、わたしども人間の間に何の区別もない、ということだからです。それどころか、先程も申しましたように、わたしどももいつか死にます。そして、世の終わりの日には、墓の中から甦らされ、神の裁きの座に立たされます。その時わたしどもに味方をしてくれるイエスという方が傍におられるということを、わたしどもは知っているでしょうか。そのことを知っていれば、わたしどもは、人と人とが裁き合うだけの世界、あの、イスラエルとハマスがお互いに裁き合うだけの、決して平和の来ない世界の一員のままとなることが、いかに愚かなことであるかが分かるのです。

わたしどもキリスト者とは、主イエスの十字架を通して神の御子である主がわたしども罪びとの味方をして下さる。そのことを知らされた者たちです。人がクリスチャンとなるということは、そのことを感謝し、これからは主の赦しによって生きよう願い、裁くことの愚かさを繰り返し繰り返し学ぶ者となることなのであります。

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さて、そのようにして、一人去り二人去り、皆いなくなりました。ところが大変不思議なことに、彼女だけは、その場を去ろうとはしなかったのです。ですから、最後には主イエスと彼女と、二人だけとなりました。どうして、彼女は去ろうとしなかったのでしょうか。

本当は彼女は、逃げ出そうと思えば幾らでも逃げ出せたのです。もう、彼女を口汚く罵る者は一人もいません。人々の刺すような視線も、もうどこにもありません。恐らく、遠くからこっそり見ている人も、もう一人も居なかったでありましょう。しかし、彼女はその場を立ち去ろうとはしなかった。むしろ反対に、不思議にも、彼女はその泥まみれの姿で、イエスの許にいつまでも留まりたい、と願ったのです。このお方の前では、本当の自分でいられる、と感じたのです。この時の彼女の気持ちは、なかなかうまく説明することが出来ません。聖書には何も書いてありませんから、わたしどもは、ただ想像することが許される範囲で、想像するしかありません。

わたしはこんな風に考えます。彼女はイエスが自分の最大の危機の時、自分のただ一人の味方であると感じたその感覚を知りました。自分がこのお方に受け入れられ、守られている、という感覚です。それは間違いのない、確かに不思議ではありますが、非常に鮮やかな感覚です。なぜなら、彼女は今まで誰ひとりとして、そういう人と出会ったことがなかったからです。

ここまでの想像なら、きっと許されるでありましょう。

もう一つ許されるかもしれない想像は、このイエスとか呼ばれるお方は、メシアではないか、という人々の噂を、エルサレムに住んでいた彼女も知っていた、ということです。その可能性は十分にあります。そうだとすると、彼女にとっては見知らぬ人であるこのイエスこそが、本当の意味で自分を正しく裁いて救うことの出来る、ただ一人の御方だ、と感じたに違いありません。

と申しますのも、聖書の救いは、裁いて救うのです。まず罪を裁き、罪を片付けてから救ってくださいます。イスラエルは、長い間、諸外国からいつも苦しい目に遭ってきました。しかしそれは、自分たちが神を捨てて罪を犯したからだ、と自覚していました。そして、預言者に教えられて、確かな希望を持つようになりました。それは、神さまが近い将来、必ず救い主、メシアをお遣わしになる、という希望です。その場合、イスラエルの人々は、自分たちは神さまに本当に裁かれて、自分たちが犯したすべての罪を正しく裁いて赦していただいて、そして救われる、と考えていました。神の救いは、完全に裁いてから完全にお救いになる救いだからです。それですので、彼女は、自分はこのお方に裁いていただきたい、と思ったのです。彼女は自分が大罪を犯したことはよく分かっています。そして、もしイエスが本当に人々の言う通り神の御独り子であるなら、このお方から神の正しい裁きを受けたい、と思ったのです。なぜなら、もし自分がこのお方のお裁きを受けずに、群衆と一緒にこそこそとその場を立ち去ったなら、自分の罪は残るし、自分は確実に元の、罪を犯し続ける生活に戻るにちがいない、それだけは、どうしてもいやだ、と思ったからです。自分はこのメシアと言われるお方に裁かれ、新しく生まれ変わりたい。

とにかく、彼女は自分がこの御方の御言葉を聴きたい。自分の魂は今、それを必要としている、と思ったのだ、とわたしは思います。

*  * *

人々が立ち去ると、主は身を起こされました。そして、彼女に尋ねられます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。彼女が、「主よ、だれも」と答えると、主は言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」、と。

主イエスは彼女に対して、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃいました。まことに裁く権威のあるただ一人のお方として、その罪を赦し給うたのであります。ただ神のみがお持ちになる、人間の罪を裁き、罪を赦す権威によってであります。イエスは、彼女の罪を認めながら、彼女の罪を御自身の身に負うことによって、その罪を赦したのであります。

ただし、彼女はなぜ自分の罪が罪に定められずに赦されるのか、この時はまだ、理由は分かりません。

その理由は、主はこの時、ご自分の前に全身を投げ出し、如何なる裁きをも甘んじて受けようとしている女に対して、彼女の罪を取り除くため、十字架を決意しておられたからです。イエスの罪の赦しは、罪を曖昧にすることではありません。「罪に定めない」ということは、罪を是認したり、曖昧にしたり、放置することではありません。そうではなくて、皆さまが良くご存じのように、この主イエスのこのお言葉の背後には、主の十字架への固い御決意があります。主は彼女が新しく生まれ変わって生きるために、そのすべての罪を御自分が背負い、彼女が本来受けるべきものを全部御自分が受け、御自分の肉が割かれ血が流される苦しみを受けるという、わたしどもの想像を絶するような深い愛で彼女を、いや、ひとり彼女だけでなく、わたしども全人類を救おうと決意しておられたのです。ですから、彼女の罪に汚れた泥だらけの衣は彼女から取り去り、その代わりに、御自分の清い、一点のしみもしわもない輝きに満ちた白い衣が、彼女に着せられるのです。それらのことは、彼女は、全部あとで知りました。それは彼女が主イエスを信じる人たちの群れに入ってから分かったことです。

それですので、わたしは、あの、主イエスが十字架にお掛かりになる二日前の夜、非常に高価なナルドの香油の入った壺をもって後ろから主の御そばに寄り、その壺を割って香油を全部主に注ぎかけた女性は、この罪の女だったのではないか、と考える多くの方のお考えには、十分な理由があると思います。とにかく、彼女は主の尊い御愛を知りました。この主を信じて生きよう、そうすれば自分は生きることができる、と思いました。そう知って、主を信じる群れに加わったに違いない、と思います。

 私どもキリスト者とは、何でしょうか。それは、世間の人々に比べて多少は道徳的に正しくて、人にも親切で善良な人間、というような人なのでしょうか。決してそうではありません。そのような意味では、キリスト者は、世間の人々とあまり違いのない者たちです。ただ、キリスト者とは、この罪の女と同様、すべての人が立ち去った後にも、イエスのもとにとどまり続ける者のことです。このイエスの御許に留まり続け、その罪の赦しの御言葉によって守られ、愛され、毎日を新しく生かされる者です。主はわたしどもに、朝毎に、「あなたに平安があるように」と語ってくださります。そこに真の平安と喜びがあるのです。自分がありのままの自分でいられる場所を見いだし、主の御言葉によって生きる者です。そのような私どもに対して、主は今朝も、「わたしも、あなたを、罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯さないように」と語って下さるのであります。