キリストによる慰め――聖なる奴隷として生きる

2024/04/14 復活節第二主日      創世記29130節(朗読29:20-30

「キリストによる慰め――聖なる奴隷として生きる」    牧師 上田 文

 

 

先日、金森伝道師からハガキを頂きました。金森伝道師は、伊東教会で伝道実習をされ、この4月から日本基督教団の教会に赴任された方です。この2月にも、伊東教会で説教奉仕をしてくださったので、親しみを感じている方も多いと思います。伊東教会で金森伝道師が説教をしてくださった時、このような質問をした方がいました。「聖霊と悪霊は、どのように見分けられるのですか」。これは、教会でみ言葉を聞き、信仰生活をしている私たちが何時も抱える質問のように思います。パウロはこのように教えました。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(ガラ6:1)。兄弟たちとは、教会に集まる私たちの事です。しかし、私はこの言葉を聞くと、自分自身は、霊に導かれているのだろうか。いや、罪に陥っているのだろうか、悪霊に従っているのだろうか、と分からなくなってしまうように思います。そして、自分自身が罪人であるのに、聖霊によって隣人を正す事など出来ないように思います。パウロの言う、「柔和な心で、正しい道に立ち帰らせる」信徒の交わりなど、目指せないのではないかと思ってしまいます。 

今日の聖書箇所は、そのような私たちを神さまは導いて下さり、「聖なる交わり」の中に入れてくださっている事を教えてくれる話しです。

 

物語は、故郷を離れて逃亡の旅を続けているヤコブが、井戸を見つけるところから始まります。彼がそこで休んでいると、羊飼いたちが水を飲ませにやって来ました。この羊飼いたちを通じて彼は、叔父ラバンに繋げられます。羊飼いの話を聞いていると、ちょうどそのうちにラバンの娘であるラケルが羊に水を飲ませに来るというのです。そして、ラケルが羊を連れて井戸にやってくると、ヤコブは井戸の水をふさいでいる大きな石を転がして、彼女の羊に水を飲ませ、ラケルに自分のことを告げて、彼女に口付けして声をあげて泣きました(11)。ラケルは驚いて慌てて家に帰り、父ラバンにこの事を告げます。すると、ラバンも慌ててヤコブを迎えに出て来てくれました。ヤコブがラバンに、事の次第をすべて話すと、ラバンは「お前は、本当にわたしの骨肉(こつにく)の者だ」(14)と言い、彼を受け入れた事が聖書に書かれています。すべてを話したというのですから、当然、自分が父イサクと兄エサウを騙して長子の特権と長子の祝福を奪い取り、そのために、兄エサウの恨みを買って、逃げる事になった事も話したはずです。ラバンは、その事を知ったうえで彼を受け入れる事にしました。

 

家族から追われる身となったヤコブはひとりぼっちで旅をしていました。ラバンとその家族の出会いは、何よりも嬉しいものに違いなかったと思います。たった一人で、人から隠れて旅をしていたヤコブが、人に迎え入れられ、受け入れられるのです。喜ばないはずがないと思います。しかし、私たちの生活を振り返って見て下さい。私たちが一番失望するのは、人との関係の中で生きる時です。なぜそうなるのかと考えてみると、私たちが相手にその人以上の事を期待するときに、「失望」も起こってくるように思います。私も、そして相手も「神さまから赦された罪人である」という事を忘れた時に、私たちは、相手に必要以上の期待をしてしまうのかもしれません。そして、「赦された者同士である」事を忘れると、私たちは神さまから与えられた繋がりではなく、罪人同士の繋がりを作ってしまうのです。罪人同士のつながり、神さまを忘れた人間同士の繋がりは、信仰者の繋がりとは言えません。そのことを聖書は「骨肉」と表しています。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ」と言い、ヤコブを迎えた叔父ラバンの家族愛の中には、神さまの愛は含まれていなかったのでした。人間的な欲望と価値を追求するような愛でしかなかったのでした。しかし、ヤコブはこの事が分かりません。ひとりぼっちで旅を続けていたヤコブに出会ってくださった神さまの愛は、目の前に現れた叔父との出会いによってかき消されてしまいました。そして、彼は自分でも気づかないうちに、信仰とは似て非なる人間的な愛の中に身を置いて生活する事になります。

 

ヤコブが滞在を始めてひと月がたった頃です。ヤコブとラバンを繋ぐ、人間的な欲望と価値追求の愛が表面に表され始めます。ラバンはヤコブに「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい」(15)と話を持ち出しました。ラバンはひと月の間、一生懸命働くヤコブを見ていたのでしょう。それで、彼は、ヤコブを手元に置き報酬を約束したのでした。ヤコブの働きは、ラバンにとって利益となるからです。

しかし神さまは、このようなラバンさえも、神さまの御計画のために用いられます。神さまの御計画、それは、28章で約束された事を実現するためのご計画です。神さまは、ヤコブに土地を与え、ヤコブとその子孫を通して地上のすべてが祝福に入れられる。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰ると約束されました。神さまはこのご計画のためにラバンを用いられるのです。

 

「どんな報酬が欲しいか言ってみなさい」というラバンの言葉に対して、ヤコブはこのように答えます。「下の娘のラケルをくださるのなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」(18)。ラバンには二人の娘がいました。姉のレアと妹のラケルです。聖書には姉のレアは「優しい目をしていた」と書かれていますが、原文では「弱い目」と訳すことが出来ます。しかし、それに対してラケルは、「顔も美しく、容姿も優れていた」とあります。ラケルは肉体的な魅力にあふれていたのでしょう。ヤコブはこのラケルのとりこになって行きました。そのことをラバンも知っていました。だからこそ、ヤコブを上手に利用できたのでした。「七年間あなたの所で働きます」というのは、ラケルを花嫁としてもらうための、花嫁料としてヤコブが計算した労働の年数です。しかし、旧約聖書では、7年間という期間は、奴隷を働かせる契約期間として定められています。ヤコブは、ここでも自分の願いを叶えるために、さまざまな計算をし、策略を練ったことが分かります。そして、彼は神さまに仕える者としてではなく、人の奴隷として、自分の欲望を満たすために働き始めるのです。それは、兄エサウにレンズ豆のスープを与え、長子の権威を奪い取った時と同じように、またもや自分の欲望を叶えるために行動したのでした。ヤコブのこの申し出は、ラバンにとっても好都合でした。彼らは、とても仲良しに見えますが、実は、自分の欲望を満たすために動いているのです。そして、そこには神さまの方向を向いて生きるという事が忘れ去られていたのでした。

 

その後、七年の月日が過ぎ、いよいよヤコブがラケルを自分の妻にする日が来ました。結婚披露宴が盛大にもようされました。ヤコブはその披露宴を楽しみ、沢山のお酒を飲んだようです。ひょっとすると、ラバンから飲まされたのかもしれません。そして、その夜ラバンはヤコブのもとに、レアを連れてきました。酒に酔ったヤコブは、ラケルと一夜を過ごしたと思いましたが、朝になって、自分の傍らにいるのが、恋するラケルではなく、レアであった事に気づきました。ヤコブは憤って、ラバンにこのように言いました。「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」(25)。この言葉は、三章で蛇に誘惑されて禁断の木の実を食べてしまったエバに対する神さまの言葉と同じ言葉が使われています。「あなたは、私に何と言う事をしたのか」という言葉です。ヤコブはラバンが自分を騙した罪を激しく責め立てたのでした。しかも、神さまが言われた言葉をそのまま用いたのです。まるで自分は罪を犯したことがない者のように、自分が神さまになったように、ラバンを責め立てたのでした。

 

しかし、このヤコブの行動を見ていると、ヤコブが母リベカと結託して父イサクと兄エサウを騙したことを思い出します。彼は、目の悪いくなった父イサクを騙し、兄エサウになりすまして、エサウに与えられるはずであった祝福を奪いとりました。そのヤコブがラバンに騙されました。しかも、同じように目の弱いレアを使って騙されたのです。ヤコブは、ラケルという祝福を騙し取られたのでした。神さまは、このようにして、ヤコブに自分の欲望のために傷ついた人々の痛みを経験させたのでした。そのことは、ラバンの言葉からも分かります。ラバンは、憤るヤコブに向かってこのように言います。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」(26)。ヤコブは、代々、長子に受け継がれるはずであった祝福を奪いました。そして、今、妹のラケルではなく、姉のレアと結婚しなければならなくなりました。ラバンの態度は、ヤコブが今までやってきた事を映し出す鏡のように思います。それは、何よりも、神さまがヤコブに与えた約束を彼から失させないように、働いてくださった結果です。神さまは、毒を持って毒を制するように、ラバンを用いられて、ヤコブの罪を露(あら)わし、彼の欲望を満たしたり、利益を追求したりする生き方を辞めさせようとされたのでした。ヤコブは、恋するラケルと結婚するために、もう七年間ラバンのもとで働かなくてはならないことになります。もっとも、七年後にラケルと結婚するのではなく、一週間後にはラケルもヤコブの妻となるようです。ヤコブが働いた14年間、それは、神さまがヤコブのために与えてくださった恵みの年月であったとも言えるのではないでしょうか。神さまの恵み。それは、私たちの判断によって喜んだり、悲しんだりするようなものではない事が分かります。神さまは、ヤコブがラバンと過ごす事によって彼から自分の汚さを見つめる期間を与えられたのでした。「骨肉」の人間的な、利益追求の愛により、奴隷として働き、またそれを雇うような期間を、神さまは聖なる期間に変えてくださったのでした。それは、彼に与えられた約束が失われないようにするための聖なる奴隷として生きる期間と言えるかも知れません。

 

聖なる奴隷として、神さまの恵みの中で生きる期間。それは、私たちが教会において与えられている期間です。この物語を読むと、罪を犯す人と、罪を正す人が別々にいるというのではない事が分かります。この事は、この世に建てられた教会で生きる私たちを表しているように思います。教会に集められた私たちは、聖霊の導きによって生かされています。今、ここで礼拝を捧げている事さえ、聖霊の導きであると言わざるを得ません。しかし、私たちは、聖霊の導きを受けながらも、やはり、罪を犯して生き続けています。ヤコブとラバンのように、そこに神さまが入って来てくれなければ、互いに利益を追求する「骨肉」の愛の繋がりしか築くことの出来ない自分たちであることを思います。

 

では、聖霊の導きを受けながら、罪を犯し続けてしまう私たちは、どのようにして生きれば良いのでしょうか。どんなふうに、神さまに与えられた人と人との交わりを持てば良いのでしょうか。どのように、神の国の到来を待ち望めばよいのでしょうか。パウロは、私たちにこのように教えてくれました。「互いに重荷を担いなさい」(ガラ6:2)。「重荷」とは「罪」の事です。それぞれに抱えている罪を互いに担い合いなさい。そのことが、互いに隣人の罪を正しながら、神の国の到来を待ち望む恵みの期間となると教えてくれるのです。

また「重荷」は、罪だけでなく、私たちの持つ弱さや、欠け、苦しみや悲しみでもあります。「互いに重荷を担いなさい」とは、互いに弱さや欠け、人生における苦しみを担っていくことでもあります。

 

けれども、罪を犯し続ける私たちは、出来れば隣人の罪まで担いたくないと思います。自分の事で精一杯なのです。隣人の重荷まで担ってしまうと、自分の重荷もあるのに抱えきれなくなって、ドツボにハマるように思うのです。そして、相手の重荷を見て見ぬ振りをするようになってしまうと思うのです。ラバンとヤコブの関係もそうであったと思います。彼らは、深い関係を結ばなければ、表面的で楽しい付き合いが出来たかもしれません。しかし、神さまはあえて、「骨肉の者」として人間的な深い関わりを持つラバンとヤコブを導かれました。それは、ラバンとヤコブが相手と深い関わりを持ちながら、相手の罪とも関わりを持つためでした。相手の利益追求的な関わりに深く苦しみ、自らの中にも、その姿を見出すためにです。相手を見ながら、自らの罪に気づくためにです。それは、私たちにも同じです。私たちは、教会でさまざまな困難に出会います。相手と関わりを持たなければ、こんな事にはならなかったのにと思う事があると思います。しかし、神さまはヤコブと同じように、私たちに与えた救いを失わせることがないように、敢えて私たちを困難な交わりの中に導かれるのです。相手の弱さや欠点を知る事によって、自分自身の弱さを知るためです。そして、その事を知ったうえで、パウロは私たちに勧めるのです。「互いに重荷を担いなさい」。相手の重荷を担う事は神さまが私たちの重荷をすでに担っていてくださる事を経験する事に繋がるからです。

 

ヤコブとラバンの出会いを神さまは、自らのご計画の中に入れてくださいました。それは、神さまが与えられた「約束」を失わせにようにするための導きとなりました。この導きは、聖霊によりここに集められた私たちにも、与えられています。それは、神さまに与えられた「約束」を私たちが軽んじないようにするためです。「互いに重荷を担うこと」を軽んじる事は、神さまから与えられた約束を軽んじることと言えるかもしれません。また、「互いの重荷を担うこと」を軽んじることは時、「あなたと共にいる」と言ってくださり、私たちの重荷を担ってくださり十字架に架かってくださったイエスさまを軽んじることにもなります。自分の重荷も、隣人の重荷も担いきれない、そんな私たちの重荷をイエスさまが担ってくださいます。隣人に仕え、隣人の重荷を担って行くことは、自分の力では出来ません。自分の力ではなく、全ての重荷を担ってくださったイエスさまの力によって出来るのです。私たちは、このイエスさまを軽んじることは出来ません。

 

隣人に仕え、隣人の重荷を担うこと、あるいは重荷を担って貰って生きる事は、傷ついたり傷つけられたり、嫌な思いをしたり、させられたり、時にはその事によって相手との関係や、自分の人生までもが壊れそうになったりする事があります。私たちはそのような時に「互いの重荷を担う」ことを諦めそうになります。ギブアップしそうになります。それは、私たちの教会だけで起こっている事ではありません。ヤコブとラバンの関係にだって起こるように、歴史の上に立てられた神さまの導きを受ける共同体には、いつも起こっている出来事です。しかし、神さまはこの事を通して、ヤコブがそして私たちが「神さまとイエスさま」のみを信じ、その聖霊の力のみに頼る者へと導いてくださるのです。イエスさまの十字架のみを見上げるならば、どれほど不完全で弱さと欠けだらけであったとしても、神さまが与えてくださった隣人と共に神の国を待ち続けることが出来ます。ラバンの奴隷として働いた期間をヤコブは「ほんの数日のように思えた」(20)と聖書は記しています。神さまと隣人の聖なる奴隷として仕えながら、神の国を待ち望む期間は「ほんの数日」と感じるはずなのです。それが、神の国を待ち望む私たちに与えられた恵みです。イエスさまにお頼りし、互いに重荷を担うとき、私たちはいつもイエスさまと共に生き、神さまの国を待ち望むことができるのです。

 

「わたしは、あなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう」(詩編32:8)。私たちに救いの約束を与えてくださった神さまの言葉です。この言葉に励まされて、神さまに与えられた隣人の重荷を担い、恵みの中で神の国を待ちのぞみたいと思います。