我らの弱さを知り給うイエス

20240310説教「我らの弱さを知り給うイエス」

(ヘブル4・14~16;マタイ263646

上田光正

 ただ今は受難節で、イエス様の御苦しみを思う季節です。それで、ただ今司会の方がお読みくださった二つの聖句が与えられました。本日は皆様とご一緒に、わたしどもの主イエス・キリストの恵みについてご一緒に考えたいと思います。

最初に、ヘブライ人への手紙の方をお開け下さい。その真中の、15節にこう書いてあります。

  「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さらなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われたのです」

とあります。

「大祭司」というのは、イエス様のことを言っています。つまり、イエス様はあらゆる点で、わたしどもと同じような試練や苦しみに遭われた。だから、わたしどもの弱さをも十分お分かりになって下さるお方だ、と言っています。「同情できる」という訳語は少し弱すぎます。前の口語訳では、「わたしたちの弱さを思いやることができないような方ではない」と訳されて居ました。「思いやり」という日本語がぴったりしているので、わたしは前の訳の方が好きです。わたしどものどんなに深い悩みや苦しみでも、イエスさまだけはちゃんと分かってくださる。ただちょっびり同情してくださるのではなく、わたしどもの弱さを知り、弱さゆえの苦しみを知り給う。その苦しみのただ中にご自分も入り込み、それをご自分のものとして引き受けて下さった、という意味です。だから、勇気を出して主の御許に近づこうではないか、と言っています。

今から百年ほど前に、ドイツにリルケという詩人がいました。この人はキリスト教に好意は寄せてはいましたが、なかなか信仰には踏み込めない人でした。この人が書いた、「ドゥイーノの悲歌」という詩集は、今でも世界中で読まれています。この人が大人向けに書いた童話に、「神さまのお話」(1900年)という作品があります。わたしはこの説教を作りながら、何度かその本のことを思い出しました。こういうお話です。

神さまが、天から地上の世界をみそなわし、人々の苦しみに目を止めて深く心を痛められ、何とかして救いたいと思われた。すると、神さまの右の手が肩のところからぷっつりと千切れて、まっしぐらに下へ落ちて行かれた(この神の右の手はキリストと思われます)。続いて左の手も、右の手を助けようとして肩のところから千切れ、右の手の後を追うようにして落ちて行かれた(この左手は聖霊と思われます)。やがて30年ほど時が経ち、ユダヤの国のエルサエムの郊外で、人々が「十字架につけよ!十字架につけよ!」と狂ったように叫んで大変な騒ぎが起きているようなのですが、天の父なる神様からは雲に覆われて何も見えません。しばらくして、右の手と左の手が、右手は全身血まみれになり、左手は目に涙をいっぱい浮かべながら一緒に天に帰ってきた。しかし、地上では人間は相も変わらず深い不安と悩みと絶望の中にいて、少しも変りばえはしなかった、というお話です。

 このお話を書いたリルケは、結局信仰を持たないまま死んでしまいました。彼が言いたかったことは、キリスト教の救いは、人類の本当の苦しみにまでは届いていないのではないか。イエス様が十字架にかかったぐらいでは、人類の悩みにまでは届かないのではないか、という疑いのようです。

* *

いったい、リルケが考えていた、人間の抱えている悩みとは、何なのでしょうか。

それは、経済的な貧しさの事でしょうか。それとも、肉体の病や、何らかの障害で、人並みの生活が出来ない悩みでしょうか。それとも、愛するわが子を失った悲しみや、人々から捨てられ、忘れられ、最後には一人寂しく死んでゆく心細さ、そういった悩みの事でしょうか。

恐らく、人間の最も深い悩みとは、それらのことではないのではないかと思います。それらのことはみなお互いに深く関係し合っています。そして、どの一つとして、主がそんなものは悩みではない、と仰るものはありません。しかし、人間の最も深い悩みは、それらではないのです。そして、恐らく、リルケ自身、それが何であるかは、分からなかったのではないかと思います。

わたしはリルケの気持ちはそれなりによく分かるつもりですが、やはりわたしどもは、聖書から、それが何であるかを示されます。先ほどご一緒にお読みしたヘブライ人への手紙は、まさに彼のような悩みを抱えて現代を生きている方々に対して、適切な言葉を語っていると思うのです。ここには、「わたしたちの弱さを思いやることができないような御方ではない」、と書いてあります。この「弱さ」というみ言葉に、ご注目ください。主はわたしどもの弱さを思いやることが出来ないような御方ではない。いったい、人間の「弱さ」とは、何なのでしょうか。わたしはそれは、色々な言い方が出来るとは思いますが、わたしども人間の「寄る辺なさ」という言葉も、一つの適切な言葉ではないかと思います。先ほどご一緒に歌った讃美歌第85番は、人間が生きる上で、いかに弱くて寄る辺の無い存在であるかを歌っています。2番の歌詞をもう一度読みますと、

「うつりゆく世、さだめなき身、

ただ主に頼りて 安きをぞえん」

と謳っています。

聖書によれば、人間は誰でも、今日は生えていても、明日は炉に投げ入れられる野の草のような存在です(詩9056)。今日は元気でいても明日は病に倒れ、一人寂しく寝込んで人々からも忘れられてしまうかもしれません。あたかも、川のほとりに生えていて、風に吹かれてはゆらゆらとゆれている葦やヨシのような存在です。

 詩人のリルケも恐らく、神は本当に、現代を生きる人間の心の最も奥深いところにある不安、寄る辺なさ、そういうところで、本当にキリストは《このわたし》のことをご存じであるのか、という疑いを抱いたまま、一生を終えたのではないかと思います。

では、もう少し先を読んでみましょう。ここにはもう一つ、イエス・キリストは「罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われた」と書いてあります。「試練」とは、人生の耐えられないような苦しみのことでありましょう。主は人間が出会うどんなに苦しい試練をも御経験なさった。主は決してスーパーマンのように、どんな苦しみにも耐えられるような頑丈なお方ではありません。むしろ主は、神の子であられるにもかかわらず、わたしどもと同じ一人の弱さを抱えた人間となられました。それは、この世のどんなに弱い者をも、お救いになるためです。

まず主は、「罪は犯されなかった」、と書いてあります。わたしども凡ての人間は、生きているかぎり、大なり小なり沢山の罪を犯します。それも、ほとんど自分では気が付きません。気が付かないことを含めて、それこそ人間の弱さと申すより他にありません。しかし主は、一度も罪を犯したことがありません。主イエス・キリストは、天に居ます父なる神の御独り子で、父と等しいお方ですから、父なる神に背くことはありません。

もっとも、一度も罪を犯したことのない神の子が、本当に人間の苦しみや不安、特に、罪を犯さざるを得ない弱さを抱えた人間の悩みを、お分かりになることができるのか、と思われる方もおられるかも知れません。しかしそれは心配ありません。なぜなら、人生の本当の苦しみや試練を経験した人は、かえって他人の苦しみや弱さを理解することができるからです。

それですから、主は「あらゆる点において」、わたしどもが出会うすべての試みに遭われました。だから、弱いわたしどもの弱さが分かるし、わたしどもを助けることができる。だから、この主を信じ、その十字架の愛を受け入れ、わたしどもの告白する信仰を保ち続けようではないか、とヘブライ人への手紙の著者は言っているです。

* *

さて、本日は二か所、聖書をお読みいただきました。と申しますのも、あとでお読みいただいたゲッセマネの祈りの箇所は、まさしく、寄る辺の無い存在であるたしどもの悩みの最も深い、底の底にまで、主が降りて来て助けてくださった、ということをわたしどもに深く納得させてくださる御言葉ではないか、と考えたからです。

本日は、受難節のまだ中ごろで、今年の受難日、主が十字架にお掛かりになった聖金曜日は、今月の29日です。ですから時期的には少し早いのですが、本日は、このゲッセマネの祈りの箇所の方もご一緒にお読みしながら、わたしどもの礼拝を守りたいと思いました。どうぞ、そちらの方を開けてください。

このお祈りは、主が逮捕されて裁判に掛けられ、十字架にお掛かりになる前の夜に、ですから、金曜日の前の木曜日の夜に、およそ3時間かけて祈られた祈りです。主はもちろん、逃げ出そうと思えばいつでも逃げることが出来ました。しかし主は、むしろ、わたしどもの罪の贖いのために、十字架へ向かうために、その最後の決意を固めるために、この祈りを祈られたのです。

その場所は、エルサレム郊外の、ゲッセマネの園と呼ばれる、主イエス御一行の隠れ家のある、オリーブ畑の少し奥の方です。ちょうど、過越しの祭りの頃ですから、満月の月明かりが煌々とあたりを照らしていたはずです。主はそこで、およそ3時間にわたって、最後の祈りを捧げられました。

 この時、主は最大の試練を受けられたと言われます。それは、わたしども全人類の罪を背負って、最も弱い罪びとの立場にお立ちになって、罪びとが負うべき死の苦しみを味わい尽くす心を固めるための祈りです。ですから、最初から、とても厳しい書き出しで始まっています。「(主は)悲しみ悶え始められた。そして、彼ら(弟子たち)に言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」(マタイ263738)。べトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちに支えられながら、園の奥に入りました。

この個所を始めてお読みになられた方は、きっと不思議な違和感にとらわれると思います。それは、主が死を非常に恐れておられたことを、聖書は少しも隠そうとはしていないからです。宗教改革者のルターは、この主イエスを指さして、「この人間ほど、死を恐れた人は居なかった」、と説明しています。普通は、わたしどもの知っている偉い人というのは、死に臨んで、余り恐怖心は抱きません。むしろ、大往生を遂げる人が多いのです。特に宗教家と呼ばれる人は、義のために死ぬのであれば、少しも死を恐れず、むしろ泰然自若として死に赴くのが普通です。そうでない人は、人間としては小さいのではないか、と思われます。わたしどもが知っているキリスト教の無数の殉教者を考えてみても、首を切られようと火で焼かれようと、皆喜んで死んでゆきました。キリスト教徒でなくても、例えば、ソクラテスの場合は、やはり罪がないのに殺されるのですが、彼は弟子たちと哲学の話をしながら、毒杯を飲み干しました。

そういう人々の場合と比べて、主イエス・キリストはなぜ、恐れおののき、また悩み始められたのか、ということです。いったい主は、その後主を信じて喜んで死んで行った無数のキリスト教の殉教者たちと較べても、劣った人物であるのか、ということなのです。そしてその時に、先ほどのルターの言葉、これほどに死を恐れた人は居ない、という言葉を、今更のように考えさせられるのです。つまりゲッセマの園における主イエスの戦いの秘密は、何であったのか、ということです。

主イエスの死は、普通の死ではなかった、ということです。ここでわたしどもは、二つのことをしっかりと心に留めなければなりません。第一は、主の死は、ご自分の罪の故の死ではなく、徹頭徹尾、わたしども罪びとのための、《身代わりの死》であった、ということです。第二に、主の死は、本来わたしどもが死ぬべき、罪人の死、神の無い死、神に棄てられて死ぬ死、いやむしろ、神の呪いを受けて死ぬ死を、代わって死ぬことである、ということです。それは、この世のどんな苦しみよりも、何千万倍も大きな苦しみのはずです。主は文字通り、その罪びとが本来死ぬべき死を、底の底まで徹底的に味わい尽くして死なれたのです。

罪人としてさばきを受け、神から捨てられて死ぬ死は、だれ一人として耐えることが出来ません。その苦しみに耐えられる人間はたった一人も世の中にはいないでありましょう。それを耐えることが出来るのは、ただ、神である主イエスだけが、神としての無限の忍耐力で耐えられるだけです。だから主は、わたしどもを永遠に罪から救い出すために、この本物の《罪人の死》を、死なれるのです。

もちろん、われわれも死にます。しかし、わたしどもの死は、あの主の十字架の身代わりの死によって、もはやそのような死では全くなくなりました。むしろそれは、永遠の命への入り口となりました。希望のある死、平安な死となりました。しかしそれは、主の十字架の死のおかげであります。その代り、主イエスは神の子として、ただ一度、全人類のために十字架に死ななければならなかったのです。

ですからルターは、この人ほど、死を恐れた人は居なかった、と言ったのです。

* *

さて、主は園の奥までゆくと、弟子たちをそこに残しておいて、ご自分だけ更に50メートルほど離れたところまでゆき、地べたに突っ伏して父なる神に祈りました。

マタイ伝では、主イエスの祈りは二回に分けて書かれています。最初の祈りはこうです。「父よ、出来ることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(39節)です。「この杯」とは、苦しみの杯という意味で、十字架にお掛かりになることです。この場面を描いた聖画では、杯が実際空中に描き込まれている絵もあります。主は、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈るのです。これは決して、「わたしが十字架にかからないで済むようにして下さい」という祈りではありません。主は、神であられるお方としては、十字架にかかって人類を救うことが父なる神の御心であることをよくご存じです。しかし、一人の弱い人間としてのイエスは、父なる神の御心の奥の奥までは知りません。ですから、一人の本当に弱い、わたしどもと同じ立場にお立ちになった御方として、「もし他の道があるなら、お示しください」と祈るばかりです。それは、苦しみの極みの中での人間イエスの、真心からの問いかけです。ルカ伝の方を読むと、この時、「汗が血の滴るように地面に落ちた」(2244)と書いてあります。しかし、父なる神は一言もお答えにならないのです。主が一番苦しい問を出されたのに、父なる神は一言も答えてくれません。そして、祈る主の額から汗がポタポタと、血のしたたりのように、地面に落ちた、と言うのです。

恐らく、最初の祈りが小一時間ぐらい続いたのでありましょう。途中で主は立ち上がり、弟子たちにも祈って支えてほしいと思われたのでありましょう、弟子たちのところに来られました。しかし三人とも前後不覚の眠りに落ちていました。恐らく、連日の緊張で疲労困憊していたのでありましょう。主はお声をかけられました「あなたがたはこのように、わずかいっときもわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(40節)。本当は、主はご自分のために、祈ってほしかったのです。しかし、主が弟子たちにおかけになったお言葉は、何と優しいお言葉だったでしょうか。「心は燃えていても、肉体は弱いのだ」。それこそ、主の優しさの極みです。

それから主は、元の場所に来て二度目の祈りをささげられました。この時の祈りは、もう、最初の祈りとは少し変化しています。「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(42節)、です。わたしの考えでは、主はきっとこの時、父なる神が何もお答えにならないことの中に、「他の道はない」というお答えを、はっきりとお聴きになられたのではないかと思います。それだから、「あなたの御心が成りますように」という祈りが出て来たのです。これはご存じのように、主イエスがわたしどもに教えて呉れた《主の祈り》の一節です。主の日ごろの祈りだったに違いありません。

主はこの祈りで、御生涯で最大の苦しい戦いをされたのです。そしてわたしどもは、これが救い主の最大の戦いであったことを、心から肝に銘じておかなければならないと思います。主はこの祈りによって、最後の最後の、十字架の死まで、歩み通せました。裁判でもいっさい自己弁護をせず、罵られても罵り返さず、十字架の上でも、どんなにあざ笑われ、侮辱されても十字架を下りることはなさいませんでした。

こういう風にも言われましたね。「お前は他人を救ったのに、自分自身を救うことが出来ない。神の子キリストよ、今すぐ十字架から降りて見よ。そうしたら信じてやろう」(マタイ2742)。主はもちろん降りようと思えばいつでも降りられたのです。神に祈って天の万軍を呼び寄せれば、いつでも降りられました。しかし主は、わたしどものまことの救い主となり、わたしどもを最後の最後まで愛し抜くために、降りることをしなかったのです。

ですから、このゲッセマネの祈りは勝利の祈りなのです。祈りを終えて主が最後に弟子たちに語られた非常に力強いお言葉が、それを示しています。45節ですね。お読みします。

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子(わたし)は罪びとたちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」

「立て、行こう」というのは、とても力強い言葉です。それは、この世の支配者が、わたしを捕らえて十字架にかけるために、今そこまで来た。しかし、彼はわたしに対して何の力も持っていない。わたしに命じたり、わたしの運命を変えたりする力はない。立て。さあ、それを示しに行こうではないか、という意味です。

このようにして、主は十字架への道を最後の最後まで歩み通すことができました。

* * *

中世に、ボナヴェントゥーラという神学者がおります。その人が書いた、受難節のとても深いお祈りがあります。こういう祈りです。

 「神の子イエスよ、

あなたが全世界の罪を清めるためには、

たった一滴の血でも十分です。

それだのにあなたは、

われらのためにみ身体から

そのすべての御血潮を

注ぎ尽くされました」

という祈りです。イエス様の血は、たった一滴でも十分全世界を救う力があります。それだのに、主は全身の御血潮を、この地球の上に注ぎ尽くされた、と祈っています。わたしども愛して、そのお命の最後の最後まで与え尽くされました。

初めにご紹介した、詩人のリルケは、これらのことが何も分かっていなかったのです。人間の本当の弱さとは、頼るべき神が無いこと、神を失うことです。すなわち、神の愛が分からないゆえの、不安や寄る辺なさです。そうであるとすれば、主のあのゲッセマネの祈りは、まさにこの弱いわたしどものためにありました。風に揺らぐ葦のような寄る辺の無い、弱さを抱えたわたしども一人ひとりをどこまでも愛して下さるために、主はわたしどものすぐ近くにまで来て、あの勝利の祈りを祈ってくださったのです。

そして主は、ご承知のように、死んで三日目に、墓の中から甦られ、天の父なる神の御許に凱旋されました。そして復活の主は、今朝も、こう仰います。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ1633)、と。

それですので、本日与えられましたヘブライ人への手紙は、こういう御言葉で結ばれています。

 「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」

すなわち、あのキリストのゲッセマネの祈りを、自分のための祈りとっして受け止めようではないか。そして、キリストを信じ、その御愛を信じようではないか。そして、その御愛の中に自分の生きる根っこを、いしずえを、置こうではないか、と言っているのです。