エウティコという生き方――復活の励まし

2024/04/07 復活節第一主日聖餐礼拝(教会役員就任式) 

使徒言行録説教第61回 20112

「エウティコという生き方――復活の励まし」

                                                                                                                牧師 上田彰

*教会の「中」、教会の「外」

 使徒言行録、それは私どもの教会の始まりを示しています。かつて聖書祈祷会に熱心に通っておられた一人の信仰者が、祈りの中で次のようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。「自分はバタ臭いものに憧れて教会の門をくぐった。そして長い間、欧米への憧れをもってキリスト教に接し続けていたように思う。しかし人生の晩年になって、自分が聖書の世界に深く入り込んできたのではないか、と思うようになった」。聖書の世界、そして使徒言行録の教会は、私どもにとってどういうものでしょうか。自分たちは外にいる、という感覚になるでしょうか。何かバタ臭く、縁遠いけれども憧れの世界にとどまっているでしょうか。そこに入るために一体何が出来るかと修行をし、あるいは勉強をすると入れるのだろうかと前をうろうろしているようなものでしょうか。あるいはそれとも、自分はもう聖書の世界の、そして使徒言行録の教会の中にいるという感覚でしょうか。自分はその教会の一員であり、外の世界にいてなんとなく酸素が薄いな、エネルギーが足りないなと思うようになったときに教会に来て、酸素室に入り、あるいは船が時々港に立ち寄って修理を受けることが出来る、ドックに入ったような感覚になるでしょうか。

 自分が教会の外にいるのか、中にいるのか。これは説教を聞く者の課題であるばかりでなく、語る側の課題でもあります。半年ほど前に、日本基督教団のメディア担当部から打診があり、インターネットに掲載する説教を送ってほしいと頼まれました。教団が開設している説教メッセージのコーナーは、教会に行っている人のみを対象としているものではなく、むしろこういったコーナーを通じて教会に行っていない人にもキリスト教のメッセージを送りたい、いわゆる伝道の趣旨だと理解しましたので、いえいえ私の説教は教会向けに語るものばかりですから引き受けることは出来ません、などと断るのではなく、喜んで引き受けました。思い出すと、コロナの最後の波が襲ってきていた時期です。見る方に希望を届けられるよう、なるべく楽しいものにしようと思いました。カメラを構えながら商店街から教会へと町を練り歩き、教会員に手を振ってもらいながら礼拝堂の扉を開けて中に入り、子どもたちが御言葉を聞く、そんなオープニング構成にしました。登場人物は説教者一人という構成が未だに多い中で、私たちは教会に閉じこもって礼拝だけしているのではなく、教会の門をくぐるときの思いを町の方々と共有したい、そんな狙いを込めたものになりました。ほぼ狙い通りの反響が得られたと思っています。その説教に近いものを昨年の召天者記念礼拝の時にさせていただきました。広く教会外の方もおいでになることがある礼拝の時にはそのような説教もありかな、と思ったものです。

 しかし、説教というものが本質的には教会においでになった方向けのものなのだな、ということもまた半年前にその説教をここで語ったときに強く思わされました。ここで語っていることは、伊東にいるすべての人に聞いてほしいと思っているし、多くの人に聞いてもらうことによって私自身、あるいは教会自身が考えさせられることがあると思っています。しかし他方で、教会という枠があるからこそ、神様の御言葉として聞かれる、という側面があります。聞くときに、ただのよいお話を聞くというつもりではなく、説教者は神様の言葉を聖書から説き起こしていて、それを聞きたいという願いがあるという前提があるからこそ、説教として語ることが出来る、ということを感じさせられます。

 半年前とほぼ同じ箇所を今回説教するに当たって、前後の文脈を度外視して語らざるを得ない前回と違い、前後の文脈を何度もおさらいしました。やはり聖書は順番に読んでいって意味があるのだと思います。私自身が、聖書の世界の中に、そして使徒言行録の教会の中に入り込む必要があることを感じさせられました。

 

*何に驚くか

 今日は役員就任式もあるのに長めの前置きになってしまっています。今日の箇所は、使徒言行録の中では、いわゆる日常的な教会の営みが描かれているところとしては最後の箇所になります。やがて舞台は再びエルサレム近辺に移ります。日常的な教会の風景と申しましたが、ここに出てくるのは日常的な光景でしょうか。一人の青年が説教中に眠りこけて窓から外に落ちて命を失ってしまう、そして復活する。一見すると、日常的な営みとは言えません。しかし不思議なことに、復活するという出来事が起こったのにとりわけ大騒ぎが起こっている様子はありません。使徒言行録の類似の箇所(例えば9章)と比較しても、大騒ぎにはなっていません。唯一起こっている反応と言えば、12節でいうところの「慰め」です。復活という非日常に対する反応を記すより、みんなが慰められたという日常の反応を記す。あるいは復活よりも大事なのは慰めなのだ、そういう日常の営みが教会でなされることを記憶し記録することの方が、ちょっと突飛なことが起こったといって話題にし伝説にするよりもずっと大事ではないか。教会に皆落ち着きを求めに来ているのだから、それは当然だ。

 そこまで読み取ったときに、私は正直今日の箇所から、半年前とは違う次元の衝撃を受けたように思いました。もしかすると、復活するということに驚くのは私どもが、あるいは説教者である私自身が、教会で起こっている現実に対して鈍感になってしまっているのではないか。本当はイエス・キリストの復活のみが決定的に重要で、他の復活はイエス様のよみがえりにくっついて起こる出来事なのだから、イエス様のよみがえりだけ驚いていたっていいはずなのに、違うことに驚いてしまっている。礼拝中に人が死ぬというのが一大事で、さらに復活するというのはもっと一大事だ、そう思ってしまうのは、自分がトロアスの教会に入りきっていなかったからではないか。そう教えられたような気がして、教会の奥深さに驚いているのです。違う箇所になりますが、幼子イエスに出会って死ぬ預言者シメオンの箇所(ルカ2)についてカルヴァンが、「シメオンは主に出会って死ぬ。それはシメオンが年老いた人だからというのではなく、実は礼拝に出て御言葉を聞いた者は、誰であっても死ぬのではないか」という興味深い発言をしています。私たちは、礼拝の最中に救急車に運ばれれば大騒ぎをします。死んだらもっと大騒ぎでしょう。では復活したら?それらすべてが、カルヴァンの「御言葉を聞く者は自分の力でもはや生きていない」という発言からすれば、大事件ではなくなってしまう。それほどに大きな出来事が、週ごとに礼拝において起こっている。今日の説教では私自身が、トロアス教会の中に足をきちんと踏み入れて、福音の世界を中から味わいたいと思うのです。

 

*「一致」を巡る問い

 時は除酵祭の後、一週間ほどしての出来事です。除酵祭というのはユダヤ教の祭りの名前で、イースターのことです。つまり今日の箇所は、イースター明け、イースター直後の教会の様子を描いているのです。何か今日の出来事が、急に現実になって来ないでしょうか。

 私どもが、イエス・キリストの復活に驚ききっていれば、他の出来事は大概のことを大したこととは思わないですむようになるのかもしれません。そんな中でイースター明けの今日の記事で目を引くことがあります。それは、ある言葉が今日の箇所で何度も出てきている、ということです。復活するということよりも、どうやらこちらにトロアス教会の関心はあったようなのです。それは慰め、または励ましです。同じ言葉が二通りに訳し分けられています。ギリシャ語ではパラカレオー、文字通りの意味は「そばで呼ぶ」となります。英語で、スタンド・バイ・ミーという言い方がありますが、まさにそれです。
12節では「慰め」、1節、2節では「励まし」と訳されています。教会においてどうしても欠かすことの出来ない言葉です。特に当時の教会はこの言葉を意識せざるを得ない事態が生じていました。暗く悲しい出来事がエフェソで起こったことは、トロアスにもすでに伝わっていました。1節にあります「騒動」。これはエフェソ教会がめざましい伝道の成果を上げることで逆恨みを受け、町の銀細工職人を中心にして教会に対して抗議運動のことです。そして主催者たちの意図を超えて大規模に発展してしまい、ついに警察の介入不可避という事態に陥りました。逮捕者が出るぞと市の当局から言われたところで、やっと騒動は収まりました。

 もしこれだけの話なら、教会は単なる被害者ですから、大変なことがありましたねというだけですみます。ところがルカは、この騒動は、教会のあり方そのものに対する問いかけを含んでいるのではないか、と考えました。そして、この騒動を記録する際に、一つの言葉をわざと用いました。それは、一つとなって、という言葉です。群衆が一つとなってパウロの仲間を捕まえて野外劇場になだれ込んだ、と前の章の29節にあります。この「一つとなって」というのは、元々はペンテコステの出来事を描く2章などにも出てくる、教会の一致を言い表すキーワードのようになっている言葉でした。普通私どもは、教会が一致していることはいいことだ、と考えます。私もそう思っています。しかし、その一致が信仰的な一致ではなく、一時的な思いによる一致であったらどうなるでしょうか。そういう問いをルカは19章を記す際に読者に投げかけているのです。

 そう言われると、私どもも考え込んでしまうのです。一致とは一体何だろうか。教会における一致が人間的一致にとどまっていてはいけないというのは、言われれば当然だと思います。しかし神様がたもう、聖霊による一致とは一体何なのだろうか。人間的一致と決定的に違うところは何だろうか。

 その答えは19章には出てきていません。警察沙汰になるぞと言われてパウロの仲間にリンチを加えていた群衆がはたと憑き物が落ちたように殴る手を止め、解散したというところで19章は終わるのです。

 この出来事は、教会にも大きな影響を与えました。普通に考えれば教会は単なる被害者です。終わってよかった、警察沙汰になるぞというあの一言、効いたよねなどと言って、自分たちの本来のわざである伝道を引き続き続けようという話で終わっても良さそうな気がします。

 しかしこの出来事は、単なる被害者という位置づけに自分たちを置いてよいのかという問いになっていったようです。自分たちもまた、一つとなるということを神様がたもう恵みと考えずに、人間が努力して盛り上げて作り出す一致という風に考えてしまっていたのではないか。そのような深い問いを抱えるに至ったのです。あの騒動は教会に集う人々の心にもまたぽっかりと風穴を開けたのでした。

 そのような教会が必要としていたものは何でしょうか。そのようなときだからこそパウロが説いて回らなければならなかったものとは一体なんでしょうか。それが「クライスト・スタンド・バイ・ユー」、キリストがあなた方とともにいてくださるという「励まし」なのです。エチオピアの宦官がフィリポに対して聖書の解説をしてほしいと願うとき(8章)の言葉を思い出してみます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。「手引きする」ということばはパラカレオー、元は同じ「励ます」という言葉です。「信仰に踏みとどまる」(14)という言葉も見つかります。これも信仰のそばに居続ける、パラカレオーです。人間のわざとして用いられている例もありますが、圧倒的に多くの場合、「主なるキリストがともにいてくださる」という意味合いでパラカレオーは使われるのです。1節や2節では、パウロがパラカレオーしたと書かれています。しかしその中身は、主イエス・キリストがともにいてくださるというメッセージを伝えた、ということです。パラカレオーの本当の主語は、いつだってイエス様です。

 そしてそのことが、信仰者たちに本当の一致をもたらします。つまり、人間的一致でもってエフェソの人々のようにキリスト教が迫害されて良いかと言われれば、それはあまり良くないに決まっているわけですが、では人間的一致でもって教会自身が命脈を保っているのであれば、それでいいのかと言われれば、ではそもそも人間的一致ではない一致とは何か、ということを聞いてみたくなるのです。それに対するルカとパウロの、いえ聖書の答えははっきりしていて、キリストがともにいるということを実感することによってだ、だから一回だけ「ともにいる」というのでは十分ではないので、二回、三回と主がともにいることを今日の箇所で繰り返すのです。

 今日の箇所にも「ユダヤ人の陰謀」によって旅路を変更せざるを得ないという記述があります。もはやエフェソにおいてのみならず、どこに行ってもパウロたちはお尋ね者になってしまいました。平安を告げるはずの伝道活動が、自分自身の平安を脅かすようになっている。ちなみに今日の箇所で、礼拝をしていた三階の部屋には灯火がつけられていたということがわざわざ記されています。日曜も夜更けになって人々が集まっている。あれはキリスト教の集会らしいといって町から注目を集めている。どうもキリストの肉と血を分け合うといういかがわしい儀式をしているらしい。そういう噂に対抗するため、灯火をつけるのです。灯火をたくさんともした、ということを強調するのは、おそらく自分たちは怪しい宗教ではない、そういって胸襟を開くような仕方で、今風にいえば礼拝を「見える化」した、つまり礼拝をガラス張りで行うようにした、というわけです。

 そして今日の箇所の4節には、合計七名のパウロの同行者の名前が挙がっていますが、一部を除いてどういう人だったかがよくわかっていません。しかしおそらく、パウロとともにエルサレムに上ることを決意していた人々ではなかったかと思われます。もしそうだとしたら、すでにパウロとこの七人は、殉教の可能性があることを覚悟していたということになります。

 怪しい宗教なのだから弾圧されるのは当然である。そんな世論は、いつの時代にも簡単に作り上げられてしまいます。礼拝を完全ガラス張りにして、あるいはそれ以外の様々な方法で外見を整えたたとしても、それで信仰者の心にぽっかりと空いた風穴が塞がるわけではありません。彼らに、いえ私たちに必要なのは、礼拝の中心にいてくださる主です。

*「ともにある」という励まし


迫害と殉教の危機の狭間で、主にある一致とは何かを改めて考える教会。だからトロアスの教会は願うのです。主がともにいてくださるということを、もっと実感したい、と。日曜日はおそらく朝早くにパン割きの儀式を信仰者同士で持ったのでしょうが、当時は日曜が休日というわけではなく、人々はそれぞれの仕事に出かけました。しかし夕方になって、パウロが翌日出発する、だから人々とまた礼拝を捧げたいという希望があり、今でいう夕礼拝に教会員が皆集まりました。人間としてのパウロを愛する、もうすぐ死んでしまうかもしれないパウロに一度会っておきたい、というのではないのです。パウロが説く、キリストがともにいてくださるということ、キリストの臨在を皆がまた確認したい、そういって教会に集まったのです。パウロの話は夜中まで続いたといいます。灯火がたくさんともされている部屋。換気は良かったのでしょうか。日中の仕事で疲れている人もいます。そのような中の一人、若いエウティコを眠気が襲いました。窓際に腰掛けていた彼は、三階から落下。打ち所が悪く、亡くなってしまいました。そこにパウロが駆け寄ります。そして彼を抱きかかえて、人々に告げるのです。「騒ぐな、彼は生きているのだから」。翻訳は「まだ生きている」と訳しています。「まだ」という言葉は翻訳者の付け加えです。ない方がすっきりしていると感じていましたが、あった方がより深い読み方が出来ることに気づきました。例えば、道で行き倒れになってほぼ死にかけている人を見て、「まだ生きている」と表現した場合、それは自分は十分に生きている人だが、行き倒れになった人は自分とは違って「まだ」生きている、というニュアンスになることが多いと思います。今日のパウロの言葉を「まだ生きている」と訳す場合には、少し状況が違います。パウロはここで、「エウティコはまだ生きている。そして自分もまだ生きている。ここにいる人々は皆、まだ生きている。「まだ生きている」としかいいようのない仕方で生かされているのではないか」。そのように言っていると考えたときに、「まだ生きている」という翻訳は意味を持ちます。

 私どもの教会は、主イエスの与えてくださる命によって、「まだ」生きている者達の集まりです。エウティコというのは「幸い」という意味です。幸いな人生とは、主イエスによって生かされて「まだ生きている」と言いうる生き方なのではないでしょうか。ご高齢で起きることもままならなくなった方を問安したときに、「まだ生きています」と言われる方に出会うことがあります。今まで、お世辞のように「まだお元気ですよ」と、他人事として言っていたのではないかと思い知らされました。「あなたが、まだ生きている、と言うのであれば、私も、まだ生きている、のです。みんな、イエス様によって生かされていますよ」。そう伝えることが出来たら、なんと素晴らしいことでしょうか。

 

*礼拝を守り続ける

 パウロはトロアスを去ります。しかしエウティコは残ります。教会の人々は、エウティコによって大いに慰められた、とあります。彼が立派な説教者となったということは全く書かれていません。そういう意味ではなく、あのキリストにある励ましを語る語りの中で一度は死んでいった者が、再び礼拝の中でよみがえった。「まだ」生かされている者になった。生きることも死ぬこともただ主のためだとパウロは語りますが、生きることも死ぬことも主の手による導きの内にあるということ、生きることと死ぬことよりももっと重大なのは礼拝を捧げ続けるということだということが、エウティコの生き様からわかるのです。

 言われてみれば気がつかされます。人間的一致と主にある一致のどこが違うのか。人間的一致は、人間が始めたのですから、やがて終わります。主にある一致は、キリストが始めてくださるのですから、終わりはありません。パウロは、エウティコは、そして教会の信仰者は、主が集めてくださった礼拝に集い、御言葉を聞き、パン割きを共有するのです。今日の箇所は、あの騒動から三ヶ月が経ってイースターが来た、と始め、そして人々は慰められた、で終わります。私どもは、どんなときにも浮き足立つことなく礼拝を守り続けたい。主がともにいる励ましを受けたい。イースター明けを迎える私どもに、主にある大いなる励ましがあります。