心の琴線に触れる

2024/3/3 受難節前第三主日聖餐礼拝 「心の琴線に触れる」 

使徒言行録説教第59回 19章1~7節、29~40節     牧師 上田彰

 

*「献身」と「召命」を巡る思い出

 神学校で学んでいたときに、ある後輩の神学生が友達に悩みを打ち明けているのを耳にしました。その人は、高校を卒業してすぐに東神大に入り、神学校でも前向きにいろいろなことをしている、という印象を周りは持っていました。ただ、学年が上がるにつれ、学校の勉強が難しくなるだけでなく、夏期伝道実習などを経て牧師としての務めがだんだん身近になるにつれ、神学を学ぶことが重荷になってきているようでした。次のように打ち明けていました。

 「自分は献身の思いをもって神学校に入って今まで勉強してきた。しかし、牧師になるというのは献身の思いだけではなく、召命が必要で、それが自分にはないのではないかと思っている」。

複雑な言葉がいくつも出てきているので、解説をします。

 まず献身という言葉ですが、身を献げると書きます。「感謝と献身のしるしとしての献金」などという言葉で聞き慣れています。神様の前に進み出て、自分を神様の道具として、また神様の器として用いてくださいと願うことが、そして実際に奉仕をすることが、献身です。しかしその神学生は、「神様に仕える一生懸命の思いだけでは、神学校での学びには十分ではないと気づいた」、というのです。もう一つ、召命が必要だ、というのです。この言葉に思いを向けます。

召命というのは、神様からの命令によって召される、と書きます。英語で言えばコーリング、呼ばれる、という意味です。神学校の先生であった北森先生という方が、キリスト教の信仰は「猫」型の信仰だ、とおっしゃっています。母親の猫は、子猫を運ぶときに首の後ろをくわえるのだそうです。それに対して「猿」の場合は、小猿が母ザルにしがみつきます。後者のタイプの宗教もあるのでしょう。あともう一つ、コアラ型というのもあります。それは母コアラも子どものコアラもしっかり相手に抱きついている。それらと違う形で、キリスト教の信仰は、そして私どもプロテスタント教会の信仰は、「猫型」なのだ、それが北森先生の主張です。そしてその場合、ただ自分がやる気を出せばいいというサル型の献身ではなく、猫型なのだから神様がその願いを起こして下さっているという自覚に基づき、そして母猫が持ち運んでくれるのにそっと付き添う。神様の方に持ち上げていただくことで献身が出来る。これを召命によって起こされる献身の願い、と呼ぶことが出来るでしょう。

実は神学校とは、このようなやりとりがあちこちでなされているのです。そのときはたまたまラウンジという、学生のたまり場で話していたので覚えていますが、神学校での学びというのは、そのような悩み、相談するような光景というのが日常茶飯事のように見受けられるのです。どこにおいても「召命」ということは問われます。おそらく、一度限りのやりとりで、その若い神学生が納得をすることはなかったでしょう。むしろ何度も、いろいろな人と話をし、自分自身で祈り考える中で、自分の召命を自覚するということになっていくものなのでしょう。決して、論理的に納得するという性質のものではありません。あえて言うならば、何度も問うて祈り直す中で、心の琴線に触れる答えに導かれて、そして学びを続けることが出来るのではないかと思います。
話によると、そういった形で召命が問われないような神学の学びというものもあるのだそうです。それが遠い外国の話なのか、それとも日本という伝道途上国でも起こっていることなのか、ここで何かについて触れる時間はなさそうです。しかしどこの国にある神学校だったとしても、召命が問われないままで神学の学びを終え、その人が牧師として教会に送り出されることがあるとするならば、それはお互いにとって不幸なことになるでしょう。今日の週報に、神学校の教師が伊東教会に来てくださるということが記されているのを見て、改めて神学校の働きの重要性というものを思い起こします。

ニコデモ――「上から(新しく)生まれる」

 25年ほど前のやりとりを今回改めて思い起こして、ある一つの聖書箇所を思い出しました。ヨハネ福音書3章にある、一人の求道者ニコデモがイエス様のところにやってきたときの光景です。人目を避けて夜にイエス様を訪問したニコデモに対して、イエス様はこうおっしゃいます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。この言葉はニコデモにとって謎となります。人がもう一度母の胎に入って生まれ直すことなど出来るのだろうか、そうつぶやくニコデモに対して、イエス様は勧めます。「聖霊によって生まれなさい」、と。「新たに生まれる」ということは「聖霊によって生まれる」と言い直せます。これは重要なことです。実は聖書の元の言葉を見ますと、この「新たに生まれる」というのは「上から生まれる」と訳すことが出来ます。
少し大胆にいうならば、「聖霊による」という言葉はすべて「上から」「新しく」という言葉によって置き換えられてもいいのかもしれません。例えば聖霊のわざというのは、神様のわざなのですから上からのわざであり、そして常に新しいわざである、という風に。ここでいう「新たに生まれる」というのは、「聖霊によって生まれる」ということであり、「上から生まれる」、つまり、「召命を自覚してキリスト者として歩む」とき、人は新たに生まれるのだ、ということです。子猫のように、母親猫に首根っこをつままれて、そしてそのつままれることに自分の身を委ねる。そのような生き方へと転換することが、新たに生まれるということであり、上から生まれるということであり、そして聖霊によって生まれるということです。一文で言い表すならば、「聖霊によって上から生まれ直す」となります。

気がつかされるのは、召命というのは、牧師になる人だけが特別に与えられるものではありません。すべての信仰者が洗礼を受けるときにあの主イエスの言葉を聞くのです。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。そして知らされるのです。洗礼を志願するに至る思いが、神様から与えられていなければ、何の意味もないのだ、ということを。

 

*エフェソ教会における「成長」

 前回から、エフェソ教会において「召命」が問われています。一人の若い伝道者、アポロが来ました。受け入れたエフェソ教会にはプリスキラとアキラがいます。彼ら夫妻はパウロの間近にいましたから、伝道者としてアポロにどんな資質がなお欠けているか、彼の説教を聞きながら気がつきました。アポロは、例えば政治家になったりする際には必要な能力は身につけていました。人に向かって語る際に役に立つ能力です。もちろんそれ自身は政治家ばかりでなく説教者としても必要な能力です。しかし、アポロはその弁論家としての能力に甘んじて、説教を語る際に最も大事なことに気づこうとすることができなかったのです。それが、説教は神様のことについて語り、神様に向かって語るということです。神様に向かって語るということをしない説教は、説教の形を取ったただのスピーチです。アポロは熱心に車輪を回しますが、その車輪は空回りしている状態、献身の思いは持っているが召命無き献身ではないかという悩みを持っていたのでしょう。そしてそのような者の語る説教は、心の琴線に触れるものとはなりません。エフェソの教会員は、単なるメッセージではなく、本当の説教を渇望し、熱望していました。自分の信仰が、上から召されたものであるということに気づかせてくれる説教を聞きたがっていたのです。そんな信仰者の心に触れる説教を語りたい。願いを持ちながら、どうがんばってもたどり着かないという悩みを持っていたアポロに、プリスキラとアキラは語りかけます。彼は二人との交わりを通じて説教者としての能力に目覚めはじめました。今日の説教の後半で大いに触れることになりますが、実はこのときの目覚めはまだ完全ではありませんでした。しかし説教者としての実力に目覚め始めたのは事実です。そして彼はコリントを含むアカイア地方への伝道を希望しました。それを受けてエフェソ教会は、一枚の推薦状を記すことにしました。アポロを伝道者として派遣するという手紙が記される様子が、今日の箇所の直前に描かれています。エフェソ教会としては、うれしかったに違いありません。一人の信仰者が教会での交わりを通じて伝道者として育っていくわけですから。

使徒言行録とは、このように、教会を通じて伝道者が育っていく、いえ伝道者が育つことを通じて教会が育っていく物語です。ある人は、この書を使徒行伝ではなく聖霊行伝と呼ぶべきだと言っています。つまり、使徒がどのように働いたかを記しているようでありながら、聖霊がどのように働いたかを記す書だから、という訳です。確かにこの書は、最初から聖霊の働きについて注目しています。例えば12弟子を中心に120人が集まった二階の部屋で祈っていたときに、人々が一つになるような体験をします。皆が自分の出身地の言葉で自由に話し出す。自由に話しているようでありながら、皆十字架の言葉を語るようになる。そして互いに、ペルシャ語とヘブライ語、アラム語とギリシャ語など全く違う言葉については片言の言葉しかわからないはずなのに、お互いにわかるようになった。十字架の言葉が、あるいは上から働く神の言葉が、お互いの片言のやりとりなのに通じるようになった。それらの現象を簡単に言うならば、聖霊が働くことでお互いの信仰の琴線に触れる言葉になっていった。使徒言行録の中でキーワードのように使われている言葉がここで現れるのです。それは「一つとなって」という言葉です。一つとなる。これが、使徒言行録に現れる聖霊の働きです。使徒言行録全体で9回、他に新約聖書では一回出てくるだけなので、ほぼ使徒言行録の専売特許のように使われる言葉ともいえます。使徒言行録といえば聖霊、聖霊といえば一つとなる。そして一つとなった教会は、そこに集う信仰者を育てるようになって行く。

 

*ルカの問題提起――「一つとなる」とは?

 この麗しい構図がいつまでも続けばなんと良いことでしょうか。しかしルカは冷淡に、この「一つとなる」ということが持っているマイナスの側面についても使徒言行録で余すところなく描くのです。今日お読みしました二つ目の箇所はエフェソで起きた暴動ですが、その中でパウロの同行者を捕まえて野外劇場になだれ込む一団が、一つとなって暴動を起こす、というのです。

心の琴線に触れる言葉が語られ、自分の信仰が神様から与えられたものだと気づいたときに、人々はお互いを愛し合いながら高めあうようになります。これが「一つとなる」という言葉の本来の意味だと思いますが、ルカはあえて、同じ「一つとなる」という言葉を用いて、「暴動もまた一つとなってのわざではないか」と読者に問いを投げかけているように思います。

 つまり、聖霊のわざとして教会が一つとなることもあるし、もしかすると聖霊が、あるいは悪霊がなすわざとして、集団が暴徒と化すこともある。どこまでが心の琴線に触れる言葉に触発された伝道のわざで、どこからが心の琴線に触れないままで起こった暴動なのか。

 この、野外劇場での暴動の出来事について見ておきたいと思います。この出来事をルカは、「この道のことでただならぬ騒動が起こった」と書き起こします。「この道のこと」というのは「キリスト教の伝道のこと」という意味です。従ってルカは、今回の出来事が起こった背景として、教会がたまたま変な勢力によってねじ曲げられて暴動になった、本当は教会は純粋なものであるのに、汚れた世俗的なものによって迷惑を被っている、単なる不幸な、そして偶然的な出来事だというのではなく、教会が発展していくプロセスの中でこういった暴動に巻き込まれていくことは必然的なことだ、と言おうとしているようです。

 今回の暴動は、直接的にはデメトリオという銀細工師が仕組んだもののようです。彼はエフェソに実際にあった神殿のミニチュアを銀で作り、神殿への参拝客に売っていました。単に観光みやげというだけでなく、そのミニチュア神殿を持ち帰ることで御利益があるというわけです。ところが、パウロがやってきて、ミニチュア神殿と結びついた御利益信仰から人々が離れそうになっている。だからパウロを懲らしめてやろう、というのです。仲間の銀細工師にそのことを伝えたところ、彼らだけでなく町中がエキサイトしてしまい、人々はその神殿に奉られているアルテミスの名前を叫びながらパウロを捕まえようとします。これが、先ほどから使っている言葉で言うと、デメトリオが彼ら細工職人仲間の心の琴線に触れる言葉を語ったからこの暴動が大規模になったのか、それともそうではないのか、そこはなんとも言えないと思います。とにかく彼らはパウロの仲間を二人捕らえ、野外劇場になだれ込みます。一つとなって。今や、使徒言行録を特徴付ける最も美しい言葉であったはずの「一つとなって」は、忌まわしい言葉になってしまったかのようです。

 ルカはこのように、「一つとなって」という言葉が、二つの全く異なる使われ方をされることに目を向けます。ルカが、片方を聖霊のわざ、もう片方を悪霊のわざという風に分けているのかどうかは、よくわかりません。もちろん、ここで暴徒と化している集団はエフェソの神殿宗教で、キリスト教とは別のものです。従って、キリスト教を取り囲む集団が悪霊によってそそのかされてこんなことを働いている、そういう構図で見ることも出来なくはないかもしれません。しかし他方で、アルテミス神殿のミニチュア銀細工を作り出す職人たちは、職業的プライドと同時に信仰的プライドを持って仕事に励んでいます。教会が、信仰的プライド一本でやっていくと決めていても、教会の外の世界で、別の種類のプライドがある場合に、それらをすべて悪霊の仕業だと決めつけてしまうことは、あまり得策ではありません。

 この暴動に収束がつけられるのは、実は信仰的な解決ではありませんでした。パウロが介入する前にその町の書記官が出てきて暴徒たちをなだめたのです。どういう風になだめたかというと、「パウロたちは普通に伝道をしているのであって、アルテミス神殿を宗教的に冒涜したわけではない。だからこの暴動には、信仰は一切介在していない。あるのはただ暴力だけだ。だからこのことについて裁きがあるとしたら、暴力だけが裁かれる」。どうやらそういう説得だったようです。そのような書記官の説得を聞いて、人々は、はたと気づきます。自分たちの拳が振り上げられている。他人を傷つけるために拳が振り下ろされかけていた。

 野外劇場の外にいたパウロは、この出来事をどのように見ていたのでしょうか。他方には自分の同僚が、一生懸命伝道をしている。その姿に危機感を感じ、一生懸命伝道を妨害し、キリスト教を迫害する者達がいる。パウロが、伝道者の側のみならず、迫害者の側にも自身を重ね合わせていても、不思議はありません。一生懸命に自分の信じるところを突き進み、そのことのために献身するということが、時に空回りをし、時に暴走するということを彼自身、かつてキリスト教を迫害していたファリサイ派のサウロの時代の自分に重ね合わせながら、考えていたのではないでしょうか。召命無き献身、それは身近に起こりうる問題なのです。

 

*真の伝道者が生まれるための祈り――パウロとアポロの場合

 ここで、今日お読みした一つ目の箇所に移ります。アポロという一人の伝道者を送り出した、エフェソ教会に目を向けたいと思います。ここには、召命を帯びた献身の道を模索する、悩める教会の姿があるからです。

 この箇所の直前の18章でアポロは、人間に向かって説く弁論家ではなく、神に向かって語る説教者という道に目覚めました。もともとは、ヨハネの洗礼しか知らなかったようです。ヨハネの洗礼しか知らないというのは、神様に引き上げられるような仕方の猫型信仰ではなく、自分の決意表明として洗礼を受けるというサル型信仰だといってもかまいません。そのために彼の説教には自ずから限界があった。しかしプリスキラやアキラとの交わりの時が与えられた。そのときの彼らの言葉が、アポロの心の琴線に触れるものがあったのでしょう。論理以上の、理屈以上のものが彼に届きました。そして彼の信仰は、「猿」から「猫」へと引き上げられた。これは聖霊の賜物といっても良いことがらです。

 彼はそのようにしてエフェソ教会で説教者として目覚め、教会に受け入れられました。ついに彼は、コリント教会に伝道者として派遣するという推薦状を教会で執筆してもらって、それを持参してコリント教会へ行くことになりました。

 18章と19章の間には時間的隔たりがあって、おそらくその間にアポロは推薦状をもってコリント教会に行ったのだと思われます。コリント教会はパウロによって設立されました。そしてアポロはそこに行って、エフェソ教会におけるのと同じように、人々に歓迎されました。しかしパウロには気になるところがありました。それは、アポロの説教の中に、18章の終わりにあるように、時々「激しい語調」になることがある、ということです。パウロ自身、かつて熱心なファリサイ派のユダヤ人としてキリスト教を激しい語調で攻撃していたことがありますから、かつての自分と重ね合わせながら、若いアポロが持つ、ある種の魅力と、そしてある種の危うさ、もろさに気づいていました。パウロはそんな状況を踏まえて、コリントの信徒への手紙の一で次のように記しています。

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(3:6)

 パウロは、実に微妙なコリント教会内に生じてしまった、力関係のつばぜり合いに自分が巻き込まれてしまった中で、そのように記しました。パウロ派とアポロ派が出来て相争う構図が出来かけていました。キリスト教が聖霊に、アルテミス神殿宗教が悪霊によって出来たというような単純な構図では描けない、どちらもキリストへの信仰を持つ者同士の不毛な争いに終止符を打ちたいと、祈りをもって記したのが先ほどの言葉なのです。

 そしてこのような言葉を書く前後に、パウロはエフェソ教会に立ち寄ったというのです。どういう思いで立ち寄ったのでしょうか。あのアポロに推薦状を書いたエフェソ教会が、一体どういう教会であるのかを知りたかったということは、確実に言えるのではないでしょうか。実はコリントの信徒への手紙は、このエフェソにおいて執筆されたという説もあるようです。そしてエフェソにおいて人々に尋ねたのは、あなた方が洗礼を受けた際に、聖霊を受けましたか、という問いです。これは要するに、あなた方は洗礼を受ける際に、猫型信仰の、上から受けた洗礼でしたか、という問いになります。それに対して、いえ、私たちの受けた洗礼はヨハネの名による洗礼です、と答えます。これは要するに、サル型信仰ですと言っていることになります。サル型信仰には熱心さがあります。パウロはエフェソ教会がアポロを送り出したときの心境を想像していました。熱心すぎる信仰が危うさをはらむ、それはアポロだけでなくエフェソ教会の、あるいはコリント教会の問題でもあり、そしてすべての教会が、現代に至るまで抱えている問題であるとも言えます。だからこそ、パウロの先ほどの言葉は、現代の私たちにも向けられている言葉だとも言えるのではないでしょうか。

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。

 パウロは、悩みながらこの一文を記しました。パウロはいろいろな人と伝道旅行をし、協力をしながら伝道を続けます。しかしパウロがアポロを同労者としていたという記事は存在しないのです。パウロはアポロが持っている賜物を高く評価しながら、少し距離を取っていたようにも思います。しかし同時に、その賜物が神様によって用いられることを誰よりも深く願っていました。先ほどのコリント書簡の言葉は、「教会を建てたのがパウロで発展させたのはアポロ、しかし教会を育ててくださったのは神様だ」ということにとどまらず、実は「パウロとアポロをも育てて下さっているのが神様なのだ」、ということを言っているのではないでしょうか。

 聖霊によって上から生まれ直す。この2000年間続く教会において起こり続けている不思議な現象は、そして教会が続く限り今後も続く聖霊による信仰者の誕生は、私どもの聞く十字架の愛の言葉が心の琴線に触れるものである限り、起こり続けることでしょう。そこには成長があります。信頼があります。

 

 主イエスキリストご自身が食卓を備えてくださいました。これは、すべての信じる者が、自らに与えられた洗礼を思い起こすために用意されたものです。洗礼を受けるときに、自らの願い以上のものが自分に与えられた、それは十字架にかけられた主イエスキリストによって引き起こされた願いだった、私にキリストが関わってくださり、琴線に触れてくださる。そのことに感謝をして、食卓の前に進み出たいと思います。