祈りと御言葉の奉仕に専念する教会

2024/03/24 受難節第六主日礼拝(棕櫚の主日・教会総会) 

「祈りと御言葉の奉仕に専念する教会」(次年度教会聖句(予定))

使徒言行録6:1-7 

牧師 上田彰

 

*教会総会の意味と意義

 本年も教会総会の日を迎えました。次年度の聖句を通じて、新しい年度の歩みがいかなるものとなるべきかについて、主の御心を聞いて参りたいと思います。

 役員会において、六つの聖句の候補が挙げられました。ここまでの歩みを思い返し、新しい年度をどのように迎えるべきか、捉え直す際に、この聖句であればこういう歩みになる、この聖句であればこういう歩みをすることになる、そのような選択肢を掲げ、私どもの教会の歩みがどのようなものとなることを主は望んでおられるか、役員で祈りました。一つの聖句にたどり着きました。

 この聖句の意味を役員会で問われました。次のように説明をしました。「祈り、聖書を読むことが教会においてもっとも大事な奉仕である。このことを肝に銘じたい。礼拝説教を聞く、そのことに力を注いでくださる信徒がいることは、説教者にとっての励ましになる。み言葉を聞くという奉仕があってこそ、他の奉仕も意味を持つようになる」。いつの時代にも、どの教会においても、通用する説明ではなかったかもしれません。しかし、今の私どもにとって大事な説明をしたことになるのではないかと思っています。

また、この聖句は、再来週にまた聞くことになると思います。教会役員の選挙を受けて、後日任職式、任職のための祈りが予定されているのです。その際の式文の中に、役員の務めを短くまとめている、この聖句が読まれることになっています。繰り返し、教会が聞き続けなければならない御言葉です。

 もちろん、この聖句を次年度の聖句として用いることが決められるのは、午後に行われます総会の中でのことです。そのことについて念を押すついでに確認しなければならないことは、聖句が、そして様々な議案が決められるというのは、最終的には私どもの納得の事柄ではないということです。むしろ、神様が決めてくださるということを信じたいと思います。

教会総会に限らず、現代に生きる私どもは、納得をしたいと考える傾向があります。納得することは、当然悪いことではありません。しかし、自分が、そして自分たちが納得すればそれで十分であると考えて良いのでしょうか。自分たちの納得がすべてであると思いそうになるときに、今日の聖書箇所に目を向けることは意味があると思います。

 

*教会に足を踏み入れる祭司達

 今日の聖書箇所に出て参ります一つの集団に注目してみましょう。今日の最後の部分に出てくる人たちです。「祭司も大勢信仰に入った」。神殿に仕えることを生業としている人たちが、神殿ではなく教会に押し寄せてきたというのです。ユダヤ教とキリスト教の区別がはっきりしていなかった当時であっても、驚くべき事柄であることはわかります。

なぜ祭司が教会に軸足を置くようになったのか。細かく見て行くと一筋縄ではいかない箇所ではあるのですが、こう想像してみたいと思います。当時2万人くらいいた祭司達は24のグループに分けられます。年に二度、一週間の神殿礼拝の務めを果たします。当番に当たっている時にはその組の司祭はみな神殿の敷地から出ずに、神殿詰めになり、礼拝を司ります。捧げ物が焼き尽くされ、煙が空高く上る様子が、遠くからでもわかったそうです。牛、羊、あるいは鳩が神殿参りを行う信仰者によって献げられ、それらを祭司が焼き尽くす。香りが神様に届くと考えられていました。(絵はエルサレム神殿、右側に祭壇が設けられ、捧げ物が焼かれている)

 私どもの伊東教会の柱は、モーセが民を導くときの柱であると同時に、焼き尽くす捧げ物が立てる煙をも意味しています。いわば、礼拝を通じて柱が立てられた、というわけです。この、「柱が立つ」というのは3500年前の過去の出来事ではありません。現代においても形を変えながら、私どもは礼拝の時に何らかの意味で「柱が立つ」ということを経験しているのではないでしょうか。礼拝において人々が集まる。ここに信仰者の群れがあるということが、様々な形で誰の目にも明らかになっている。

 さて、神殿においてこのような「柱を立てる」際に大事な役割を果たすのが、祭司です。彼らは、神殿礼拝に仕える者であることを誇りに思っていました。神殿に詰めて過ごす一週間の間の務めは、生活上も厳しいものでした。今でいうと軍隊のように、朝起きる時刻から決められ、神殿に入る時刻、そして神殿での振る舞いなども定められていました。しかしその期間、イスラエル民族の誇りである、柱を立てるというわざに与ることが出来るのです。

 ところが、その誇りが揺らぐ出来事が起きていました。それは、24に分けられている自分たちのグループの中で、権力関係が生じたことが理由です。一週間寝食を共にする700人の者達の間でくじ引きをし、一人が大祭司として特別の役割を果たすはずだったのですが、いつの間にか700人の中でボスが固定化し、そのボスが自分たちの当番の時にはいつも大祭司の役割を果たすようになっていました。いつの間にか人間的事情が優先されるようになります。当時は神殿に献げられた肉を祭司が下取りしていたのですが、噂によると祭司同士で分けるときにも不平等な分配がされているとか。もうそんな噂が立つようになると、落ち着いて礼拝に専念し柱を立てるどころの話ではありません。祭司達が浮き足立ち始めるのです。

 

*教会の交わりで重んじられていたもの

隣の芝は青い、ではありませんが神殿の隣にあたりますキリスト者のグループの集いにこのタイミングで祭司達が一度は目を向けることは、わかる気がします。その一方で、教会に加入するようになるには、まだ距離がありそうにも思います。当時の状況を確認しておきます。

 この段階では、キリスト者とユダヤ人の区別は曖昧で、キリスト者も神殿で礼拝を献げ、その後自分たちのグループだけでの礼拝を献げていました。ペトロなども、神殿での礼拝の時間には神殿に行き、教会でのパン割きの儀式の時間には教会にいました。前者は生け贄を伴う、柱が立つ大きな礼拝で、後者はイエス様に出会った生き証人である12人の弟子たちの、イエス様に関わる証言を聞いて聖餐を分かち合う小さな礼拝でした。

 大きな礼拝を献げる神殿に属するはずの祭司が、小さな礼拝を献げる教会に目を向けた理由は何でしょうか。それは、彼らキリスト者の群れが送っていた共同生活にあったのではないかと思います。彼らは礼拝だけでなく生活も共にしていました。

 礼拝以外の共同生活、交わりがどんなものであったのか。今でいう修道院の走りのような、信仰者であれば老若男女問わず一緒に住める寮もあったようです。そこにおいて神殿祭司が送っていたような厳しい生活の規律があったのかどうかはわかりません。キリスト者の共同生活でむしろ目を引くのは、彼らがやもめや病人、貧しい者の保護に力を入れており、彼女たちも共同生活の群れに組み込まれていた、ということです。キリスト者たちは、最初の時期から貧しい者への施しを実践していました。共同体の中の貧しい者が生活に困ることがないようにと配慮がなされていたのです。神殿礼拝における献げものとは別に、教会で独自に献げものが集められました。

 当初、それらは貧しい者として教会で保護されている人々皆に、平等に分けられていました。キリスト者と呼ばれる共同体は、当初順調なスタートを切っていました。皆が信頼し共同体が小さい間は何のトラブルも起こらずにいたのです

神殿ではトラブルを抱えていた祭司達は、神殿そばの新しいキリスト者グループのことを聞いてはいたと思いますが、まだ腕組みをして、教会から距離を取っていました。グループのことを観察している、そういう段階でした。なぜ彼らが最初は教会から距離を取っていたかというと、祭司達は知っていたからです。どんな共同体でも、そのうちトラブルが起こるということを。そしてそのトラブルをどのようにかのキリスト者の共同体が乗り越えるのか、見物(みもの)だといって観察をしていたのです。

 トラブルとはどのように起こるかというと、教会の場合はこのようにして起こりました。すべてのやもめや病人の中で、身寄りを持っている人もいました。エルサレム生まれでエルサレム育ちのユダヤ人のやもめは、地元に知り合いが大勢います。使う言葉も地元の言葉ですから、仲間も多いのです。ユダヤ人のやもめは、教会以外からのもらい物があったのです。それに対して、エルサレム以外の、あるいは外国からやってきた信仰者がいました。使う言葉も当時の公用語であったギリシャ語で、彼らは教会以外のつながりが薄かったのです。教会からもらうものだけで生活をしていました。

 そこで、今日の箇所の1節に出ている出来事が起こったのです。つまり、教会の中に、ギリシャ語を話す外国系の信仰者と、地元の信仰者がいたのです。最初は外国系・ギリシャ系のやもめも、地元系・ユダヤ系のやもめも、皆が同じ分量の配給を受けていました。それで問題がなかったのです。

 ところがやがて、クレームがつけられ始めます。どういうものかというと、こうです。「配給量が平等なのは、一見すると公正なように見えるが、全然公正ではない」。そう言い出す人たちが出てきたというのです。教会の歴史上初めての教会内のトラブルは、やもめへの配給問題であった、という訳です。「あちらを立てればこちらが立たず」という言い方がありますが、人間が二人集まればけんかが起きるのが世の常です。本当の公平とは何かということを巡って、教会で争いが起きても不思議はありません。そして腕組みをして観察していた神殿側の祭司達は、このクレームを教会がどのように処理するのか、じっくり観察を始めました。

 2節をお読みします。

「そこで、十二人(の使徒)は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない』」。

 教会を代表する12人の弟子たちが、浮き足立ちかけているすべての教会のメンバーを集めて語った言葉です。ここに出てくる「好ましくない」というのは控えめすぎる翻訳です。ここで使徒たちが語った言葉を、聖書の元の言葉通りに訳すならば、「御心に適っていない」となります。つまり、教会が二つのグループに分かれかけていて、浮き足立ちかけている。調停されなければならない。しかし、そのような調停を行うことを12弟子が引き受けるというのは、神様の御心に反している。これが使徒たちの主張です。当時の使徒たちは、神様の代理人ぐらいの位置づけがありましたから、彼らが「御心に反している」とまで発言すれば、教会のメンバーは基本的にはそれに従おうとします。使徒たちは要するに、自分たちとは別に配給係を立ててほしいと要望し、その結果七人の執事が立てられることになりました。みなギリシャ語の響きの名前を持っています。異邦人キリスト者の状況をよく理解している人たちが、今後は配給に携わることになりました。

 

*ここに神様がいる――自らの小ささへの気づき

 さて、この様子を腕組みをして教会から離れたところで遠巻きに観察をしていた祭司達は、どう受け止めたのでしょうか。一見すると、ここから自分たちが加入しようとまで考えるには、まだ距離があるのではないか、となるのではないでしょうか。聖書は、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」と記します。「神の言葉がますます広まる理由」がここまでの経緯の中で説明されているのか、わかりにくいように思うのです。「要するに、配給問題なのか。しかもこの問題そのものが解決したというよりは、配給をする人が任命されただけではないか」と考えたって不思議はありません。

 しかし、逆に考えることも出来ます。それは、配給問題を、小さな問題だと考えるならば、わざわざ執事という職を設けて任命まですることはない、しかし教会は、あえて配給問題を些細な問題とはしないだけのしっかりした眼力を備えていた、という考え方です。このことについて大きく取り上げ、専門的に当たる人を割り振って確実に解決することで、教会が視野のバランスを欠くことはない、むしろこのことによってより大きな視野を得ることが出来るのではないか。だから配給係をわざわざ使徒が自ら彼らの頭の上に手を置き、いわゆる按手を行って任命しました。

 「御心に適っていない」。使徒たちの問題提起は、神様の御心がどこにあるのか、思い出してほしいという使徒は教会全体への訴えです。神様の御心がはっきりしていなければ、この訴えは意味をなさなくなってしまいかねません。

それで思い出したことがあります。先日、教団におきまして宣教方策を議論する会議に出て参りました。その際、コロナの影響による礼拝出席減少が、東京近辺の教会でどのように起こったかをいろいろ聞いて回りました。先週の須田先生の言い方ですと、都内近郊の教会は皆同じように半減したという風にお取りになる方もおられたかもしれませんが、明暗が分かれたというのが印象です。「明」の教会がすごく少ないのは確かです。「暗」の教会がどのようなものか、はっきりした傾向がありました。それは、「全信号が青信号になっている教会」の落ち込みが顕著です。

 「全信号が青信号になっている」様子を想像していただければと思います。みんな気持ちよくドライブ出来るのです。少し速度を上げて運転したって大丈夫です。だって、目の前の信号は「青」なのですから。教会の中は全然統率が取れていないのに、人がどんどん増えるという教会が、一時期礼拝出席が伸びました。日本キリスト教団の教会はみな、「全方向青」で行くべきだ、と真顔で言う牧師がおり、現にそういう教会が教団屈指の礼拝出席を誇る教会でもあったのです。しかしそのような教会が、コロナの後礼拝出席がコロナ前より7割減少のままになっている。そう聞いたとき、今日の聖書箇所を思い出すのです。「御心に適っていない」という使徒たちの訴えは、「御心が何であるのか、信号がきちんと機能していて、運転する人が混乱をしないか心がけなさい」ということです。

 「祈りと御言葉の奉仕に専念する」、ある翻訳では「祈りと御言葉のそばにとどまり続ける」とあります。信号はやはり、こちらが青の場合はあちらが赤でないと困るのです。「これは御心に適っていない」とはっきりさせる仕組み、当時で言えば使徒の言葉、今で言えば信仰告白とか教会規則のようなものが必要なのです。皆が聖書を読んでいることも前提と言えるでしょう。教会の場合に大事なのは、自分の目の前の信号が青であっても赤であっても、目指すところが礼拝でなければならないということです。無責任にあなたの目の前の信号は青ですよと交通案内をすることは、事故につながります。止まるときには止まれ、と指示を出す信号機が必要なのです。使徒は礼拝の務めに専念する。教会全体としては礼拝を目指すということが神様の御心であるとはっきりしているところ、それが教会なのではないか。2000年前の使徒の発言は、現代の私どもにも当てはまるのではないでしょうか。

都心の一部の教会にあるような全方向青教会においては、統率が取れていないので、人が傷ついて出て行くこともあります。しかし、トータルで増えればいいだろうというのは、不幸な考え方です。一人一人の魂が教会で安らぎを得ることが出来なければ、本当の意味で「神の言葉が広まった」とは言えないはずです。この「神の言葉が広まる」という表現、聖書の元の言葉で確認をしますと、こうなっています。「神の言葉は育ち、そしていっぱいになった」。「神の言葉が広まった」というのは、人が増えたということではなく、むしろ一人一人の心に御言葉がしみこむようになった、より深く神の言葉が一人一人を貫くようになった、ということなのです。

 初代教会の様子をじっと腕組みして観察していた祭司達は、やがて自分たちも教会に加入したいと願うようになります。ここにしかない交わり、確かな信号機があることを見て取ったからです。ここにしかない聖なる交わりがある。ここで神様の方を向きたい。だからここに身を置きたい。聖書には、祭司達が神殿での奉仕から抜けた、とは書いていません。その後も神殿礼拝を当番の時は司っていたのかもしれません。しかし、神殿での共同生活から、教会での共同生活への、心の引っ越しを彼らはすでに行っていました。

 かれら祭司達は気づいたのです。当初の、教会の外にいた彼らは、教会における配給問題に関心を持っていました。自分たちがかつて、祭司の間で同じであるはずなのに、持つ者と持たざる者とに振り分けられてしまった。だから、隣の芝である教会で、本当の意味で平等な、公正な分配が果たしてなされるのか、ということに、関心を持っていたのです。しかし、そんな関心は教会に実際に足を踏み入れて、吹き飛ばされました。御言葉の広がりが祭司達自身を捕らえるようになって、隣の芝に足を踏み入れてわかったのは、かつての自分たちは、人間同士の関係だけを問題にしていたという、自分たち自身の小ささです。人間と人間との間の公平さなどという小さなこだわりを吹き飛ばすような、豊かな関係が教会で持たれていることに気づいたのです。神様の方を向くということが、これほどに豊かなことなのか!

 「わたしたち使徒が、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは神様の御心に反している。」そう言って使徒たちは祈りと御言葉に専念します。

 使徒たちが、いえ教会全体が関心を向けているのは、神様の御言葉であり、神様の御心です。神殿において人間的な争いに疲れていた祭司達が、ここに心を置くようになって回復する。ここでは御言葉と祈りが何にも勝るという価値観がはっきりしていたからです。

 彼ら初代教会は、人間同士の争いは、神の前に立ったときに小さなものとなることを知っていました。すべての人のすべての努力は、教会に属するものが御言葉によって新たにされ、豊かにされることに向けられる。それぞれの信仰者の中で、神様の言葉が広くなり、深くなるためです。そのことにだけ関心を持っている信仰者の共同体を目の前にして、祭司達は、まだ自分は線の手前にいていいのだろうか、線を踏み越えて教会に加わるべきなのではないだろうかと考えるようになり、そしてついに一歩を踏み入れたのです。

 

 教会総会の日を迎えました。私どももまた、祭司と同じように、改めて教会共同体に心の引っ越しを行い、ここで柱を立てたいと願います。私どもの教会は、神様の御心が最もはっきりと現れる場所が礼拝以外にある、信号機のある交差点は教会総会である、と信じる教会です。総会においてなお自分たち自身の納得のために話し合いを持つのでしょうか。確かに納得するということも大事かもしれません。しかしそれ以上に、神様が決めてくださる、私たちが向くべき神様の方向がどこであるのか知りたい、そのことを重んじたいと思います。

神様の決定にすべてを委ねる、委ね方を学ぶ会になればという願いは、私どもすべての願いです。